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最終章 誰が為の存在証明(イクステンス・プルーフ)

  1


 パラス・アズロの北門方面に向けてガリア族の大軍団が進軍を開始したとの報が知らされたのは、午後九時に少し前のことだった。

 西門を守る赤の騎士ユアン・マクティカナルは、西門を守る兵の半数を率いて北門へと向かう。同じく南門を守る白の騎士、カギル・パンナイン率いる南方守護騎士団の兵半数と合流したのは、パオロ広場に近い大通りだった。

 総勢二十二名となった部隊が一路北門を目指して進み始めようとした矢先、一人の騎士が血相を変えて駆けて来た。男は東方守護騎士団の人間で、名をマルコ・ユミールといった。マルコによれば、賢王シャルナァプに呼ばれてパオロ宮へと向かったロムルスが帰って来ないという。ガリアの大軍襲来の報に際して、騎士団長の不在は指揮系統を瓦解させた。副長が辛うじて歯止めをきかせてはいるものの、混乱する現場を見かねてロムルスを呼び戻しにパオロ宮を訪ねた彼は、門前払いされたらしい。

 このまま東門を守るべきか、北門に援軍を送るべきか、どうすべきかと泣きつく彼を黙らせるように、ユアンは東方守護騎士団は引き続き東門の守備にあたるよう命令した。そのあとで、カギルにパオロ宮の様子を見に行ってくれるよう伝える。

 この戦時に騎士団長の不在は確実に戦況を左右するだろう。白の騎士の訪問を無碍には断らないだろうが、それにしても賢王は一体何を考えているのだ――、内心で不安を覚えたまま、パオロ宮へと向かったカギルの後ろ姿を見送る。

 北方と西方の混成騎士部隊を率いたユアンが歩き始めてすぐ、再びその進軍を止めたのはユアン指揮下の西門を守る騎士だった。西門から駆けて来た騎士は息を切らせながらユアンに伝える。


「……西門……虫が……砂噛み(アレデントード)が……」


 ユアンは溜め息を吐いた。


「こんな非常時に砂噛み(アレデントード)の一匹や二匹、放っておけばいいだろうが」


 吐き捨てたユアンに、息を整えた騎士がはっきりと言った。


「五匹です」


「は!?」目を瞠るユアンに、騎士は再びはっきりと言った。


「五匹の砂噛み(アレデントード)が迫っています!!」


 虫が徒党を組むなんて聞いたことないぞ――、さすがのユアンも混乱する。


 どうしましょうか、と食い入るように見つめる騎士に対して、どうするべきか、と与えるべき命令も伝えられず、頭を悩ませるユアン。

 解答が導き出される前に、少し離れた空で今朝聞いたのと同じ、あのいまいましい爆音が響いた。


  *


 ミドリコの操る砂噛みの背に乗り、アン・ミンツとクイルド、そしてミカトン・ケイルの魂を分け与えられし者たちは西門へと集結しつつあった。

 五匹の中でも、一際大きな砂噛みの背に乗った、少しずんぐりとした体型のヤツキは額に埋め込まれた機械を触ると、「頼むぞ」と呟く。


 今朝方、パラス・アズロへと乗り込んだギオンには、動力炉の破壊と共にもうひとつ別の目的があった。それが、砂クラゲの体表より抽出された特殊な成分を外側に練りこませ、設置後、周囲の環境と同化し視えなくなる、不可視の爆弾シークレット・ボムをパラス・アズロの主要な機関に設置するというものである。

 子機ともいうべきその爆弾に爆破命令を下す親機ともいうべき機械が、ヤツキの額に埋め込まれた〝メタトロン〟であった。


 ヤツキが念をこめた瞬間、西門の巨大な蝶番に仕掛けられた爆弾が三個同時に爆発する。

 パラス・アズロを五十年以上もの長きに渡り、鉄壁の城塞としてきた守備の要、四門の一つは実にあっけない程に倒壊した。

 その出来たばかりの穴へと向かい、五匹の砂噛みはその巨体をねじ込む。

 声も忘れて見上げる西方守護騎士団の前に、最前の砂噛みの頭部からふわりと舞い降りたアン・ミンツは一瞬にして三人の騎士を薙ぎ倒した。

「よしっ」呟くアン・ミンツは久しぶりに振るう剣の感触に満足する。キリと出会った村で墓標として地面に刺さった数ある剣のうち、選んだ物は片刃の物であった。

 打ち据えられて倒れ伏す三人の騎士を足元に、アン・ミンツは街並みから覗くパオロ宮を見上げた。


「プウ! 赤毛のアンが会いに来てやったぞ!!」


 吼えたあと「ニヒ」と笑うと、駆け出したアン・ミンツを止められる者はいなかった。

 彼が切り開く道を確認するように、砂噛みの頭部から次々と影が舞い降りた。


  **


 北門に援軍は送れないとの使者を出し西門へと引き返すユアン率いる混成部隊の目に、西門の隙間に巨体をねじ込んでのち、抜けなくなったかのように激しくその身を壁や地に打ち付ける五匹の巨大な甲虫の姿が映る。

 倒れる騎士たちを視界に捉え、俄然気勢を上げる混成騎士団総勢二十余。その中で唯一人、ユアンだけがそれに気付いた。

 ただならぬ気配にユアンが顔を向けた先、混成部隊の目指す大通りとは一本離れた路地の建物と建物の間を、長く伸ばした赤毛の男が駆け抜けていった。

 小さく舌打ちをすると、部隊に砂噛みの征伐を短く命じる。ユアンは赤毛の男のあとを追うように駆け出した。


  2


 援軍は送れないとユアンの使者から報告を受けてなお、北門を守るサリー・サレスの顔に動揺の色はなかった。

 先刻、見張り塔から見下ろした時、すでに北門前へと集結するガリア族は陣を組み終えていた。その数は優に千は下らないだろう。千対二十余、おまけに援軍は来ない。それでも、サリーは動じなかった。


「来るべき時が来たってだけの話だ」


 苦もなくサリーは、そう呟いた。そしてサリーは開門の指示を下した。だが、門を開ける作業を行う騎士がその手を止め驚いた表情を浮かべるのを皮切りに、波紋のように広がるざわめきが辺りを包んだ。

サリーも気付いた時、騎士の一人が声を発した。


「……ベアトリスさん? どうしてここに……?」


 気でもふれたように、フラフラと歩くベアトリス・カラーチェがそこにいた。歩く度に占星術師の正装である薄い黒のローブははだけ、その美しい肢体が露になる。

 やがて、生まれたままの姿となったベアトリスは、サリーの前へと辿りついた。しかし、開いた口から発せられた言葉はサリーにではなく、虚ろな瞳もサリーを見てはいない。


『……緊急非常事態にツキ、ナルコレプシーシステムを起動しマス……』


 抑制された声で機械的に話すそれは、言葉ではなくただのスイッチにすぎない。


『……創造主たるシャルナァプ・ウーデルカ様ニ逆ラウ者は全て、抹消しマス……』


 スイッチが入った瞬間、綺麗に揃えられた爪は伸び硬質で鋭利な刃へと変化する。そして背中には黒い羽根が生えた。

 サリーは変わり果てたベアトリスの姿をただ見つめていた。

 解ってはいたことだった。毎日のように見る夢が鮮明になるにつれ、ベアトリスの存在理由も薄々は気付いていた。


 ――ベアトリスは人形だ。


 しかし、それがたとえ自分の為にあつらえられた人形であったとしても、サリーはベアトリスを愛していた。だからこそ許せなかった。ベアトリスをこんな姿に変えた者を……。

 今この瞬間サリーの中にあるのはその男への憎しみ。だが、それ以上に、純粋な感情が勝った。


 目の前にあるのはもはや自我を失った人形。


 だが、それでもなおサリーはベアトリスを愛しいと思った。


 サリーはゆっくりとベアトリスへと近寄ると、その身体を抱いた。


 きつく抱きしめるとベアトリスの全身から力が抜ける。


 最後の瞬間、目頭をピクリと震わせるとベアトリスは静かにその瞳を閉じた。


 その身体をサリーはそっと地面に横たえると、ベアトリスの下腹部へと刺した魔剣ハーデスを引き抜く。

 ベアトリスの両の瞳に滲む涙をぬぐってやった時、サリーの後ろで北方守護の騎士たちが次々と悲鳴を上げた。

 以前アラベルに率いられていた仮面の集団がぞろぞろと姿を現す。伸びた鋭利な爪から騎士たちの血をしたたらせる黒い羽根の集団は、全員が仮面で顔を覆ってはいたが、それ以外は何も身につけてはいない。

