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月のかけら  作者: ばぼびぃ
8/8

stone on the moon 後編

  30


 皆川総合調査事務所に、連日、客が訪れるようになっていた。どういうネットワークが存在するのか不明だが、似たような条件の者たちが訪ねてくるようになったのだ。

 訪れた人々の話を聞くと、彼らは一様に、

「先日、こちらへ伺った同級生が」

 とか、

「友人が」

 などと前置きをしたうえで、

「急に月のかけらを見てもなんとも感じなくなったんです」

 と切り出したものだ。そして頼む内容も一致していた。自分も月のかけらへの執着心をどうにかしたい、というのである。

 もっと積極的に、

「消してください」

 と懇願してくる人物もいた。

 訪れる人々はみな、二十九歳で、第三次ベビーブームの生まれだ。俗に言うルーナベイビーズである。彼らはその中の一部ではあるのだろう。自分の中の月のかけらに対する執着を、快く思っていない人々がいた。そのような人々が、ひょんなことからうわさを聞きつけ、事務所へ相談に訪れたのだ。

 事務所側は初めのうちこそ戸惑っていたものの、武田祐美が処理すると言うので、受け付けるようになった。ただし、以前、武田祐美が倒れた経緯もあるので、一日数名までに限定していた。

 武田祐美の能力を隠す必要もあった。三上弘樹か皆川龍也、あるいは皆川令子が接客役を担って、事情を聞き、料金の話をつける。武田祐美はただ、同席するだけだ。

 話がつくと、料金を出してもらう。

 接客役がそれらしく如何わしい動作をする間に、武田祐美がこっそりと相手の思考を読み、記憶の扉を開け、奥底に眠る月のかけらへの執着を取り除く。

 武田祐美は処理が終わると合図をする。すると接客役がおもむろに、施術が終わったと告げ、奥から月のかけらを出してきて、客の目の前に置いて見せた。

 たいていの反応は、

「何ですか?これは」

 であった。たまに察しのいい人物もいて、

「これ、もしかして、月のかけらなんですか?」

 と問う者もいた。

「これも月のかけらですが、どうです?今まであった衝動はありますか?」

 接客役が石を指示して尋ねると、客は一様に驚くのだった。察しのついた者すら、この変化の激しさに、驚かずにはいられない。

「ありがとうございます!呪いから解き放たれた気分て、こんな感じなんでしょうね!」

 客は嬉しそうに帰っていくのだった。

 皆川総合調査事務所としては、業務とかけ離れた対応である。だが、実のところ、ぼろい商売であった。

 皆川龍也は抵抗あるのか、あまり関わろうとしなかった。退院しても外に出歩けるほどではないにもかかわらず、杖を突いてどこかへ出かけていくのだった。敷地内ならそのままで済むが、外に出ようものなら、妻が付き添った。

 結果的に、事務所に在籍している率の高い三上弘樹が、主に接客役を担っていた。前例を作った皆川令子の真似をして、対応していった。

 中にはまれに、トラブルになることもあった。

「こんなのインチキだ!」

 そう言って、効果がないと言い張り、出していたお金を取り返そうとする。

「そう?そうおっしゃるのでしたら、仕方ありませんね。お支払いいただけないのであれば仕方ありません。執着心も戻しておきますね」

 皆川令子はあっさりとそう受け答えた。

 武田祐美は戸惑うものの、皆川令子の指示に従い、元に戻す。消すよりも少々難しいものの、記憶の奥底まではすぐに行けるので、相手が見えなくなるまでには何とか処理できた。

 三上弘樹では、こうもあっさりと対応はできない。それでも、皆川令子の前例を見習って、同様の対応をしていった。

「いいの?戻して?」

 客の足音が聞こえなくなるのを待って、武田祐美は聞いた。

「いいに決まっているでしょ。もらうものもらってないのだから」

 皆川令子はあっさりしたものだ。

「ちゃんと戻せた?もっと強く求めるようにしてやってもいいのよ?」

 逆にそう言ってのけた。

「戻せたと思うけど、消すより疲れます…」

「あらそう?じゃあ、今日はここまでにしましょう。帰ってゆっくりしなさい」

 皆川令子はそう答えると、問答無用で武田祐美を自宅へ引き揚げさせるのだった。



  31


 ルーナベイビーズの訪問に、いつものように皆川令子と武田祐美が対応していた。

 いつもと違ったのは、その途中で可香谷姫子が訪れ、一部始終を見学したことだ。可香谷姫子は客が帰るまで口を固く閉じて大人しくしていた。

「これはどういうこと?どうやって執着心を消しているの!」

 可香谷姫子の剣幕は異常だった。なぜ彼女が激怒しなければならないのか、見当もつかない。

 理不尽に怒られる皆川令子や武田祐美は、対応に困り果てた。

「彼らはかけらを集める大切な兵隊なのよ!」

 しかし、可香谷姫子の言葉を黙って聞き逃せない人物が、奥に潜んでいた。彼は杖を突いて現れると、

「それはどういう意味でしょう?兵隊?まるで、あなたが彼らを操っているような言い分ですね」

 落ち着いた声で言い放った。今までルーナベイビーズの訪問にはかかわらない様にいた皆川龍也だ。

 皆川令子や武田祐美、三上弘樹辺りなら、勢いで押し通せたかもしれない。だが、皆川龍也はまくしたてられたところで、冷静に相手の言葉を聞き、言葉尻を取って、痛いところを追求していった。

 可香谷姫子は口を開けば開くほど、進退窮まっていく。

「もういいです!」

 可香谷姫子はそう言いおいて、逃げるように去っていくのだった。

 可香谷姫子が見えなくなるのを待って、皆川龍也は武田祐美に問うた。

「彼女の思考、何か読めたか?」

「え、あ、うん、最後の方だけ」

「そうか。それで?」

 皆川龍也は少し残念そうにつぶやいた。思考を読まなくても理解できる。なぜ初めから思考を読まなかったのかと、言いたいのだ。だが、皆川龍也はそのことを責める気もないようすで、次を促した。

「よく分からないのだけど」

 武田祐美はそう前置きをした。

「可香谷姫子さんがどこかの組織に属している?で、その組織が、かけらを集めるために、何かをして、ルーナベイビーズのあの執着になっているみたい」

「確かに、よく分からない話ね…」

 皆川令子は素直に呟いた。

「そうでもない。洗脳、あるいはそれに類することを、特定の年齢の人々に施すことができる組織。ふむ…その方法は…テレビなどの媒体での催眠術?」

 皆川龍也はぶつぶつ呟きながら、杖を突き、部屋の中を歩いた。

「確かに方法など含め、意味不明だが、その組織の目的は明確だ。月のかけら。もっと言えば、可香谷姫子が探している特別な石の発見。そのための手駒として、ルーナベイビーズの世代が利用されている、ということだ」

 皆川龍也は自分の考えをまとめるように話す。

「兵隊を使い、時間をかけても、らちが明かないので、ここに依頼に来たのだろう。…俺たちはいったい何を依頼されたのだろうな。いや、何に巻き込まれているんだろうな。幽霊の集まる石、か。もし、霊界とか冥界とかが存在するとしたら、そこへの道標なのかもしれない」

 皆川龍也は、オカルトなどが不得意な分野だ。極楽浄土も地獄も信じていない。魂や幽霊がどうなるのかも、理解していない。にもかかわらず、霊界、冥界といった、信じていない異界の存在を考慮に入れ、探し物が道標と予測するあたりが、彼たるゆえんかもしれない。

 この推測と情報は、皆が一堂に集まった食事の時に早速、共有された。

「ということは、もしかして、黄泉の国が、月の裏側にあるってこと?」

 皆川真紀が深読みをする。

 三十年前、月の裏側に隕石が落ち、その衝撃で飛び散った欠片が地球に飛来した。その隕石の一部が月のかけらと俗称されている。月のかけらの一部に、幽霊などを導く道標としての機能があるという。

 何のために。幽霊などを集めて何を行う。俗説、伝説、迷信など含めて考え上げると、死者の国が当てはまるのではないかと思われた。

「黄泉の国?眉唾ね」

「いや、この際、黄泉の国が存在するかどうかはどうでもいい。月の裏側から降ってきた石の一つが、霊的な道標で、その石を可香谷姫子が属している組織が探している、という事実だけで十分だ」

 皆川龍也はあくまで事実だけで推理を続けていた。確認の取りようがない架空の物事を追求しても、らちが明かないことを理解していた。

「幽霊を導く石、ねぇ。そんなものがこの近辺に…」

 食堂に居合わせた大部分が、実感のわかない話だ。荒唐無稽すぎて、理解が及ばない。幽霊の存在を知っている三上弘樹や武田祐美ですら、何も響くものがなかった。

「現状、追及のしようもないことだけどな」

 皆川龍也もそう言って、話を打ち切った。

「石、ねぇ」

 皆が同じように、呟くのみだった。



  32


 各々の食事が再開される。その中で、若い娘二人の挙動がおかしい。目を泳がせてみたり、手を伸ばしかけて引っ込めたりしていた。

「真紀ちゃんどうしたの?大好きなハンバーグなのに、進んでない」

 三上弘樹が声をかけた。

「え?な、何でもない!」

 皆川真紀はそう言って、ハンバーグにかぶりついた。なぜか、三上弘樹の方を見ようとはしない。

 三上弘樹の隣の少女も、慌てて目の前の食事に取り掛かった。武田祐美も友人同様、不自然なほどに隣へ顔を向けようとはしなかった。

「何だ?昼間出かけて、食べ過ぎたか?」

 皆川龍也は考えもせずに言っていた。

「心ここにあらず、だな」

 木村賢吾も、娘二人を気にかけていた。

「女の子は気持ちでお腹が満たされることがあるのよ」

 皆川令子がもっともらしく言う。

 皆川真紀は焦った。自分に不利なことが何か、発覚してしまうのではないか。ヒロ兄への気持ちが漏洩してしまったら、大変だ。周りの大人たちの思考を、別の方向へ導かなければならない。

「えっと、その、クリスマスどうしようかって」

 とっさに、喫茶店で流れていた音楽を思い出した。武田祐美に向かって、念を押すように、

「ねぇ」

 と言った。

「う、うん。プレゼントとか、それ以外にも何かできないかなって」

 打ち合わせでもしていたかのように、武田祐美が答えた。実際にはそのような相談などしていない。即興で、友人の話に合わせたに過ぎなかった。

「おいおい。まだだいぶ先じゃないか」

 皆川龍也は呆れていた。

「でも、街に出たら、クリスマスソングだらけでしょ」

 皆川令子が娘に頷くように言った。

「みんなのために何か用意したいの?」

 木村康代が娘たちに尋ねた。

 二人の娘が互いに目配せし、それぞれが肯定の返事を返した。

「だったら、いい方法があるわよ」

「え?何々?」

 皆川真紀も武田祐美も前のめりになっていた。皆川真紀は自分の気持ちを悟られないように隠すためだった。武田祐美は、皆に恩返しをしたいと考えていたので、本当に何かをしたかった。

