第一部 聖痕のメタフィジカ 第一章 氷ヶ守燐人(リンド)
1
「なんつー夢だ」
ぼんやりとした景色の中で氷ヶ守燐人は呟いた。朝が訪れ、これから学び舎へと向かうその前に、眠りの中で登校する夢を見るなんて気だるい事この上ない。
燐人は枕元の目覚まし時計をちらと覗いた後で、再びの眠りにまどろもうとした。しかし窓の外から微かに聞こえる喧騒に違和感を覚えると、少しだけ上半身を起こす。ふと壁に備えられた掛け時計に目が留まった。針は確実に八時十四分を指し示している。
慌てて枕元の目覚まし時計を手に取ると、五時四十分を示す短針と長針の間で、秒針が三十五秒から三十六秒に辿り着けずに小刻みに揺れていた。
「止まってやがる……やばっ、遅刻だ!」
ベッドから跳ね起きた拍子にもんどりうって床へと転がった。
一瞬、なぜこんなにも慌てる必要があるだろうか、という疑念がよぎる。だが彼は、普通の高校生活なるものに未練がましい。悪名ばかりが先行している燐人としては、些細な事でもこれ以上教師に目をつけられるのは避けたいところだ。
呻くような声を上げながらスウェットを脱ぎすてると、黒地にピンクのステッチも愛らしい如月高校の制服。そのズボンを穿く。
Tシャツの上にジャケットをはおると、片足ずつ靴下を履きながら自室のドアを抜け、一階へと続く階段を駆け下りた。
二階の自分の部屋から一階の見慣れたリビングへ至った時、燐人は足を止めた。朝目覚めた時から感じていた違和感の正体、それに気付いたからだった。
「親父とお袋、もう出たのか」
共稼ぎの両親が朝から仕事に出かけるのはいつものことだ。しかし、普段なら鬱陶しいくらい愛情あふれるモーニングコールで起してくれるはずの両親はそこにはいない。
ふとテーブルの上を見ると、目玉焼きとカリカリに焼けたベーコン、そしてサラダ。その隣にはいつもと変わらぬ愛情満載の手作り弁当が、いつもの青いランチョマットに包まれている。
「早めに出勤するなんて言ってなかったけどな」
昨夜、夕食を供にした時の会話を思い出す。父親も母親もそんな話はしていなかったはずだ。
「急な用事でも出来た、か 」
少しだけ気に掛けながらも、目に映った八時二十分を示す時計に、我に帰る。洗面台へと急いだ。
手早く歯磨きと洗面を済ませると、クセの強いショートカットをヘアワックスで無造作に立たせる。手際の良さに一人納得するように「よしっ」と呟いて、玄関へと足を速めるが、いざ靴を履こうとした矢先、忘れ物を思い出しては二階へと舞い戻った。
結局時間をロスすることになった苛立ちを口にしては、カバンを鷲づかみにして階段を駆け下りた。
その時、テーブルの上に置いてある弁当に再び目が留まると燐人にしては珍しく、というより高校に入学して初めてその弁当をかばんの中にしまった。
手に取った時、その弁当箱はまだ温かかった。
靴を履き、ジャケットの右ポケットから取り出したフリスクを口の中に放り込む。
ドアノブを回し、ドアを押し開いたあとで降り注ぐ陽光に目が眩んだ。
細めた目をゆっくりと燐人が開いた時、セカイの終わりが始まっていた。
2
少女が瞳を開くと、初めに映ったのは見知らぬ天井だった。
ベッドの上でゆっくりと上半身を起こし、鳴り響く目覚まし時計を止める。
時刻はAM8:30
混乱する頭を余計かき乱すベルが鳴り止み、静寂を取り戻した室内。
涼とした空気のなかで、研ぎ澄まされていく思考回路。
それはやがて少女を混乱から不安へと導いていった。
――これは一体どういうことなんだろう……。
簡素ながらきちんと整頓されている見慣れぬ家具を一通り見渡す。
立ち上がると、遮光カーテンのすき間から差し込む陽光を震える手で広げていった。
陽光に目が眩んだあと、細めた目を見開き眼下に見下ろす景色。それもまた、少女の見知らぬものだった。
――ここは一体どこなんだろう……。
一連の観察から少女の得た情報は、今いる場所が1DK程度のアパートの二階部らしきこと。ただそれだけ。
