じもかみ「最後の生け贄」
山髭抜神社は霧深い山の中にある。昔々、山の中に小さな村があった。山の中には大人の背丈を超える大きな山犬が住んでおり時々村人を襲っては食べた。村人達は山の主である山犬の怒りに触れたと恐れ、毎年村一番の美しい娘を生け贄として捧げるようになった。そうする事で村から災いを避けられると信じた。ある年、選ばれた娘を最後に生け贄は途絶えた。
言い伝えによると、献身的な娘の優しさに改心した山犬の主はその後二度と人を食べること無く、村は豊作に恵まれ繁栄したという。中には山犬と娘が夫婦になったとの言い伝えもある。今でも生け贄の娘の魂を慰め、村の豊作を願う祭りが開かれている。
「えっ、山犬が旦那様?」お下げ髪の少女が勢いよく振り向いた。
「ないない。」セミロングヘアの少女が首を横に降ると顔の横だけ赤いリボンで結えられた一束ずつの髪が肩より少し下でサラサラと揺れた。
「生贄は生贄だったの?」
「うん。」セミロングヘアの少女はこくりと頷いた。名前をいねといった。
「出た。集団村人の発狂。」お下げ髪の少女、やこは大きなため息とともに天井を見上げた。
「凄かった。」「あのさ、思い出したくなかったらごめんなんだけど…」「最後のこと?」「えー…あ、まぁ…うん」全然大丈夫。そう言うといねは言葉を続けた。
「出会ってすぐ首に一撃。おかげでそんなに記憶も無いけど…。」「すぐに一撃」「犬歯って本当に犬歯だったよ」との感想に、返答に困ったやこは無言で二度目の天井を見上げた。いねはポツリポツリと続ける。
「確かに猪も狼も何でも狩るから、村は助かってたと思う。」
「私と会ったときすでに寿命が近かったの」
目の前に獣臭い生き物と対峙する。薄く黄味掛かった毛皮の下には肋骨が浮き出ていた。何年生きたのだろう。灯火が潰えるように荒い呼吸が響く。
山犬は鼻筋に皺を寄せ何かから抗うように唸り声を上げた。月に照らされた目はそこだけ不釣り合いに輝いていた。
「なんと美しい。」いねは輝きに目を奪われた。時々海岸で出土する翡翠よりも、たまに立ち寄る行商人が広げた色取り取りのガラス玉よりも、今まで目にした他の何よりも美しかった。そうだ、蛍の色に少し似ている。暗闇の中、付いては消える美しい碧。手の中で儚く光った美しい碧。
そう思った一瞬で山犬が視界から消えた。飛び掛かってきた山犬に押し倒され地面に転がる。後頭部に衝撃が走った。鼻の奥がツンとえも言えぬ圧迫感を増したあと、土を近くに嗅いだ。
山犬が首に喰らい付いている。と思ったのはその後だった。皮膚は犬歯にいとも簡単に突き破られると遅れて周囲に鉄の匂いが漂った。熱い。首が熱くて堪らない。
頰には毛皮の生温さが触れ獣の生臭さとで湿っている。山犬の獲物を振り回す動きに合わせ自分の後頭部が土を引き摺ると生えていた草をすり潰して青く臭った。山犬がとどめとばかりにさらに力を入れたのか皮膚のさらに奥深くへと肉を貫き裂いていく。
記憶はそこで途切れた。ただ五感の全てが自分の意識とかけ離れたかのように鮮明だった。
山犬はいなの上に倒れこむと命もそこで事切れた。臓腑に納めることこそ出来なかったが、一貫して命を奪いながら生を全うした最後であった。
「丁度寄り添ってるみたいだったって。食べられなかったおかげで髪飾りひとつ無くなる事なかったし。」「それで山犬の奥さんに見えたのか。」「真実はそんなもんだよ。山犬も生け贄もあれでおしまい。」
「でも妹には悪い事したな。」いねが俯くと髪がサラサラと頬を流れた。「妹さん?」「第一発見者がね。」「うっわぁ…。」「思い出すなあ。『ねっ、ねっ、ねっ、ねえやああああああ!!!!!』って、あれじゃあトラウマになっちゃうよねえ。」「……。」やこは本日三度目の天井を見上げた。もうその時は神体化してたからさ、その瞬間はフルマルチアングルと録音万全最高音質の神環境でバッチリ見れちゃったよ。と、いねがカラカラと笑う。髪に結いつけられた二つの赤い結い紐もそれに合わせて同じように揺れた。