「クリスマスの料理を二人で作るの」

 木村康代の提案は、難しくもあり、魅力的でもあった。

 皆川真紀は台所に立ったことがない。自然と、敬遠したい提案であったが、三上弘樹に食べさせる料理、と置き換えれば、挑戦してみたい。

 武田祐美は料理の経験がある。この家に来てからも、台所の手伝いを時々行っていた。自分の料理を皆に振舞えるのであれば、願ってもない提案だ。

 二人の娘は声もなく、頷いていた。

 木村康代は娘二人の顔を交互に見比べ、満足するように頷いた。

「よろしい。では何を作りたい?」

「チキン!」

 こういう時の皆川真紀は、年相応の、男の子のようだ。

「そうね。男どもは肉しか食べないから、野菜もとれるものが欲しいわね」

 皆川令子が、居合わせている三人の男たちを見渡しながら言った。

「サンドイッチなんてどう?」

 武田祐美が遠慮がちに提案した。

「いいわね。それなら、真紀でも作れそう」

 皆川令子が頷いた。

「何それ。ボクが料理できないみたいに」

「包丁握ったこともない人が偉そうに言わないの」

 皆川真紀は母親の指摘に、唸り声を返した。

「もちろんサラダも用意してね」

 皆川令子は娘の抗議を無視して、お品書きに一品加えた。

「肉を増やせ!」

 皆川龍也が抗議の声を発した。

「手巻き寿司もいいのだけど?」

 木村康代がさりげなく、別方向の提案もする。

「クリスマスに手巻き寿司?」

 皆川龍也は否定的だった。

「そうよ。家族で祝う席ですもの。みんなでそれぞれ手巻き寿司を作って、見せ合うの」

「あー!それもいいな!」

 皆川真紀は気に入ったようだ。

 武田祐美もいいなと思うが、それでは自分が皆のためにできることがない。

「今回はチキンと料理にしたいな」

「えー?そう?じゃあ、手巻き寿司は次の機会に!」

 皆川真紀は嬉しそうだ。来年の予定まで決めてしまいそうなほどであった。

 大人の女性二人は顔を見合わせ、優しい笑顔で娘二人を見つめていた。

「ピザがいい」

 皆川真紀は次の提案をしていた。

「採用!」

 答えたのは、皆川龍也だった。

「ピザなんて、家で作れるの?」

 三上弘樹が疑問を投げかけた。

「みんなが思い浮かべるピザは難しいわね。作れないことはないわ。もちろん簡単な物なら、すぐに作れるわよ」

 木村康代が請け負った。ために、お品書きに加わる。簡単なものにするか、本格的なものにするかは、後日、試作して決めることになった。

「ケーキも忘れないでよ」

 三上弘樹が、自分の欲しいものを上げた。

「もちろん!やっぱり生クリームのケーキだよね!」

 皆川真紀が元気よく言う。

「そうね。スポンジケーキは難しいわよ?」

 木村康代は冷静に、娘たちの力量でできるかを判断していた。

「え?難しいの?簡単なのは?」

「チーズケーキが簡単よ」

「チーズケーキもいいね」

 武田祐美が友人に言った。

「うん!でも、生クリームのケーキも欲しい!」

「いいんじゃない?どうせこの人数なんだから、ケーキもいくつか作った方がいいでしょ」

 皆川令子は簡単に言った。彼女はケーキ作りをしたことがないため、その手間を知らなかったからだ。知っていれば、反対していたかもしれない。

「チーズケーキも、ものすごく簡単に作る方法と、手間をかける方法とあるわよ」

 木村康代は手順も教える立場なので、ある程度のところまでは決めておきたいようだ。

「簡単なのって?」

「すべての材料をミキサーに入れて、混ぜて、型に流し込んで、焼くだけ」

「手間をかける方は?」

「それぞれの材料を別々に混ぜ混ぜして、足し合わせて、混ぜて、足し合わせて、混ぜて、足し合わせて、混ぜて、型に流し込んでオーブンで焼くの」

「うわ…混ぜてばっかり」

「そういうのはボクに任せなさい!」

 武田祐美は混ぜる工程が多そうなことに腰が引けた。それを見て取ったのか、皆川真紀が腕まくりしてみせた。

「どっちがおいしいの?」

 三上弘樹が聞いた。彼は食べるだけのはずではあるのだが。

「それはもちろん、手間をかけた方」

 木村康代が即答した。

「じゃ、そっちで。それと、スポンジケーキも!」

 どうしても生クリームでデコレーションされたケーキを作ってみたい、皆川真紀であった。

「俺はシャンパンでも用意するかな」

 一言も口を挟まなかった木村賢吾が、締めくくるように言った。

 女性陣はまだまだ細かく決めていくことがあるので、話が尽きない。後日、それぞれを試作しながら決めていくことにするのだった。

「ああ、そうだ。一つ忘れていた」

 食事を終え、席を立って自室へ向かいかけた皆川龍也が振り向きざまに言った。

「賢吾。次の休みは?」

「ん?土日は休めると思うが?」

「じゃあ、土曜日、みんな予定を開けておくように」

「何があるの?」

 皆川令子が警戒するように呟いた。

「以前解決した案件の依頼人がお礼に、新しく開発したモバイルをくれるんだと」

 各々が驚きの声を上げた。

「タダほど高いものはないけれど?」

 皆川令子は一言付け加えることを忘れなかった。

「まあ、モニタリングも兼ねるのだろうよ」

「あーなるほどね」

「仕事に差し支えなければ、別に構わんよ」

 木村賢吾はそう言って席を立った。

「みんなも予定を開けておいてくれよ」

 皆川龍也と木村賢吾が連れ立って廊下に姿を消した。

 残った女性陣はクリスマスの料理についての話し合いを再開する。

 居心地の悪さを覚えた三上弘樹は、こっそりと逃げ出していた。



  33


 土曜日に、一家七人が勢ぞろいして出かけた。普段あまり使われていない乗用車と、買い物でよく使われている軽自動車とに分かれて乗り合い、目的の場所へ向かった。

 行先はモバイルの開発メーカーではない。その販売や契約手続きを行っているショップへ出向き、そこで以前の依頼人と落ち合って、品物を受け取る。

 七人もの人数をそれぞれ、機種変更、申込内容の変更など行う必要があり、ショップの店員総出で大あらわだった。

 朝方出かけて、昼をまたいでしまう。

「で、これ、何が違うの?」

 新しいモバイルを受け取った三上弘樹が、今までとの違いを見つけられず、疑問を投げかけた。

「まだ名称が決まってないのですが、投影通話、とでも言いましょうか、その、SF映画で通信相手のホログラムが表示されるものがあるでしょう?そういう機能がついています」

 元依頼人が簡単に説明した。

「もちろん映画のようにはいきませんけれども」

 そう言って、一人の端末を借り受け、別の人の端末を呼び出した。

「画面の真ん中のボタンで受けてください」

 元依頼人に言われるまま対応すると、画面の上に小さな映像が浮かび上がった。

 呼び出した側も同じように、相手の顔が浮かび上がっている。僅かにずれがあるものの、瞬きや口の動きも再現されていた。

「うわ!何これ!」

 覗き込んできた皆川真紀が驚きの声を発していた。

「すごー」

「おもしろ!」

「あらあら」

「ふむ」

「でも、これ、必要なの?」

 各々驚く中、否定的な一言を発する女性がいた。

「何よ」

 注目を集めた皆川令子は不満そうに呟いた。

「まあ、そういうご意見も含めて、モニタリングしていただければ、幸いでして」

 元依頼人は、否定的な意見も織り込み済みだった。

「不備などもありましたら、報告していただけると幸いです」

 そう言う元依頼人に、了承とお礼を述べて立ち去った。

「遅いけど、どこかで食事して帰るか?」

 木村賢吾の提案に、皆が各自時計を確認した。二時が迫っている。

「そうね。何か軽く食べていきましょうか。せっかく家族で出かけているのですから」

 木村康代が行動を決した。

 七人全員がそろって外食と言うのは、数えるほどしかなかった。めったにない行事だけに、娘二人は喜び、ひそひそと話し合っていた。

「じゃあ、焼肉!」

「寿司!」

 皆川龍也と三上弘樹がここぞとばかりに言う。

「却下!」

 言下に拒否する皆川令子であった。

「晩御飯が食べられなくなるでしょ!」

 不満そうな二人に向かって、律義に理由を述べる。

「あ、じゃあ、喫茶店!クリスマスのサンドイッチの参考に!」

 皆川真紀が手を挙げて発言した。

「この辺りにいい喫茶店あったか?」

 皆川龍也がモバイルで調べ始めると、娘二人と三上弘樹も同じように調べ始めた。大人の女性二人と木村賢吾は、呆れたように、調べ物をする人々を眺めやっていた。

「あ、ここよくない?」

 皆川真紀がモバイルを友人に見せた。

「心美ちゃんが気に入りそう!」

「うん、かわいい感じ!」

 皆川龍也は調べ物を止め、

「よし、そこにするか」

 と、確認もせずに決めてしまい、車に乗り込む。

 残された人々も慌てて車に乗り込み、慌ただしく出発していった。

 モバイルのナビでたどり着いた先は、アンティーク調の喫茶店だった。小さな店舗で、七人が入るとほぼ満席状態だ。客はおらず、店員も奥に引きこもって何やら物音を立てていた。