募るばかりの不安に急がされて、踵を返し玄関へと駆け出そうとした少女の足が止まる。
壁にもたれかかるようにして姿見の鏡台が設置されていた
パジャマを脱ぎ捨てながら、下着一枚の姿で鏡台の前に立つ。
そこには小柄で華奢な身体に、美しく長い黒髪の少女が立っていた。
言葉としてそれを告げた時、今まで募らせてきた不安は一瞬の内に恐怖となり少女を襲った。
「――私は一体 誰なんだろう……」
3
目の当たりにした光景を、燐人は理解することが出来なかった。
いや、むしろ理解しろというのが、どだい無理な話だった。
ドアを開くまで街の喧騒程度に思っていたものは人々の悲鳴であり、朝の始まりを思わせる普段の穏やかな街並みに広がるのは、阿鼻叫喚の地獄絵図だった。
燐人の視界の中で、見たこともない生き物が蠢いていた。
薄いピンク色をした肉の塊。お世辞程度の手と足を生やし、遠く離れた位置にくっついた、つぶらな瞳と大きな口がスマイリーマークを連想させる。
壁の角から顔を出し辺りをキョロキョロと窺うモノや、通りをウロウロと歩くモノ、疲れ果てた幼子のように短い手足を投げ出して地に座っているモノに立ちつくし微動だにしないまま空を仰ぐモノ。パッと見ただけで四体の肉の塊が燐人の視界に映った。
例えば名を付けるなら『ウスノロ』とでもいうようなその肉の塊のすぐそばで、悲鳴を上げながら混乱する人々が必死の形相で逃げ惑っていた。ウスノロから逃げた先には、またウスノロがいるのだから、それは徒労であり、もはや恐怖を通り越し滑稽ですらあった。
ディスプレイ越しにでも見るように、ただその風景を燐人が呆然と眺めていると、燐人の目前を人影が過ぎる。
四軒となりの酒屋のオヤジだ――、燐人がふとそんなことを考えた一瞬だった。
燐人の目前を一陣の風が通りぬけた。先程まで気が抜けたように空を仰いでいた肉の塊が、短い手足の四足歩行で駆けていった。
お世辞にも流麗と呼べそうにもないそのフォームは、ウスノロといった外見とは裏腹に、恐ろしく獰猛な俊敏さ。一瞬のうちに酒屋のオヤジに詰め寄るや、巨大な口をパックリと開けて襲い掛かった。
流れる一連の映像に燐人は呼吸するのも忘れて戦慄した。しかし、真の意味での恐怖が訪れたのはまさに次の瞬間だった。
玄関先にへたり込みながら、燐人の口の端からフリスクが零れ落ち、そして転がる。首から上を失ったオヤジは、一滴たりとも血を吹き出していなかった。
噛み千切られたはずの首の断面。そこにあるのは歪な肉の隆起。
オヤジの肌色と同色の、ボンドで固められたかのような首の傷口。それは傷口であって傷口でない。
何ヶ月もかけて新たな肉に覆われたかのような首の切断面。それを一瞬の内に作り終えたオヤジはそこに乗っていた頭のことなど忘れて走り出す。首なしデュラハンならぬ首なしオヤジは、それでも肉の塊から逃げようとした矢先、巨大な口にすっぽりと上半身を覆われた。
爬虫類の嚥下にも似た所作。少しの間を置いてばたつかせる足も綺麗に飲み込むと、ウスノロは一度だけゲップをして何事もなかったかのようにへたり込む。
肉の胴に埋もれた首をもたげた時、薄いピンク色の塊に申し訳程度にはり付いたつぶらな瞳と、怯える燐人の瞳がその視線を合わせた。
4
鏡台から目を背けた後で二度深呼吸したが、少女の心拍が落ち着きを取り戻すことはなかった。
しかし、その鏡台から目を逸らした際、少女は一つ発見をした。混乱する思考の中ではただの物として認識しかなかったもの。ハンガーで壁に吊るされたそれは、学校の制服と思しきセーラー服だった。
黒を基調とした長袖と、薄いグレーを基調とした半袖の二種類。半袖の制服の胸ポケットを探ると、中から一冊の生徒手帳を見つける。
エンジ色のその手帳の表紙部分には、先程鏡に映った顔写真が貼られていた。
その脇には私立凰華学園1年E組 水鏡遠野と記されてある。
「――水鏡遠野」
そう何度か呟いてみても、それが自分の名前だという実感は湧かなかった。それでもぼんやりとした意識のなか少女は、水鏡遠野は、半袖のセーラー服へと袖を通した。
