第四章 ムーナル戦役
1
「砂漠という環境が互いを遠く引き離してはしまったが、我らの心はいつもアウレリア帝国と供にあった」
パラス・アズロを守る四人の騎士を集めた講堂で、昨夜の賢王シャルナァプはそう口火をきった。
「今は亡き皇帝を倒し、帝国を滅ぼせし逆賊ル・シウスを討代し、我らが故郷の無念を果たさなければならない。とは言え、我が軍もル・シウスの軍も元はアウレリアの民、諸君らにもためらいはあるだろう。しかし、奴らは国を滅ぼすだけに止まらず、極悪非道の限りを尽くした連中だ。迷ってはいけない。躊躇してはいけない。奴らは人ではなく悪魔なのだ。そして、我々は常に正義と供にあるのだから……」
南門を守護する白の騎士カギル・パンナインは、後年の歴史家たちをして、今回の戦いはパラス・アズロの勝利に彩られた『ムーナル戦役』と呼ばれるだろう、と閉めくくったシャルナァプ・ウーデルカの言葉を思い出していた。
物は言いようで、アウレリアと袂を別ちつつも、アウレリアの敵にも味方にもなっていなかった自分たちパラス・アズロの民だ。正面切ってアウレリア帝政を滅してみせた剣王ル・シウスに比べればその曖昧な立ち位置も正論化できなくもないだろうし、そういうことであれば確かに正義は自分たちの側にあるような気もした。
しかし、生まれてこの方パラス・アズロしか知らないカギルにとっては、皇帝もアウレリア帝国も絵本の登場人物にしか過ぎない。正直言って、それにどれ程の正義があるのか、そもそも正しい戦争などあるのか、カギルには分からなかった。
だが、そんなことはどうでも良かったのかも知れない。ふと見ると、いつの間にか自身の身体が小刻みに震えていた。それを部下たちに気取られないよう、小さく呼吸する。震えはピタリと止まった――あたしが守るんだ、部下もこの国の民も。
細めた瞳で空を見上げる。一番高く昇った陽光を背に、数分前までは小さな黒い点だったそれが次第に巨大な塊となり近づいてくるのが見えた。監視していた部下の一人がそれに気付いたのは十分程前のことだった。
パラス・アズロの四方の門の脇、監視塔には望遠鏡が設置されていた。とはいえ、それはあくまで砂漠という終わりなき大地の先を見る為に作られたものである。空を見上げるという行為自体はそれも人も不慣れだったが、いち早くその存在に気づけたのは昨日までの曇天が嘘のような晴天だったからに他ならない。
飛空船艦ガンダルノヴァ出現の報を聞いて、やっぱりトトラの言ってた通りここか――、内心で怖じ気つつも、至急、東、西、北門へと報告の馬を走らせるように指示したカギルは、もうブレはしない。
各門から他の騎士団の援軍がかけつけるのは十五分もあれば充分であり、ガンダルノヴァ発見からパラス・アズロに至るまで、当初は三十分を見越していた。だが、その黒光りする巨体は真上に位置する太陽を背にした後光と、重力の後押しもあってかぐんぐんと近づいて来るように見える。
それを裸眼で確認し、その距離を十分に捉えた上でカギルは声を発した。
「はしご上げてっ! 同時に南門を開放!!」
かつて、パラス・アズロがガリア族討伐の為の前線基地だった時代、門扉を閉じた状態でもパラス・アズロの外の救助が可能なように、南門にだけは門の左右の塔に巨大なクレーン式のハシゴが設置されていた。カギルの掛け声と共に動き出したそのハシゴの先には、人が乗れる箱型のスペースと巨大なボウガンが左右に二台ずつ取り付けられてあった。そこには昨日のうちに、急ごしらえで作られた銛が備え付けられている。
「第一射、射てっ!!」
カギルの声に反応するようにして発射された四本の銛は、ガンダルノヴァの腹部へと突き刺さる。
銛に巻かれた軽く丈夫な鎖がピンと張るのを見て、カギルが再び声を上げた。
「第二射、準備――射てっ!!」
南門から飛び出した騎士団はすぐさま隊列を組むと、ガンダルノヴァの浮かぶ空目掛けて矢を次々と射った。
飛空戦艦が鎖に引かれるようにして、少しだけ体勢を崩す。パラス・アズロとの距離もかなり近まったその前面に、矢が突き刺さる。
さしたるダメージを与えたとも思えないその巨体だったが、怒り出すような重低音を突如として響かせる。ガンダルノヴァは前面、その下の部分を左右に開くと巨大な筒をせりだした。
「嘘」とカギルが呟くより早く、それは光った。
呆然とした表情を浮かべるカギルの目前で、白の騎士団総勢二十を薙ぎ払うべく放射された青い光の帯は、だがしかし、屈折するように不自然に曲がるとパラス・アズロの上空をかすめるようにして東の空へと消えていく。次の瞬間、カギルの頭の上に細かく砕け散った氷片が舞った。
カギルの振り返った先にはリンドがいた。
リンドの牢〝氷壁〟の余韻のように氷片が空気と溶け合い完全に消える中で、声が響く。
「なんだぁ? カギル、早くもビビってたかぁ?」
カギルの隣を駆け抜けるようにして、ユアンが飛んだ。再び唸りを上げて光を射出しようとしたガンダルノヴァより先に、始炎、六連装填の〝炎弾〟、その全弾を撃ちこむ。
筒の中へと六つの火球が飛び込むと、筒は轟音を撒き散らして爆ぜた。
ガンダルノヴァは黒煙を上げながら、斜めに降下を始めた。
2
ガンダルノヴァの誇る、光粒子砲が二射目を放つ事もなく粉砕され、降下しつつある艦内でル・シウスは苦々しい声を上げた。
「ジンモ、これはどういうことだ⁉」
奇襲をかけているはずの自軍がここまでいいようにやられては、どちらが奇襲されているのか分かったものではない。
パラス・アズロの軍は空より急襲した巨獣の如きガンダルノヴァの姿に臆することもなく、むしろ飛空船艦の空からの攻撃を想定していたかのような手際の良さだった。
「むぅ」と唸ると、ジンモは自らの知識の深さをひけらかすように堂々と語った。
「パラス・アズロには占星術師と呼ばれる星視の技を持つ者がいると聞いたことがあります。我々の動きはその星を視る目によって読まれていたのやもしれませぬな」
傾いた艦内で、他に質問は? とでも言うように誇らしげに立つジンモを、ル・シウスは冷ややかな目で見つめる。
向こうには千里眼の如き星を視る目を持つ者がいるというのに天候すら読めぬこいつは何だ――、ル・シウスが罵言の一つも吐き出そうと口を開きかけた矢先、ガンダルノヴァは急降下を始めた。
「王よ、安心下され。ガンダルノヴァの船体はグシノスギ材を使用しておりますゆえ頑丈に、そして、光粒子砲の発生装置も飛行術の動力もアウレリアの科学技術の結晶たる『魔石』機関を使用しておりますゆえ、墜落して爆発することなどありませぬ」
自信満々に語るジンモに、「だまれ、バカが!!」ル・シウスの上げた怒声を掻き消すように、ガンダルノヴァは轟音を上げながら砂漠へと突き刺さった。
人形のようにつっぷしたまま動かないロウマは別に、大鎌を壁に突き刺すと、長い柄を軸に鉄棒でも回るように一回転して降り立ったプラィ・マリィと、しりもちを付いたシクロが見つめる先で、自分よりはるかに体重のあるジンモを、罵りながら引き剥がすと、ル・シウスが立ち上がる。