 店の扉を開けるとベルが鳴った。奥から中年の女性が駆けつけ、席に案内すると、人数分の水とおしぼりを用意した。メニューはテーブルにある。

 女性陣は、サンドイッチを色々頼んだ。木村賢吾はカレー、皆川龍也はパスタ、三上弘樹はパンケーキをそれぞれ注文した。

 店の奥から中年の男性が出てくると、接客した女性と二人で人数分の料理を用意する。

 最初に出てきたのは、カレーだった。木村賢吾の前に置かれたカレーを見て、三上弘樹が呟いた。

「そう言えば、前に武田さんのカレー食べさせてもらったことあったなぁ」

「え、うん。人に食べてもらったの、あれが初めて」

 友達と話し込んでいた武田祐美が振り返って答えた。

「あのカレー、おいしかったな。ああいうのなら、毎日でも食べたい」

 三上弘樹が何気なく言った言葉が、周りの沈黙を誘った。

「あれ?僕、なんか変なこと言った?」

「これだから…」

 誰かの嘆き声が上がる。

 武田祐美はテーブルに顔をうずめて、震えていた。隣の皆川真紀の顔が真っ赤になっている。

「馬鹿だな」

 皆川龍也がその一言で締めくくれるとばかりに言い放った。

「え?何々?」

 三上弘樹はまるで理解していない。

「ああいうことを狙って言うよりは、良いのでしょうけどもね」

 皆川令子も呆れていた。

「えっと、よく分からないけど、ごめん」

「謝るな、馬鹿者」

 木村賢吾にまで叱られる始末であった。

 そうこうしているうちにサンドイッチが次々とテーブルに並べられ、コーヒーや紅茶が添えられた。次にパスタが届き、最後にパンケーキが運ばれた。

 武田祐美も皆川真紀も気を取り直し、数種類のサンドイッチを熱心に研究し始めた。が、時々、そわそわと、三上弘樹の様子をうかがっている。

 三上弘樹の方は、パンケーキに夢中で、まるで気付いていなかった。

 注文の品を用意し終えた店の人は再び奥へこもり、時折、大きな物音を立てていた。

 店の人が二人がかりで大きな樽を運んで戻ってきた。樽の上に大きな石を置いているのだが、それが運ばれてきたとたんに、何とも言えないにおいが漂った。

「あら?お漬物ね」

 木村康代が真っ先ににおいの正体に気付いた。

「今、裏の整理を行っていまして。…におい、気になります?」

 女性が詫びるように言った。

「いいえ、大丈夫ですよ」

 皆川令子が即答していた。

「あのお漬物石、良いわね。ああいうのがあるといいのだけど」

 木村康代の関心事は、樽の上の石のようだ。

「ホームセンターであるだろ?」

 皆川龍也がそっけなく言う。

「確かにあるけど、味気ないわよ、あんなの」

 妻が反論する。

 その時、皆のモバイルが一斉にメールの着信を知らせた。各々確認すると、満月の注意週間を知らせる、いつものものだった。

「もうそんな時期か」

「またこれ」

 それぞれ呟く言葉は違うものの、一様にうんざりした感がある。

「あ。漬物石に満月と言えば…」

 三上弘樹がおかしな声を発した。

「なぜつながる」

 皆川龍也が突っ込みを入れていたが、三上弘樹は気にしない。

「ああ言う石、家のどこかにあるはず」

「あら。それはぜひ、欲しいわ」

「あの石、まだあるの?」

 木村康代と武田祐美の声が重なり、内容はよく聞き取れなかった。

 武田祐美は慌てたように口を押えていた。

「僕が十歳の時?あれ?九歳かな?拾ってきたやつ」

 三上弘樹は何も気づかず、思い出にふけっていた。

 武田祐美は自分の失言が発覚せずに済み、肩を撫でおろした。友人と目が合い、複雑な表情で笑顔を作っていた。

「帰ったらその石、探してくださる?」

 木村康代は、漬物石がどうしても欲しいらしい。

「うん、探してみる」

「だからなぜ、漬物石と満月がつながる」

「え?ああ、あの石を見つけた時って、満月だったから。と言うか、両親の事故の時、満月だったのが強烈に印象に残ってたから」

 皆川龍也の問いに、三上弘樹は笑顔で答えていた。



  34


 夕食の時間になって、やっと三上弘樹が石を抱えて現れた。バレーボールくらいの大きさの石を、軽々と運んでくると、得意満面に、テーブルの上へ置いた。

「中々大きな石ね。でも、テーブルからはどけてくださる?」

 有無を言わせない木村康代の言葉が迎えた。

「あ、ごめんなさい」

 三上弘樹が石を持ち上げる。

「軽そうね」

 皆川令子が三上弘樹から石を奪った。ところが見た目通りの質量があり、落としそうになる。三上弘樹と二人で抱え、落下だけは避けた。落としていれば、床に穴が開いたはずだ。

「重いじゃないの!」

 文句を言ってみても、遅い。

「え?そんなに重い?」

 三上弘樹は石を軽々と持ち上げてみせた。

「ほー?どれどれ」

 皆川龍也が興味を持ち、松葉杖を壁に立てかけ、石を受け取った。妻のように取りこぼしそうにはならなかったものの、片足で支えるのは辛そうで、すぐに三上弘樹へ押し返した。

「見た目通りの重量だな」

 興味を持った皆川真紀もチャレンジした。重いらしく、ゆっくりと床へ下ろして、大きな息を漏らしていた。

「なんでヒロ兄が持てるの!」

「え?そこ、問題?」

 三上弘樹は追いやられ、住人一同がかわるがわるに持ち上げようとする。

 持ち上げることができたのは、男性陣と皆川真紀の三人だけであった。

「確かにおかしいな。弘樹があれほど軽々持っていたものが、なぜこうも…」

 木村賢吾が疑問を口に出していた。

「霊的なものか」

 ここにいる七人の中で、三上弘樹ひとりに該当する特殊な条件は、それだけだ。

「ほんとだ…これ、何か霊的なものを帯びてます」

 武田祐美が報告した。彼女も幽霊などの霊的なものを見ることができる。彼女は幽霊などに直接作用することはできない。対して、三上弘樹は直接触れて対処できる。この差が、石を持てるか持てないかの違いなのだろう。

「まさか、これも月の石じゃないだろうな」

 皆川龍也の声が異様に低い。

「これが、可香谷姫子氏の探し物ではないだろうな」

 皆川龍也の内なる怒りが声に乗っている。彼の推察が正しいのならば、ここ二ヶ月ほどの月のかけらにまつわる調査がすべて、無意味になる。皆川龍也は調査にかかわっていない。無駄な努力をしたのは、三上弘樹であり、武田祐美であり、巻き込まれた皆川真紀であった。

「え?まさか」

 三上弘樹はあり得ないとでも言わんばかりに答えていた。

 皆川龍也はその意見を黙殺すると、モバイルを操作して可香谷姫子に連絡し、明日事務所へ来るように頼んだ。

「ねえヒロ兄。あの石、どうしたの?」

 皆川真紀は、電話の邪魔にならないように声を落として尋ねた。

「ん?これは僕の両親が亡くなった時の、たぶん、事故原因になった石なんだ」

 三上弘樹は懐かしそうに石を持ち上げた。両親を一度に亡くした事故の思い出も、今では軽く口にできる。二十年前はまだ、涙したというのに。当人はそのことを自覚し、少し物悲しい思いをしていた。

「この石にかかわって、幽霊のゆみちゃんと出会ったんだよね」

 石に対して、悪い印象だけではなかった。この石を探しに行ったことで、三上弘樹は幽霊のゆみと出会い、心の平穏を得る手助けをしてもらった。後に命も助けられた。何者にも代えがたい恩人である。

「あの時の石か!」

 木村賢吾が昔のことを思い出し、頷いた。三上弘樹の両親の葬式の日に、彼が行方不明になった。木村賢吾が探し当てた時、彼が今手にしている石を大事そうに抱えていた。

「そうそう。迎えに来てもらって、そのまま持ち帰ったんだ」

「懐かしんでいるところ悪いが」

 皆川龍也が話に割り込んだ。いつの間にか電話は終わっていた。

「可香谷姫子氏はすぐに来るそうだ」

 そう言って、三上弘樹に石を持って事務所前の道路へ出るように促した。

 食事の用意は出来上がっているものの、皆川龍也、三上弘樹に続き、娘二人も部屋へ上着を取りに戻ると外に出た。

 事務所前の道路に出ると、すでに辺りは暗い。目の前の遊歩道がいくつもの街灯でライトアップされている。

 東の山の上に、丸くなりかけた大きな月が昇っていた。月の光を見つめていると、なぜか胸騒ぎを覚える。あるいは落ち着く人もいるだろう。月の光に魅入られ、絶えず見つめてしまうこともある。

 三上弘樹は外気に冷やされ、震えていた。月を見るどころではない。皆川龍也の後を追って、部屋着のままで外出していた。

 ニュースでは暖冬だと毎年のように言うが、さすがに日が暮れると刺すような冷気が漂っていた。吐く息が白い。

 木村賢吾が、男性陣二人の上着を持って現れた。三上弘樹は急いで受け取ると、石を下ろして、もどかしそうに着込んだ。

 木村賢吾が一階の事務所を開け、暖房を入れた。

「おお、わりーな」

 皆川龍也は悪びれずにそう言うと上着を肩に引っ掛け、事務所にあるソファーへ腰を下ろしていた。

 事務所の明かりがともる。それでも、外の月明かりが目についた。

 石はテーブルの上に置かれた。その石を囲むように五人が、座ったり立ったりして可香谷姫子の到着を待った。

 小一時間も経っただろうか。一台のタクシーが前の道路に止まると、一人の女性が飛び出してきた。

 皆川龍也が片足だけで、表へ出る。二階への階段に足をかけていた可香谷姫子が慌てて引き返してくると、二人そろって木村法律事務所へ入ってきた。

 その後ろから、皆川令子と木村康代も現れた。皆の帰りがあまりに遅く、様子を見に来たのだ。

 可香谷姫子はテーブルの上にある石を見るや否や大きな声を発した。

「ああ!」

 指差して何やら喚く。

「どうやら、これらしいな」

 呟く皆川龍也の目が、三上弘樹を突き刺していた。三上弘樹はまるで気付かずにいる。

「そうです!これです!よく見つかりましたね!」

「見つかったというか、この馬鹿がずっと所有していたらしい」

「え?」

「これ、三十年前に拾ってきた石」

 三上弘樹はどこか自慢げだ。しかし、周りの全員が、呆れ顔になっている。

 皆川令子は苦虫を噛み潰したような顔になっていた。捜索にかかった費用や、日数と人件費を掛け合わせ、それに報酬を上乗せして請求すべきだが、こちらの不手際による徒労だと判明している。二ヶ月も要したのに、人件費などの請求ができない。ちょっとした成功報酬しか要求できないだろう。後で絞殺してやる、と内心思いながら、三上弘樹を睨みつけていた。

 仕事を依頼した可香谷姫子も、三上弘樹を見つめて呆れていた。発するべき言葉が見つからない。

「本当に、何時もいつも、こいつが関わると、締まらんな」

 皆川龍也は片足で器用に部屋の中を移動し、松葉杖を手に取った。

「諸悪の権化ね」

 皆川令子も切り捨てる。

「ちょっ!僕が悪いみたいに言わないでよ!」

「悪いでしょ」

「なんで?」

「この石をさっさと出していれば、一瞬で終わった依頼じゃないの!」

「いやー。すっかり忘れてて」

「馬鹿!」

「月と漬物石でこれを思い出しただけでも凄いじゃないか」

「何を誇ってやがる」

「ヒロ兄らしいね、いつものことだけど」

「世話が焼ける息子だ。本当に」

「みんなして…。武田さんは味方してくれるよね?」

「え?あたし?…ノーコメント」

「康代さーん」

「泣き声出して見せても、私は与り知りません」

「そんなー」

 嘆く三上弘樹を他所に、皆、苦笑していた。

「ああ!」

 石を念入りに調べていた可香谷姫子が大きな声を出していた。

「どうしました?」

「きずが!こんなところにきずが!」

 可香谷姫子が指差すところに、何かがこすってできたような跡が存在した。

「ああ、それ、事故の時のだと思う」

 三上弘樹の声が普通に戻っていた。先ほどは泣きまねだったのだろうか。

「事故?」

「僕の両親が亡くなった事故。この石にぶつかって、車が故障して…」

「そんな…」

「いいんだ。もう三十年も前のことだし」

「いえ、そんなことではなくて」

「え」

「あ、ごめんなさい。ご愁傷さまです。ですが、この石は車がぶつかった程度できずがつくようなものではないんです」

「霊的なものが保護をしているから?」

「そうです」

「でもついちゃったんだし」

 可香谷姫子が三上弘樹を見つめ、諦めたようにため息を漏らした。

「そうですね」

 可香谷姫子は少し考えこみ、何かを思いついたのか、呟いていた。

「だからこの石本来の効果が発揮できていなかったのかも…。このきずさえついていなければ、きっと、もっと早く発見できたのに…。とにかく連絡をつけて、これを月に返さなければ…」