制服へと着がえ終え、パラパラと手帳をめくる。真新しいそれには大した書き込みはされていなかったが、唯一メモの欄に電話番号が記されていることに気付いた。そこには実家と記されてある。
ここに掛ければ自分が何者か分かるはずだ――、顔も解らぬ父と母のことを思っては備え付けの電話へと駆け寄った。
だが、電話口は何度ボタンを押しても無言のまま。それ以前に呼び出し音すら聞こえる気配もない。
電話線が繋がっていない――、微かに見出せた希望をあっさりと断ち切られると、力なく遠野はベッドへと腰掛けた。
再び室内を見渡す。つい最近越して来たばかりのような生活感もほとんど感じられない部屋。自らの素性を伺い知る手掛かりは、見当たりそうにもない。
と、なれば自分の取れる行動は二つだけ。病院を探すか、この身につけた薄灰色のセーラー服の高校に行ってみるか、だ。幸いにも生徒手帳には学校までの簡単な地図も記載されていた。
一通り思案を巡らせたあとで、一人頷くと遠野はベッドから立ち上がる。そして玄関へと向かった。だが、意を決し歩きはじめて数歩、ふいに足を止めた。
生徒手帳が胸ポケットにしまわれていたから、自然な流れで袖を通した夏用の制服。しかし考えてみれば自分は今日がいつなのかも知らない。
明らかに一人暮らし用であろう小さなテレビ。その電源を入れる。リモコンのボタンで局を変える度に映される映像は、どれもが壊れてしまったかような砂嵐。
その中で、隠し文字のように現れるエマージェンシー――緊急警報の文字。でもそれすら、そう見ようと思えば、見えるといっただけの。
小さな溜息をついて電源を切る。
再び足を向けた先、玄関近くには学校指定のものと思われる紺地のボストンバッグが置いてある。室内を探した時もそうだったが、バッグの中を確認しても、どうやら自分は携帯電話など持っていないらしい。ボストンバッグのジッパーを閉めたあとで、その脇に立てかけられた長細い布製の袋を覗くと、中には『竹刀』が入っていた。
私のかな――、それを元の位置に立てかける。そのあとで顔を上げた時、玄関ドアの郵便受けに何か入っているのに気が付いた。
郵便受けから出てきたもの――それは新聞紙。日付は五月十七日。
生徒手帳を胸ポケットから取り出し、記載されていた自分の誕生日から逆算すると、どうやら自分は十五歳らしい。
今まで得た情報を一通り整理しようと空で考えてみると、余計に訳が分からなくなって、遠野は思わず笑ってしまった――自分は年頃の女の子らしいが、携帯も持たず、代わりといったら何だが、竹刀を持っていて、その上新聞を取っているようだ。
混乱には違いないが笑える、という感覚が遠野には救いだった。
さっきより冷静でいられている。ほんの少しの安堵にフローリングに座りこんだ。先刻までの震えなど過去のことのように、落ちついた指先で新聞をめくっていく。
膨大な量の情報はそのほとんどが遠野の心の琴線に触れるもせずに埋もれていった。それでもただの二つだけ、それが何なのか理由も意味も解らないはずの記事に、遠野は激しく揺さぶられた。
『フォウシャール・メイスン博士にノーベル化学賞が決定』
『クロイツコーポレーションが米のベルガンプカンパニーを吸収傘下に……』
「……フォウシャール……クロイツ」
うわ言のように呟いた時、遠野の頭の奥に痛みが走る。
時間にすればわずか一瞬の出来事。しかし激しい痛みに呼吸をするのも苦しく、うずくまり身動きひとつとれない。掌にじっとりと汗が滲んだ。
やがて、痛みはゆっくりと潮のように引いていく。フローリングの床がひんやりと心地よかった。
身を起こし小さく深呼吸。新聞を閉じると、確認するように壁に手を付きながら遠野は立ち上がる。
ただ、ここにじっとしていたって仕方がない。そうは思いつつも今仕方の頭痛に、病院か学校か二つの選択に心が揺れる。だが、息吹くようにして大きく息を吐くと、ボストンバッグを肩に掛け、竹刀の入った布袋を手に取った。
