悪名
本作は史実を基にしたフィクションです。実際の歴史とは異なる描写があります。
鉄砲衆の寝返りが引き金だった。
「岡国高様! 討ち死に!」
「大手門より、敵方乱入!」
「三ノ丸から火の手が!」
矢継ぎ早に、伝令が戦況を報せに駆けつけて来る。
逃げ惑う者。力尽き倒れる者。遮二無二に攻めかかる者。
混乱が混乱を呼び、味方は総崩れとなっていた。
城名人と云われた彼の築いたこの信貴山城は、四万にも及ぶ寄せ手にもビクともしなかった。
だが、城の内側から上がった火の手に、兵たちは動揺し、もはや戦さの程をなしているとは云い難い。
「……これでよろしいのですか、父上?」
天守閣の窓から外の様子を見ていた嫡男の久通が振り返る。
彼は瀟洒な螺鈿細工の煙管をゆったりと吹かしながら、頷いた。
「……頃合いか」
修羅の道を歩んで来た漢の貌には、幾多の年輪が深く刻み込まれていた。
だが、その双眸は、侍を志した頃から変わらず澄んだままだ。
彼はこの戦況にもかかわらず、かすかな笑みを浮かべてさえいた。
無論、乱心した訳ではない。
傍らに控えていた重臣の一人、本多正行が天守閣の梯子へと向かった。
「火消しを命じて参ります」
「……正行、其方はそのまま、落ち延びよ」
主君の思いがけない言葉に、正行は足を止め、わずかに眼を見開いた。
「其方には帰るべき場所があろう。……良いな」
彼の言葉の重さに、正行は無言のまま面を伏せると、その場を後にした。
入れ替わりに、近習が梯子を急ぎ登りながら、彼に報告に来た。
「殿! 織田方の使者が参っております!」
彼は大和国の一田舎大名に過ぎない。少なくとも、彼は自分自身をそれ以上ともそれ以下とも思ったことはない。
歳は当年とって六十八歳。
すでに老境である。
だがこの国で、彼の名を知らぬ者はいなかった。
彼の名を、松永弾正久秀と云う。
彼は後世、斎藤道三、宇喜多直家と並ぶ『本邦三大梟雄』として、その名を轟かせる事になる。
無論、今の彼はまだその事を知らない。だが、すでに彼と道三の『悪名』は世に知れ渡っている。それは彼の耳にも届いていたが、相手にしなかった。
道三の事はよく知っていた。
彼とは同郷で、気のおけない朋友であった。
二人は同じ油売りの商人同士でもあったことから、会えば必ず酒を酌み交わし、談笑する仲だった。
ある日、いつものように酒を呑んでいる時、道三が彼に訊ねた事がある。
「……時に、お前はこの国をどう思う?」
初めは、ただの酔っ払いの戯れ言かと思った。しかし、ふと道三の貌を見ると真剣な眼つきで自分を睨みつけている。
後年、『蝮』と呼ばれるようになる、あの鋭い眼差しだ。
どちらかと云えば、気の弱かった当時の久秀は、ただ、その眼に怯えた。
「……ワシには、判らんよ……。だいいち、一介の商人が考えるコトじゃねぇ」
若かった久秀には、それが精一杯の応えだった。
「ふん、侍どもを見てみろ! 全くロクでもない戦さに明け暮れておる! そして、死ぬのは、いつでも足軽、百姓ばかりじゃねぇか!」
久秀は、空になった古茶碗を、手持ち無沙汰に両手で弄びながら嘆め息を洩らした。
「それが、世の中ってもんだ」
道三は不意に立ち上がり、拳を突きあげて、吼えた。
「決めた! ワシは侍になる! そして、いつの日か、きっとこの世から戦さを無くしてみせる!」
久秀は、苦笑いを浮かべて呟いた。
「無理を云う。……そもそも、どうやって侍になる?」
道三はそれには応えず、ニヤリと笑い、 安茶碗に酒を注ぐと、久秀に云った。
「どうだ、お前も。一緒に侍にならんか?」
朋友の誘いに、久秀はただ、曖昧な笑いを浮かべるだけであった。
実際、道三のそれからの奮闘ぶりは、眼を見張るものがあった。
苦労して侍になった。民や百姓たちを思いやり、意に沿わぬ戦さまでした。そしてついに、一代にして美濃国の大名になったあかつきには、善政を施し、あの日語った夢の第一歩を歩き始めたのである。
口さがない者たちは彼の事を『成り上がり者』と蔑み、彼との戦さに敗れた者たちは腹いせに『美濃の蝮』と異名し嘲笑った。
だが、久秀だけは違った。彼は道三の真の目的を知っていたし、何よりその人となりを知っている。
噂は所詮、噂。放っておくが良い。そう、彼は思っていた。
そんなある日、出入りの商人たちが口々に道三の噂をしているのを、久秀は偶然、耳にした。
「……美濃の蝮が……」
「あの道三が……」
商人たちの只ならぬ雰囲気に、何か不吉な予感がした久秀は、彼らに訊ねた。
「斎藤道三が如何した?」
ふいに問われ、彼らは互いの貌を見合わせたが、一人が口を開いた。
「はい。それが何でも討ち死にしたとか……」
「なに? それはまことか!」
弘治元年四月十日。
家督を譲った嫡男の義龍と対立した道三は、長良川の合戦においてその最期を遂げたとのことだった。
久秀はあまりのことに言葉を失った。
志半ばで斃れた道三の無念は如何ばかりか。
久秀はその心中を想い、人知れず泣いた。
己の信念を貫こうとした道三の生き様は、生涯、久秀の胸に刻み込まれることとなる。
そして、朋友の想いは、久秀をも突き動かした。久秀もまた、ある大願を抱いて、侍になっていた。
初めて仕えた主君は、畿内から阿波国までを治めていた大名、三好長慶であった。彼は必ずしも名君とは云えなかった。むしろ野心に満ちた典型的な戦国大名だった。
「四国もいずれ我が手中に収める。皆の者、存分に働いてもらうぞ」
だが、長慶は畿内の安定にも腐心していた。
久秀はそこに一縷の希望を繋いだ。
諸事に長けた久秀は長慶に寵愛され、見る間に出世していく。久秀の有能さ故のことだが、長慶の右筆から始めた彼は、やがては家宰にまでなっていた。
そして、長慶の娘を正室に迎えると、もはや三好家中で彼の右に出る者はいなかった。
武将として、気の進まぬ戦さもした。
久秀は勝ち続けた。
「よもや、ワシごときに武の才が有ろうとは……」
彼は喜べなかった。
むしろ、哀しかった。
「戦さの無い世の中を作る為に、何故、罪の無い人々を殺さねばならんのか……」
だが、その応えは誰も教えてはくれなかった。
もしかしたら、道三も同じ想いだったのではあるまいか。ふと、そう考えた。
永禄七年、長慶が死去すると、久秀に近づいて来た三人の重臣がいた。三好長逸、政康、そして岩成友通。
所謂『三好三人衆』である。
彼らは、久秀にこう囁いた。
「今のご主君、すなわち長慶様の甥御であらせられる義継様は、未だお若い。拙者らで家中を盛り立てて行こうではないか」
疑うことを知らなかった当時の久秀は、喜んで同意した。
義継は、君主として自ら政を行おうとしていた。久秀も家宰として、補佐役に徹しようとした。
ところが、事あるごとに三好三人衆が家中に根回しをして、先手を打っていた。
「ご案じめされるな。万事、我らにお任せを」
それが彼らの決まり文句だった。
気が付けば、義継は蚊帳の外であった。
久秀はその有様を見て、内心、忸怩たるものを感じていた。
「あ奴らも、所詮は、下剋上を是とする者たちか」
三好三人衆にとって必要だったのは、『義継』と云う旗印と『久秀』と云う力だったのである。
久秀は、焦りを覚えた。
そうこうしている内に、領内に妙な噂が立ち始めた。
久秀が三好三人衆と謀って主君を誅殺し、その領地を簒奪したと云うのである。
これが久秀の『最初の悪名』であった。
「将軍を討つ」
ある日、長逸が久秀にこう耳打ちした。
「何だと!」
彼は耳を疑った。
「義輝を討つのだ」
「莫迦な! 一体、何の義がある!」
長逸はニヤリと笑い、久秀に告げた。
「無能だからよ」
永禄八年五月十九日。
久秀は三好三人衆と共に一万の軍勢を率いて、御所を取り囲んでいた。
世に云う『永禄の変』である。
(……何故、ワシは、ここに居る?)