のそりと立ち上がったジンモが何か献策でも、と咳払いして見せるのを横目で睨み付けて制すと、ル・シウスは呟く。
「――アイツら、皆殺しにしてやる」
怒りに震えるル・シウス。だが一瞬たぎらせた怒りがそのまま判断ミスへと繋がった。
奇襲作戦の元に行動しているル・シウス軍は、光粒子砲で城塞都市を守る大門を吹き飛ばしたあと、着陸した先遣隊二十名をくり出す予定にしていた。虚をつかれたパラス・アズロに追い討ちをかけるようにしてくり出した先遣隊が更なる混乱を演出している最中、ル・シウス率いる本隊が堂々と進軍を開始するのだ。
しかし、奇襲の成功していない現状では、それは失策以外の何物でもない。先遣隊の出撃命令を中止しようとル・シウスが伝声菅へと駆け寄るのと同時に、艦内放送が響き渡った。
『先遣隊壊滅! 先遣隊壊滅! パラス・アズロ兵、ガンダルノヴァに侵入! ガンダルノヴァに侵入!!』
苦虫を噛み殺すように唸ると、ル・シウスは踵を返した。
「艦内で迎撃する! お前らも出て皆殺しにしてこい!!」
3
轟音を撒き散らしながら飛空戦艦が砂漠に突き刺さると同時に、「よしっ!」と小さくガッツポーズを決めたユアンのそばを一陣の黒い風が通り過ぎた。
南門より一番離れた北門を守護するサリー・サレス率いる黒の騎士団は、東西を守る青と赤の騎士団より一足遅れて戦地に到着したが、他の騎士を置き去りにしてガンダルノヴァ目指して駆けていく。その数、総勢二十名。
「ちょ、ちょっと、サリー君」
出し抜かれたユアンが声を上げた時、ガンダルノヴァの左右の開閉口が降り、艦内から軽装の鎧を身に着けた男たちが声を上げながら走り出てきた。
「ふん」と鼻を鳴らしたあと、しのばせた八本のナイフを両手の指間で握ったサリーは前面の砂地へと投げた。
ナイフの刺さった砂地から、八体の砂で作られた人形が這い出る。
黒の騎士の始土――〝砂人形〟
それを見て、後ろに従う十九名の騎士達もそれぞれ持つ剣を砂面に突き刺す。騎士達の持つ十九の剣をもつ砂人形と、サリーのナイフを手に持つ八体の砂人形。合わせて二十七体の砂人形は、二十のル・シウス軍の先遣隊目指して駆けた。
砂人形は先遣隊の振るう剣の前にことごとく粉砕されていく。しかし、勝利の手応えもなく粉々になって砂塵と化して消えていく砂人形の影から、それぞれの得物を手にした騎士達が姿を現す度、驚きの声を上げる間もなく一刀の元に先遣隊は切り捨てられていった。
兵同士の初戦は、開戦して一分と経たぬうちにパラス・アズロ軍の完全勝利という形で幕を閉じた。
そのまま艦内に突入しかねない勢いのサリー率いる黒の騎士団に負けていられるか、と剣皇ポーニロアを天高くかざした剣の先では、リボルバー一発分の火球が灯っている。
アウレリアからもたらされた力を特定の石に封ずる事の出来る『魔石』技術により、騎士達の持つ剣には、各団の団長が所有する《神具》、その数十分の一の力が封じられた魔石が埋め込まれてあった。それらは言わば、《神具》の複製である。
駆けたユアンに続くようにして、赤の騎士団が剣先にレプリカの火球を灯しながら黒の騎士団に追い付くと、赤と黒の混じり合った一団はガンダルノヴァの開きっぱなしになっている入り口の目前へと迫った。
と、まさにその時、空に出現した青く巨大な水龍がガンダルノヴァの横腹に体当たりする。
頑丈なガンダルノヴァはピクリとも動かず、龍はそのまま弾かれると同時に大量の雫となって赤と黒の騎士団の頭上へと降り注いだ。
リンドの凄――〝龍顎〟の雨に打たれたあと、ユアンが振り返った先でゆっくりと歩いてくるリンドが溜め息混じりに呟く。
「まったく、お前は。サリー先輩に乗せられてんじゃないよ、ユアン。サリー先輩もサリー先輩ですよ、これは競走じゃないんだから」
レプリカの灯火の消えた剣先から、薄い煙を立ち昇らせる一団の先頭に立つユアンが「はぁ」と答え、サリーは「ふん」と鼻を鳴らす。
白の騎士団を従えたカギルもその輪に加わった。
集合した四つの団の先陣を切るように、四人の団長は肩を並べて艦内へと歩みを進めた。
剣王軍の先遣隊が飛び出してきた開放式の入り口を抜けると、先遣隊が待機していたと思わしき部屋へと至る。そこから上階へと続く階段が伸びていた。
一段、一段を神経でもすり減らすようにして上っていく。不意打ちに備える緊張と無言に包まれる一団の中、階段を上りきって真っ先に舌打ちしたのはユアンだった。
辿り着いたのは部屋と呼ぶにはあまりにも広い空間。おそらく全ての乗組員が食事をとれると思わしきその空間は、墜落の衝撃で机やイスが散乱している。その広大な空間の四隅には、あつらえたように更に上階へと通じる階段が四つ設置されていた。
それぞれの団を従えるようにして先頭を行く各団長は、リンド、サリー、ユアン、カギルの順に、進むべき階段を決定すると、騎士団は再び四つに分かれて進軍を開始した。
4
南門の方が慌ただしくなるのを聞いて、ロムルスはついに戦争が始まったのだと理解した。
ドムス・パオロへと集められた各団の準騎士や見習いたちは五名程度を一つの班として編制すると、騎士総長ガンド・マギアス指揮の下、パオロ広場に待機している。
ロムルスは東方守護騎士管轄の三班に配属された。主な使命は敵がパラス内に侵入した際の撃退と被害者の救護である。そのため、動きやすいよう軽装の胸当てを黒地の制服の上に身に着けただけの姿だった。身を守る、という意味合いに置いて、その装備は頼りない事この上ない。
南門の慌ただしさに反応するように、ロムルスと同じく三班に配属されたマルコ・ユミールが口を開く。
「な……なぁ。ロムはもう実戦の模擬訓練とか受けてたっけ? お、俺はさぁ、まだなんだよ」
どんどん青ざめるマルコの質問にロムルスが答えようとしたその時だった。南門から強烈な閃光が走るとパラス・アズロの上空をかすめるようにして東の空へと消えていく。
いや――、とロムルスは思った。確実にかすめたはずだ……。この町一番高い建物――時計塔を。
瞬間、ロムルスの中で一気に血の気が引いた。食い入るような、そして、泣き出しそうな顔でガンド・マギアスを見る。騎士総長がロムルスの家族環境や住居のことを知っていたかは定かではない。だが、ロムルスの張り裂けるような「総長!!」の一言で、彼は反射的に指示を下した。
「第三班は至急、時計塔付近の状況把握と被害者の救護に……」
ロムルスはガンド・マギアスの指示を聞き終えるより早く走り出した。その後を大分遅れながら、マルコたち三班のメンバーも走り出す。