革靴を履き、ドアを押し開く間際、再び一度だけ大きく息を吸いこんだ。
そして、彼女はセカイへと足を踏み出した。
5
ドアの覗き穴からガラス越しに見たウスノロが、あさっての方向に首をもたげて行ってしまったのを確認すると、高鳴る自身の心臓に燐人は束の間の生を実感する。
確かにウスノロは燐人を見つめていた。死の覚悟すらしていた燐人が、転がるようにして自宅へと逃げ込んだのは一瞬間のあと。完全に出遅れたはずだ。しかし、ウスノロはどうやら標的を変えて何処かへと行ってくれたらしい。
恐怖でガクガクと膝が笑い、腰が抜けそうになるのをすんでのところで留まらせる。危険は何一つ去ってなどいない。自らに言い聞かせながら、沼地を歩くように重い右足を踏み出す。
家中の部屋という部屋。息を殺して回るとウスノロの姿はなかったが、やはり父と母の姿もなかった。
燐人は父と母の持つ携帯電話へ安否の確認の電話を入れようとしたが、家の受話器はうんともすんとも言わなかった。回線自体がイカれちまってるのか――、郊外の自宅にひとり取り残され外部との連絡手段もない現状に、燐人の焦りは募っていく。
「まさか、親父もお袋もあのバケモノどもに……」
瞬間、おもいきり自身の右頬を張った。絶望的な状況を自ら悪化させてどうする――、両親の会社は都心部にある。人口百万人都市などと名うっている都市の中心部なればこそここよりも安全であると信じたい。 いや、信じなければならない。自身の心が折れない為にも。
まず思考回路を落ち着かせようと燐人は深い呼吸を繰り返し始める。しかしそれを始めて三度目、彼の思考が平静を取り戻すことはなかった。
「……ゆかりは大丈夫か……」
不安は消える事なく頭の中でぐにゃぐにゃと回り続ける。再び、速く、荒くなっていく心音に急がされるようにして、再び玄関へと急ぐ。
覗き窓から見る限り、先刻まで辺りをうろついていたウスノロの姿はない。それを確認すると、隣屋へと燐人は駆けた。
アルファベットでMIMASAKAと記された表札の掛かる塀を抜ける。美作家の白い扉は半開きのまま少しだけ揺れて見えた。
「ゆかり!!」何度も声を上げながら屋内へと駆け込むと、次々と一階の部屋のドアというドアを開け放っていく。その度に不安と安堵を織り交ぜながら、混乱し真っ白になりそうになる頭を落ち着かせるように燐人は深呼吸を繰り返した。
一階に人の気配のないのを確認した後で、意を決したように燐人は階段へと歩みを進める。
慎重に階段を昇り始めて七段目。覗いた光景に燐人は危うく階段から足を踏み外しそうになる。
そこにウスノロがいた。
巨大な口からはすね毛の覆われた二本の足がつきだしている。
おじさんか――、悲鳴を上げそうになる口を燐人が両手で塞ぐのと同時に、ピクピクと痙攣している美作家の家主の名残を、ウスノロは一息で飲み込む。
嚥下もそこそこにウスノロが大きなゲップをした。それを吸い込まないように息を止める。喉元へと押し寄せる不快感を必死で耐えながら、燐人は音を立てないよう階段を降りていく。
最後の一段から足を離すや、完全にして切れた緊張感に無我夢中で廊下を駆け抜けた。白いドアをほとんど体当たりで、外へと出た燐人に冷静さは一欠けらも残ってはいなかった。
それでも、ほんの少しだけ顔を傾けて玄関脇の少し奥を覗いたのは、彼の本能以外の何者でもない。
自転車は、ない。ゆかりはもう家を出たあとだ――、言い聞かせるように、そして呼吸もメチャクチャに、ただ燐人は路地を走り出す。
6
セカイは、水鏡遠野を恐ろしいまでの静寂を持って迎え入れた。
アパートの鍵を閉めると、遠野は駅を探して彷徨う。
生徒手帳に記された耳慣れない学校の住所と、手掛かりと呼ぶには頼りない地図。それだけでは病院に行くべきか、学校に行くべきか決めかねた。だが、バッグの中に財布と一緒に入っていた電車の定期券を見つけた時、彼女はまず学校に行ってみようと決めた。
激しい混乱のあとに彼女に訪れた冷静さゆえの行動ではあるが、「自分はどうやら記憶喪失らしい」と頭で理解できることが、今の状況をなおさら現実味無く感じさせていた。