多勢の足軽たちが足早に、しかし『敵方』に気づかれぬ様に駆け抜けて行く。
(何故、ワシは、将軍様を奸賊の手からお助けしようと思わない?)
軍様が整うまでの間、久秀は自問自答を繰り返していた。だが応えは出ず、闇雲に時間を浪費するばかりだった。
「殺るか」
長逸が云った。
気が付けば、すでに戦さ支度は整い、後は軍配を上げるだけとなっていた。
(ええい、こうなれば……一か八か)
久秀は、今まさに軍配を振るおうとする長逸に、努めて冷静さを保って云った。
「長逸、待て。ワシが往く」
「なに?」
長逸は驚いて、真意を問うように久秀を見た。
久秀は、わざと作り笑いを浮かべ、こう嘯いてみせた。
「たかが将軍ひとり。これだけの軍勢を繰り出すまでも無かろう。ワシが独りで往く」
しばしの沈黙の後、長逸は高笑いをした。
久秀の背を冷たい汗が伝った。
(やはり浅知恵が過ぎたか……?)
だが、そうではなかった。長逸は感じ入った様子で、久秀に話し掛けた。
「流石は名将! 豪胆ですな!」
久秀はそれには応えず、馬から降り、一言だけ云った。
「では、参る」
御所の中は静寂に満ちていた。すでに軍勢に取り囲まれていながら、殺気立った様子はない。
(やはり、長逸の言葉通りに愚鈍な男なのだろうか?)
しかし、義輝が将軍になって以来、少なくとも、畿内は平和が保たれている。
(有能な重臣でもいるのか?)
御所の中を歩きながら、久秀は独り考え続けた。だが、いつもの様に応えは出ない。
やがて、将軍の寝所に辿り着いた。久秀は、用心深く刀の鯉口を切ってから、襖をそろそろと開けた。
部屋には灯りがともっていた。そして漢がひとり、こちらに背を向けて、文机の前に座っていた。久秀は気付かれぬように、そっと漢に近づいた。
が、その刹那、漢が声を発した。
「余を殺しに来たか?」
久秀は、ひたと足を止めた。いや、漢の声の気迫に足が竦んでしまっていた。
「松永……久秀であろう」
久秀は息を呑み、漢の後ろ姿に向かって何とか応えた。
「……御意」
漢はゆっくりと振り返ると、久秀に向かってゾッとするような冷笑を浮かべた。そして、表情に似合わぬ、愉しげにすら聞こえる声で、こう語り掛けた。
「余が足利義輝じゃ。何故、殺さぬ?」
久秀は気が付けばその場に平伏していた。
「どうした、久秀?」
義輝の問い掛けに、久秀はやっとの思いで、本心を口にした。
「……で、出来ませぬ!」
義輝は、フッと笑い、久秀に云った。
「面を上げよ、久秀」
畏怖の念は変わらなかったが、久秀は思わずその言葉に従っていた。義輝は、先程とは打って変わって、穏やかな笑みを浮かべている。
「やはり其方は、余の見込んだ通りの漢であったな」
「は?」
義輝の語る意味が判らず、彼は不遜にも問い返してしまった。
「そう不思議な顔をするな、久秀。余は将軍ぞ。これでも人を見る目くらいはあるつもりじゃ」
(……見つけたぞ! このお方こそ、ワシが……いや、拙者が求めていたご主君に間違いない!)