 その呟きは小さすぎて、周りの人々には聞こえていない。武田祐美を除いては。

 武田祐美は以前、皆川龍也に相手の思考を読むように頼まれたこともあり、なんとなく、可香谷姫子の思考に焦点を合わせていた。そのため、思考の声として聞こえていた。

「どうやって月に返すんですか?」

 武田祐美は思わず尋ねていた。慌てて口を押えても、もう遅い。聞き逃さない人物が数人いた。皆川龍也、皆川真紀、そして可香谷姫子本人であった。

「どうしてそれを!」

 可香谷姫子も、失言だった。だが同時に、彼女の中でわだかまっていた疑問に答えが投げかけられたように感じていた。

 可香谷姫子は以前、事務所を訪れた時、ルーナベイビーズの、月のかけらへの執着心を取り除いているところを目撃した。その方法を疑問に思っていたのだが、彼女は初めから答えを知っていたのかもしれない。そのことに、今、気付けたのだった。

 皆川龍也、皆川真紀の二人は、上げ足を取る形でも、可香谷姫子の秘密を解明したかった。と言うよりも、おもしろがっていたのかもしれない。

「ほう。月、ですか」

「まるで、かぐや姫の話みたい」

「そう言えば、お名前の雰囲気も、かぐや姫に似ておられますね」

「月のお姫様だったの?」

 親子が、矢継ぎ早に言い立てた。

 可香谷姫子は、武田祐美に対しての答えは考え付いたものの、皆川親子の質問には対処方法が思い当たらず、たじろいだ。

「そんなんじゃありません!ただの官吏です!」

 可香谷姫子が再び、口を開けて顔をしかめた。

「へー。お月さまに宮仕えがあるんだ」

「そこは人ならざる者の国ですか」

「黄泉の国でしょ。パパ」

 この親子、特に父親の方は信じてもいない事柄を、次から次へとよくも言えたものだ。

 可香谷姫子は口を閉ざした。

 自然、親子の視線は武田祐美に向けられる。武田祐美は答えに困った。可香谷姫子の思考から、答えは得てある。しかし、それを告げれば、自分の能力を可香谷姫子にさらすこととなる。

「驚いたわね。何かしら能力を持っていたとは思ったけれど」

 可香谷姫子が武田祐美を見つめて言った。彼女の目は何かを確信したようだった。

『転生させた幽霊が、人の心を読める人だった、ということね』

 可香谷姫子の思考が聞こえた。

「え?それ、どういう…」

 武田祐美は驚き、聞き返していた。

『やはり聞こえているのね。幽霊の時はあれが普通かと思っていたのだけど…。まったく、思い出してみれば、そうよね。人の思考を読んで会話していたものね。それの応用かしら?執着心を取り除いたのは。あのまま転生させたのだから、力も受け継いでいておかしくなかったのよ。それにしても、イレギュラーが再々発生するものね…』

 可香谷姫子は口を堅く閉じたまま、武田祐美を凝視していた。

『転生ね、あなたが引っ掛かっている部分は。悪霊退治の功績を認め、特例的に、すぐに転生させたのよ。本来ならば、黄泉の国で記憶を消して、魂の浄化を行ってから転生するものなの』

 武田祐美はただ、口を押さえ、両目を見開いていた。

『そう。あなたたちが考えているように、私は黄泉の国の官吏。この石を探すために人の世へ来た』

 武田祐美はしばらく、茫然としていた。

 三上弘樹の手が、武田祐美の肩に置かれた。彼には可香谷姫子の思考は聞こえていない。武田祐美の思考から、何か重大事を知ったとみて、大丈夫かと、手を置いたのだった。

 武田祐美は三上弘樹に向かって小さく頷く。

「じゃ、月に帰るの?」

 可香谷姫子に対しては、そう尋ねた。

『そうね。でも、すぐではないの。可香谷姫子の人生を終えてから』

 可香谷姫子は口に出しては答えなかった。

「何?月の使者が迎えに来るの?かぐや姫みたいに」

 皆川真紀はどこか楽しそうだ。

『今の件は内密に』

 可香谷姫子の思考はそう締めくくった。

「使者は来ません。申し訳ありませんが、説明もできません。でも、石が戻る様子は、もしかしたら、見ることができるかもしれません」

 口に出してはそう説明した。

「何か手伝えることは?」

 三上弘樹が尋ねていた。

 可香谷姫子はしばらく思案すると、

「三日後に、あなた、私の手伝いをしていただけますか」

 三上弘樹に対して問うた。

「夜?」

「はい、満月が天頂にかかるころ合い。真夜中です」

「僕は構いませんよ。せっかくかかわったのだから、最後まで見たい」

「あたしも行きたい」

「ボクも行きたい」

「俺も見たい」

「じゃあ、私も」

 名乗りを上げなかったのは、木村夫婦だけだった。

「申し訳ありません。霊的なことなので、おそらくあなた方には見えません。邪魔になるので…」

「おーはっきりと言うね」

「すみません」

「いいわ。彼を使う分、料金は上乗せね」

「は、はい…」

「えー。ボクも見たい!」

 皆川真紀が食い下がる。

「連れて行っては差し上げられませんが、当日、満月を見ていてください。もしかしたら、何かを見られるかもしれませんよ」

 可香谷姫子はそう言って、断った。



  35


 三日後の夜、可香谷姫子が訪れた。

「僕、ペーパードライバーだけど」

「え?運転できないの?」

「いや、車乗ると事故るし」

 彼女は三上弘樹が当然、車を運転できると考え、その車で移動する算段だった。

「免許取ってすぐに事故して、入院して、姫ちゃんに出会ったんだから」

 つまり、ペーパードライバー歴二十年ということになる。

 可香谷姫子が頭を抱えていると、

「俺が運転しよう」

 と、皆川龍也が名乗りを上げた。杖は一本に減ったものの、未だに右足の自由は利かない。再三傷口を開かせていた前科も伴い、妻に問答無用で首根っこを押さえられ、引き下がった。

「ボクが運転する!」

 次に名乗りを上げたのは、免許の取得年齢に達していない少女だ。

「分った分かった。俺が運転しよう」

 木村賢吾が呆れたように名乗りを上げ、事態の収拾を見るのだった。

 月が天頂に達しつつある。

 可香谷姫子は内心焦り始めていた。

 運転席に木村賢吾、助手席に可香谷姫子、そして後部になぜか三人乗りこんでいた。三上弘樹は当然として、武田祐美、皆川真紀が、しっかりと紛れ込んでいた。

「賢吾おじさんがいいなら、ボクもいいでしょ!」

 年相応に駄々をこねる少女に、可香谷姫子が折れることで決着をみた。可香谷姫子にとって、時間が押し迫っており、これ以上無駄な時を過ごすわけにもいかなかった。

 武田祐美や沈黙を守ることで、労せず、好奇心を満たしに出かけることができた。皆川真紀のおかげとも言えた。

 乗用車が動き出す。

「どこへ向かう?」

「それなりに高くて開けた、ひと気のない場所がいいのですが」

「だったら、少年自然の家の傍に、公園があったな」

 木村賢吾は可香谷姫子の条件から該当する場所を頭の中で探し出し、そこを目的地として向かった。

「あそこ?中学の時行ったなぁ。夜中に銅像の指差す方向が変わるって、みんなで騒いでたっけ」

 三上弘樹が懐かしむ。

 少年自然の家の近辺はアスレチック用に小道が色々作られていて、地図とコンパスを頼りに目的地をたどるゲームが行われたりした。夜は少年自然の家に泊まり、集団生活を体験していくのだ。

 街灯もないような、小さな山の上にあるので、夜ともなればひと気はない。車でそこまで二十分ほどだろうか。

 二十分ほどでたどり着くと聞いて、可香谷姫子は小さく、安堵のため息を漏らしていた。

「可香谷さんに聞いてみたかったのだけど」

 皆川真紀が口を開いた。

「なにかしら?」

 可香谷姫子が助手席から振り向いた。

「この石」

 皆川真紀が、三上弘樹が持つ石を指差した。

「もし見つからなかったら、どういうことになっていたの?」

「そうね…」

 可香谷姫子は少し考えてから答えた。

「最近幽霊やオカルト絡みのことが多く起きているのは知っていますか?」

「ああ、確かに多い気がするなぁ」

 答えたのは、三上弘樹だった。

「見つからなければ、それがもっともっと増えて、世間を騒がすような事件も起きたでしょうね」

「たとえば?」

「悪霊が人々を呪い殺すようなことが、現実に起こったでしょうね」

 皆川真紀には伝わり難いようだ。怪訝な表情から察し、可香谷姫子は実例を挙げた。

「二十年前、とある女性が悪霊に支配され、病室が破壊される事件が、実際にあったの。ヒロキが悪霊を退治しなければ、その女性は死んでいたでしょうし、周りにもっと被害が出ていたでしょうね」

「ああ、あったね。彼女の名前、なんだったっけな?」

「思い出さなくていい」

 皆川真紀がにべもなく言った。武田祐美も可香谷姫子も表情に陰りがあった。三上弘樹はまるで気付いておらず、一人物思いにふけるところだったのを、皆川真紀の一言で遮られた。

「表には出ていないけれど、そういう事件、事故はあちこちで起きているの。例えば、最近虐待が多いけれども、そのうちの何人かは、霊に操られていた節があるわ」

「何の前触れもなく起こったような事件とかも?」

「ええ。誰もいない部屋から火の手が上がったとか、落ちない石として有名な石が、唐突に落ちてしまったとか」

 皆川真紀は可香谷姫子の話を聞きながら考え込んだ。

「そういう事件が多くなる。原因は悪霊。ということは、石が見つからなければ、悪霊が増えていくってことでしょ?」

「そう。元々幽霊になりやすいのは、恨みを持った人、未練を残した人なの。そういう幽霊が力を持つと、悪霊になりやすいわ。そして、普通に亡くなった方の魂は本来、石に導かれて旅立つものなのに、地上に残ってさまよっているの。そう言った普通の魂を、悪霊や悪霊になる素質のある霊が取り込んで力にして、事故や事件を引き起こすのよ」

「確かに、悪霊に多くの霊が取り込まれているねぇ」

「妖怪?でもそうでした。心美ちゃんが憑りつかれた時も」

 三上弘樹に続いて、武田祐美も口をはさんだ。

「ああ言うのがわんさか増えてくれたら、厄介だなぁ」

 三上弘樹が実感のわかない表情で呟いていた。その横で、皆川真紀の顔が青くなっていた。斉藤心美の一件の時、彼女は武田祐美の隣で目撃していた。彼女には、事のすべてを見ることはできなかった。しかし、実際に被害にあった人々がいた。その事実を承知している。あのような事件が、頻発するようになれば、どれほどの惨事が発生するのか、彼女には想像できてしまった。

 斉藤心美の時は、武田祐美と言う、抑止力があった。三上弘樹と言う、対処できる存在がいた。もしも二人がいなければ、もっと被害者が出て、最悪、自分もその内の一人になっていたであろう。