後方を振り返る余裕などなかった。ロムルスの中では得体のしれない何かが渦巻いていた。それは昨夜、災厄の象徴を見たせいであったかもしれない。自分たちにとって死の使いを想起させるあの緑色の化け物を。あれを見た瞬間、ロムルスは心臓が止まった気がした。駆け付けたチフル・パンナインによって危機を脱したとはいえ、封印していたはずの記憶のふたは開いてしまった。国の命運をかけた戦を前に一睡も出来なかった。戦以上の恐怖が、内側から這い上がってくる。
ロムルスは時計塔を目指して一心不乱に駆けた。
だが、その瞳には白昼夢のように別の光景が広がっていた――。
――あの日。
五年前の――あの日。
西部にある動力炉近くの工場へと、父は働きに出掛けていた。
パラス・アズロのダム施設より更に東部には、パラス内でも比較的貧しい者達が暮らす集落があった。
父の帰りを待つ事の出来なかった今よりずっと子供のロムルスが、眠りから覚めたのは深夜と呼べる時間帯だった。
隣のベッドで眠る病弱なレムルスがスヤスヤと寝息を立てているのを見て、ロムルスは静かにベッドから起き出した。
小さな石造りの家がいくつも建ち並んでいる集落。その家々から声が上がるのが聞こえたからだった。それらは訳の分からない喚き声にも、悲鳴にも聞こえた。
そっとカーテン越しに窓の外を眺めると、深夜だというのに集落の家中に明かりが灯っている。その後で、ロムルスはふと隣の部屋へと通じるドアを見た。
建て付けの悪さに、扉の隙間からは明かりが漏れていた。
「お父さん帰って来たのかな?」
ロムルスはそろそろと扉を引いた。いつもなら父の帰りを待つ母が編み物などしているはずだった。
半分程開けた扉の先、その光景にロムルスは瞬間的に声を上げた。それは悲鳴であり絶叫だった。
その声で目を覚ましたレムルスも、ゆっくりと開いていくドアの先の光景を見た。
そこには鈍い緑色をした醜い生き物が立っていた。
ぱっと見は全身を緑色に塗りたくった人間に見える。だが、その頭部には離れて左右に付いた顔の三分の一程もある丸い巨大な目玉が、焦点が合わないようにグルグルと回っていたし、突き出た顎と裂けた口には矢じりのような鋭い牙が並んでいた。
そして、その上下の顎に挟まれるようにして、瞳に色のない父親の頭だけがそこにあった。
緑色の身体を血の赤色で滴らせるトカゲの化け物の足元には、ズタズタの布をかろうじて身にまとった母親の姿があった。だが引き千切られたようにその胸から下は無い。
ちらりと見た母の顔は、真ん中にぽっかりと穴が開いていた。空洞のようなその闇の中に、何か白く柔らかいものが見えた気がした。
静とした室内でレムルスの呼吸が速く、荒くなっていくのだけが聞こえる。
発作が始まった――とロムルスは思った。レムルスはパニックに陥ると呼吸が荒くなる。それは呼吸困難にも繋がりかねない危険なものだ。ロムルスがほんの少しの冷静さを取り戻したのは、皮肉な事にそれを思い出したからだった。
――レムだけは助けるんだ。
心の内でロムルスがそう何度も繰り返すのを見透かし嘲るように、緑色の化け物はぐるぐると焦点の合わない目玉を上下の瞼で閉じる。左右の巨大な緑色の丸の丁度中央に、それぞれ一筋の線が入った瞬間、父親の顔がリンゴでも握り潰したように弾けた。
その刹那、ロムルスはレムルスの元へと駆け出す。
――窓から外にレムを投げ出すんだ。
ロムルスの心は決まっていた。しかし、ロムルスがレムルスを抱き上げたその時には、一足飛びでその背後に化け物は追いついていた。
自身とレムルス、そしてトカゲの化け物――そこにいる全ての息づかいが聞こえる程に世界は狭く、小さなモノに感じられた。
駆ける振動に、化け物の口端から真紅の液体が部屋中に撒き散らされる。壁や床に付着するや、鮮明な赤はどす黒く変色していく。
少年の小さな世界は侵食されていく。
少年の世界に突如としてもたらされたものの名は紛れもなく――終焉。
血で真っ赤に染まった顎が、上下にパックリと開いた。
世界はどんどん小さなモノへと形を変え、やがてロムルスを包み込む。それが『死』というものである事を理解したロムルスだったが、打ちひしがれ、倒れこむ訳にはいかなかった。
――世界が終わるならば、希望だけでも残すんだ。
迷いはない。踵を返して駆け出すと、同じ双子の弟だというのに、小さく軽いレムルスの身体をロムルスは両手で抱いた。
レムルスを放り投げる姿勢を整えて窓を見上げた時には、既にトカゲの顎はロムルスのすぐ後ろへと迫っている。
しかし、そんなことは百も承知だった――ロムルスは躊躇わず、そして吼えた。
5
四人の団長がそれぞれの階段を中程まで昇りかけた時、大広間の四隅に隠されていた扉が開いた。
罠だ、と思った時には旧アウレリアの誇る重装歩兵が続々と姿を現す。
騎士団は自分たちの団長を守るように階段を中心に円陣を組んだが、剣王軍の重装歩兵は更にそれを取り囲んだ。
八十の騎士団の倍はあろうかという兵力差。それは先遣隊二十の壊滅を受け、剣王ル・シウスが自身の軍のうち、残る約二百三十をこの大広間に投入したからに他ならない。
自らも円陣に加わろうと階段を降りかけたリンドに、騎士の一人が声をかける。
「ここは我らに任せて、団長は行って下さい! ル・シウスを倒して下さい!」
一瞬ためらいつつも「任せた」と叫ぶや、踵を返してリンドは階段を駆け昇った。
背後で、騎士団の気勢を上げるような声が続々と上がる。ちらりと見た左奥の階段をユアンが駆け上がって行くのが見えた。おそらく、白と黒の騎士団も同じ決断を下したであろう。迷いを掻き消すように、リンドは階段を駆け上った。
*
階段を昇り終えた先の扉を蹴り開けると同時にリンドは剣を構える。そこは先程の大広間を十分の一にしたほどの部屋だった。
内装もこれといって見るもののないその部屋に、一人の男が佇んでいた。
男は絵本に出てくるような金色の鎧をまとい、アウレリア王家の紋が施された鞘に入れられた剣をぶらさげている。整った顔立ちをしていたが、腰まである長い黒髪から覗く瞳は虚ろで呆けているようにも見えた。
立ったままで意識を失っているのではないか、と思えるような男に向かって、剣を構えたままでリンドは声を掛けた、が反応はない。
慎重に少しずつ間を縮めながら、同じ作業を繰り返す。
一歩。反応はない。
二歩。反応はない。
三歩。反応はない。
しかし、リンドがきっちり四歩目を踏み入れた瞬間、男は抜刀した。
リンドの予想以上に伸びる太刀筋から、のけぞるようにして一歩リンドが後方へ飛んだ時には、男の剣は鞘にしまわれている。
男が剣を鞘にしまうカチリと言う音と同時に、パラス・アズロ一の硬度を誇るリマル石を加工して作られた青く美しいリンドの鎧の右の肩当てが吹き飛んだ。
アウレリア一の剣士にのみ帯刀をゆるされたアウレリア王家に伝わる『金王石』備えの名剣フランダル。そしてその剣を完璧に使いこなせてこそ可能となる、いかなる物をも切り裂く王家秘伝の抜刀術。それは剣の道を志す者なら知らぬ者はいない。しかし、ならば……。
――ならば、これがかのアウレリア一の剣士、ロウマ・アウレリアだというのか?