久秀は、正直に思いのままを口にしようとした。
「お畏れながら申し上げます……」
「駄目じゃ」
「は?」
「駄目じゃと申しておる」
久秀は唖然としながら、訊ねた。
「某はまだ何も……」
その言葉もあっさり義輝に遮られた。
「大方、家臣にしてくれと云いたいのじゃろう?」
簡単に心中を云い当てられて、久秀はまたも平伏した。
「御意に御座います! 何卒、お側に……」
久秀の懇願に、義輝は微笑した。そして、赤児に云い含めるように、久秀を諭した。
「良いか、久秀。幕府はもう仕舞いなのじゃ。其方が余に仕えたところで、もうどうすることも出来ん。……そんなところに、其方のような優れた漢を置く訳にはいかんのじゃ。判るな? 久秀」
「判りませぬ!」
久秀は咄嗟に叫んでいた。しかし、義輝は不意に笑みを消すと、毅然として云い放った。
「聞き分けよ! 久秀!」
「は……!」
圧倒され、もはや反駁することなど出来なかった。だが内心では、忸怩たるものがある。
義輝は再び微笑した。
「それで良い、久秀。良いか、時を待つのじゃ」
「……時を、で御座いますか?」
「そうじゃ、時じゃ。其方の思い描く主は、いずれきっと現れる。それまで待つが良かろう」
久秀は、困惑げに義輝を見上げた。
「そのようなお方が現れますでしょうか?」
「其方は余が見込んだ漢ぞ。自信を持つのじゃ、久秀」
「勿体無きお言葉……。この久秀、必ずや……、日ノ本の安寧を求め、微力ながら精進致します……」
義輝は笑みを深めると、我が仔を慈しむように、久秀を見つめた。
「うむ、それで良い。おお、そうじゃ……」
そして、何かを思い出したように云った。
「尾張国に、大うつけのこわっぱが居ってのぉ。名を織田信長と云う。アレは中々出来る漢じゃ。憶えておくが良い」
「御意に……御座います!」
それから義輝は、朝餉の支度でも頼むように、久秀に云った。
「さて、余はこれから腹を切る。其方、介錯せよ」
久秀は驚愕し、叫んだ。
「な……! 何を仰せられます!」
しかし、義輝は悪戯っぽく笑った。
「なに、ほんの駄賃じゃ。其方も手ぶらでは帰れまい?」
こうして、久秀の『二つ目の悪名』、将軍殺しが天下に広まることになる。
年が改まった永禄九年。
久秀がついに、三好三人衆と手を切る時がやって来た。義輝の死後、彼らの擁立した将軍は、暗愚な男だった。無論、久秀は猛烈に抗議をしたが、それに腹を立てた三好三人衆は、あろうことか、将軍に久秀の討伐令を書かせたのである。
久秀は、あまりのことにもはや怒りすら感じなかった。
ただ、心の内で、所詮は傀儡か……と落胆したのみである。そして、そのまま居城である多聞山城へと帰ったのだった。
義輝の『時を待て』と云う言葉を信じて。
それから、二年余りの間、久秀は、三好三人衆と敵対したり、和睦したりを繰り返していた。
こちらは気に留めなくても、彼らの方が勝手に戦さを仕掛けてきては、勝ち名乗りをするのだから仕方がない。久秀は呆れながらも調子を合わせていたが、さすがの温厚な彼も、そろそろ限界になってきた。
そんな折、三好三人衆と筒井順慶が、戦さを仕掛けてきた。
「此度は何故だ?」
久秀は、報せに来た嫡男の久通に訊ねた。
「は。それが……あちらの云い分では、私が彼らと敵対したと……」
久秀はスッと眼を細めると、困惑顔の久通を見据えた。
「こちらから動いたのか?」
久通は驚いたように、慌てて頭を振った。
「滅相もありませぬ。日頃より父上から、侍たるもの義の無い戦さはするなと戒められております。こちらから仕掛ける理由が、一体何処にありましょうか」
久通の云い分を訊いて、久秀は表情を緩めた。
「うむ。もっともな話しだ。とんだ茶番もあったものだな」
久秀は苦笑いを浮かべた。
「とは云え、このままにしておく訳にもいくまい」
三好三人衆など、今や敵ですらない。討ち取るのは赤児の手を捻るより、造作もない。
久秀は口許を引き締め、思案した。
「問題は、筒井順慶か」
彼は侮れない。
久秀は未だ、あの織田信長との対面を果たしてすらいない。無意味な戦さで討ち死にする訳には行かなかった。
そこへ転機が訪れる。
久秀にとって思いがけない援軍が現れた。かつて仕えていた幼君、三好義継が加勢するとの書状を密かに送って来たのである。
噂では三好三人衆によって、事実上軟禁されていたとも訊く。
だが思えば、幼き頃から利発なところのある君主であった。おそらくは、三好三人衆の甘言に耳を貸すことなく、長じて英邁な武将となったに違いない。傀儡を望む彼らと反目するのは、自明だったのかもしれない。
(あのまま、お仕えすべきだったのだろうか?)
ふと久秀は思った。
「いや、殿ならば、きっとおひとりでもやっていける。ワシの存在などは無用に違いない」
そう呟き、彼は微笑した。
「お久しゅう御座います! 久秀殿!」
戦さ場の陣には不似合いな、明るく澄んだ声が響いた。三好義継が久秀の陣を訪ねて来たのである。
久秀は、その姿を見るなり、直ちに平伏した。
「は! 殿もご健勝で何より」
久秀の格式ばった言い回しに、十六歳の若き君主は苦笑を浮かべた。
「お止め下さい、久秀殿。私はもう貴方様の主君では無いのですから」
「いや、しかしそれでは……」
義継は、幼い頃からこの生真面目な漢が好きだった。家督を継いだばかりの義継を子供扱いしなかったのは、久秀だけだった。
だからこそ、彼が三好宗家と袂を分かった時は、取り残されたような気がしたものだが、今となればその決断の意味も理解できる。
「さぁ、お立ち下さい、久秀殿!」
なおも平伏し続ける久秀の腕を取り、義継は彼を立ち上がらせようとした。
「も、勿体無い!」
恐縮する久秀を、強引に立ち上がらせた義継は、今度は改まって深々と頭を垂れた。
「三好義継! 松永久秀殿に助太刀致したく、只今、着陣致しました!」
「と、殿……」
義継が貌を上げると、久秀はじっと彼を見つめたまま、眼に涙を浮べていた。
「どうなされたのです、久秀殿?」
理由が判らず、義継が困惑して問い掛けると、久秀はやっとの事で呟いた。
「殿、ご立派になられて……!」
久秀は感涙していたのである。
「久秀殿……」
記憶にあるのと変わらぬ久秀の実直な人柄に、義継の澄んだ瞳も、いつしか潤み始めていた。
戦さ場の陣で、かつての主従は心から再会を喜び合った。
「……殿」
やがて、久秀は涙を拭うと、おもむろに口を開いた。
「はい」
義継の真っ直ぐな視線が、久秀には眩しい。
「その……、久秀、殿……と云うのは……、お止め頂けませんか?」