 走行中の車中、上空の飛行機の中で起これば、事故、大惨事が起こる可能性もある。列車が脱線して、近隣の建物を破壊しつくすこともあるのではないか。

 もしも世界規模で頻発すれば、パニック映画よろしく、大混乱が発生するに違いない。

 その元凶の石が、今、隣にある。この石そのものが災いを呼ぶわけではないが、この石が機能しないばかりに起こるのだ。災いの元と言えなくもない。

 災いの元の石を、三十年保管し続けた人物がいる。よくも今まで無事で過ごせていたものだ。この石が災いを引き起こすのではないと分かっていても、どうしても、禍々しく見えてしまう。

 車が止まった。

 月明かり以外何もない。辺りは異様に青みがかっているが、見渡すことはできた。闇との境は、何かが潜んでいそうなほど、暗く沈んでいた。

 車の止まっているところは、小さな空き地のような駐車場だ。柵の向こう側は下り坂になっている。柵の途切れたところに、道路があった。ここから駐車場へ入ってきたのだ。

 道路の先は闇に沈んでいる。駐車場も反対側は闇が押し迫るように背を伸ばしていた。その闇の中に何かが潜んでいても、見つけることは不可能だった。

 五人が車を降りた。

「道路の向こう側、少し斜めに行ったところに小さな登り口がある。そこを行けば、公園に出る」

 木村賢吾がそう言いながら、道案内した。

「うわー。真っ暗で見えないや。ここを下ったところかな。少年自然の家は」

 三上弘樹が柵に近づいて、下っていく道を眺めていた。月明かりで道は見えるものの、先は木々に遮られ、暗がりに沈んでいた。

 公園への登り口には月明かりが届かず、闇に紛れて判別できなかった。そこは闇の壁があるだけだ。

 闇に足がすくみ、近づくことができない。何もないと分かっていても、本能で怯えているのか、足が思うように進まない。

 公園の入り口は、皆川真紀がモバイルのライトを点灯させ、闇を追い払うことで、見つけることができた。

 小道は急こう配に登り、木陰へ消えていた。その道筋を闇が侵食している。闇の中へ消えてしまいそうで、足元がおぼつかない。

 皆、無言で、それぞれのモバイルを取り出し、ライトを点灯して足元を照らした。

 三上弘樹が追い付いてくる。

「見てみて。生首」

 モバイルの新機能、3D投影機能を使って、自分の顔をモバイルの上に表示していた。頭だけが表示されたその様は、暗がりも相まって、さらし首のように見えた。

 女性陣は一様に寒気を覚え、逃げるように小道を登っていった。

「あ、ちょっと待ってよ」

 三上弘樹は暗がりに取り残され、慌てて後を追うのだった。

 木々の合間を縫う小道を歩いた。明るい時分であれば、一分程度の距離だろう。しかし、暗がりに足がすくみ、ライトで足元を確認しつつ歩くので、恐ろしく時間を要した。あるいはそう感じただけなのかもしれない。闇は時間にも覆いをかけてくる。

 ライトで足元を照らしているにもかかわらず、足元に闇が這いより、深い穴に引き込まれるような錯覚に襲われた。周囲の闇がその手を伸ばし、捕らえようとしている。闇の中から、その眷属が襲い掛かってくるのではないか。

 暖かい季節なら、それこそ虫が飛び込んできただろう。バッタが視界に飛び込むたびに、恐怖したに違いない。幸い、冬のこの時期にそういった虫に襲われることはない。ただの杞憂なのだが、どうしても警戒してしまう。

 急に月明かりの届く、開けた場所に出た。右手の闇が遠退いた。左手は相変わらず闇が押し迫っているので、木々が近くにあるのだろう。

 この右手には別の小道がある。公園の外周を回る小道へ降りることができる。昼間であれば、起伏にとんだ散歩コースとして最適だ。しかし、今は闇に沈んでいて、そこに道があるとは思えない。

 月明かりに照らし出された足元は、踏み固められた土だった。人の通った跡、水の流れた跡にくぼみがある。

 少し進むと、左側も闇が退いた。

 月明かりで変色しているので分かりにくいが、芝生か何かがあるようだ。あまり整備されておらず、デコボコと起伏している。地面は奥に向かって登っていた。

 左右は闇に行き当たる。そこに垣根があるのだが、シルエットしか分からない。右側の闇の傍に、何か人工物が見える。よくよく目を凝らしてみると、遊具のシーソーだ。

 左側も闇の手前に、ブランコらしきシルエットがあった。

 各々、ライトを消した。月明かりで十分見える。見えないところは、ライトの明かりも届かないので、あまり意味がなかった。

 正面の斜面を登り切った一角に、何かのシルエットがある。頂上に建物があり、その横に骨組みのようなものがある。骨組みのようなものから長い鼻を伸ばすように下へ続いていた。滑り台だ。

 遊具はそれぞれ、敷地の端の方に位置していた。中央は起伏が激しいものの、ある程度の広さがある。サッカー場の半分くらいだろうか。斜面で起伏が激しいため、サッカーに利用はできそうにない。

 月は上り坂に向かってやや右手の空高くにあった。とても大きく、丸い。暗い空に空いた穴のようだ。その穴に吸い込まれそうな感覚に襲われる。

 月明かりはどこか冷たく、なのに神々しくもある。人々は自然と月に視線を奪われ、離すことができない。

 体の中の何かが月へ引き寄せられる感覚に襲われた。

 吐く息が白い。それが月の光を和らげ、目線を外すことができた。

 霊感のない皆川真紀、木村賢吾も、何かを感じ取ったのだろう。上着を引き寄せ、首をすくめていた。

 可香谷姫子は公園の中央まで進んだ。

「皆さんは少し離れて。ヒロキは石を持ってこちらへ」

 可香谷姫子の指示に、皆黙って従う。

 可香谷姫子は皆が少し離れたのを確認すると、月に向かって両手を差し伸べた。その手を一度引き戻し、手袋を外して、もう一度手を月に向けて伸ばした。そのまましばらく身じろぎしない。

 月明かりの静寂の中、時間がゆっくりと進んでいた。虫の鳴く季節でもないので、物音がない。静かに闇に沈んでいた。闇が生き物を隠しているのかもしれない。足元から闇が這いあがるように、冷気が襲ってくる。

 月を見上げると、刺すような光に満ちていた。月明かりが闇を追い払い、清めていく。光が闇に突き刺さり、冷気を発した。

 気のせいだろうか。月の中で、何かが動いているようにも見えた。時間が経つにつれ、徐々に大きくなっているようだ。

 霊感のない二人も何かを感じるのか、月を見上げていた。霊感のある二人は、異変を認識して、この先何が起こるのか、固唾を飲んで待った。

 異変に気付いたのは、間際になってからだ。

 可香谷姫子の目の前に、光の筒のようなものが降り立った。月明かりから変形した、光の筒がそこにつながっている。

 霊感のない二人は月を見上げたままなので、この筒は、霊感のある者にしか見えていないようだ。

 可香谷姫子が顎をしゃくって、三上弘樹に合図した。

 三上弘樹は石を持って光の筒に近づいた。

「その中に石を入れて」

 言われるまま、石を差し出す。やはりただの光のようで、抵抗なく通過した。

 ところが、石が勝手に空へ向かって登っていく。瞬く間に速度を上げ、吸い込まれていった。正確には、月へ向かって落下しているのだが、地球の重力と逆方向なので、その感覚はなかった。

「石が消えた…」

 後ろで少女の声が聞こえていた。

「今上って行ってる」

 もう一人の少女が説明していた。

 三上弘樹は光の筒を触ってみた。が、感触はない。吸い込まれるようなこともなかった。

 しばらくすると、その光の筒が徐々に戻っていった。月明かりの中に紛れ、見分けがつかなくなる。

 その間もずっと、可香谷姫子は両手を空にささげたままだった。

 だいぶ時間が経過してから、可香谷姫子が両手を下ろし、両手をこすり合わせ、息を吹きかけてから、手袋をはめた。

「これで終わりなの?」

 三上弘樹が拍子抜けだと言わんばかりに尋ねた。

「ええ。終わり。協力ありがとうございました」

 そう言って、頭を下げた。

 二人の元へ、残りの三人が近づいてきた。空を再々見上げている。

 可香谷姫子が空を指差した。

 皆が見上げる。

 月が、震えたように見えた。あるいは、月明かりが瞬いたのだろうか。目の錯覚なのかと、互いに顔を見合わせる。

「今の、何?」

「月が動いた?」

「まさか…」

 皆が口々に呟く。少なくとも、ここにいる全員が目撃したことは分かった。

 月の変化は一瞬で終わり、あとは平然と鎮座していた。だが、また何か変化があるかと、しばらく見入っていた。

 三上弘樹は月から視線を離し、ゆっくりと下へ移していった。その途中で奇怪なものを目撃し、言葉にならない声を漏らした。

「何あれ…」

「うそ…」

 霊感のある三人がそれぞれ、声を発し、一様に驚きと、恐怖の様相を呈していた。



  36


「二人は僕の後ろにいて」

 三上弘樹は手袋を外すと、ポケットから銀色のジッポライターを取り出していた。

 彼がそれを取り出すのは、除霊を行う時だけだ。事を察した霊感のない二人は、無言で三上弘樹の後ろに立った。その二人を囲むように、霊感のある三人が立った。

「こっちからも!」

「こっちもよ!さっきの異変に気付いて、近くの妖怪や悪霊もどきが集まってきているのよ!」

 可香谷姫子の声に、悲鳴のようなものが混ざっていた。

「武田さん!できるだけあいつらを一ヵ所に集めて!」

 三上弘樹は助手に仕事を依頼した。

「そんなこともできるの?」

 可香谷姫子の問いには誰も答えなかった。

 武田祐美はいくつもの霊体に意識を向け、一ヵ所に引き寄せた。そこへ三上弘樹が駆け込み、ジッポライターで火を放った。炎は瞬く間に広がり、集団を包み込む。炎は霊体を燃料として燃え盛り、小さくなって消えた。

 囲みの開いた場所を狙うかのように、妖怪たちが集まり、人々に迫る。

 三上弘樹にとって、好都合だ。急いで立ち戻ると、その先頭集団に火を放った。炎が後ろの妖怪や幽霊たちに飛び火していった。

 別の場所に、武田祐美が霊体を集めている。

 三上弘樹は合図でもされたかのように、後ろへ向かって走り出し、その集団に火を放った。こちらも瞬く間に炎に包み込まれる。

 一体の妖怪が、辺りの霊体を吸収し始めた。霊体を力として取り込み、三上弘樹に対抗しようというのだろう。瞬く間に、辺りの霊体が取り込まれ、歪な体を持った妖怪が生まれた。