リンドは体勢を立て直すと、込み上げてきた怒りを噛み殺す。
己が極めた剣技を振るう為だけのあやつり人形。それが今のロウマの姿だった。誇りある剣士として、これ程の恥辱はない。
リンドは剣帝ネィル・フー・トゥーンを両手で握ると、ロウマの虚ろな顔を見据えた。そして、小さく吼えると真っ直ぐに駆けた。
自分の攻撃範囲の中に敵が入ったのを感知するとロウマは再び剣を走らせる。しかし、水の理を剣の道として培うリンドの真骨頂はその『流れ』を読むことにあった。
ロウマの太刀筋は初見ですでに見切っていた。両手持ちにしたネィル・フー・トゥーンでロウマの横薙ぎの斬撃をしっかりと受け止める。しかし、それでもなお凄まじい衝撃が走った。受け止めた剣ですら切り裂くと言われる金王石の剣ではあったが、リンドの持つ剣も世界に一本しかない神具の一振りである。衝撃を踏みとどめたネィル・フー・トゥーンにはヒビひとつ入らなかった。
少しずつ失われていく衝撃を逸らすように、ロウマの剣を払うとリンドはそのまま渾身の一太刀を振り上げた。
ロウマの首筋から血飛沫が上がる。
一瞬ののち、崩れ落ちたロウマの瞳には正気が戻っていた。
リンドには最後の瞬間、ロウマが穏やかな表情で小さく頷いて見せたような気がした。
**
サリー・サレスが階段を昇ると、彼を迎えたのは大柄で右目をゴーグルで覆ったスキンヘッドのいかつい男だった。
サリーが、小太刀程度の長さしかもたない彼愛刀の魔剣ハーデスを抜くと、大男は肩にちょこんと乗った砂兎を太い指で撫でながら冷めざめと呟く。
「剣王軍一の武人たる我の相手がこのようなチビッコとは……。女や子供をいたぶる趣味は持ち合わせていない、が、これも戦争、仕方なし。我は武人の仲の武人、ジンモ・ウコン。さぁ、貴様も名乗れ」
「チビッコ」という単語にほんの少しだけカチンとしつつも、サリーは至って冷静を装っている。
「名乗る程の者じゃねーよ。俺はただ、お前を葬る者だ」
言うや、すかさずサリーは駆け出す。
「愚か者め!」
叫ぶやジンモは背負った大刀を抜いた。
巨漢のジンモが持つ大刀は小柄なサリーの身長程もある。それを軽々と構えるとサリーへと振り下ろした。
だが、その超重兵器を事もなげにサリーは捌く。唸るような掛け声を発しながら、二太刀、三太刀と振るわれたジンモ渾身の大刀は、それに比べて十分の一程の刀身しかない小太刀に易々と、そして悉く叩き落とされた。
『地』属性の魔剣ハーデスは砂や土、そして鉱物を支配している。その魔剣ハーデスにかかれば、相手の得物が鉄だろうとダイヤモンドだろうと、軽かろうが重かろうが、それは何の意味も持たなかった。
四太刀目をあっさりと弾かれたあと、顔面に蹴りをもらって尻餅を付いたジンモは、相性の悪さにも気付かずに『武人』として相手を称賛して見せる。
「お主、なかなかやるな。我が武人の血も滾っておるぞ。どうやら久しぶりに本気を出せる相手を見つけたようだ。礼を言うぞ」
フッフッフッと不敵な笑みを浮かべながら立ち上がったジンモは、突然「うおおおおっ」と吼えた。
なんだ、変身でもするのか――と眺めていたサリーの眼前で、ジンモは肩に乗った砂兎の背を叩いた。
弾かれたように目を白黒させる砂兎は、口から多量の黄色い砂を撒き散らす。
視界を失った黄色い世界でジンモは豪放な笑い声を響かせた。
「お前、『武人』って言葉の意味、知ってんのか?」
サリーの投げやりな言葉だけが、黄色の靄の中で響いた。
それを鼻で笑うと、ジンモは右目を覆うゴーグルの先に付けられた蓋を外す。『青目石』と呼ばれる特殊な鉱石で加工されたレンズ越しに、小柄な男の輪郭が青色に映っていた。その男の前面に人形の影が形成されるや、二体の人影は黄色に覆われた部屋を真っ直ぐに駆けてきた。
「〝砂人形〟か。もちろん調べてきているぞ」
ジンモは独り言のように呟く。
自称、剣王軍一の『武人』にして『軍師』たるジンモである。四方騎士団の技くらい調査済みであった。
「一体目が囮……二体目が本物だっ!」
二人目を守るようにその前を駆ける人形をあっさりと破壊し、ジンモはその影を駆けてきた二体目に太刀を突き立てる。だが、二体目も一体目同様、手応えはなかった。
「あれ?」間の抜けた声を上げたジンモの脇に、サリーが立っていた。
「お前、バカだろ」
サリーが呟く。砂人形を作り出せる程に『砂』を支配している魔剣ハーデスを使いこなすサリーにとって、砂との同化などたやすいことだった。
黄色い砂に覆われた小さな部屋でジンモの悲鳴だけが響き渡った。
***
自分の存在に気付かずに一人遊びを続ける彼を見て、ユアンはそのまま通り過ぎようかと少し悩む。
彼はまだ子供だった。年端もいかぬ少年は、一人嬉々として一人遊びに没頭していたが、彼が大道芸人のジャグリングよろしく放り回して遊んでいたのは、彼の身長程もある大鎌だった。
その凶々しい容貌を持つ巨大な鎌と、無邪気にそれと戯れる少年の組み合わせという異様な光景に、どうやら自分はハズレを引き当てたらしい――、とユアンが内心でグチっていると、少年はようやくユアンの姿に気付いた。
嬉々としていた顔は、一転して招かざる客でも見るような無愛想なものへと変わっていく。
「なんだ……来ちゃったんだ。ボクはプラィ・マリィ、彼女はメアリ。お兄さんが悪いんだよ、ボクたちの所に来ちゃった、お兄さんがさ。……だから、さっさと死んでよ」
少年は自身がメアリとよんだ大鎌をユアン目掛けて放り投げる。
そのあまりの躊躇わなさに戸惑いつつも、きっちり首を切断しようと飛んで来た大鎌の刃をユアンは剣皇ポーニロアで防いだ。
弾かれたあと、自分の左後方へと転がっていく大鎌を目で追うこともせず、ユアンはプラィ・マリィ目指して駆ける。
「『さっさと』だと? それはこっちのセリフだ。さっさと終わらせてやる」