「良いですよ」
「まことに御座いますか?」
「えぇ。その代わり、私の事も義継と呼び捨て下さい」
さも当然とばかりに、義継は云った。
久秀は、虚を突かれたように沈黙し、すぐに笑い出した。
義継は、また困惑した。
「今度は、どうされたのです? 久秀殿!」
「いえ……、何でも御座いません、殿。あ、いや……、義継殿」
僅かな間の後、義継もようやく久秀が笑っている理由に気付き、つられるように笑い出した。屈託のない晴れやかな笑顔だった。
久秀はまた、得難き朋友を得る。
三好義継と云う『三好家最期の当主』を。
「何事か?」
その晩、天幕で休んでいた久秀は、伝令役の足軽に寝入り端を起こされた。
ここしばらくは戦さも膠着状態が続き、大規模な合戦は起きていなかった。
ただ、三好三人衆が東大寺を狙っているとの情報を乱破から聞き及び、念の為、近くに陣を張っていたのだ。
そこへ、この変事だ。
天幕の外でも、異変に気付いた兵たちが騒ぎ始めている。
伝令は緊張した面持ちで告げた。
「大仏殿が、燃えておりまする」
余りの不遜な事態に、怯え震える伝令を宥めながら、久秀は訊ねた。
「三好たちの手勢の仕業か?」
「いえ、畏れながら……」
「では、自然火か?」
「いえ……、違いまする」
「それでは、誰の所業と申す?」
伝令は、跪きながら続けた。
「民、百姓たちの仕業に御座います!」
「何と! それは、まことか!」
久秀は、全く予想外の応えに、珍しく声を荒げた。
伝令は、主の剣幕に身をすくめた。久秀はすぐにその事に気付き、口調を和らげた。
「いや、済まぬ。許せ」
伝令は頭を垂れた。
「構わぬ。続けよ」
「……は! 切支丹共の所業に御座います!」
伝令がさらに言葉を続けようとしたその時、同じく報せを耳にしたらしい義継が駆け付けて来た。
「一大事に御座います! 久秀殿!」
「これは、義継殿。貴殿もお訊きになられたか 」
久秀は、険しい貌で応えた。
すでに天幕の外から見える空は、夜明けと見紛うばかりに朱く染まっている。
「急ぎ参りましょう! 久秀殿! 訊けば、大仏殿から火の手が上がっているとのこと。きっと一刻を争う事態に相違ありませぬ!」
義継は真剣な面持ちで云った。久秀は、この若武者の率直さを好ましく思った。
「はは。まこと義継殿には敵いませぬな」
久秀は素直に彼を褒めたつもりだったが、義継はそうは受け取らなかった。
「笑い事では御座いませぬ! 大仏殿が燃えているのですぞ! お早くお支度を!」
焦る様子を見せる義継に、久秀は諭すように云った。
「落ち着かれよ、義継殿。一軍の将たる者が、そう狼狽えるものではありませぬ」
義継はハッとして、己の短慮を恥じた。そして、久秀にすぐさま一礼をした。
「申し訳ござりませぬ、久秀殿。若輩者が出過ぎた真似を致しました。ここはお任せ致します」
義継が神妙な面持ちで視線を上げると、優しく眼を細めるいつもの久秀の貌がそこにあった。
「うむ。今はまだ、それで宜しいですぞ、義継殿」
しかし、事態は久秀の予想を遥かに上回っていた。
「……これは……」
久秀は茫然と呟いた。
せめて、これ以上、火が回る前に消し止められないかと、手勢を引き連れて大仏殿に駆け付けたところである。
だが、天を焦がす紅蓮の炎は、久秀たちを嘲笑うかのように鮮やかな火の粉を巻き上げ、今もその勢いは収まる気配すら見せない。
「火を着けた切支丹の数は?」
久秀の問い掛けに、すぐに歩み出たのは本多正行だった。
「は! 報せによれば、およそ百人余りとのこと」
久秀は深い嘆息を洩らした。
「直ちに捉えますか?」
「いや」
指示を仰ぐ正行に短く応え、久秀は首を横に振った。
「え? それでは、まさか……」
正行はまだ久秀に仕えて間もなかったが、主の考えを読むことに長けていた。
久秀もそんな彼を厚く遇していた。
しかし、そんな正行ですら、この時の久秀の心中を読み取ることは出来なかった。
久秀は覚悟をにじませる口調で、静かに云った。
「領民の咎は、領主の咎。ワシが全ての責めを負おう」
「しかし……それでは殿が……」
正行は承服出来かねるようだったが、久秀の意思は変わらない。
「構わぬ。切支丹の教えが、今の我が国には合わぬこと。それを知りながら、ワシは、民たちに伝えることを怠った……」
(そう……。切支丹の教えは今の世には、決してそぐわぬ)
久秀自身、かつてこの地を訪れた南蛮人宣教師フロイスなる者に、その教えを乞うたことがある。
しかし、その教えを訊けば訊くほど、久秀は矛盾を憶えずにはいられなかった。
燃え盛る大仏殿を見つめながら、久秀は憂慮した。
(あの教えはこれからも、更なる争いを生む……)
大仏殿は焼け落ちた。猛火は周囲の坊にまで及び、火が消えた後は惨憺たる有様だった。殊に仏頭の焼失は戦さで疲弊した民衆の心に衝撃をもたらし、世の更なる不安を煽る結果となった。
こうして、久秀の名は、東大寺大仏殿を焼いた仏罰をも畏れぬ者として、またも天下を揺るがせた。
これが『三つ目の悪名』となり、松永弾正久秀は『三悪』として歴史に名を残すことになる。
永禄十一年九月。
久秀は、独り座して時を待っていた。 そこは天下の往来、都大路の路上。
道往く人々は、何事かと口々に囁き、この奇行の漢を興味深げに見物している。
だが、久秀は意に介さなかった。
ひたすら瞑目し、努めて平常心を保ち、ピクリとも動かなかった。一刻ばかりも過ぎた頃、遠くで馬のいななく声が聴こえた。
久秀は刮目した。
『彼』が来たのだ。
一陣の風が過ぎり、遥か遠くに軍馬の行列が現れた。近づくにつれ、その行列の勇壮で華やかなる事が見てとれた。
しかし、久秀はその場を離れなかった。
行列は、ゆっくりと闊歩しながら、久秀の許に近づいて来る。やがて久秀は、その行列の先頭、異装の鎧に身を包む漢を見とめると、静かに平伏した。
漢も久秀に気付き、片手を挙げて、行列の歩みを停めた。
一人の武将が血相を変えて馬から降り、久秀の前に走り寄った。
「貴様! 何奴! お館様の馬前であるぞ! 無礼にも程があろう!」
久秀は平伏したまま、落ち着き払った声で応えた。
「委細、承知の上の所業にて、ご無礼の段、平にご容赦頂きたい」
「なに!」
漢が割って入った。
「構わぬ。サル、下がれ」
「お、お館様! し、しかし……」
「下がれと云うておる」
「は!」
サルと渾名された武将は渋々と、行列に戻った。
「さて」
漢は、平伏する久秀を、興味深げに馬上から見下ろし云った。
「上洛すると面白きモノが観られる。よもや、我が軍列を、ただのひとりで停めようとは」