「そんな…あそこまで力を付けたら…」

 可香谷姫子が相手の力量を予想し、恐怖した。腰が砕けるように、地面に座り込んでいた。

「自分たちから一ヵ所に集まってくれるのなら、好都合じゃないか」

 三上弘樹は悠然と構え、待ち望んだ。

「駄目よ!あんなものが触れたら、人なんてひとたまりもないわ!」

「まあまあ」

 絶望的だと言わんばかりの可香谷姫子をしり目に、三上弘樹は落ち着いたものだった。

「何あれ!」

 皆川真紀が大きな声を発していた。

「うそだろ…」

 木村賢吾も、驚愕していた。

 霊感のない二人が、膨張し続ける妖怪を凝視していた。

 妖怪の姿は、西洋のドラゴンのようでもあり、羽の生えた悪魔のようでもあった。角のようなものが生え、大きな牙が見える。

「え?見えるの?」

 三上弘樹が霊感のない二人の顔を交互に見比べていた。

「辺りの霊体を取り込んで実体化した…」

 可香谷姫子の声が震え、とぎれとぎれになっていた。

「弘樹さん…これ、まずいんじゃ?」

 武田祐美も不安に駆られ、三上弘樹の背後に隠れるようにしていた。

「うーん、あれ、実体?え?まずい、かも?」

 三上弘樹は、相手が霊体であれば、どのような相手でも平気だと考えていたが、実体であれば、簡単に殴り倒される自信があった。彼には腕力も、機敏さもない。

 辺りの妖怪、霊体がすべて、目の前の怪物に取り込まれた。得体のしれない怪物が、腕のようなものを振った。

 地面に当たり、大きくえぐれ、地面を揺らした。

 その音と振動に足がすくみ、崩れ落ちそうになる。

「逃げろ!」

 木村賢吾が、半分転がりながら、後ろへ駆けだした。皆がその後を、同じように転がりながら追いすがる。

 月明かりだけでは足元のくぼみのすべてを把握できない。そもそも、そこまで冷静に足元を見ていられない状況だ。一歩進んでは躓き、転びかけてよろめきながら進む。

 後ろで再び大きな音と地響きが起こった。

「ボクが足止めする!」

 皆川真紀が勇敢にも、怪物を相手どろうと、振り向いて身構えた。

「無駄よ!逃げましょう!」

 可香谷姫子は腰が砕けているのか、中腰で片手を地面につけていた。

「あたしが操ってみる!」

 武田祐美も立ち止まり、怪物を見据えた。

 怪物が重い体をゆすり、地面を揺らしながら、近づいてくる。

 皆川真紀、木村賢吾、可香谷姫子は一縷の望みを武田祐美に託し、地面にしゃがみこんだまま、少女を見上げていた。

「ダメ…効かない…」

「ねえ、あれって、色々なものが混ざっているんでしょ?仲たがいさせて分裂させられない?」

 皆川真紀がすぐに別の案を出していた。

「やってみる!」

 その間にも怪物は迫ってくる。

 怪物の頭が月明かりを遮った。闇が押し迫る。たったそれだけで、怪物に押しつぶされそうな圧迫感に襲われた。

「おい!弘樹はどこへ行った?」

 木村賢吾が叫んでいた。

 皆が辺りを見渡してみても、姿が見当たらない。

「一人で逃げたの?」

 可香谷姫子が悲痛な叫び声をあげていた。

「ダメ!あたしの力が及ばない!」

 武田祐美の顔が引きつっていた。その顔が、おかしな形で固まる。ゆっくりと怪物の方へ顔を向けた。

 皆川真紀がその視線を追う。

 怪物のすぐ後ろに、何かが立っていた。

 皆川真紀は怪物の後ろの影を予測した。恐怖で鈍っている頭を回転させる。一つの結論に達すると、手元にあるものを適当につかんで怪物に投げつけ始めた。幸いにも、手探りでも石が多数つかめた。

 怪物が皆川真紀を目指して進んでくる。後ろのものには気付いていない。

「何をやっているんだ!早く逃げろ!」

 木村賢吾は迫りくる怪物から逃げるように、少女に命ずる。しかし、皆川真紀は従わず、怪物の注意を惹き続けた。怪物が腕を一振りすれば、彼女が押しつぶされる位置に、残り続けていた。

 武田祐美は可香谷姫子を手助けして、木村賢吾の傍まで下がった。

 小さな炎が起こった。その炎の隣に、頼りない男の顔が浮かび上がった。

 怪物のすぐ後ろだ。その炎に、武田祐美は救われた。落ち着きを取り戻すことができた。

「もう大丈夫」

 そう呟いていた。

 可香谷姫子と木村賢吾は、理解できないのだろう。恐怖にひきつった顔のまま、早く逃げようと急き立てた。二人とも腰が抜けているのだろう。立ち上がろうとはしなかった。這いずり回って逃げようとしていた。

 小さな炎が、怪物の背に移った。炎が瞬く間に怪物を覆いつくす。

 驚いた怪物は激しく動き回り、火を消そうと踊り狂った。

 皆川真紀はとっさに後ろへ飛び退いていた。

 暴れる怪物の余波を受けて、怪物の後ろにいた影が突き飛ばされていた。

「あ」

 状況を理解していた皆川真紀と武田祐美が、同時に声を漏らしていた。

「痛そう…」

 皆川真紀の声が、明るい。緊張の色は含まれていなかった。

「何が…」

 木村賢吾は言葉を紡ぐことができなかった。何が起きているのか理解が追い付いていない。

 可香谷姫子も同様に、驚愕していた。実態を得た怪物は、近隣の生き物を破壊しつくして暴れまわるはずだった。自分も犠牲になるに違いない。そう確信していたのに、なぜか今は炎に包まれて、苦しんでいる様子だ。

 少女二人は勇敢にも、怪物の脇をすり抜けて、影が吹き飛ばされた方向へ向かった。

 怪物は炎に踊り狂わされ、少女の動きに気付いていない様子だった。

 地面が大きく抉れている。硬く、大きなものがそこに落ちた跡だ。人が一人、横になれば、隠れられるほどだ。

 怪物の一撃を物語る穴を目撃し、少女二人は身震いした。気を抜けば、足の力が抜けて、崩れ落ちてしまいそうだ。互いに見つめ合い、引きつった笑顔で頷くと、先へ進んだ。

 共に歩む者がいるからこそ、歩けた。もう無事だと分かっていても、一人なら、ここで身動きできなくなっていただろう。

 公園の斜面の途中に、三上弘樹が横たわっていた。

「大丈夫?」

 皆川真紀が声をかけた。

「大丈夫くない。痛い」

 三上弘樹は胸の辺りを押さえていた。

「大丈夫そうだね」

 皆川真紀はそう言うと、振り向いて怪物の様子を眺めた。

 武田祐美が手を差し伸べて、起き上がるのを手伝おうとしたが、三上弘樹は起きようとしない。

「あ、ジッポ!」

 三上弘樹が右手を広げて、辺りを見渡した。急に起き上がる。皆川真紀が予測したとおり、体の方は大したけがもない様子だ。それどころか、怪物に対して恐怖心も抱いていないのか、足も震えておらず、しっかりした足取りで辺りを捜し歩いていた。

 手を差し伸べていた武田祐美は、複雑な表情になりながら、自分の手を見つめて引っ込めた。

 怪物が燃えているおかげで、少しばかり明るい。が、地面はかえって影が増え、どこに何があるのか見分けがつかなかった。

「ジッポは明るくなってから探しにくれば」

 皆川真紀はにべもなくそう言い放つと、再び怪物の横を通って、茫然とする大人二人のところへ戻った。

 武田祐美も友人の後を追った。地面をはいずる三上弘樹に一瞥をくれただけで、何も言わない。

 怪物は炎に焼かれ、徐々に小さくなっていた。



  37


 怪物が燃え尽きると、さすがに木村賢吾は重い腰を上げることができた。顔は茫然としたままで、動きも緩慢だが、助かったことだけは理解した模様だ。

「もう大丈夫なのか?」

 それでも口に出して、誰かに答えて欲しかったのだろう。木村賢吾は誰へともなく尋ねた。

「うん。もう霊体も妖怪も近くには見えないから、大丈夫」

 武田祐美が請け負った。

「そうか…。とにかく、俺は車に戻る」

 言葉も普段よりゆっくりと発していた。本人にはゆっくり話している自覚がなかった。ふらつきながら、元来た道をゆっくりと戻っていった。

 木村賢吾が闇に紛れたころ、可香谷姫子がやっと口を開いた。

「もしかして、あれ、ヒロキがやったの…?」

 先ほどまで怪物が燃えていた辺りを指差す。膝が笑っていて、まともに立ち上がれない。彼女は諦めて、足を投げ出して座った。

「うん」

 武田祐美が短く答えていた。

「ヒロ兄って、案外、すごいんだね」

 皆川真紀の表情はどこか、嬉しそうだ。

「普段たいしたことないのにね」

 そう付け加え、笑った。

「本当に」

 可香谷姫子も同意し、笑っていた。やや引きつった笑いではあったが。

 武田祐美は微笑むだけだ。彼のことを笑うことはできない。今回も彼のおかげで救われたことを、実感していたのだ。

 いつも、本当に困ったときに、三上弘樹はあり得ない才能を発揮して、自分を助けてくれる。事も無げにやってのける様が、かっこいいとさえ思えていた。

 武田祐美の前世、幽霊の時代の記憶や気持ちとも重なって、三上弘樹のことをただならぬ思いで見つめるのだった。

「まったく。やっぱり情けない姿で終わるのに…」

 可香谷姫子がぼやいた。ただ、言葉とは裏腹に、三上弘樹をまぶしそうに眺めていた。

 三人が見つめる先で、三上弘樹は、大きなカエルが飛び跳ねるかのようにそこここに移動して探し物をしていた。

「ヒロ兄は、たまにはカッコいい!」

 皆川真紀にとっての彼は、年の離れた、優しい兄であり、憧れの人だ。彼の霊能力については、霊感のない彼女にはまるで分らなかった。

 憧れたきっかけは、彼の優しさだ。人とは違い、色々なことを考え、質問を繰り返していた小学生時代に、彼と父親だけは真剣に相手を務めてくれた。同級生や先生たちは、あまりに多岐にわたる質問に辟易し、離れて行ったことがある。三上弘樹は答えられなくても、一緒になって真剣に悩んでくれたものだ。

 皆川真紀が成長するにつれ、母性本能でも生まれたのだろうか。普段情けない様子の彼を見るにつれ、

「ボクが守ってあげたい」

 と思うようになっていた。

 そんな彼の、見たことのない一面を垣間見ることができ、皆川真紀は嬉しかった。見たいと渇望し続けて、叶わなかったことだ。霊感がないばかりに、一人取り残されていた。だが、つい今しがた、彼の雄姿を目撃できた。