自身の得物を失い、手ぶらになった少年を気絶させて終わりにさせようと駆けたユアンを目の前にして、プラィ・マリィは隠し持った短刀を抜いた。
「そんな物が何の役に立つ」
勝利を確信したユアンの前で、プラィ・マリィは自分の右の掌を切りつける。と、右掌から噴き出した血飛沫は一筋の刃となってユアンを襲った。
それを弾いた拍子に体勢を崩したユアンを置き去りにして、伸びた血の筋は先程投げた大鎌を掴む。その瞬間、伸ばしたゴムを放したように大鎌がぐんとプラィ・マリィの手元へと戻った。
体勢を直すや、うろたえたユアンは引き戻される大鎌の刃をすんでの所でかわした。
「『真赤岩』による血技〝ブラッディ・メアリ〟……まったく、これまで使わせるなんてさ。どうせ死ぬってことしか選択肢はないのに……」
ブツブツ言うプラィ・マリィの胸元で、ルビーに似た赤い宝石が妖しく輝く。
それを見留めながら、「醒」と口にしたユアンの持つポーニロアに〝炎熱剣〟の赤い刀身が灯った瞬間、プラィ・マリィは自身の血で伸縮自在の鎖鎌のようになった大鎌を振り回した。
伸びる、振り下ろす、振り下げる、回転する。様々に攻撃のパターンを変える変則的な大鎌から、ユアンは逃げ回る。
〝炎熱剣〟でプラィ・マリィと大鎌の連結部分たる血で出来た鎖を切り裂くと、ジュッと焼け焦げた臭いと共に一時的に血の鎖は分断されたが、一瞬の内に修復されて元の形状に戻る。
「血が切れる訳ないじゃん。往生際悪いね、お兄さん」
プラィ・マリィは潮笑したが、それでもユアンは無様に逃げ回り、血の鎖を何度も切り裂く。
ユアンの諦めの悪さに業を煮やしたように、
「いいかげんにしてよ!!」
叫んだプラィ・マリィは、左掌で包むように短刀の刃を握った。プラィ・マリィの左掌から噴き出た血は赤く長い外観に無数の細い枝を刻んでいる。それはまさに荊の鞭だった。
右手の鎖鎌、左手の茨の鞭をプラィ・マリィは夢中で振り回す。その度に、それ程大きくもない部屋の壁や天井に鋭利な傷が刻まれた。
相変わらず逃げ回り、血の部分への斬撃を繰り返していたユアンもさすがにその波状攻撃に退路を経たれる。肩で息をしながら部屋の隅へと追い詰められる。
勝利を確信したプラィ・マリィが「死ね‼」と叫ぶ。
だが、大鎌は振り下ろされることも、茨のムチは叩き下ろされることもなかった。敗者のように膝をついたのはプラィ・マリィの方だった。
唖然とするプラィ・マリィに、ユアンが静かに告げる。
「俺が蒸発させた分だけ、お前は体内の血を補充してんだろ、それも二刀分も。血を出しすぎたお前の負けだよ」
肩膝を付いたまま、わなわなと震えるプラィ・マリィが叫ぶ。
「ボクがお前なんかに負ける訳ない」
大鎌が振り下ろされた。しかし、それが突き刺さったのはプラィ・マリィの胴だった。鎌の刃の抜けた背中から血が噴き出すと、空中で向きを変え無数の刃となってユアンを襲う。
「馬鹿野郎……」
呟いたユアンの左肩に出現した六連の火球が襲いくる刃を全て蒸発させたあと、残ったのは深々と大鎌に貫かれ絶命したプラィ・マリィの死体だけだった。
****
カギルが辿り付いた部屋には、白髪の長い髪を左右で二つに結った褐色肌の少女がいた。
自分より一回り近く幼い白いワンピース姿の少女を最初見た時、捕虜だと思ったカギルが微笑みを浮かべ優しい言葉を掛けようとすると、少女は全く正反対の表情を浮かべた。
「なんだ女か。嫌いなのよね、女なんて。悲鳴を上げさせることくらいしか、楽しみ方ないし」
舌打ち交じりに話す少女の黒目がちな瞳には、ゴミでも見る様な侮蔑が漂う。が、唐突に彼女は無邪気に笑い出す。
「……そっか、女だからダメなんだよ。女でも男でもないバケモノに改造しちゃえば良いんじゃない。うわっ、アタシって天才かも♪」
少女の瞳の奥に凶々しい色を覗いてカギルはたじろぐ。
そのカギルに向かって、少女は跳ねた。一瞬で間を詰めた少女が、ワンピースには不釣合いな両腰の鞘から右手で剣を抜いて切りかかって来た。神剣アテナイでその一撃を捌いたカギルが、反撃の姿勢を整えるより早く、振り下ろした剣が地面に届くすれすれで少女は切っ先を変えるとそのまま振り上げる。
二撃目を凌いだカギルを見て、少女は攻撃の手を止めると笑いながら少し間を離した。
「そう言えばー。自己紹介がまだでしたー。アタシの名前はシクロ・ソナゥ。そして、この右の黒刀が『黒水晶』のはめ込まれた黒飴チャン。そして、左の白刀が『白水晶』のはめ込まれた白飴チャンです。ちなみに両方供に刃びきしてます。それは、切り殺すのではなく、叩き、削り、潰し、嬲る。相手の身悶える様を見るのがアタシは好きだからなのでーす♪」
いよいよもって、この少女の異常性にカギルは息を飲んだ。
少女は先程カギルに切り付けた黒刀とは別に新たに右の腰から抜いた白刀を左手に持ち、左右でそれぞれを振り回しながら話を続ける。
「ちなみにこの両刀、黒飴チャンに切り付けられたとこは切り付けられた分だけ重く、白飴チャンでは軽くなります」
シクロの説明が終わったと同時に、カギルは未だ味わったことのない神剣アテナイの重量に両手で柄を握った。
今まで軽々と片手で持っていた愛刀にかけられた魔法が、カギルには信じられない。本来なら、《神具》たるアテナイに魔法をかける術などないはずだった。
不安を振り払うように放った〝敵討つ風の矢〟は数メートル先で重力に負けるように地面に突き刺さる。それを見て、カギルはいよいよ混乱した。大した策もなく駆け出すと重い剣を振り上げる。シクロはさらりとそれをかわした。
速い――、思った瞬間、カギルは泣きそうになる。
重さを増した愛刀というハンデはあるにしろ、シクロのスピードは風と炎の加護、聖〝天輪〟で身体能力を向上しているカギルを凌駕していた。
そんな心境をかき消すように声を上げると、カギルは愛刀を横向きに薙いだ――白刀が軽くする能力なら、受け止めることは出来ないはずっ!!