「まことに恐悦至極に存じます」
「何奴だ?」
久秀は、畏れる風もなく言上を述べた。
「ははっ! 卒爾ながら、織田尾張守信長様とお見受け致します。某、大和国を預かりまする松永久秀と申す者」
信長は目を細めると、久秀を見た。
「ほう。お主が『三悪』で名高い松永弾正殿か」
「畏れ入ります」
「で、その松永殿が、ワシに如何なる用向きかな?」
久秀は、ゆっくりと馬上の信長を見上げて云った。
「は! 何卒、臣従の願いをお聞き届け頂きたく、罷りこしました次第」
信長は、しばしの沈黙の後、声を上げて笑い出した。
「ふはは! それを天下の往来で述べるために、我が行列を待っていたと云うのか?」
「如何にも」
久秀は再び、神妙に平伏した。
信長は、天を見上げて哄笑した。
「気に入ったぞ! 久秀! その豪胆なる傾舞奇振り見事である!」
「は!」
信長は、轡を返しながら云った。
「岐阜に来い! 久秀! そこで改めて、主従の誓いを交わそうぞ!」
久秀は平伏したまま、軍馬に道を譲り、その後を見送った。
久秀は吉日を選び、信長の居城である岐阜城へ赴いた。無論、信長に恭順の意を示す為である。
献上の品として、名物『九十九髪茄子』を持参した。これには、信長も大層喜び、さっそく、久秀のために茶の湯の席を設けた。
「……結構なお点前に御座いました」
久秀の差し戻した茶碗を手にした信長は、苦笑しながら呟いた。
「田舎者の不作法な茶だ。千宗易とも親しきお主に振る舞うには、まだまだだな」
「滅相も御座いませぬ。佳き一服で御座いました」
実際、久秀が見る限り、信長の立ち振る舞いには、非の打ち所がなかった。
茶には点てた者の人品が出るものである。
久秀は、忌憚のない言を述べたに過ぎない。
(これぞ天下を目指すお方の茶と云うもの)
久秀は心中で感服しながら、微笑んだ。
「名物『九十九髪茄子』、良き手土産であった」
「は! 折を見て、『平蜘蛛茶釜』も持参致しまする」
信長は頭を振った。
「いや、それには及ばん。あれはお主にこそ相応しき名器。ワシなどには過ぎたる品だ」
(何と、欲のない……)
久秀は、さらに感服した。
信長は居住まいを正し、久秀の方へ向き直った。
「さて。この場は、お主とワシの二人だけだ」
「は!」
久秀も、改めて信長を見た。
「ついては、腹蔵なく語り合おうではないか」
そう云って、信長は真顔になった。
器が違う。
恭順したばかりの輩と語り合おうなどと、軽々しく口に出せるものではない。
「久秀……いや、松永殿。よくぞ我が家中に参られた」
神妙な貌付きで信長は、久秀に頭を下げた。
驚いたのは久秀である。
「お館様、面をお挙げ下され。某ごときに頭を下げるなど……」
「いや、ワシは嬉しいのだ。あの松永弾正殿と、主従の契りを結べたのだからな」
信長は、屈託のない笑みを浮かべていた。
久秀は慌てて平伏した。
「勿体無きお言葉! なれど、それはお館様の買いかぶりに御座います」
信長は笑みを深めた。
「松永殿は、一つ忘れておられる」
「は?」
久秀は怪訝な表情で貌を上げた。
信長は、ずいと膝を詰めた。
「ワシは『美濃の蝮』斎藤道三の娘婿ぞ。そのワシが、松永殿の人となりを知らぬとでも思われるか?」
「お館様……」
「道三とは無二の友だと訊いた。これ程確かなことはあるまい」
久秀は返す言葉もなく、面を伏せた。
「それに……」
信長は、さらに久秀に詰め寄った。
「『三悪』など、根も葉もない噂であろう」
「それは……」
信長は、人の悪い笑みを浮かべた。
「やはりな。ワシは松永殿の器量を高く買っておる。その人物もな」
「畏れ多い事に御座います」
久秀は恐縮するばかりであった。
「ついては、松永殿。お主に一つ頼みがある」
「お館様が頼みなどと……。何なりとお命じ下さいませ」
信長はニヤリと笑った。
「ワシに謀叛を致せ」
「は?」
久秀は、何かの聞き間違いではないかと思った。
「ワシは天下布武の許に、この乱世を終わらせようと思っておる。だが、未だ道半ばだ」
信長はその貌から笑いを消すと、真剣な面持ちで云った。
「されど、義昭様を奉じ、ご上洛なされた今、お館様の威信は揺るぎないものかと」
久秀は存念のないところを述べたが、信長にとっては、ここからが肝要だった。
「天下を目指すには、甲斐の武田をはじめ、越前の朝倉、石山本願寺などまだまだ侮れぬ者たちも多い」
信長は、そこでしばし瞑目した。
「そこで策が要る」
「それが、某の謀叛と?」
久秀は慎重に問い返した。
「そうだ。敵方と内通し、ワシに叛旗を翻せ。そこをワシが叩く」
大胆極まりない奇策であった。一歩間違えれば、織田方が不利になる。
「出来ましょうや?」
「出来る。だが、これは松永殿だからこそ成し得る策だ。お主の機転なしでは、叶わぬ策だからな」
しばしの間、二人の間に沈黙が流れた。
久秀は、黙考した。
やがて久秀は、静かに口を開いた。
「判り申した。この久秀、智謀の限りを尽くし、お館様に謀叛致しましょうぞ」
「済まぬな、久秀」
久秀はようやく肩の力を抜き、僅かに笑みを浮かべた。
「されど、家臣に謀叛を企てよ、とは……。お館様もなかなか傾舞いておられる」
信長は愉しげに微笑した。
「尾張の『大うつけ』だからな、ワシは」
二人は、静かに笑い、互いに通じるものを感じたのだった。
元亀二年。
久秀の許に、一通の書状が送られて来た。
「何処からのものに御座いますか?」
嫡男の久通が訊ねた。久秀は、書状を無造作に久通に渡すと、嘆息を漏らした。
「……甲斐の武田信玄よ」
久通は、一読するなり顔色を変えた。
「これは、謀叛を促す書状では御座いませぬか!」
「武田が書状を送ったのは、ワシだけではあるまい」
久秀は腕を組み、思案した。
「恐らく……武田の裏には、義昭様がおられる」
久通は驚いて、書状から眼を上げた。
「将軍様が! 何故で御座います?」
「お館様が、将軍家の権威を蔑ろにしているとお考えなのであろう」
久秀は悠然と立ち上がると、部屋を横切って庭の先を眺めた。
「ワシはな、久通。この誘い、乗ってみようと思う」
「お館様に弓を引かれると……」
久通は呆然と、その背を眼で追った。
「武田はこの機に乗じて、上洛する腹づもりに違いない。それに畿内もまだ安定しておらん」
「……よもや、父上はここで、一気に膿を出し切ろうとお考えで?」
久通は慎重に言葉を選んだ。
ゆっくりと振り返った久秀は、満足げな笑みさえ浮かべていた。
「東の武田を抑えられれば、お館様は背後を気にせずに前へ進む事が出来る」