 仮面で顔を覆ってはいても、全身を露出する女性たちのその身体は、そのどれもがサリーが見て、触れてきた、いつも傍にいてくれた愛しい女性のものだった。

 あっけにとられる騎士たちを次々と手にかけた仮面の黒い天使たちは、新しい獲物にありつくべく続々と飛び立っていく。

 その中でサリーは、「開門しろ」と告げた。生き残り、ガタガタとふるえる騎士の一人をサリーは見る。


「俺が全てを終わらせてやるよ」


 ガリア族を皆殺しにする為に飛び立ったのだろう。だが、これ以上ベアトリスを汚させる訳にはいかない――、その覚悟のもと発せられた言葉は驚く程に穏やかだった。

 騎士から震えが止まり、北門はゆっくりと開いていく。

 砂漠へと踏み出すサリーの視線の先、砂漠の民と黒い天使たちの殺し合いが始まっていた。

 サリーは魔剣ハーデスを地面に突き刺す。


「――〝魔霎マソウ・センヤイチヤ〟」


 魔剣ハーデスを基点として、砂は吸い上げられるようにせり上がっていく。巨大なそれは城塞のようであり、同時に四つ這いの砂の巨人のようでもあった。

 その背に立つサリーがゆっくりと右手を上げる。それを合図に城塞のような巨人の全身から荊に似た砂の棘が突き出る。先端につれ長く細くなり槍の形状へと近くなった棘。無数のそれはガリア族を次々となぎ払い、空を舞う黒い天使たちを次々と撃ち落としていった。


  3


 多少、強引ではあったとしても背に腹はかえられない。カギルは門兵を払い除け、パオロ宮の中へと入っていった。二人の門兵は、「今は誰も入れるなと言われているので」言いながら泣きそうな顔ですがるようにカギルのあとをついて来たが、一階のホールまで来たところで、泣き出すどころか悲鳴を上げて逃げ出してしまった。

 ホールの中程に立つ人物は、白の騎士たるカギルにとっては馴染みのある相手だった。

白の神官、アラベル・フラン。しかし、白の騎士が本来主護すべき神官の今の姿は、カギルの想像を遥かに超えていた。


「……アラベル様、その姿は……?」


 震えるように呟いたカギルの視線の先、白の神官アラベル・フランは小さく首を振ると微笑む。


「正確には私の名は《デプルート》。こちらが《ドヴァーズ》で、こちらが《アンブロシア》。三人合わせてアラベル・フランってところかしら」


 紹介された右肩の若い男の顔をした肉片はお辞儀をするような素振りを見せ、左肩の年寄りの顔をした肉片はゴニョゴニョと呟いた。


「おい、《デプルート》。また勝手なことをするとシャルナァプに怒られるぞ」


「まったくお前ときたら《アンブロシア》、神だった頃のプライドはないのかね。さっきの爆発を聞いただろ? アン・ミンツが来たってことは、もうこの馬鹿な茶番も終わりだよ」


 左肩の《ドヴァーズ》が間髪入れず説いて聞かせると、一転して《アンブロシア》の顔が明るくなる。


「こんな様で転生させられて神のプライドもないじゃろうが。……しかしなるほど、確かに茶番もおわりじゃの。ならば最後くらい楽しまんとの」


 下卑た笑顔を浮かべた《アンブロシア》に反応するように、カギルは神剣アテナイを構えた。


「カギル、お前に恨みがある訳ではない。神の戯れに付き合せるのは誰でも良かったのだ。ミカトン側の人間であれ、シャルナァプ側のお前であれ、な」


 美しい声で《デプルート》が無慈悲に言葉を発する。

 カギルには何のことかまったく解らない。だが、そんなカギルの回答など最初から期待してなかったかのように、《アンブロシア》は口から赤黒い光球を発した。カギルが回避した先で、破裂したその光球は消えること無く頑丈なバルディック造りの壁を溶かしている。

 体勢を立て直すと、すかさずカギルは〝敵討つ風のスピカ〟を放った。しかし、それは《ドヴァーズ》の一息で見当違いの方向に飛んでいく。


「知らないなら教えておくが、君のその神剣アテナイを作ったのは俺だ。アテナイの基本スペックだけじゃあ俺に傷を付けるのは無理だよ」


 飄々とした《ドヴァーズ》の言葉を受けてなお、カギルは神剣アテナイを振り上げる。

ショウ!!」カギルの傍らで、オーロラのように出現した緑色の光が収束していき、顕現。カギルの隣に、白い胸当て付きのドレスに身を包んだ少女が出現する。しかし、少女はカギルの顔を碧眼の瞳で見つめたまま、力なく首を振った。

 肩まである翡翠色の髪が揺れるのを見ながらも、カギルは後戻り出来ずに声を荒げる。


神袈連携しんかれんけい――〝渦巻く風のカエラム〟!!」


 カギルが持つアテナイの刀身と、具象化したアテナイの持つフランベルジュ。ニ振りの剣、その刀身を重ねた瞬間、吸い寄せられた風は巨大な竜巻を作り出す。

 アテナイを具象した上での二人がかりの連携技――〝渦巻く風のカエラム〟。だが、それすら《ドヴァーズ》のただの一息で露散してしまった。

 自身最強の一撃をあっさりと砕かれ、カギルは茫然自失となりかける。アテナイは彼女だけに聞こえる心の声ではっきりと告げた。《ドヴァーズ》の言っていることが事実であることを。そして同時に、唯一倒せる手段はカギル独自の剣の極みたる『ソウ』だけであることも。

 ショウが解かれると、少女は空気に溶けるように消えていく。消え行くその最後の瞳に、信頼すべき戦友を見守る力強さを残して。

 ちらと右手に握るアテナイに向けてカギルは頷く。そして小さく息を吐くと、意を決したように口を開いた。


「――〝神槍シンソウ・カザハヤ〟!!」


 瞬間、カギルの身を守る白い鎧が砕ける。新たに分解から再構築を経るようにして、全身にピタリと張り付く白金色の鎧が姿を現す。スカッリャと呼ばれる帷子程の頼りなさを覗かせつつも、ティアラ状の兜の頭頂部と両の肩部には刃と見紛う装飾が施されていた。