白飴を受けの姿勢に持ち、横薙ぎのアテナイの剣先を待つシクロに嘲りの表情が浮かぶ。カギルの一撃が届くより速く、シクロは右に持つ黒飴でカギルの胴当てに一撃入れてみせたあとで、左の白飴を振るった。
胴当てへの鈍い一撃に呻くカギルは、その後のニ撃目ですぐ後方へ吹き飛ばされた。
壁に激しく背中をぶつけると、カギルはヨロヨロと立ち上がる。胴当てに鈍い一撃と共に重力が加えられていた。
立ち上がるのに少し手間取ったカギルだったが、しかしその時には冷静さが取り戻されていた。
「……ふぅ。こんなんじゃ、またアテナイにしかられちゃうな」
小さく呼吸すると、重くなった胴当て、そしてそれ以外の全ての防具を脱いでいく。
やがて、パッと見にも頼りない帷子だけの姿となった。甲虫の内壁より採れる特殊な繊維を鱗状に編み込むことから名づけられた騎士の基本装備――鱗。
ぴたりと身体に貼り付くそれ一枚だけとなった姿で、カギルはシクロを見据えた。
「アタシ、そーいう趣味はないんですけどぉ」
身体の線も露わとなったカギルに向けて、シクロが口を尖らせた。
しかし、カギルは見据えたまま何も答えない。呼吸を整えること、その一点にのみ集中する。
そして、呼吸を整え終えるや否や、カギルは地を蹴った。
無駄と言わんばかりの潮笑を浮かべたままで、シクロは両の剣を構える。
右で持つ黒飴を振るった瞬間、シクロはカギルの姿を見失った。
「あんたは最初からアテナイを重くすることなんて出来なかった。あんたは対象物の触れる『空気』を重くしたり、軽くしてただけだ。……魔法はもう解けた」
その声はシクロの背後から発せられる。
〝天輪〟の二倍がけ。全身が悲鳴を上げたが、カギルは構わなかった。優先すべきは勝利すること。自分の敗北は即ち、南方騎士団の敗北である。
金切り声にも似た怒声を上げたシクロが振り返った瞬間、白いワンピースが血に染まった。
「あれぇ? ……気持ちーかも」
呟いたあとで、シクロは糸の切れた人形のように崩れ落ちた。
6
窓ガラスが粉々に砕け、まだ小さかったロムルスの顔を破片が切りつけた。
そして、ロムルスはそのまま動けなくなった。
ロムルスはレムルスを放り投げてはいなかった。しかし、トカゲもロムルスの首へと牙を立ててもいない。
ロムルスは唖然としたまま息を飲む。そして再びレムルスをぎゅっと両腕で抱きしめると、恐る恐る後ろを振り返った。
もんどりを打つようにして倒れるトカゲの化け物を、ガラスを突き破って現れた一人の青年が見下ろしていた。
青年は柔らかな優しい瞳をしていた。その横顔にはまだ少年のあどけなさを残してはいたが、その瞳には確実に怒りの色が灯っている。
剣先を青年が直すと、身にまとった青色のマントが翻った。
「青の騎士……」ロムルスは呟いた。
青の騎士が構えた眼前でトカゲの化け物は立ち上がったが、初撃であの恐ろしく鋭利だった牙はそのほとんどが折られていた。
威嚇するようにトカゲは甲高い悲鳴にも似た声で吼えたが、青の騎士が動じることはなかった。
青の騎士の視線に射られ一瞬トカゲは後ずさりしたが、その後すぐ地を蹴って飛び上がる。
呼応するように青の騎士の剣を持つ手が素早く動くと、断末魔の叫び声を短く上げた時にはトカゲは上半身と下半身とで真二つに割かれ、既に地面に転がっていた。
割かれたトカゲの上半身の切り口から、引き潰された人の腕が転がり落ちる。
「見るなっ!」青の騎士が声を発しながら双子の元へと駆け寄った。
「怪我は、ないか?」
彼の優しげな声音に、ロムルスから完全に緊張の糸が切れる。
「弟が病気……発作、死んじゃう……助けて……」
ロムルスは頭の中に浮かんだ言葉をただ、口にしていた。
青の騎士はロムルスが両腕に抱く、レムルスを見て「これは……」呟いたあとで、意を決したようにまとっていたマントを脱いだ。そして、身体を温めるように、レムルスの身体をそれで包んだ。
「彼は危険な状態だ。一刻の猶予もない、ここを連れ出すぞ。良いか、決して下を見ず、振り返もせず俺に付いて来るんだ」
彼は静かに、しかし厳しくロムルスに告げた。
ロムルスは小さく頷くと、力の入らない両足で立ち上がる。
ロムルスは泣き出しそうだった。歩き始めたその傍らには、父と母の死体が倒れている。それでもロムルスは彼に言われた通り、決して下を見ず、振り返る事もせず、歩みを進めた。眼前にある唯一人、頼れる騎士の大きな背中から目を逸らす事なく……。
被害状況の把握と被害者のケアを最優先に当たるように騎士達に指示すると、マントにくるまれたレムを抱え、ロムルスをその後ろにしがみ付かせたままで、青の騎士は愛馬の手綱を握った。
白く美しい鬣の駿馬は風を切って、一目散にパラス・アズロの中心地を目指して駆ける。
間もなくして辿り着いたのは、歴史を感じさせるバルディック調の大きな豪邸だった。
正門に備えられた呼び鈴を鳴らし、声を張り上げた青の騎士は館の主を呼んでくれるよう頼んだ。するとそれから一分も経たないうちに館から一人の男が姿を現す。
部屋着と呼ぶには上等な生地の上下に、黒い薄手のコートを羽おったその小柄な男は、睨み付けるようにして青の騎士を見上げた。
手短に事情を説明した青の騎士から視線を外すと、その男、黒の騎士サリー・サレスはまるで興味もないような無表情で、苦しげに荒い呼吸を続けるレムルスを見た。
パオロ・ウーデルカと共にパラス・アズロにその生き甲斐を捧げたアウレリアの名門一族の出自たる曽祖父を持つサレス家は、名実ともにパラス・アズロにおいて有力な名家であった。
サレス家は本宅たる立派すぎる豪邸以外にも、パラス内にいくつもの土地や建物を所有していた。
青の騎士の頼みを聞いた後、小さく溜め息をついたサリー・サレスではあったが、声を掛ける必要もなく館の使用人が馬を引いて来たのを見るに、どういう頼みであれ、最初から助力してくれるつりだったらしい。
黒色の馬に乗ったサリー・サレスが「お前はこっちだ」と、ロムルスに自分の跨る馬の後ろに乗るよう命令した。ロムルスが後ろにまたがるや否や「しっかりつかまってな」そう言い終える間も与えず、馬は駆け出す。青の騎士の跨る白馬も後に続いた。
走り出して五分と経たないうちに二頭の馬は目的地へと辿り着く。それはパラス・アズロの中心地、パオロ広場から程近くにそびえ立つ巨大な時計塔だった。
馬から降りたサリー・サレスが激しくドアを叩くと、少しの間を置いて、綺麗に整えられた口ひげが印象的な白髪頭の老人が顔を出す。
恐る恐る出した顔の二つの眼を瞬かせた後で、その老人は驚いた様な声を上げた。
「……坊ちゃん、こんな時間に何事です?」
「坊ちゃんはやめろ」
小声で呟いた後でサリー・サレスが話す。
「ペノッテ、急患だ。看てくれ」
ペノッテと呼ばれた老人は、マントにくるまれて荒い呼吸を続けるレムを見て、あきらかに狼狽した。しかし、次の瞬間にはその双眸に力強い光が灯る。
「三階へ運んで下さい」
そう告げると、老人はそのまま三階へと通じる階段を驚く程の速さで駆け上がっていった。
薄暗い時計塔の中へと歩み入って階段を昇り、ロムルス達が三階へと辿り付いた時には、既に老人は作業に追われていた。
「ペノッテは元々サレス家の主治医でな。妻に先立たれたのと、高齢を理由に引退した後は、うちで所有してるこの時計塔の整備をしながらここで暮らしている。引退したとはいえ腕は確かだから心配するな」
サリーが話し終える頃には、老人は少し甘い匂いのするどろりとした薬液の調合を終えていた。それをゆっくりとレムの口へと流し込むと、荒い呼吸はやがて治まり、頬にもうっすらと赤みが差し込む。
安堵の溜め息を一つ吐いた後で、老人はレムルスを抱き抱え、ベッドに運んだ。
「もう大丈夫です。どれ、私達も一息つきますか」
にっこりと微笑んだ老人は、ゆったりとした足どりで隣の部屋へと消えていく。
レムルスが横になるベッドのあるその部屋は、パラス・アズロと供に歴史を刻んだ時計塔の内部とは思えぬ程に手入れが行き届いていた。それをロムルスが尋ねると、ペノッテは一階で暮らしており、ニ階や三階は使われることもないが毎日きれいに掃除している、とサリーは話した。
紅茶の入った四人分のティーカップがテーブルに並ぶ。青の騎士が申し訳なさそうに口を開く。
「サリーさん。申し訳ないんですが、しばらくの間……」
青の騎士の発言を無視するように、サリーはペノッテへと話しかけた。
「そう言えば、ペノッテ。お前も年だし、そろそろ住み込みの助手が必要じゃないか?」
老人はロムルスの顔を見て、再びニッコリと微笑んだ。
「坊ちゃん、そいつは良い考えですな」
「坊ちゃんはやめろと……」
サリーがブツブツ言うのを尻目に、青の騎士は優しげな眼差しでロムルスへと右手を差し出した。
「俺はリンド。リンド・ヘイワースだ。君は良くがんばった。……もう泣いても大丈夫だぞ」
彼の差し出した右手をすがるように両手で握ると、ロムルスは止め処なく溢れ出した涙を隠す事もできずに泣きじゃくった――。
――混沌と混乱の中で、白昼夢をロムルスは駆けた。
ぐんぐんと白塗りの街路を抜けたロムルスの耳に、風が人の声を届けた。それが現実なのかどうかもわからないまま、おぼろげな世界を駆けるロムルスはまるで雲の上でも走っているような気すらしていた。
もう一度声が聞こえた。あまりに遠く聞き取ることは出来ない。だが、瞬間的にロムルスは我に返った。
パラス・アズロ内の住民は皆、建物の中にこもっているはずだった。しかし声は建物の外から発せられているように聞こえる。スピードを緩める事なく駆けるロムルスは、その声が「ロムっ! ロムっ!」と叫んでいることに気づいた。それは、紛れもなくレムルスの声だった。
――レムっ! レムっ! レムっ! レムっ!