久秀は眼を閉じ、確かめるように続けた。
「それには……」
「それには?」
「ワシが、武田を誘き寄せる餌となる必要がある」
そして、翌年の五月。
久秀は、三好義継、三好三人衆らとともに信長に叛旗を翻した。
かねてから、信長に遺恨を抱いていた三好三人衆は、久秀の誘いに一も二もなく呼応した。だが義継は、久秀らしからぬ行動に、その真意を図りかねている様子だった。
共に河内高屋城を攻めた陣で、義継は思い切って久秀に訊ねた。
「久秀殿……。何故、お館様に謀叛をなされたのです?」
若者らしい率直な問い掛けに、久秀は言葉を詰まらせた。出来ることなら、義継には嘘で取り繕う事はしたくなかった。かと云って、これがかつて信長と交わした奇策である事を、ここで明かす訳にもいかない。
「それは……」
苦い顔で眉間に皺を寄せ、応えに窮する久秀を見て、義継は訊いてはならぬ事を口にしてしまったのだと直感し、すぐに言い添えた。
「申し訳ありませんでした、久秀殿。これ以上はお訊き致しますまい。恐らくは、私などには及びもつかないお考えがお有りなのですね」
義継の眼には、久秀に対する確かな信頼がある。
「義継殿……」
この聡明な武将に全てを打ち明けられたら、どんなに心強い味方となる事か。久秀は、心の中で義継に詫びた。
その選択が過ちだったのだと、この時の久秀には知る由もなかった。
七月になり、高屋城に織田方の援軍が到着すると、久秀と義継は速やかに陣を引いた。久秀にとって、これは時間稼ぎに過ぎず、無益な戦さをする意味がなかったからである。
九月に入って、ついに武田が動いた。
織田方の同盟である徳川領を蹂躙し、十二月、三方ヶ原で織田・徳川連合軍と激突した。
しかし、武田方二万六千に対し、織田・徳川方は一万一千。
開戦わずか一刻で、武田方の圧倒的勝利に終わった。
だが、武田はすぐに次の手を打とうとはしなかった。勝ちに乗じて進軍することも無く、そのまま年を越し、一月になってから、手勢わずか四百の城、野田城を攻めたのである。
武田の陣営で何かが起きている。
久秀は疑念を抱いた。そして直ちに、正行に命じて乱破を放った。
乱破の持ち帰った報せは、それを確信に替えるものだった。
「なに? 陣中に信玄の姿が見えんと?」
「は! 重臣たちの前にも姿を見せぬ様子と」
久秀は直感した。
「さては手傷を負うたか、病いの内にあるか……」
久秀は、平伏したまま次なる指示を待つ乱破に命じた。
「急ぎ、この事をお館様にお報せせよ。今こそ、武田を押し戻す好機となろう」
信玄と云う巨木が倒れれば、武田はもう仕舞いである。
事実、二月からの織田方の反攻に対し、武田方は統率が乱れ、明らかに精彩を欠いていた。そして、ついに武田は、上洛することなく甲斐国へ退いたのである。
(さて、後は義昭様をどうするか、だが……)
すでに織田方は、京へと兵を進めている。
将軍義昭が、信長に対する挙兵の動きをあからさまにしたからであった。
久秀の許にも、義昭からの御内状が届いている。誰の目にも、義昭方の不利は明らかだったが、当の義昭だけは意に介していなかった。
久秀はすぐさま義昭の許に参じた。義昭の妹婿となった義継、三好三人衆も同様であった。
即日、京の街に落首が立った。
『かぞいろと やしなひ立てし 甲斐もなく いたくも花を 雨のうつを』
庇護を受ける身でありながら、義昭は信長への抵抗を止める気配すらない。初めから勝てる見込みのない戦さの支度に、騒然とする義昭の周辺を、京童たちは密かに嗤った。
久秀は嗤えなかった。むしろ義昭が哀れに思えた。だが、それは心の内に閉まった。
同情だけで、己のなすべきことを見誤るわけにはいかない。
信長の再三に渡る和睦交渉を、義昭は頑迷に拒み続けた。
だが、四月五日。
正親町天皇から和睦の勅命が下り、信長と義昭は、一旦これを受け入れた。
「何故じゃ! 何故に武田は退いた!」
二条城の将軍謁見の間で、義昭は癇癪を起こしていた。
「朝倉もじゃ! 毛利もじゃ! 何故、余に味方しない!」
久秀は、居並ぶ重臣たちと、半ば呆れながらその様を見ていた。
「余は将軍ぞ! その余の号令に、何故誰も従わん!」
「義昭様、ご案じめされるな。我らがおりまする」
三好長逸が聞き分けのない幼な児を宥めるように、云い含める様は滑稽としか云いようがない。
「それに義継殿も、松永殿もおられます」
義昭はハッと我に返り、哀願するように一同を見回した。
「おぉ、そうじゃ。余には、そち達がおったのぉ。くれぐれも頼むぞ」
「幕府も仕舞いか」
長逸が、吐き捨てるように云った。
「これは異な事を申される。先の将軍、義栄様を担がれたのは、貴殿らではないか」
久秀は皮肉を込めて云った。
「それを申されるな、久秀殿。義栄は御しやすかったまで。だが、義昭は将軍職に執着が過ぎる」
「ほう」
「御内状を乱発し、政を強引に推し進めようとする……。これでは、信長でなくても癇に障る」
久秀は眼を細めた。
「では、織田方へ下られるか?」
長逸は、フッと溜め息を漏らし、頭を振った。
「それも叶うまい。ワシらは、信長に刃向かい過ぎた」
久秀は初めて、この漢に同情の念を抱いた。
「この先、どうなされるおつもりか」
「さてな。最期まで信長に立てついてみるのも一興」
そう云うと、長逸は苦笑しながら立ち去った。
久秀は、ただその後ろ姿を見送るのみであった。
七月三日。
義昭は勅命を破棄した。
槇島城へ篭り、再び、信長と一戦を構えるそぶりを見せたのである。
だが、多勢に無勢。信長の大軍の前に槇島城はあっけなく陥ちた。
義昭は嫡男の義尋を人質に差し出し、信長に降伏する。
久秀は、これで終わったと安堵した。
あとは時期を見て、自らが降伏すれば良いだけである。
信長も『怨みに恩で報いる』と、義昭を三好義継の居城、河内国若江城へと送った。
ここに室町幕府は滅亡した。
誰もが、全て終わったと信じて疑わなかった。
だが、十一月十六日。
あろうことか、三好義継が、義兄にあたる義昭を堺へ逃がすため、織田方と一戦交え、城を枕に討ち死にしたと云うのである。
報せを訊いた久秀は、我が耳を疑った。しかし、それがまぎれもない事実だと判ると、その早すぎる死に、独り慟哭した。
「ワシが殺した……! ワシのせいで……! ワシの……!」
久秀は自分を責め続けた。
「あの時……、高屋城の陣で全てを明かしておれば、義継殿は死なずにすんだ筈……!」
しかし、どれ程自分を責めても、散ってしまった命は戻らない。
後悔の念が久秀を苛んだ。
「……何故、こうも無駄な血が流れる! 何故、無駄に命が潰える!」