 両手でしっかりとアテナイを持つと、カギルは胸の前に真っ直ぐかざした。そして身体を少し前に倒しながら、地面を蹴る。

 頼りない外装に、薄ら笑いを浮かべたままで光球を射出しようと《アンブロシア》が口を開く。対照的に《ドヴァーズ》は、「よせ!!」と叫んだ。

 次の瞬間、薄ら笑いを浮かべたままの《アンブロシア》は、その口から下に当たるアラベル・フランの左腕と共に消し飛んでいた。

 三位一体のアラベルの遥か後方で、カギルが体勢を直す音だけが聞こえる。

 カギルへと振り返る《アンブロシア》は憤怒の瞳でねめつけたが、彼にもはや攻撃の術はなかった。

 その彼になど気にも止めず、《デプルート》と《ドヴァーズ》が口を開く。それぞれの口から剣程もある氷柱の束と、触手のようにうなる風の刃が吐き出された。

 カギルが再び剣を胸の前にかざした刹那、《ドヴァーズ》は唸りを上げる風の触手を伸ばす。

 消えたカギルが宮殿の壁に穴を開けた。

 遅れてやってきた風の衝撃をそのすぐ間近に感じながら、アラベルはカギルへと振り返った。


 超音速ともいうべき移動を可能にしたカギルの〝神槍・カザハヤ〟――。だが、それは直進しか出来ないという脆さを抱えていた。

 とはいえ初見でそれを看破して見せたのは、カギルの持つ《神具》の創造主ゆえに《ドヴァーズ》がその特性を予測できたからに他ならない。

 風の触手はことごとくカギルの〝神槍・カザハヤ〟を絡めとり、その進路はずらされる。


 最強の一撃を真っ先に叩き込む相手を見間違ったのはカギルの失態。傷一つ付けられず、精神的に疲労し、極度の荷重に耐えきれず肉体が悲鳴を上げる。

 諦めかけたカギルが膝を付きそうになったまさにその時、声が聞こえた。


「――〝華葬カソウ・ヤエベニトラノオ〟!!」


 カギルの視界の外から現れたユアンの鎧が弾けた。彼の右肩から剣皇ポーニロアを持つ右手まで覆う紅蓮の籠手が出現する。本人のものより一回り大きな、獣の腕の如きその籠手の肩部には、四本の杭が打たれ、その杭の中心では炎が燃え盛っていた。


「一式、〝ゴウオウ〟!!」


 ユアンが叫ぶや、炎は種火のように小さくなる。そのあとで、振るった剣皇ポーニロアの刀身が爆炎を上げた。

 間一髪、風の盾で身を防いだアラベルがよろけた瞬間、

「カギルっ!!」ユアンは叫んだ。

 折れかけていたカギルの精神も肉体も、その一言で力が篭もる。しっかりと自分の足を踏みしめて立つカギルを見て、ユアンは剣皇ポーニロアを真っ直ぐに突き伸ばした。


「二式、〝シシオウ〟!!」


 射出された二本の杭は、狙いを定めるようにアラベル目掛けて飛んで行く。超高熱を帯びた二本の杭がまとわりつくのを嫌がるように、かわすアラベルの動きが一瞬止まるのをカギルは見逃さなかった。

カギルが神剣アテナイを胸にかざした時、三つの顔の表情が固まる。

 そして次の瞬間、アラベルの胸から下が消し飛んだ。

 今度こそ膝を付いたカギルを、駆け寄ったユアンが抱きしめる。

「大丈夫か?」ユアンが訪ねると、カギルは小さく「うん」と頷いた。


 カギルの肩を抱きかかえたままで、ユアンが歩き出すのを地面に転がるアラベルはその姿が見えなくなるまで見つめていた。

 話すことの出来ない《アンブロシア》など眼中にないように、《デプルート》は《ドヴァーズ》に話しかける。


「これはどうやら、世界が終わるまで私たちはこのままですね」


《ドヴァーズ》は、ふふんと鼻を鳴らした。


「まぁ、これで役立たずの俺たちにシャルナァプも用はないだろう」


 取り合えずの目的は果たせたと《デプルート》が頷いた時、ホールの隣の部屋のドアが開いた。


「……そんな状態でも多少の役には立つじゃろう。せめて、『プラネテリ』を起動させることくらいにはのう」


 押し開かれたドアの先にはガンド・マギアスと、黒の神官キーラ・バレンシアが立っていた。


「適当な素体に寄生させて保管を重ねてきたものの、この素体も最終決戦まで持たなかったからのう」


 ガンドがキーラの黒い甲冑を剥がすと、そこにはかつての時代でバクと呼ばれた怪物の成れの果ての姿があった。身体に貼り付けられた七つの〝神具〟の複製――『プラネテリ』と呼ばれた異物のせいか、その身体はほとんど人の形を保っていなかった。


「いちおう元『神』なれば、素体としては申し分なかろうて」


 腐りかけのピンク色の肉壊は、身体をひきずりながらアラベルの元へと辿り着くと、その眼前で巨大な口を開けた。


  4


 真っ暗な闇の中で、ロムルスの名前を呼ぶその声はとても懐かしくとても暖かかった。


「……ロム……起きてよ、ロム……」


 ロムルスがわずかに開いた瞳の、ぼんやりとしたその景色の中にレムルスが立っていた。


「……レム、良かった。治ったんだね ……会いたかった……すごく会いたかった」


 夢だと思った。

 そして、ロムルスは夢でも良いと思った。自分が死んだのか、それともこれから死にゆくのか、それは分からない。でも、最後の瞬間にレムルスの顔を見られたのだ。ロムルスは安心するように再び瞳を閉じた。

 世界が再び闇に覆われていく。


 しかし、レムルスはそれを許さなかった。ロムルスの頬を、左、右とリズム良く張る。


「勝手に死ぬな、バカロム」


 言われてロムルスは目をしばたかせる。そこにはまるで鏡に映したかのように、今のロムルスと瓜二つのレムルスが立っていた。生まれた時にはすでになかった右腕と右脚には金色の機械仕掛けの義手と義足。そして顔の右半分には同じく金色に光る面がはめ込まれていた。


「良かった、レム治ったんだ! 治ったんだね! シャルナァプ様の言った通りだ‼」


 ロムルスは身を起こして歓喜の声を上げたが、レムは呆れたように溜め息を吐きながら「違うよ」と呟いた。


「僕はね、ロム。神官たちに連れて行かれて、すぐ次の日にはシャルナァプの命令で殺されることになったんだ。でも、なぜかは解らないけどアラベル・フランは、僕を殺さずに砂漠に放り捨てるとそのまま置きざりにしたんだ。それでも立ち上がったパラス・アズロから落っことされて、生きてられたのはまさに『神の奇跡』ってヤツだったけどね。そのあとでガリア族に保護された僕は、真の仲間と真の運命に気付いたんだ。でも、急がないといけないんだ、ロム。自身の運命に気付いたのは僕たちだけじゃない。……おそらく、リンドさんも」


 その時、ロムルスは思い出した。だからこそ、ロムルスは微笑んだ。


「何が起こってるのか分からないけど、リンド団長なら大丈夫。僕たちの味方だよ。なんでこんな一芝居うったのか分からないけど、僕は団長に刺されたんだ。でも、ぜんぜん痛くないんだよ。きっと団長なりの考えがあって僕を殺すふりをしたってことこそが、何より僕を守ろうとしたってことだろ。だから、きっと……」


「それも違うよ」ロムルスの言葉を断ち切るように、レムルスはきっぱりと言った。


「彼は彼の選んだ道の為にロムを殺さなくちゃいけないんだよ。ロムが今、生きてるのは、単純に今死んでいった仲間たちの魂を受け継いで、生命力が上がったからっていうだけの話さ。……さぁ、立ってロム、時間がないんだ。ここで話をしているより、感じてもらった方が早いから」