ひょっとしたら、記憶なんて何かの拍子に戻るのかもしれない――、自らを奮い立たせるというにはあまりに稚拙な動機付け。それに寄り添って、努めて楽観的な佇まいでセカイへと足を踏み入れた彼女に、セカイは眩いばかりの陽光で迎えてくれた。
はっきりとした二重まぶたを細めて、太陽を感じたあと、遠野は通りへと向かう。
深緑に囲まれたまだ新しい感のある建物の群れ、街並みが街並みとして確かにそこに存在していた。
「穏やかで静かな朝」
遠野は一人呟いたが、やがてその静けさがただの静けさでないことに気づく。
通りには人一人として姿がない。それどころか人の息づかいも気配も、ましてや犬や猫の鳴き声から鳥のさえずりすら聴こえなかった。
静寂と言うより街並み自体が死んでしまったかのような音の無いセカイ。
そのセカイをさまよう遠野の目的が駅を探すということから、他人を探すということに変わるまで、それ程時間は掛からなかった。
7
ウスノロの習性など理解するべくもないが、ヤツらの姿は道が開けた所には数多く見られた。燐人は逸る気持ちとは裏腹に、なるべく狭い路地を迂回する羽目になる。
駆け出しては立ち止まり、路地の角から様子を窺う。焦りからか、美作ゆかりの通う清南高校がどんどん遠くなっていくような気がしていた。
清南高校は如月高校から少し離れてはいるが、ゆかりは自転車なら三十分で行けると言っていた。しかしそれも道路沿いを真っすぐに進むということを前提にした話だ。徒歩で通う燐人とて如月高校までは三十分という道程だが、この分ではいつ着くとも分からない。
燐人の中で焦燥感が募っていく。
だが、それが失望へと変わるのは、七ケ所目の路地を左折した時だった。
ようやく路地を抜けられる、そう思って曲がった先。通りを塞ぐようにして無人のバスが、ひしゃげた前面を路地の角にぶつけたままで動かなくなっていた。
エンジンはとうに切れていた様子で、さすがに爆発はしないだろうが、乗り越えて先に進むのは難しそうだ。頑なに閉ざされた乗降口はピクリとも動く気配はなかったが、乗客が一人も外に逃げた痕跡がないのが逆に不気味だった。
踵を返すと、おかしな想像を巡らせないよう何度も呟く。
「運転席から皆、避難したんだ……それだけだ」
悲壮感の中、来た道を引き返すべく燐人は歩き出した。だが、戻り始めてすぐの角を曲がった瞬間、リンドは立ち止まり、そのまま身動き一つ出来なくなった。
まさにヘビに睨まれたカエル。ピンクの塊、ウスノロが平和そうな笑顔でそこに立っていた。
失望は今、絶望へと変わった。
終わったな――。身動き一つ出来ないまま、燐人は頭の中でそれだけ呟いた。享年十五歳。やりたいこともまだまだこれからという人生に、辞世の句など思いつくはずもない。
のんびりと歩きながら、人を馬鹿にしたような笑顔のウスノロが近づいてくるにつれ、燐人もまたのんびりと『死』を受け入れ始める。
その刹那。
ウスノロの顔、側面を棒状の物が叩き付けられると同時に、良く通る声が響いた。
「走って!!」
カートゥーンアニメのように棒状を一瞬顔にめり込ませたあとで、叩かれたことなど蚊に刺された程にも感じなかったろうウスノロが、顔だけゆっくりとそちらに向ける。
そのウスノロの視線の逆側を駆け抜けた人影が、燐人の右手を掴んだ。
さっきのヤツって竹刀か――、死を受け入れ緩慢になっていた脳内でぼんやり考えながら、引きずられるようにして走る燐人の頬を何かが叩く。それは、燐人の右手をしっかりと握る小柄な女性の後頭部で、一つにまとめられた黒く美しい髪の毛だった。
「私は……水鏡遠野、あなたは?」
薄灰色のセーラー服を着たポニーテールの女生徒が、駆けながら訊いた。その声には凛とした響きが伴う。
「……俺は、リンド。……氷ヶ守燐人だ」
名前を伝えた時、燐人の脳内が目を覚ました。それは、まさに『生』の実感だった。
今度は燐人が力強く遠野の手を握りしめる。そして、力強く地を蹴った。