そして、それからひと月の後。
多聞山城を取り囲んだ織田方の軍勢に、久秀は城を明け渡したのだった。
年が明けた天正二年一月。
久秀は、岐阜に信長を訪ねた。表向きはこの度の謀叛に対する謝罪だったが、実際には違っていた。
「大義であったな、久秀」
「は……」
信長は、久秀を労う為に、また茶の湯の席を設けた。
「……何か想うところがあるようだな」
「……」
信長は、久秀から眼をそらさぬまま呟いた。
「三好……義継の事か」
「……某の朋友で御座いました」
しみじみとした久秀の言葉に、信長は静かに頭を下げた。
「戦国の習いとは云え、済まぬ事をした」
「いや、お館様が頭を下げられる事では御座いませぬ」
久秀は恐縮した。責めを負うべきは自分だと、久秀は思っていた。
「見事な最期であったと信盛に訊いた。義継は十日余りひとりで奮戦し、ついには腹十文字に掻っ捌いて果てたそうな」
「左様で御座いましたか……」
「あたら若い命を散らしてしまったな」
久秀は、噛み締めるように呟いた。
「……二十五で御座いました」
信長は瞑目した。
「長じておれば、優れた武将になったやもしれん」
そんな信長を正面から見つめ、久秀は感情を抑えたまま、云った。
「これ以上、無駄な血は流しとう御座いませぬ。一刻も早よう、乱世を終わらせ下さいませ」
信長は、それに静かに応えた。
「もとよりその覚悟だ、久秀。これからも力になってくれ」
「は!」
二人の武将は、それぞれの決意を胸に抱いた。
三年余りが過ぎたある年の春。
久秀の居城である信貴山城へ、ひとりの客が現れた。
「おお! これは行者殿!」
出迎えた久秀は、相手の姿を見るなり破顔した。
「しばらくぶりだったかのぉ、久秀。達者なようじゃな」
襤褸を纏い、蓬髪に長い杖を手にした異形の老人は、ニコリともせず呟いた。
どこか不機嫌そうに見えるが、それはいつものこと。
彼の名を七宝行者と云う。
久秀とは、彼が三好長慶に仕えていた頃からの仲であった。行者は、ひとり諸国を巡り、こうして時折、思い出したように顔を出すのが常であった。
「行者殿も変わらぬご様子。幾つになられ申した?」
「それを訊いて何とする。じゃが、まぁ良かろう、八十八じゃ」
行者は平然と答えたが、それを訊いた久秀は、笑い出した。
「お戯れを。初めて興福寺の境内でお会いした時も、八十八と申されておられましたぞ」
「ふん。ワシはのぉ、老いるのに飽いたのじゃ。故に歳はもう取らん道理じゃ」
「ははは、左様か。ワシもあやかりたいもので御座るな」
久秀は上機嫌で行者を自室へと案内し、対座した。
「して、此度は如何なる用向きで?」
「なに、吉野の桜見物のついでじゃよ」
「ほう。それは風流な」
「桜は良いぞ。このワシでも歌の一つも詠みたくなる」
「それはますます風流な」
行者は、つまらなそうに鼻を鳴らし、久秀に云った。
「風流ついでじゃ。酒でも呑もうぞ」
久秀は近習に命じて、すぐに酒の支度をさせ、しばし諸国の話しなどに興じた。気のおけない仲であったから、双方、手酌だった。
「時にお主、今は織田家中におるとか?」
久秀は、行者の問いに笑みを深めた。
「如何にも。お館様、いや、上様も今や右近衛大将。天下布武もじきで御座ろう」
「ふむ。あれも中々に面白き漢ではあるがのぉ」
何やら含みのある呟きに、久秀は眼を上げた。
「行者殿は、上様をご存知で?」
行者は空いた盃に酒を注ぐと、一息で飲み干した。
「うむ、一度逢うた事がある。ワシを軍師に、と乞われたが、断わった」
「何故に? 行者殿ほどの知恵者が上様のお側におれば、千人力では御座らぬか」
行者は、再び空になった盃に、なみなみと酒を注いだ。
「ワシは、戦さは好かん。それに信長は大した器じゃ。あれにはワシなど無用であろうよ」
そう云うと、行者はまた盃を一気に空けた。
「……しかし、この百年の乱世を早う終わらせるには、行者殿のような御方のお力も必要だとワシは思うが」
久秀は、存念のないところを述べた。
行者はゆっくり首を振ると、深く嘆息した。
「ワシはのぉ、久秀。諸国を行脚し、その乱世の有様を見過ぎてしまったのじゃ。戦さは、次の戦さを生む。それが理じゃ。信長は確かにこの乱世を終わらせる事は出来るやも知れん。じゃがのう、まことの泰平の世が来るのは、まだ先じゃ」
「上様のお力を以ってしても、で御座るか?」
久秀は納得出来かねる様子で云った。
「左様。じゃが、信長が居らなんだら、この乱れた世は、恐らくあと百年は続く。そこを間違えてはならん」
行者は、静かに応えた。
久秀は盃を置くと腕組みをし、考え込んだ。
「あと一押し、上様のお力を示す策が要る……」
行者も盃を置いて、久秀の貌をじっと見た。
「策はある」
「まことで御座るか!」
思わず身を乗り出す久秀に、行者は、事もなげに云った。
「久秀。お主が今一度、信長に弓引くのよ」
七宝行者、またの名を果心居士は、めったに見せない笑みを片頬も浮かべて、久秀を見ていた。
「久通、ワシは決めたぞ」
石山本願寺攻めの為に詰めていた天王寺砦で、久秀は二人きりの折を見計らって、久通に告げた。
「……やはり上様に謀叛を?」
かねてより、久秀から意を含められていた久通はすぐに察した。
「うむ。これが上様へのワシの『最期のご奉公』となろう。お主も覚悟致せ」
「もとより。されど、上手く事が運びましょうや?」
久秀は久通の危惧を笑った。
「運ばねば運ばせるまでの事。それには本願寺の顕如と、越後の謙信を引き摺り出さねばならん」
「顕如と謙信を? それは大戦さに御座いますな」
久秀の意思が揺るぎないのを見てとって、久通も笑った。
「冥土への道連れは多ければ多いほど良い。それが上様に仇なす者であれば、なおの事」
久秀は空の一点を見据え、来るべき戦さの様を思い描いた。
久通は居住まいを正すと、久秀に向き直った。
「父上。ひとつ、お訊ねしてもよろしいですか?」
久通の貌付きが変わったのを見て、久秀は問い返した。
「構わぬが。如何した? 改まって」
「父上は、何故に侍になられたのですか?」
それが、久通がかねてから抱いていた疑問だった。
「判らぬか、久通。それは『義』の為じゃ」
久秀の応えは明快だった。
「……『義』、で御座いますか」
「左様。この乱世には何の義もなかった。だから、ワシは『義』を貫こうと侍になった」
「では、何故、上様に謀叛を?」
腑に落ちない様子の久通に向かって、久秀は、穏やかな笑みを見せた。