 皆川真紀の方が、肉体的にも、頭脳的にも勝る。にもかかわらず、皆川真紀は、三上弘樹に羨望の眼差しを向けていた。

「あれ?まさか、あなた」

 可香谷姫子が驚きの声を発した。徐々に声のトーンを落とし、口に手を当てた。

 皆川真紀が振り向くと、可香谷姫子は彼女を見つめていた。

「どうかした?」

「あなた、あの人のことが、好きなの?」

 皆川真紀は唐突の質問に、答えることができなかった。笑顔がこぼれそうになるのを必死に堪えた。

「信じられない。あんな情けない人を好きになる人が、他にいるなんて」

 皆川真紀が必死に表情を制御しても、隠しきれなかったようだ。可香谷姫子は断定したうえに、おかしなことを言う。

 皆川真紀にしては珍しく、おかしな部分を追求するのに一呼吸置くほどの時間を要した。

「他にって、可香谷さんも?」

 可香谷姫子は皆川真紀を見つめ、小さく頷いた。

「うそ…」

 問い質しておいて、皆川真紀は驚いていた。

「告白したの?」

 可香谷姫子は核心部分を容赦なくつく。

 皆川真紀は首を左右に、激しく振った。

「どうせ、武田さんも告白していないのでしょ?」

 可香谷姫子は武田祐美も同じだと確信している様子だ。

 皆川真紀が驚き、友人を見据えた。

 武田祐美も驚いた。誰にも自分の気持ちをはっきりと伝えたことはない。特に可香谷姫子とは親密な関係ではないのだ。自分の気持ちを知るはずがない。

「祐美ちゃんも?」

 皆川真紀が小さな声で呟いた。

「だってそうでしょ?」

 可香谷姫子は周知のことだと言わんばかりだ。

「あなたの前世と彼の関係を考えたら、とっくの昔に告白していてもおかしくないのに。二人を見てもそれほど親密な様子がないから、驚いたわ」

「前世?」

 問い返したのは皆川真紀だった。

 武田祐美は言葉も出ないほど、驚いていた。なぜ可香谷姫子は自分の前世のことをそれほど知っているのだろう。先日、転生させた張本人だとは言っていたが。疑問でならない。

「私が九歳の時、病院で会ったことは覚えているのでしょ?」

 そう問われ、武田祐美は躊躇した後、頷いた。可香谷姫子の思考を読むまでもなく、彼女は覚えている様子なのだ。

「え?もしかして、ヒロ兄の恩人の幽霊?」

 皆川真紀は三上弘樹から話に聞いていたことを思い出し、目の前の二人の会話から、そのことに結びつけた。

「あら?伝えてなかったのね。ごめんなさい。私てっきり…」

 可香谷姫子が慌てて詫びたが、もう遅い。

「それで、この前の喫茶店の時の…」

 皆川真紀の中で、いくつかの記憶が結びついていった。

「それが自分の気持ちか前世の記憶か分からないんだって」

 皆川真紀が武田祐美の代わりに、先を見越して答えていた。

 可香谷姫子が驚いた顔をする番だった。

「馬鹿ね。幽霊のゆみも武田祐美も、同じ一人の人間よ。今の自分の気持ちも、前世の気持ちも、どちらもあなたのもの。違いなんてないの」

 可香谷姫子が諭すように言っていた。

「だから魂が定着していないのね。確かに強引な転生をさせたから、始めは定着し辛かったでしょうけど。武田さん。ううん。ゆみちゃん。あなたは幽霊のゆみであると同時に武田祐美なの。そのことをしっかりと自覚なさい。分けて考えては駄目」

「前世の気持ちもあたしのもの…」

 武田祐美がかみしめるように呟いていた。

「あーもう、ボク、不利じゃないか!」

 皆川真紀が嘆いていた。

「でも、祐美ちゃんにだって負けないからね!」

 はにかむように笑って、友人に向かって手を差し伸べていた。ライバル宣言として、握手を求めたのだ。

 武田祐美は恐る恐る、その手に触れた。友人が、触れた瞬間に手を握りしめてきた。

「若いっていいわね」

 可香谷姫子がようやく立ち上がった。ズボンに付いた砂埃を叩き落とす。

「さあ、誰から告白する?」

 可香谷姫子の唐突な質問に、手を握り合ったままの少女二人が硬直した。

「そう、良いわ。私から行くわね」

 可香谷姫子が少女二人を見比べた後、三上弘樹へ向かって歩き出した。

「ちょっと待った!」

 皆川真紀が慌てて可香谷姫子に追いすがり、手を引いた。

「なんで急に…」

 皆川真紀は三上弘樹の様子をうかがい、声を潜めた。

「告白になるの!」

「この歳になるとね、出会いって限られてくるの。チャンス少ないの。せっかく初恋の人に出会えたのだから、この機は逃せないわ」

「初…?」

 皆川真紀の頭が混乱しそうなほど、突飛な情報が次々に襲い掛かっていた。思わぬ相手から、初恋などと、堂々と言われてしまい、対処に困る。自分に言われた言葉ではないにしても、戸惑うのだった。

「いいかしら?」

「ダメ!」

 今度は武田祐美が止めていた。

 三人が額を突き合わせるようにして、にらみ合った。

「何がダメなんだい?」

 唐突に、三上弘樹の声がかかった。

 三人は文字通り、飛び跳ね、三上弘樹に振り向いた。

 三人とも戸惑い、言葉が出ない。告白しようとしていた可香谷姫子でさえ、覚悟がどこかへ逃げ去っていた。

「弘樹さん!」

 最初に声を発したのは、武田祐美だった。かぶりを振り、呼び方を変える。

「ヒロくん」

 呼ばれた三上弘樹の表情から、余裕の色が消えた。

「あたし」

 武田祐美は言葉に迷った。正直に幽霊のゆみだと名乗るべきなのか。隠すべきなのか。「ヒロくん」呼ばわりしておいて、隠すのも問題があるだろう。だからと言って、どう伝えていいものか、言葉が見つからない。

 名乗ったところで、彼が信じない可能性もあるだろう。心を読んで都合のいいように言っていると怒られるかもしれない。武田祐美の拠所である彼に嫌われたら、この先どうしていいのか分からない。

「まったく…」

 可香谷姫子が苦笑しながら、助け舟を出した。

 可香谷姫子は幽霊のゆみと出会った当時、接した時間は短いものの、友達になったと思っていた。その友達が怖気づいているのなら、背中を押したかった。

「幽霊の時はあれほどずけずけと言っていたのに、気弱になったものね。ゆみちゃん」

 素直に押す気にはなれず、やや変化させて言った。

 しかし、三上弘樹は察しがつかず、きょとんとしていた。

「あーもう!」

 可香谷姫子が大きな声を吐き出すと、説明した。

「二十年前に、幽霊のゆみちゃんがいたでしょ?あの子、私が所属する部署に掛け合って、すぐに転生させたの。それが、この子!」

「え」

 鈍い三上弘樹もさすがに驚き、可香谷姫子と武田祐美を交互に見つめていた。そしておもむろに、驚きの叫び声をあげていた。



  38


 三上弘樹と武田祐美は、ただ、佇んでいた。

 皆川真紀や可香谷姫子は遠慮して、先に車へ戻っていた。月明かりに照らし出された公園の中に、三上弘樹と武田祐美が見つめ合って佇んでいるだけだ。

 二人とも、言葉を発するどころか、口を開くこともできなかった。笑っているのか、泣いているのか、驚いているのか、戸惑っているのか、判別のできない表情を浮かべていた。

 月明かりが二人を神秘的に彩らせ、現実と虚構のはざまに立っているような感覚に陥らせた。そのために、これは夢でも見ているのではないかとの錯覚に襲われるのだった。

 スポットライトのように月明かりを浴び、辺りのすべてが光の外に取り除かれた。そこには恐怖を運ぶ闇も、底冷えする冷気すらも干渉できない。

 二人は我を忘れて、見つめ合っていた。

 普通の男女なら、このまま何も進展せずに、終わったのかもしれない。だが、この二人は思考の表層部がリンクしており、互いの気持ちが理解できた。

 月の光を受けて、そのリンクがより深まったのだろうか。二人の脳裏に、出会いの思い出が浮かぶ。

 初めての出会いは、三上弘樹が水の中にいた。この時、彼は幽霊のゆみを目撃してはいない。幽霊のゆみは傍観していただけだった。

 当時の感情や感覚も共に思い出された。

 三上弘樹は両親を失い、自分も死の淵に立たされた。必死の思いで生還したあの出来事は、悲しみと恐怖に彩られていた。年月が洗い流していたと思っていた。しかし、再び、あの恐怖が戻ってきていた。両親を失った悲しみがよみがえっていた。

 武田祐美の前世である幽霊は、三上弘樹が乗る車の事故を目撃し、成り行きを見守っていただけだ。悪い奴につかまって、大変だね、くらいに考えていただけだ。親子ともども、悪い奴につかまって、死に行くものと思っていた。ところが、少年がただ一人、抜け出し、水面に浮上した。

 幽霊のゆみはその少年に驚き、興味を持った。水面でもがき苦しむ少年の意識に触れ、一番近い岸をそっと教えた。この時の感情は、ただの気まぐれにすぎない。だが、これがきっかけであったことは間違いない。

『大丈夫?』

『うん。ありがとう』

 会話もできるようだ。

 三上弘樹は武田祐美の気遣いに感謝した。おかげで、震えて崩れ落ちるようなことはなかった。

『それにしても、この時、手助けしてくれてたんだね』

『え、あ、うん。そうみたい』

 武田祐美は、実を言うと、思い出していたわけではない。過去の出来事を垣間見ることで、そう言えば、そうだった、程度に思い出せただけだ。

 九歳の三上弘樹が必死に自転車をこいで坂道を上っていた。とある峠で、大きな石が、林道の真ん中にあった。その石の傍らに、幽霊のゆみがいた。

『初めまして、かな?』

『だね』

 三上弘樹も武田祐美も、面映い思いだ。この時に交わした会話は、互いに覚えていなかった。だが、この時から、幽霊のゆみは三上弘樹少年の傍に居続けた。

 三上弘樹少年の生家で、両親の葬儀を行った。集まった親族が、一人残された少年の処遇を話し合っている。誰もが迷惑がり、財産だけを欲した。それを聞くとはなしに聞いてしまった三上弘樹少年が塞ぎ込んでいると、幽霊のゆみは、自分が味方で、傍にいてあげると、励ました。

 大人の三上弘樹も、思い出しただけで涙する。

『ありがとう。僕は、君に救われたんだ』

 武田祐美は、彼の謝意を否定し、自分の方こそ助けられていると言いたかった。しかし、泣いていた少年が笑顔になるのを見ると、何も言えなくなった。

 それ以来、学校でも家でも、二人は一緒に過ごした。

 三上弘樹が成長するにつれ、幽霊のゆみの存在を忘れていっても、彼女は約束を守り続けた。

 その姿に、大人の三上弘樹が再び涙を流していた。

 武田祐美は、はにかむように笑ってみせた。

 三上弘樹少年が女の子と手をつないでいた。その手を離れさせようと、幽霊のゆみが奮闘するも、触れることができない。

 別の女の子と三上弘樹少年が楽しそうに話し込んでいた。幽霊のゆみがその間に割り込み、話しかけるが、少年には聞こえていない様子だった。

 三上弘樹少年が次の日のデートのために目覚まし時計をセットし、就寝した。幽霊のゆみがその目覚まし時計のスイッチをしきりに触り、触れないスイッチを動かそうと奮闘していた。何かの拍子にスイッチがオフになると、幽霊のゆみは満足そうに微笑むのだった。

『何やってんの!』

 大人の三上弘樹が驚き、苦笑していた。

『記憶にございません!』

 武田祐美は返す言葉がなく、不祥事や不手際をごまかす政治家よろしく答えていた。

 実際のところ、武田祐美は覚えていなかったが、目の当たりにして思い出せていた。あたしがいるのに他の女の子に手を出して、とでも言いたかったのだろう。幽霊のゆみは十歳の女の子なのだ。かまって欲しかったのだ。だが、彼は幽霊のゆみの存在そのものを忘れ去っていた。