 ロムルスは他にも聞きたいことや話したいことがたくさんあった。でも、レムの言葉には逆らえなかった。


「僕たちはまたひとつになるんだ」


 言われた通り立ち上がると、レムが差し出した左の掌の上に自分の掌を乗せる。その瞬間に、ロムルスたちは光に包まれた。


 光がやんだ時、レムルスの姿はなかった。


 レムルスはロムルスの中にいた。


 語りかけるより、口を開くより先に、ロムルスは全てを理解した。


 世界の真実を。


 そして自身がまさに世界の中心――『主人公』であったということを。


「そうだね、レム。急がなくちゃ……彼女の為にも」


 ロムルスの中で、レムルスが頷いたその時だった。


「お前、ロムルスか……?」


 ロムルスが振り返った先に、賢王親衛隊の隊長ヒリュー・ド・プライズモアが立っていた。

彼の顔には焦りの色が浮かんでいた。この非常事態に、本来なら親衛隊はパオロ宮へと集結し王を守らなければならなかった。だが、彼がここにいるということは、彼が本来守るべき王の姿を見失ったということに他ならない。

 パオロ宮内を捜索してまわっていたのか、青ざめた彼の息は荒かった。


 彼にすれば当然ロムルスのことは知っている。だが、自信を持って声をかけられなかったのは、その佇まいが以前と全く別物と化していたからだった。

 自身の存在を理解し、全く別次元の存在として顕現したロムルス。騎士長級のヒリュー・ド・プライズモアであればなおのこと、その違和感を強く感じていた。


「お前……何者だ……」

 

 わななくような声。

 確かにロムルスの顔は十九歳のロムルスのまま。それは同時に、神話世界の十九歳の『彼』そのままの姿だった。

 神話世界の彼の、豊穣の稲穂のようにそよぐ金色へと髪の色は変わりつつある。


 全身に纏う気が、凄まじく研ぎ澄まされていくのをロムルスは感じていた。


 その眼前、ヒリューの左の隻腕が、腰に携えた愛刀の柄を握っていた。ほとんど無意識のうちに構えを終えたそれは歴戦の勇士だけが持つ危機本能であろう。


 ロムルスが空の右手を見つめると、魔法のように剣が現れた。


 その所作を見て、弾かれたようにヒリューが抜刀した。


 ロムルスの中のレムルスが、それは「戦具アルマ」だと教えてくれた。


 神速の太刀筋で、ヒリューが愛刀を鞘へとしまう。


「チン」と、刀のおさまる音。


 血飛沫。


 わずかの沈黙、そのあとで。遅れてきた驚愕にヒリューが目を剥いた。胴から血を噴き出したのが自らというその事実に。


「バカ、な!? 俺が……俺がまったく見えなかった……だと」


 ヒリューが倒れざま振り返るその先で、ロムルスは刀身に滴る血をはらった。


  5


 風のように駆け、パオロ宮へと向かったアン・ミンツとレムルス。そのあとを追うように駆けるクイルドと五人だったが、途中思わぬ邪魔が入った。賢王の勅命を受け、待ち伏せていたらしい親衛隊を名乗る男たち十名。そして彼らを率いるようにして立つ二人。

 総白髪の男と、穏やかな貌をした美しい女性。二人は勲功士団のカクニアス・マキシマスとサユキ・ロナウと名乗った。

 駆けるクイルドたちを、余裕を持って遮った彼らはどうやらパオロ宮へと通ずる街路であらかじめ待ち受けていたらしい。クイルドは舌打ちする。


「賢王の勅命により、これ以上先には通しませぬ」


 先陣に立つ女が言った。どこかしらしわがれた声と、見れば長いアッシュブラウンに交じる白。女は見た目どおりの年齢ではないらしい。それは立ち並ぶ初老の男と同じく、内から発せられる気をしても察しのつくことではあった。静かで良く練られた剣気。共に歴戦の勇士であることを物語っていた。


「こんな所で時間を食う訳にはいかないというに、厄介な」

 

 クイルドの顔に苦い色が浮かぶ。


「人間な、運が悪いと諦めることも肝心ぞ。……炎・セイ、〝火遊び案山子マビノギオ〟」

 

 初老の男の背後に巨大な火球が出現するや、短い手足が生え、それは不恰好な人型を形成した。


「彼奴ら、騎士長クラスかっ」


 クイルドが唸る。


「そう、ここで貴方たちには死んでもらいます。北方よりの邪教の民、そのすべてに天罰を下さなければなりません。我が神は寛容なれど、時間が惜しいので祈りは省かせていただきます……風・セイ、〝疾風の護符レリック〟」


 女の背後に風の塊が合わせて十二、時計盤のように並んだ。やがてその風は、白い十字架とも、空を仰ぐ人型とも見える形を成すと、回転を始める。

 クイルドは自身の持つ、ガリアの王族に伝わる宝剣を構えた。だが、クイルドを制するように長身のアカネと、ずんぐりとした体型のヤツキが前へと出る。


「ここは任せて、先に行け」


 アカネの左腕に仕込まれていた〝ウリエル〟が作動すると、義手は巨大な爪を装備したものへと変形した。

 一瞬間のあと、「頼む」告げるとクイルドは剣を携えて駆け出す。その後にシロガネとアオ、そしてキリが続いた。

 阻もうとした炎の巨人目がけて、アカネが爪を振るう。

 真空の刃が巨人の右肩を吹き飛ばした。

 そのアカネに向けて、照準を合わせたサユキの十二の風の十字が射出される。 

 鳥のように飛んだ疾風がアカネの顔を捉える。と、まさにその瞬間、蜃気楼のような揺らめきに包まれたアカネの全身はその場から消えた。

 蜃気楼へと飛び込んだ鳥の群れは突如として爆発すると、その爆炎に呑みこまれていく。ヤツキの〝メタトロン〟の能力、砂クラゲから抽出された特殊成分から構成される不可視のマントと、それに隠した爆弾の至近距離爆破。

 粉塵の舞う中、体勢を立て直したアカネとヤツキ。

 同じくして炎の巨人と疾風の十字から成る盤を再構築した、カクニアスとサユキ。そして剣を構える賢王親衛隊。

 両者は最後の戦いへと身を投じた。


 西門で虫を操り騎士たちの気を惹く為に残ったミドリコに加え、アカネ、ヤツキの二人が離脱を余儀なくされた。駆ける四人にとって、もはや目前へと迫ったはずのパオロ宮への道程は恐ろしく長く感じられる。そして、ようやくにしてパオロ宮の正門へ辿り着いた時、シロガネは足を止める。アオとキリもそれに倣うように駆ける足を止めた。


「……逝ったか……」


 尋ねるクイルドに、シロガネは無言で頷いた。

 ギオンに続き、ミドリコも。アカネも。ヤツキも。皆、逝ってしまった。だが、三人はきっと精一杯生き抜いたのだと思う。先に見送り、残された三人の瞳に揺らぎはない。それは、クイルドにも解っていた。解っていたから何も言わなかった。

 クイルドは先陣を切ってパオロ宮へと突入した。

 長い廊下を抜けると、途端に広いホールへと出る。


 そこにそれは存在った――。


 巨大なピンクの肉壊は、自分でもどういう形になれば良いのか考えあぐねているように膨張と収縮を繰り返している。巨大な粘土細工のようなそれはやがて膨張に膨張を重ねた。伸びる度、色は薄れ、ピンク色は白色に近い物へと変色していった。