ロムルスは頭の中で繰り返す。そして夢中で駆けた。
時計塔まであと二つ分の建物の路地に差し掛かった時、ふいにペノッテの声が聞こえた。
「ダメだ、レム! すぐに時計塔に引き返すんだ!!」
一瞬の沈黙のあと、絶叫にも似た女性の悲鳴が聞こえた。
ロムルスが広い通りへと出た時、時計塔の前でブランケットを被ったレムと一人の老婦人が倒れていた。
レムを抱き起こそうとするペノッテへとロムルスは駆け寄る。
「おじいさん、おじいさん、何があったんですか! レムは、レムは大丈夫なんですか⁉」
びくりと背筋を震わせ、ロムルスの顔を見上げたペノッテは明らかに動揺していた。弁解するように「違うんだ、ロム」と何度も繰り返す。そのあとで、言葉を整理するようにぽつりぽつりとペノッテが話し始めようとした矢先、ロムルスの後を駆けて来た三班の残り四名が遅れて通りへと姿を現す。
その瞬間、ペノッテの顔が青冷めた。狼狽するように口を震わせながら、すがるようにロムルスの顔を見つめる。そして、戸惑いの声をロムルスが上げるより先に、早口でまくし立てた。それはまるで怒っているようだった。
「レムは気を失っているだけだ。早くわしの部屋に連れて行きなさい」
ただ頷くしか出来ないロムルスを残し、ペノッテは老婦人の方へと小走りで駆ける。ロムルスはレムルスを抱き上げると時計塔の中へと向かった。
目を閉じたまま小さく規則正しく呼吸するレムルスは気を失っているというより、眠っているようだった。
時計塔に入ってすぐ右の、ペノッテの部屋のベッドの上にそっとレムルスを寝かせる。
桶に汲んである水にタオルを浸し、固く絞るとロムルスはそれでレムの額に浮かぶ汗を拭った。
レムルスの呼吸は相変わらず寝息をたてているように規則正しかった。安心したロムルスが再びタオルを絞ろうとそのそばを離れようとした時、顔を上気させたペノッテが時計塔への中へとやって来た。
よほど急いでいたのか、息を切らしながらペノッテは説明を始める。その顔にはいつもの柔和な笑顔が取り戻されていた。
「あのご婦人もすぐに意識を取り戻したよ。レムもこの分なら問題ないよ。少し休めば目を覚ますだろう」
ロムルスもそれは分かってはいた。しかし、先刻のペノッテの取り乱しように不安を拭えずにいる。
ペノッテはそれを察したのか、わざとらしい程の笑顔を浮かべた。
「あの閃光はロムも見ただろう? あれは時計塔の先端をわずかにだが、かすめたんだよ。家から出るなと言われておったが、わしは心配でな。塔の裏側を見に行ったんだ。幸いに被害はほとんどなくて、安堵していた時、階段を転がり落ちる音が聞こえたんだ。わしが驚いて塔の正面に向かうと、丁度レムが時計塔から出て来るところだった。余程、混乱しとったのだろう。ロムの名前を何度も何度も呼んどったよ。その後、ワシが駆け付けるのと同時にレムは気を失ってしまったんだ」
ペノッテはすやすやと眠るレムの顔を少しだけ見つめる。
「倒れたレムがショックによる一過性の気絶だとわしにはすぐに分かったから、それ程に慌てはせんかったんだが、そこに運悪くわしと同じように被害現場を見に来た裏街のニコラばあさんが通りかかってな。倒れたレムを見たばあさんはレムが死んでるのだと思って、そのまま気を失ってしまったんだよ。でも、ちゃんとわしから説明しておいたから大丈夫だよ。ばあさんの見た子はちゃんと生きてる、ってな」
わざらしくウインクして見せたペノッテにロムルスは吹き出しそうになる。
掛かりつけの医師に問題ないと言われ安心してレムルスを見つめていると、「後はわしが看ておくよ」とペノッテが言った。
その言葉に甘えるように、ロムルスは再び救護班の待機するパオロ広場へと向かった。
7
飛空船艦ガンダルノヴァの最上階へと至る階段を駆け昇り、ドアを開いたその先で、ひょろりとして背の高い、陰鬱な表情の男がリンド・ヘイワースを出迎えた。
「その扉から来たって事はロウマを倒したか? ……まあ砂クラゲに神経を支配されて本来の六割の力も出せない今のアイツでは、時間稼ぎにもならぬわな」
散乱とした操舵室のテーブルの上にあぐらをかいて話すその男は、立たせた黒髪と両耳に飾り付けた色とりどりのピアスを合わせても地味な印象を払拭できそうにもない。
オーラの片鱗も感じさせないその男だったが、ゆっくりと立ち上がり彼の背程もある漆黒の長刀を抜いた時、明らかにその場の空気が変わった。
ピリピリと突き刺さるような剣気を受け止めるように、リンドも剣帝ネィル・フー・トゥーンを構える。
間違いない――、そうリンドが確信を持つのと同じくして男は名乗った。
「我は剣王ル・シウス。お前の名は?」
リンドはル・シウスの問い掛けに応じる様に名乗りを上げる。
「東方守護騎士団長、リンド・ヘイワース――参る」
名乗り終えるやリンドは地を蹴った。
駆けて来たリンドを、ル・シウスは歪な笑みを浮かべたままで迎え撃つ。
木の枝でも振るように軽々と漆黒の長刀を振るうル・シウスと剣帝ネィル・フー・トゥーンを携えるリンドは瞬く間に交錯する。散らした火花と斬激音を置き去りにして、二人は距離を置いて離れた。どちらも手傷は負っていない。
息を整えながらル・シウスの長刀を見据えるリンドの愛剣には、青白い光が灯っていた。それは始水〝断ち切る刃〟の青き光。生半可な作りなら剣でも鎧ですらも断ち切る光刃に、刃こぼれ一つしていないル・シウスの漆黒の長刀にリンドの警戒心が強まる。長刀の束の部分には、鈍く光る銀色の宝石がはめ込まれていた。
アウレリアの宝具たる剣なら、断ち切ることが不可能だということくらいリンドも何となく解かっていた。
だが、それ以上に長刀にはめ込まれた妖しく光る銀色の宝石にこそ、ル・シウスの剣技の真骨頂があることにリンドは気付いている。あれがロウマの剣にはめ込まれた宝石と同じ類の物であれば、何か秘められた力を隠しているはずだ、と。
一人警戒心を強めるリンドの眼前で、ル・シウスは変わらず歪な笑みを浮かべていた。
戦争においてこそ、王として完全な勝利の為には策を労することもいとわない彼だったが、元来はシンプルな思考の持ち主であった。一対一の真剣勝負と言うことならば尚さらに、下手な策を労ずるつもりなど毛頭ない。