 デートで着るつもりの一張羅が、濡れそぼって洗濯機の中に残っていた。三上弘樹少年が喜び勇んで出かけたら、どこかで引っ掛けたのか、ズボンのお尻が破れ、丸出しだったこともある。

 三上弘樹少年は、異性に惚れやすかった。色々な女の子と付き合っていた。だが、どの子も長続きしない。手をつなぐ以上の関係になれなかった。

 多くは、幽霊のゆみの妨害が影響していた。それ以外の原因は、三上弘樹自身にあった。自分の本心を相手に知られることを怖がった。記憶の奥底にしまい込み、忘れていたにもかかわらず、幽霊が見えることで回りの人々と軋轢が生まれ、気味悪がられていたことが、心の奥底に刻まれており、そのことが二の足を踏ませていた。

 相手の女の子からすると、自分をさらけ出さない彼は、本気ではないのだと思わせるのに十分だった。確実に女の子の方から、別れを持ち出され、去っていくのだった。

 大人の三上弘樹は恥ずかしかった。目の前で一緒に見ている武田祐美がどう思うのか、怖かった。

 武田祐美は幽霊のゆみの当時の気持ちと重なり、悪い虫を追い返せたと喜んだ。同時に、彼の良さを分からない女たちはこちらからお断りだと、怒ってもいた。

 三上弘樹少年が、大型の犬に追いかけられていた。犬は嬉しそうに、遊んでくれる人を追いかけていたのだが、三上弘樹少年には、牙をむき出しにし、襲い掛かろうとしているように見えた。恐怖し、逃げまとっていた。

 大型犬の背に、幽霊のゆみがまたがり、こちらも嬉しそうに、犬をけしかけて、三上弘樹少年を追いかけていた。

 三上弘樹少年は幽霊の存在を忘れ、見えなくなっていた。だが、追いかけてくる犬の姿は見える。その視線が自分に向いたような気になり、幽霊のゆみは嬉しかったのだ。三上弘樹少年と一緒に遊んでいる感覚を味わっていた。

 武田祐美は嬉しさと、彼に申し訳ないという思いが入り混じり、複雑な表情になって、大人の三上弘樹を眺めた。

 大人の三上弘樹は、犬に追われる少年時代の自分を眺めやり、

『あの時は怖かった』

 と呟いた。しかし、言葉とは裏腹に、笑っていた。

『ゆみちゃんが生き生きしてて、かわいい』

 幽霊に対して生き生きと言うのもどうか、などと呟いていた。

 武田祐美は「かわいい」と言われ、一瞬で顔が真っ赤に変わり、三上弘樹をまともに見られなくなっていた。彼の呟きは聞こえていなかった。

 それからも、三上弘樹の背が伸びていく変化があるだけで、幽霊のゆみの対応は変わらず続いていた。

 ある時は猫をけしかけ、ある時は絶妙なタイミングでドアが閉まるように車掌を操り、ある時は彼の行く手に困り果てている年寄りを導いた。

 若い三上弘樹が車を手に入れ、当時付き合っていた女性をデートに誘った。運転中に、悪霊の導きで、事故に遭ってしまう。幸いにも、彼は幽霊のゆみの声を聞き取り、一命をとりとめることができた。

 幽霊のゆみは、彼が他の女性とデートすることに、腹を立てていた。その感情に当てられた武田祐美も、不機嫌になる。同時に、彼が助かって、安堵もしていた。

『これが、始まり、かな』

 三上弘樹が呟いた。

『僕が自分とちゃんと向き合うこと、ゆみちゃんと言う存在を、ちゃんと理解したこと』

『呼んでも返事がないの、すごく悲しいんだからね』

 武田祐美は、当時の不満を告げていた。

『あ、うん、ごめん。この時はまだ、思い出してもなかったしね』

 若い三上弘樹は入院生活で、幽霊に触れ、過去を思い出す。思い出すにつれ、一緒に入院した彼女に幽霊が憑りついていることに気付いた。何とか助けたいと願った。そのことがきっかけで、子供のころ、幽霊と接していたことを思い出していったのだ。

 その彼女には手痛くふられても、助けたかった。彼女の父親にひどい目に遭わされても、助けたかった。かかわった以上は見捨てることなどできなかった。

 ある夜、彼女の危機に、彼は駆け付けた。病院の屋上で、柵のない部分が、死のにおいを漂わせていた。闇に足がすくみ、身動きできなくなってしまう。闇の先にある穴に恐怖し、怯んだ。

『あたしが背中を押した』

『そう。ゆみちゃんのおかげで、行動できて、助けることができたんだ』

『やっとあたしのこと、思い出したよね』

『うん。ごめん。そしてありがとう。ずっと約束を守って、傍にいてくれて。ゆみちゃんがいてくれたから、僕は勇気をもらうことができた。行動できた。僕自身の力のことも理解できた。ゆみちゃんがいなかったら、僕は何もできないやつのままだったと思う。本当に感謝している。感謝しきれないほどに』

 三上弘樹の思いがあふれた。当時、幽霊のゆみに感謝しきれていないと感じていた。その後悔が、彼を突き動かす。

『それに、ごめんね。僕のために、悪霊に屈しかけた僕を助けるために、ゆみちゃんが犠牲になって…』

 三上弘樹は涙ながらに告げていた。

『いいの。好きでやったんだから』

 思考がリンクしているために、彼の謝意が絶え間なく届いている。体が痒くなる思いだった。

『それに、あたしも助けてもらったもの』



  39


 三年前の武田祐美だ。彼女は人の思考が勝手に聞こえてくるために、苦しんでいた。周りに人が多くなればなるほど、その人数分の思考を拾い上げ、頭が破裂しそうになった。人々の思考の波に飲み込まれ、押し流され、消えてしまいそうだった。

 気付くと、静寂の中にいた。頬に温かい感触がある。一人の男性が、武田祐美の頬を、その手で包み込んでいた。

『この時のあたしって、まだヒロくんのこと思い出してなかったの』

 思い出すと、当時の恐怖心がよみがえる。自分は本当に消えてなくなると思っていた。覚悟していた。それを救ってくれたのが、三上弘樹の手だった。

『あたしを救ってくれて、ありがとう』

『どういたしまして。あのゆみちゃんだと分かっていたら、もっとやりようがあった気もするなぁ』

『心美ちゃんが妖怪に憑依された時も、駆け付けて助けてくれた』

『真紀ちゃんに呼び出されたし、それが僕の仕事になっていたからね』

 二人が語り合う後ろで、武田祐美の三年前の体験が再現されていた。

『ねぇ。ヒロくん』

『何?ゆみちゃん』

『あたしだって、気付かなかったの?』

 武田祐美が不満そうに追求した。

『う。そりゃ、同じ能力だなって、同じ名前だなって思ったけどさ。気にはなったけどさ。確証はないし、違ってたらいい迷惑じゃないか』

『でも、気付いたっていいじゃない』

 武田祐美の言い分は、少々理不尽ではある。理不尽ではあるが、そのわがままを受け入れたくなるほど、三上弘樹にとって、彼女の物言いは愛おしかった。

 武田祐美も理不尽なことを言っていると自覚があった。それを受け止めてくれる三上弘樹が、ありがたかった。嬉しかった。

 二人が見つめ合い、どちらからともなく、笑った。

『あ、でも、ゆみちゃんは気付いていたってこと?』

『そこは追及しなくてよろしい!』

 武田祐美は、皆川令子をまねてごまかした。彼女は気付いても、怖くて打ち明けることができなかった。三上弘樹を非難できない。だが、気持ちとしては、非難したい。

 武田祐美は、自分がいつごろ気付いただろうかと思い返してみる。疑い始めたのは、彼の助手の体験として、廃病院を訪れた時だろう。そして、斉藤心美を救ってもらった後の会話で、確信していったはずだ。

 彼は何気なく語っていた。その後ろで、武田祐美は、嬉しさのあまり、泣いていた。泣いているのを見られないように願った。彼の背中が恋しかった。たった三年前の、やせ細った自分と、気持ちが重なり、切なくなった。

 その時と同様に、三上弘樹は肝心なところを見逃しているようだ。自分の物思いにふけっている。

『もっと早く言って欲しかったなぁ』

 三上弘樹は、武田祐美のことで思い悩んだのだ。その悩みが、ほぼ無駄だった。とはいえ、分かっていたとしても、過去が変わっただろうか。思い返してみても、変わるようには思えないのだった。

 武田祐美は、三上弘樹が肝心なところを見逃しているのが、悲しかった。そして安堵もした。自分の気持ちに気付いて欲しい。でも、自分で主張するのも、嫌だった。恥ずかしかった。

 三上弘樹が気付いてくれたら、どれほど嬉しかっただろうか。しかし、気付かないところや肝心なものを見逃すところが、彼らしいとも言えた。

『とにかく、あたしもいっぱい感謝しているの。だから、おあいこだよ』

『いや、ゆみちゃんは僕を十年見守ったんだ。まだまだ足りないね』

『時間なんて関係ないの。あたしは救われたし、ついこの前だって。だから、おあいこ。もう感謝するのやめて』

『あ、僕の思考、色々洩れてた?』

『うん』

『でも、僕はこれで晴れて、恩人に恩を返せるんだ。僕が役立つのであれば、まだまだ返していくよ』

 三上弘樹は嬉しそうだ。その笑顔を見ると、武田祐美も心が温まった。

 武田祐美は少し不満もあった。互いの思考がリンクして、わかり合っているこの状況で、なぜかこれ以上の進展がない。もっとこう、感動的な再会や、その先があってもいいのではないか。ドラマのように抱き合うとか。武田祐美はそう考えたものの、かぶりを振った。

 恥ずかしくてとてもできないと思う一方で、今抱きしめられたら、どれほど幸せだろう。そういう思いもよぎっていた。だから不満なのだ。

 しかし、三上弘樹の今までを思い返してみても、異性にそういう表現をする人物ではないことが分かる。らしいと言えばらしい。

 自分から彼の胸に飛び込む。そういう方法もあるが、決断できずにいた。そんな勇気は持ち合わせていなかった。

 一方の三上弘樹にしても、今まで異性と、手を握る以上の関係になったことがない。色々とデートに誘ったこともあるが、先には進めなかった。歳を取るにつれ、なお一層、異性に対してどのように行動していいのか分からなくなり、奥手になっていった。

 何をすればいいのか、分からず、佇んでいた。

 ただ、優しく包み込めばいい。そのことに気付けない。気付いたとしても、どのタイミングで、どうやって抱きしめればいいのか、分からなかっただろう。

 月はそのことを知ってか、二人を月光で優しく包み込んでいた。熱のない明りではあるが、どこか、心温まる。二人を優しく包み込み、二人の幸せな気持ちに反射して、きらめいていた。

 独特の明かりで照らし出された二人は互いに見つめ合い、はにかんでいた。寒さを忘れて、ただじっと、見つめ合っていた。

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