 四本足の下半身に人の上半身、何本も生えた尾は甲殻類の硬さと爬虫類の軟体性を併せもっている。太い腕は毛むくじゃらで短いが、鋭い爪を生やし、顔は獰猛な獣であったが顔の半分を巨大な両の複眼が占めていた。腹部に取り込まれるようにして意識を失うかつての時代の三神。そのデスマスクを貼り付けたそれは、獅子であり、熊であり、人であり、蝿であり、蠍であり、狐であり、蛇だった。


「今や神ですらが使い捨ての最低の時代と世界を作ったか、シャルナァプ!!」


 かつての主の成れの果てを見据えるクイルドが苦々しく呟く。それを合図に、シロガネの胸からレーザー兵器を照射する〝ミカエル〟が。アオの両足の踵から飛び出した鋭利なサーベル状の刃、〝ガブリエル〟が。キリの右手からプラズマ火球を発生させる〝ラファエル〟が起動し、攻撃態勢を整える。

 クイルドが口火を切った。右の掌を粘土細工の怪物へと向けながら、吼えた。


「――〝ギュガルド〟!!」


  6


 アン・ミンツはパオロ宮まで辿り着くと、レムルスを抱えたままで三階まで跳躍するという離れ業をやってのけた。これもひとえに外の世界からやってきた者、この世界の常識に囚われていないアン・ミンツなればこそである。

 三階の小部屋に用があるというレムルスとはそこで別れた。

 そのまま、すぐ隣の賢王シャルナァプ専用と思わしき執務室へとアン・ミンツは歩を進めた。だが、彼が探す男の姿も、目的の品も存在しなかった。虱潰しに探すしかないと判断したアン・ミンツは、男の足跡を捜すように三階の全ての部屋を見て回ったあと、二階へと駆け下りた。

 アン・ミンツが二階のテラスへと至った時、そこで息を潜めていた影が飛び出す。それはこの宮殿の主、賢王シャルナァプ。綺麗になでつけた銀髪をかき乱し、疲れきった顔のままで義手の右手に剣を握る。


「終わらせん! 俺の時代は終わらんぞアン!!」

 

 迷いなく突き出された刃。

 だが、アン・ミンツはこともなげにそれを払う。と、興味もないようにその脇を通り過ぎる。しかし、その一瞬に振るった彼の一太刀は恐ろしいまでに速かった。

 首筋から血しぶきを上げながら、賢王シャルナァプが倒れる。

 テラス付近の捜索を手早に済ませると、「こりゃ、ここには無いな」アン・ミンツは呟いた。そして、王たる男の遺骸には目もくれずテラスをあとにした。


 結論に至ったアン・ミンツはパオロ宮内の探索を打ち切ると、一階へ下りるため階段へと向かう。階段には、手すりに背を預けた男の姿。一瞬、男とアン・ミンツの視線が交差した。

 それは剣帝ネィル・フー・トゥーンを携え、青のマントをまといし長身の男。

 アン・ミンツは一瞬構えたが、男が自分に対して敵意を持っていないと判断するや構えを解いた。

 男はすでにアンを見てはいなかった。振り返ると、ちょうど三階からの階段に、自分をここへと送りこんだあの『バカ』の姿が見えた。

 なんだ、ちゃんとわかってんじゃねぇの――、胸の内で呟くとアン・ミンツは一階へと続く階段を駆け下りる。

 と、女性の騎士を抱えたままで立つ、若き騎士とばったり出くわした。


「見つけたぞ! 赤毛っ!!」


 言うが早いか、騎士はそのままの姿勢で右手に持つ剣皇ポーニロアを突き出す。それに応じるように二本の杭はアン・ミンツ目掛けて射出された。

「おおっ」少し驚いた素振りを見せながら、アン・ミンツが放った〝炎弾リボルバー〟の火球はそれを残らず撃ち返す。

 呆気にとられる若い騎士のもとまでアン・ミンツは一気に駆け寄ると、


「弾数の尽きない〝炎弾リボルバー〟ってトコか、良い技だ」


 褒めちぎっては、騎士の頭髪をくしゃくしゃと触る。


「お前がポーニロアの新しい主か。つまり俺のかわいい後輩ってわけだ、ヨロシクな」


 早口でまくしたてると、呆気にとられたままのユアンとカギルを残して、アン・ミンツは再び駆け出す。

 豪奢な扉を二つ。立て続けに切り裂いた先で急に視界が広くなる。ホールと思しき広間。そこに人程の大きさをしたピンクの肉塊と、倒れるアオとキリの姿があった。

 アン・ミンツが広間へと辿り着くのと同時に、シロガネも崩れ落ちる。

 ボロボロになったクイルドと目が合うと、恨み節の一つも吐くかと内心構えたが、彼女は鼻を鳴らしただけだった。

 広間を駆け抜けたアン・ミンツの背後で、クイルドが最後の力を振り絞った〝ギュガルド〟の金色の閃光が溢れた。


 アン・ミンツがパオロ宮の外へと出ると、このわずか十分たらずの間に景色は一変していた。

 西門の隙間から入り始めた黄砂が、街を呑み込むように侵食を開始している。


「プウのヤツ。終わりを早める気か?」


 アン・ミンツは、一際濃い黄金色の広がる西の空を見つめる。その彼へとパオロ宮の外にいた男が声を掛けた。だが街中を包む悲鳴に掻き消されたその声の主に、「なんて?」とアン・ミンツは顔を向けた。


「お前は一体何者だ!」


 焦りの色をまじまじと瞳に覗かせた眼鏡の男は、先程見た青色のマントを羽織った男と似た装束を身にまとっていた。その彼と同じ衣装を着た若い男と女。二人の顔にはまだ幼さが残る。三人の傍には一人だけ趣の異なる麻の仕事着を来てハンマーを持った男の姿。


「俺はまあ、お客さんだ、広い意味での。てか、お前ら騎士か?」

 

 アン・ミンツが問うと、この現況にも関わらず、「コイツは違う」とハンマーを持った男へと眼鏡の男は言い訳がましく言った。


「なんだよわざわざ助けに来てやったのに、そこはもう騎士でいいだろがバカレンジョッ」


 そんなハンマー男の小言に付き合うでもなく、眼鏡の男は続けた。


「そうだ、我らは東方守護騎士団だ」


「騎士団が三人だけとは様にならねーな」


 痛いところをつかれたように眼鏡の男は言葉を詰まらせる。


「なっ、だからこのチフル・パンナイン様が来てよかったじゃねーか。指揮系統が木っ端微塵になったのだってレンジョウのせいじゃ……」


 ハンマーの男が慰めの言葉を掛けると、目に見えてわかるほどに眼鏡の男は狼狽していた。

 そのすぐ隣で、まだ幼さを残す少女の顔は凍りついていた。街を覆いつくし始めた黄金色の空。黒目がちな瞳を見開いたままで、その光景から目を離せずにいる。そのすぐあとで、まさに少女の如く彼女は傍らに立つ若い騎士へとすがりつく。


「マルコ、私……私、怖い、怖いよ」


 言葉にした瞬間、彼女は恐怖を抑えきれずに身を震わせる。それは騎士としてあるまじき行為。だから、といったわけではないかもしれない。


「心配するな、クロエ。……俺もだ」


 癖の強い茶褐色の髪をした騎士も一緒になって震えだす。

 ここに完全に東方守護騎士団は崩壊したわけだが、アン・ミンツにそれを知る術はない。

 深々と息を吐く、そのあとで。ハンマーを放り捨てたチフル・パンナインは尋ねた。


「なあ兄さん、これは世界の終わりなのか?」

 