それは名乗りを上げ向かって来た者ならば切り伏せて先に進む、それこそが王の道だという彼の美学ゆえである。だからこそ、ル・シウスは構えた。
軽々と片手で振るった長刀を、ル・シウスは両手でしっかりと握る。
ル・シウスの秘めた力をあれこれと推理するように一人心理戦ともいうべき警戒心の中にいたリンドの眼前で、ル・シウスはその秘めた力を明かして見せた。
両手持ちの長刀を力いっぱい薙ぎ払う。長い両上肢を活かしての長刀の一振りはリンドの思いの他に伸びた。距離を置いて離れていたリンドだったが、ル・シウスの横薙ぎに反応して更に後方へと飛んだ。
だが、完璧にかわしたと思った次の瞬間、リンドの青色の胸当てには深々と傷が刻まれる。のけぞり、膝を付きそうになるリンドは何とか踏み止まった。斬撃は鎧を砕きはしたものの、リンドの身体にまでは至っていなかった。
リンドが真っ直ぐに見据えた先で、不敵に笑うル・シウスの持つ漆黒の長刀は剣帝ネィル・フー・トゥーンの〝断ち切る刃〟の如く、ぼんやりとした黒い影を刀身に宿らせていた。ル・シウスが長刀を振るう度に、その影は伸縮する。
「『銀王石』備えの長刀グランドットより放たれる影技、〝グラディウス〟の前に散るが良い。パラス・アズロの騎士よ」
再び〝グラディウス〟の構えに移行するル・シウス。
しかし次の瞬間、その眼前へと四本のナイフが迫った。
リンドが入室したのとは別の、操舵室の扉が開いていた。
扉を開けざま放たれたナイフ。それをあっさりと弾いて見せたル・シウスに、飛ぶように駆けて来たサリーが魔剣ハーデスの一突きを放つ――。
ル・シウスに弾かれた四本のナイフは刀身に砂をまとっていた。空中で人の手を形作った砂は、ナイフの束を握るとル・シウス目掛けて再び投射された。
宙で向きを変えたあと、跳弾の如く再び襲い来る四本のナイフを弾いたル・シウスだったが、そのせいでサリーに対する迎撃体勢、その初動が明らかに遅れた。
一瞬の隙を見逃すことも躊躇することもなく、魔剣ハーデスを突き伸ばしたサリーの一撃は確実にル・シウスの額を捉えていた。
――しかし、それがル・シウスへと届くことはなかった。
すんでのところで追いついたル・シウスの長刀が、魔剣ハーデスごとサリーを弾き飛ばした。小太刀程の魔剣ハーデスの刀身がもう少し長ければ、あるいは勝負は決していたかもしれない。
弾かれ、方膝をついたサリーだったが、動じる素振りも見せないままに次の行動へと切り替える。その判断は早かった。不意打ちに失敗するや、ル・シウスの視界より離脱。体勢を整える為に、柱の影へと飛び込んだ。
だが、それこそがサリーの失敗だった。
「王たる者に不意打ちが通じると思ったか? 愚か者め!!」
一喝するように叫ぶや、ル・シウスはサリーが身を隠す柱へと長刀を突き刺す。その瞬間、柱の影から伸び出た黒い影の刃がサリーの右膝に突き刺さった。
サリーは悲鳴を上げることもなくその場にうずくまる。
柱から長刀の刀身を抜いたル・シウスは、戦闘不能となったサリーに止めを刺そうとはせずに、踵を返した。
サリーに止めを刺す為にル・シウスが動き出したなら、ル・シウス目指し駆け出すつもりだったリンドは安堵の息を漏らすと、少しだけ刀身を下げた。
それを見て、ル・シウスはゆっくりと首をふった。
「お前達がどう足掻こうが結果は変らん。こうなってしまった以上、我一人でお前たちを皆殺しにしなければならないという意味では、面倒が増えただけのことだ」
冷め冷めと話しながらル・シウスはガラス張りの操舵室から空を見上げた。
つられるように、リンドもまた、ル・シウスの視線の先を見上げる。そして、その瞬間に言葉をなくした。穏やかな午後の陽がゆっくりと傾き始めていた。
「これは王たる者の戦争だ。故に、寝込みを襲うようなマネをするつもりはなかった。だがな、我が影技の真髄は夜にこそあるのだ」
影を操るル・シウスの技に限りがないならば、無限の影を生み出す夜を迎えさせる訳にはいかない――途端に、我一人で皆殺しと告げたル・シウスの言葉に現実味がおびた。
恐怖を払拭するようにリンドは吼え、そして駆け出していた。
そのリンドに対し、哀れんだ表情のル・シウスが長刀を振るう。
槍以上の長さを持って伸びた影を、防いだリンドの身体がふらついた。
圧倒的な力の差を見せ付けられ、よろよろとリンドは後ずさりする。そんな自分に気付くと、渇を入れるように気勢を上げた。愛剣を右上段に構え、万策尽きた者がやけを起こしたように叫びながらル・シウス目指して再び駆け出す。
駆けて三歩目、足先の力が抜けるようにリンドはつまずくと大きく体勢を崩した。
ル・シウスがそれを見過ごす訳がなかった。王たる者として、慈悲の言葉を告げると、首を切断する為に全力を持って長刀を振るう。
「さらばだ、哀れなる騎士よ――」
風を切って、今までで最大、最長の影がリンドの首を落とす為に伸びた。
リンドはいまだ、叫んでいた。
しかし、それは断末魔の叫びではなかった。感情とは裏腹に、おそろしく理性は冷徹だった。
敢えてふらつき、体勢を崩してみせるや否や、すかさず対ショックの姿勢を整える。
全てを刈り取らんばかりの、ル・シウス最大の一撃を受け止める為だけに、両腕に全力を込めた瞬間、ネィル・フー・トゥーンの刀身を削るようにして、伸びた影の剣先が操舵室の壁を切り裂いた。
リンドは駆ける。
伸びきったあとで縮み、戻る影に追い抜かれるよりも速く。
最後の一撃の為の余力、それ以外は全て使い切るつもりのリンドは、全力で駆ける。
一転して苦い表情を浮かべたのはル・シウス。
影が戻り切るのを待ちきれずに、再び長刀を薙いだ。
それに合わせるようにリンドが飛ぶと、長刀の剣先がブーツのつま先を切り裂く。それでもリンドの精神は微動だにして、揺らぐことはない。
最後に残った力をネィル・フー・トゥーンに乗せると、リンドは右上段から一気に振り下ろした。
左の肩口から袈裟切りに切りつけられて後、ル・シウスは言葉を発する間もなく、その場にどうと倒れた。