「ワシは『三悪』で名をなし、今この時、一度ならず二度までも上様に弓引かんとする天下の極悪人、松永弾正久秀ぞ。もはや、貫くべき『義』がワシに残されていようか?」
「されど、それはまことでは御座いますまい。父上は、上様に忠義を尽くされ……」
「云うな、久通。ワシは、ただ上様の大義の許に討たれるのみ」
久秀の決意は揺るぎない。
「父上……」
「考えてもみよ。天下の極悪人が、天下人たらん上様に討たれるのだぞ! これ程、痛快な幕引きはないわ!」
久秀はそう云って、会心の笑みを浮かべた。
そして、天王寺砦に火を放つと、八千騎を引き連れ、早々に信貴山城に立て篭もったのだった。
「殿! 織田方の使者が参っております!」
近習が、天守閣の梯子を急ぎ登りながら、久秀に報告に来た。
「うむ、来たか。丁重にお迎え致せ」
「は!」
近習が立ち去った後、久秀は誰にともなく呟いた。
「これでようやく、上様の『義』を世に知らしめることが出来る」
「ご免つかまつる!」
広間に通された織田方の使者は、久秀の姿を見るなり瞠目した。
なぜなら、そこに座していたのは、静かな威厳に満ちた老練の武将だったからである。
傾舞奇者の、いや、『三悪』として名高い松永弾正久秀は、そこにはいなかった。
「……松永、殿……で御座るか?」
使者は、自信無さげに訊ねた。
「良くぞ参られた、ご使者殿」
その朗々たる声に、使者である古田重然、後の古田織部は、ようやく目の前に端座する人物が、松永久秀であることを確信した。
「拙者、織田家中……」
「いや、しばし待たれよ」
久秀は、重然の口上を遮ると立ち上がった。
「堅苦しい挨拶は抜きとしようではないか」
「は?」
「まずは茶を一服進ぜよう」
これには、重然が面喰らった。
四万の大軍勢に囲まれている謀叛人とは思えぬ、落ち着きぶりだったからである。
そればかりか、城内の喧騒すら意に介していないかのように見える。
しかし、久秀は重然の心中など気に掛ける様子もなく、茶を点て始めた。
久秀が茶を点てている間、重然は所在なげに辺りを見回していたが、その茶道具に目をやり、思わず叫んだ。
「そ! その茶釜は!」
久秀は、事もなげに訊ね返した。
「この茶釜が、どうかされたかな?」
重然は息を呑み込み、ようやく呟いた。
「……も、もしや、名器『平蜘蛛茶釜』では御座らぬか?」
久秀は当然とばかりに頷いた。
「うむ。ご使者殿に茶を振る舞うには、これが相応しかろうと思うてな。ご不満か?」
重然は、慌てて言葉を継いだ。
「い、いや! 滅相も御座いませぬ! 拙者ごとき小者には、身に余る光栄!」
その様子に久秀は鷹揚な笑みを浮かべた。
「ご満足頂けたなら何より。さぁ、まずは一服」
久秀の差し出した茶碗を、重然は一礼して受け取った。
今の重然には知る由もないが、この茶碗もまた銘のある一級の品に違いない。
「頂戴致します」
緊張で震える手許を必死に堪えながら、重然は作法通りに茶を飲んだ。
それは極上の茶であった。
が、重然は、久秀の器にすっかり呑まれてしまっており、味など判ろう筈もない。
重然は茶碗を差し戻し、これもまた礼法通りに呟いた。
「結構なお点前に御座いました」
久秀は、死地にある侍とは思えぬ柔かな笑みを湛え、話しを切り出した。
「さて、古田殿。条件を承ろうか?」
重然は、この老将が自分の名を知っている事に気が付きもしない。
「は。上様には於かれましては、その……」
重然は云い淀んだ。
逡巡しているようでもある。
久秀は穏やかに先を促した。
「続けられよ」
「……名器『平蜘蛛茶釜』を差し出せば、お命は安堵すると」
ひどく云いにくそうに、重然は口上を述べた。
この僅かな間に、彼は松永久秀と云う人物が、噂のような極悪人とは思えなくなっていた。今回の謀叛にしても、何らかの行き違いがあったのではないかとさえ思えたのだ。
「成る程。平蜘蛛を」
そう一言呟くと、久秀は静かに立ち上がった。
「松永殿?」
重然の問い掛けには応えもせず、久永は『平蜘蛛茶釜』を手に取った。
(やはり、惜しくなったか?)
重然は、些か幻滅した。
しかし、久秀の次の行動は、彼の想像の余地をはるかに越えていた。
久秀は手にした茶釜を頭の上まで持ち上げると、力任せに床に叩きつけたのだ。
「松永殿! な、何を!」
驚いたのは重然の方だった。思わず腰を浮かせ、茶釜に駆け寄った。
久秀は、心底から口惜しげに呟いた。
「吉法師も、ヤキが廻ったか……」
だが、粉々に砕け散った名器『平蜘蛛茶釜』の残骸を、慌てふためきながら掻き集めている重然には、久秀が主君の幼名を呼び捨てにした事など、全く耳に入らなかった。
そんな重然を尻目に、久秀はまた悠然と座し、口を開いた。
「何を狼狽えておられる? 只の茶釜ではないか?」
その言葉に我に返った重然は、思わず耳を疑った。
「松永殿? 今、何と……?」
久秀は微笑みながら、応えた。
「いや、何でも御座らん。ワシも老いたな……と愚痴を申したまでのこと」
「さ、左様で……」
「さて。貴殿も、手土産無しでは帰り辛かろう。ワシと倅の首、持って参れ」
そう云うと、久秀は、愉快そうに、そして実に豪快に笑った。
「大義であった、佐介」
「は!」
織田信長は、並み居る重臣たちの前で、平伏する古田重然を労った。
重然は、信長の居城である安土城へ、久秀親子の首級を持参したのである。
信長は、粛々と命じた。
「皆の者、下がるがよい」
「は!」
重臣たちと共に下がろうとする重然を、信長は不意に呼び止めた。
「佐介、お主は残れ」
「は?」
立ち上がり掛けていた重然は、怪訝そうに座り直す。
信長はそれを待ち、しばし瞑目した後、彼に訊ねた。
「……他でもない。久秀の最期の話しを聴きたい」
重然は一瞬、困惑したが、すぐにその意味をさとり、一言述べた。
「武人らしいお見事なご最期で御座いました……」
重然を下がらせた後、信長はしばらく、眼前に置かれた久秀の首を見つめていた。
やがて、彼の眼から自然と涙が零れ落ちた。
信長はそれを流れるに任せた。
そして時だけが過ぎ去り、彼は静寂の中で瞑目した。
松永久秀のなした悪事は次の通りである。
一つ。主君、三好長慶を誅殺し、その領地を簒奪した。
二つ。室町幕府第十三代将軍、足利義輝を亡きものにした。
三つ。不遜にも東大寺大仏殿に火を放ち、これを焼失させた。
そして、織田信長に二度も謀叛を企て、信貴山城で討たれた。
かくして傾舞奇者にして、極悪非道の大罪人、松永弾正久秀はその生涯を終えた。
忌日は、天正五年十月十日。
奇しくも東大寺大仏殿焼失の日から、ちょうど十年後のことであった。