 アン・ミンツは、チフルの顔をちらと見ると、


「願わくは、これで本当の終わりにして欲しいもんだ」


 誰に聞こえるともなく呟く。そして、パオロ宮の別館のようにそびえ立つ療養施設を目指して駆け出した。


  7


 三階から二階へと至る階段の最後の一段を下りた時、ロムルスの栗色の頭髪は風に揺れる稲穂のような完全な金色へと変った。

 そして、まさにその刹那、リンドは剣帝ネィル・フー・トゥーンを鞘から抜き、切りかかった。

 しかし、〝断ち切るウスラヒ〟の青い光の灯る刀身を、ロムルスは戦具アルマで受け止めると微動だにしなかった。短い膠着状態のあと、両者は切り結んだが、互いに傷一つ負っていない。

 飛びすさび小さく呼吸を整え、リンドが右上段にネィル・フー・トゥーンを構えた時、研ぎ澄まされた剣気と剣気に満ちる空間を、赤い正方形の部屋が覆う。


「どうしたよ、ロム。髪の毛なんか染めちまって、反抗期か? ……なら、見過ごす訳にはいかんよなぁ、後見人としては、よ」


 剣皇ポーニロアを携え、のんびりと歩いて来たユアンがリンドの隣に立つ。

 リンドがちらと見た先で、壁に背を預けたまま座るカギルが心配そうな顔でこちらを見ていた。満身創痍といったその姿は実に痛々しかった。

 リンドはユアンの横顔を見つめた。


「これは、お前の『想(ソウ〉』……か?」


 ユアンはリンドの顔を見るでもなく答えた。


「〝華葬カソウ・ヤエベニトラノオ〟。終の太刀、死式、〝キョウオウ〟――。使うこともないと思ってた俺の最後の技だ」


 四本の杭を支点とした四角垂。それをふたつ張り合わせたようにして形成された菱形の空間。ユアンがその名を告げると、部屋の天井部から赤い花びらが散るようにして、ふわりと舞い落ちる。

 春の終わりを告げる桜のように、一枚、二枚と増えながら舞い散る花びら。儚さすら感じさせる紅。しかし、花びらと花びらが触れた瞬間、それは爆ぜた。

 炎属性に耐性のあるユアンですら、爆風によるダメージを負いかねない連鎖爆発を可能とした小さな赤い結界空間。その中で、ユアンは自分の思いを素直に口にする。


「たとえロムであったとしても、お前は戦わなきゃいけないんだろ? だったらその咎を俺も一緒にしょってやる。友達だろうが。最後の最後くらいは俺も巻き込めよ」


 リンドはユアンの気持ちが心から嬉しかった。だが、友達だからこそ――、リンドはユアンに微笑んだ。それは、ユアンにとってリンドの最後の笑顔だった。


「友達だからこそ、最後まで見届けてくれ」


 リンドの言葉に迷いはなかった。だからこそ、ユアンは剣を収めるしかなかった。


「……なんでだよ……バカヤロ……」


 ユアンは力なく俯いた。桜の花びらは音もなく消え、紅い空間も完全に消え去る。

 リンド・ヘイワースとロムルス・パルミエリ。互いの剣をぶらさげたまま立つ二人は、その時が来るのを待つように、ただそこにいる。

 自分の無力さを嘆き、ユアンは力なく歩く。今や一人で立ち上がることも出来ないカギルへと向けて、小さく首を振った。彼女に倣うように隣の床に腰を下ろすと、寄り添うようにカギルが上半身を預けた。

 そして、友との約束を守る為、彼の決着を見届ける為、ユアンはその両の瞳で彼らを見つめた。

 その瞬間、弾かれたようにリンドとロムルス、互いに持つ剣が交差した。


  8


 ぼんやりとした心の最奥から、彼女は経過を見守り続けてきた。

 今とは違う時代。リンド・ヘイワースが、氷ヶ守燐人と呼ばれていた時代で、彼は自らの意思で最後の選択をした。

 その最後の時に、彼女は神と等しき力を手に入れたにも関わらず、彼へと伝えるべき言葉を告げることは出来なかった。

 彼女の躊躇い、それは女としての性が邪魔したからに他ならない。

 ひょっとしたらそれを知ったところで、彼の選択を正す結果には至らなかったかもしれない。だが、やはりだからこそ、いかに残酷な運命であったとしても、それは自分の口から伝えたい。

 彼に初めて出合った時に感じた予感がやがて確信に変わり、そして幾年月――。

 世界を。時代を。そしてリンドを。見守り続けてきた長い長い旅路の果て、彼女はそう望んだ。

 ロムルスとレムルス。そしてミカトン・ケイルが彼女の望みを受けいれるように頷く。


 壮絶な剣技の応酬のあと、距離を置いたリンドが剣帝ネィル・フー・トゥーンを掲げ自らの『ソウ』を開放した時、戦具アルマを携えたロムルスの身体はそれに反応するかのように金色に包まれた。


「――〝竜爪リュウソウ・アクライ〟」


 リンドのからだに鱗状の銀青色の欠片が張り付き始める。それはあっという間に全身を覆った。

 パイプオルガンのパイプのような形状の羽根を背中から生やし、銀青色をした全身を覆う鎧。顔まですっかり隠す先尖状の兜は、まるで獰猛な竜の顔を模したようだった。

 竜人と呼ぶべき姿になったリンドは翼を広げた。パイプの先からキラキラと白銀に光る冷気のガスが吹き出る。辺り一面を凍らせていく銀色の世界は、すでにパオロ宮の二階部まで窓まで競り上がってきた黄砂の侵入を阻むようだった。

 荒々しい竜人の姿へと変貌を済ませたリンドが、鋭利な爪を生やした右手で剣帝ネィル・フー・トゥーンを握り直す。

 光へと包まれたロムルスもまた、その輝きから解き放たれた。

 そこにはすでにロムルスの姿はなく、長く美しい金髪をひとつに纏めたセーラー服姿の少女が戦具アルマを手に立っていた。

 その姿に竜は呻き、悶えるように後ずさる。


 恐ろしい姿で立ち尽くす竜をその少女――水鏡遠野は真っ直ぐに見つめた。


 遠野の顔には、悲愴な覚悟を決めた者の厳しさが浮かんでいる。


「……リンド。私はどうしてもあなたに伝えなければならない。それは前の世界ではあなたに伝えられなかったこと。……でも、それは私が……私が貴方に伝えなければいけないの」


 遠野がその小さい唇を動かした時、竜は咆哮した。弾かれるようにネィル・フー・トゥーンを振り上げる姿は、その先を聞きたくないと訴えているようだった。

 遠野は、その魂の篭らない一撃をあっさりと受け止める。


「まだ、神と人が共にあった時代のある世界に、双子が生まれたの。……だけど、双子は共に生きることは出来なかった。それは、双子が一つの魂を共有していたから。兄の魂が強くなればなる程、もう一人の自分ともいうべき弟の魂は弱くなっていった。……それは、まるでロムとレムのように」


 遠野の吐き出す言葉を止めるように、竜は何度も何度も剣を振る。


「その世界が赤い砂に覆われて滅んでしまった時、ミカトン・ケイルは〝神の箱庭パンドラ〟にすべての魂を保管した。そして、世界が再生するまでの間、魂たちはミカトン・ケイルの夢の世界で生き続けていったの。その中にはその双子もいた。でも仮初めの世界であっても双子を双子として転生させる訳にはいかなかった。だから、二つに魂を分けられたあと、二人は引き離さらざるをえなかった。兄弟のように常に共にある環境だけは避けなくてはいけない。二つに分けられた魂が一つに戻ろうとすれば一人は死んでしまう。だから、ミカトン・ケイルは夢の世界でその二人を引き離したの」


 竜は何度も何度も剣を振り、遠野は何度も何度もそれを受け止める。


「でも、魂の成長を促すためのI・Dとアンノウンによるシステムで転生を繰り返す数百年の間に、決して交わることのない遠い地でスタートしたはずの双子の人生は、意識の外でやがてお互いを探し求めるようにその距離を近づけていった。そして、数十回に及ぶ魂の転生の果て、かつての時代で双子はついに幼なじみという距離にまで近づいてしまった」


 残響音。剣戟のその名残すら無視するように、無慈悲な言葉を遠野は告げる。今度は躊躇うことなく。


「リンド。……ゆかりちゃんは、本当はもう一人のあなたなの」


 竜は告げられた真実を認めようとしないように剣を振り回した。そこにはあの流麗な剣技の片鱗は微塵もない。

 その姿はちっぽけな世界を壊そうとしているようにも、守ろうとしているようにも見えた。


「ひどいよね、私……」


 遠野は泣き出しそうな顔で剣を受け止める。


「残酷だよね、私……」


 竜の力任せの一撃に戦具アルマが軋む。


「……だけどそれは他の誰でもない私が伝えなければいけないんだって自分で決めた事だから……しょうがないよね………それでも……」


 それが、この瞬間に決して口にしてはいけない言葉だしても。

 残酷な宿命と引き換えにしてなお、告げると誓った彼女の最初で最後の我がままだから。

 数百年か、数千年か、遥かすぎる時の流れにすり切れて、だが決して失わなかった気持ち。それこそが彼女の長い長い旅路の答え。

 悠久の想いをこめて、彼女はただその一言を告げた。


「――私は、あなたが好きです」


  9


「まだ、逃げる気か?」


 療養施設というあつらえは面会室までの、そこから先は収容所以外の何物でもない鉄格子の牢が並んだ廊下の先。男の背中に向かって、アン・ミンツは言った。

 行き止まりの部屋のドアノブから手を離すと、振り返ったガンド・マギアスはニヤリと笑う。


「久しぶりよの、赤の剣士」


 年老いた騎士総長の威厳に満ちたその話しぶりを聞いて、アン・ミンツは「ニヒ」と笑う。


「クイルドといい、お前といい、設定上そんな話し方をしなきゃならないのかい? 青の錬金術師殿よ……ってか、義手はどうしたよ? お前の右手は前の世界で失われたはずだろ?」


 ガンド・マギアスは声を上げて笑った。しかし、声色に今までの年寄りくささはない。


「ここは俺の世界だぞ、そんなものどうとでもなるさ。……まったく、お前の勘の良さには呆れるよ、アン。わざわざ替え玉まで用意してやったのに、振り回されるどころか、時間稼ぎにもならないとはね」


 アン・ミンツは、一刀のもとに切り伏せた賢王シャルナァプを思い出す。


「どうせ、タスラムあたりの魂だろ、ありゃ。あのな、プウ、時間稼ぎがしたいなら、偽りの記憶だけじゃなく、技の一つも覚えさせとけ、な」


 ガンド・マギアスという存在を演じ続けてきたシャルナァプ・ウーデルカは、さめざめと溜め息を吐いた。


「王たる存在というだけで暴走しかけるバカな操り人形に、力まで与えるのは愚かな話だろ?」


 いつも上から目線で理屈っぽく話す。そこにはいつものアン・ミンツの良く知る友がいた。だが、その姿は年老い、かつての聡明な美青年の面影はほとんど残ってはいない。


「甲虫に、記憶だけ移植されたノンプレイヤーキャラクター。砂漠のガリア族に、剣王ル・シウスとアウレリア帝国の残党たち。それは四方騎士という自身の力を示し、同時に外の世界へと魂を持つ者たちが出て行かないための措置。自身の鳥かごを守るためとはいえ、御大層なこったな。だが、それこそがお前の限界だよ、プウ。そういったすべに頼らなければ世界を運営出来ないという時点でな」


「確かに、自身の築いた措置がまさか自身の首を絞めることになるとはな。それは認めるさ。確かに失敗だったとな」


「数多の魂の管理を諦め、厳選した一万程の魂たち。その小さな鳥籠。それがお前の世界。そしてそれがお前の限界。ガリア族に甲虫、外の世界に危険を敷いて、歴史の改竄をしても、飛空戦艦ガンダルノヴァだなんだと、自身に都合の良いはずだった後付け設定をノンプレに逆利用されちまう程度のな」


「利用。そう、利用されたのだ。……俺の失敗は、ミカトンやお前にばかり気がいって、クイルドの存在を注視していなかったことだ。おかげでル・シウスのそそのかしにも、フォウシャール・クロイツを回収し、ガリアに匿っていたことにも気づけなかった」


「もう終わりにするべきだろ、プウ。そんな姿になってまでお前は、何度世界を創って壊せば気が済むんだ?」


 アン・ミンツの睨むような視線から逃げるでもなく、シャルナァプは答えた。


「何度……か。そんなこと、とっくに忘れてしまったさ。だが、これで最後だ」


 自嘲ぎみなセリフはやがて、自信に満ちたものへと変っていく。アン・ミンツはそれを見据えて口を開いた。


「何百回か、何千回か、世界を創っては失敗を重ねたお前は、もう人としての限界を迎えた。寿命ってヤツだ。転生すれば済む話だろうが、新たな生命として誕生しても無力な赤子ではミカトンに『神の箱庭パンドラ』を取り返されるのは必然。そう考えればこそ、この世界で決着をつける気になったんだろ。だが、残念だったな。お前自身も気付いてなかったんだろ? 数限りない創生を繰り返す度、お前の切り札たる四本の《神具ハルモニア》を持つ騎士達の偽りの記憶は劣化していった。ミカトンにつけこまれる隙を作っちまってたって訳だ。四本の《神具ハルモニア》とその使い手がお前に付いていれば、この戦はどう転んでいたか分からなかった。その計画が破綻してしまった以上、お前の負けだよ、プウ」


 だが、シャルナァプは動じなかった。


「俺の負けだと言うのなら、なんでアン、お前がこの世界に送られて来たんだ? 焦っているのは俺じゃなくてミカトンの方だろ? ヤツに取られるくらいなら俺が『神の箱庭パンドラ』を破壊するか、隠すと思ったからこそミカトンはお前を送りこんだんだろう? 『神の箱庭パンドラ』回収の為に。小さな星で、わずかの距離を置いて、隣り合い、眠る俺たちだ。それが出来るならさっさと俺の息の根を止めれば済むはずだ。それをしないことが証明している。あいつは神の力を得たと言っても、魂を創り出すことが出来ないと。アン、俺はまだ終わっちゃいないよ。確かに四人の騎士は俺の思惑通りにはならなかったが、己が犯した罪の真実を教えてやった青の騎士だけは最後の最後まで足掻くだろうさ。……それに、切り札というなら、これが本当の切り札だ」


 シャルナァプは腰に携えた鞘から剣を引き抜いた。黄金色に輝くその剣にアン・ミンツの顔色が変る。


「『全てのユピテル』か……」


『神の箱庭パンドラ』に施された七千七百七十七の封印を解く為の鍵として創られし存在。それはつまり、この世に宿る全ての属性をその刀身に刻みし《神具ハルモニア》。その最強の剣を手に、シャルナァプは不敵に笑った。


「今までの俺とは訳が違うぞ、アン。睡眠装置コールドスリープが解除され、なぜ俺だけが目を覚ましたのか、その本当のところは俺にも分からない。だが、つまりはそれが世界の意思なのだろう。必然なのだ。ならばこそ、この世界で俺は神となる。……ところでお前、そんなボロボロの剣で勝負になるつもりだったか?」


 アン・ミンツはちらと、手にした名も無き剣を見る。それはシャルナァプの指摘した通り、刃こぼれがひどく、壊れかけの剣だった。おそらく、全力での攻撃など、あと一振りが限界だろう。だが、それはアン・ミンツが選び、共に戦ってきた今や身体の一部ともいうべきアン・ミンツの剣だった。

ふうと息を吐き、アン・ミンツは「ニヒ」と笑った。


「そりゃただの偶然だって。タスラムのソウ、〝ユグドラシル〟の巨木。その根が予想以上に天界の地中に張り巡らされたせいで、お前が乗った睡眠装置コールドスリープが壊れてたってだけの」


 そして。


「信頼こそが、人と剣の真の力って基本まで忘れたかよ、プウ」


 臆すること無く、アン・ミンツは地を蹴った。


「――〝竜双リュウソウ・エリュシオン〟!!」


 シャルナァプが自らのソウを告げる。大気中の水分から氷の武具を無限に作り出す事の出来る、竜の顔を模した双つのガントレットが衛星のように彼の両脇に出現した。しかし、それは共に戦ったかつての世界でアン・ミンツが見知っていたものとは比べようもない程に巨大だった。大気中に出現した巨大な弓と矢。その弦を竜の顎が引き、放つや巨大な矢は空中で無数の矢へと分解し、雨霰と降り注ぐ。

それをかわしシャルナァプの眼前へと迫った時、双つの竜の顎が咥える巨大な双剣が振り下ろされた。

迫り来る双剣の中へと飛び込んだアン・ミンツが、シャルナァプと交わる。

 シャルナァプの遥か後方でその足を止めたアン・ミンツがその名を告げると、赤い光を灯した刀身は粉々に砕け散った。


「――〝華粧カソウ・ヒナゲシ〟」


 瞬間、液体燃料と化して巡る血液に着火するようにして、シャルナァプの全身から発火する。

 焼け焦げたシャルナァプが崩れさるのを振り返りもせずに、アン・ミンツは「バカヤロウ」と呟いた。


  10


「ユアン、あれ、トーノちゃんだ。なんでだろ、あたし。なんでトーノちゃんのこと忘れてたんだろう」


 ユアンの〝華葬カソウ・ヤエベニトラノオ〟、三式〝ホウオウ〟の三角錐の結界の中でユアンに寄り添うカギルの瞳からはらはらと涙が零れ落ちた。


「ああ……俺もだ、カギル。俺も今、全部思い出した」


 だが、それは遅すぎた。ユアンの言葉には苦々しさが満ちている。金色の光に包まれたロムがトーノへと姿を変えてのち全てを理解できたとして、ユアンもカギルも、今やリンドにも、トーノにも何の助力も出来ない。そればかりか、パオロ宮を氷の城へと変えゆくリンドの『ソウ』、その冷気に蝕まれつつあるホウオウの結界から出ることすら適わなかった。ユアンは自身の無力さに、ただ打ちのめされていた。


「せっかくまた会えたのに、どうしてリンドとトーノちゃんが戦わなきゃいけないの……」

 

 涙声のままでカギルが呟く。離れた場所で見守るユアンとカギルには、二人の会話の内容を知る術はない。自分の表情を隠すように竜の鎧の内に閉じこもるリンドと、悲しげな表情のトーノが剣を交える姿だけが映る。


「悲しいことだよな、カギル。……でも、俺には二人が長い時間を埋めるように、剣と剣で会話を交わしてるようにも見えるよ」


 ユアンは呟き、最後まで見届けると改めて一人誓った。

 リンドの振るう、ただ力任せの一撃を受け止めた今にも泣き出しそうな表情のトーノが、それでも真っ直ぐにリンドを見据える。そのわずかばかりの沈黙のあと、最初にそれに気付いたのはカギルだった。


「……嘘。どうして、ここに……ユカリ」


 カギルの言葉にユアンも視線を移す。パオロ宮の一階へと通じる階段、ユカリ・マルキアンティがそこにいた。黄砂から逃れるようにしてリンドの元へ駆けて来たのであろう彼女の服は、砂まみれで汚れがひどい。

 息を切らせ立つ彼女の肌を、冷気が張り付くようにして凍らせていく。その姿に気付いた竜は、自らが射出する白金色のガスを止めた。

 彼女はただ立ち尽くす竜を見ていた。そして、いつものように微笑む。愛らしく優しいその笑顔には、リンドに対するいたわり、愛情、そして赦しが表れていた。

 リンドも、ユアンも、カギルも彼女の視線に目を奪われる。


 しかし、次の瞬間、彼女の全身は階段を昇って来た黄砂の波に呑まれて――消えた。


 竜は吼えた。世界を、そして自分自身を。全てを憎むように吼えるそれは、竜の慟哭だった。


 竜の絶望の叫びだけがこだます中、その場にいる誰もが消えたユカリの残影から目を逸らせずにいた。だが、唯一人、トーノだけは振り返らなかった。


 そして、非情なまでに冷徹な剣を竜の胸元へと突き刺した。


 竜の慟哭が終わりを告げるのと同時に、パオロ宮を覆う氷の世界が徐々に崩れ始める。

 戦具アルマに貫かれた竜の鎧に亀裂が入りゆくのを、その剣を持つ手に感じながら、トーノの頬を堪えきれずに涙が伝った。


「……ごめんなさい……」


 彼女は小さく謝ったが、それが彼女の精一杯だった。

 自分を殺して、彼女はこの残酷な使命を全うする。すべてを失うのは分かっていた。彼に自分の想いを伝えたい。その気持ちだけで今この時の為に存在している彼女が、それと引き換えに彼に残酷な真実を知らせなければならないとして、最終的にその役目を望んだのもまた彼女自身に他ならない。……だから、これは仕方のないことだった。彼女はこれでまた一人ぼっちになった。


 鎧に広がる亀裂は、やがて獰猛な竜の顔にまで至ると兜は粉々に砕け散った。そこには、シャルナァプが世界を壊し、創る度に送り込まれたミカトン・ケイルの分身たち、その魂の傍らでいつも寄り添い長い年月の中でトーノが見守り続けてきたリンドの顔があった。

 竜の外装が砕け、露になったリンドの顔。しかし、その瞳は絶望に染まり薄暗い。

 だが、リンドは最後の力を振り絞って口を開いた。

 リンドの記憶はすでに数日前には戻っていた。ロムルスとレムルス、その存在が誰に向けてのメッセージだったのかも理解していた。だから、心の内ではこうなることが分かっていたのかも知れない……。だからこそ、準備は出来ていた。トーノに伝えなければいけない最後の言葉の準備も。


「……俺こそ、結局最後はトーノに全部背負わせちまった。ごめんな……本当にごめんな……」


 顔をぐしゃぐしゃにして謝ったあと、リンドの全身の力が抜けた。


 崩れゆくリンドの身体をトーノはきつく抱きしめたまま、子供のように声を上げて泣いた。


 ちっぽけな世界を守る氷の壁が崩壊すると、黄砂はその中へと雪崩れ込んでいく。


 ホウオウの結界が解かれる。リンドを抱きしめて泣きじゃくるトーノを見つめるユアンは、カギルの肩を強く、強く抱き寄せる。


 カギルは無言のままで、ユアンに身を任せた。


 広がりゆく黄砂はやがてすべてを呑みこんだ。


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