Stone on the moon 中編
15
「あーすまん、せっかくいい話で終わったところ悪いんだが、もう一つ話し合っておくことがある」
皆川龍也が口火を切った。
「俺たちが巻き込まれていることについてだ。聞いて欲しい」
武田祐美が鼻をすすりながら、手で涙をぬぐっていた。
みな口は開かず、彼の次の言葉を待つ。
「村上警部補から聞いたんだが、二週間ほど前、研究機関から、月の石が二十キロほど盗まれたそうだ。そして、宅地で弘樹たちが集めてきた石が、ちょうど二十キロばかり」
「それはつまり、盗んだ何者かがあそこでばらまいたと?」
木村賢吾が話の先を予測した。
「可能性として、ある。偶然、あれだけの量の石が、あの宅地にあった可能性。たまたま、大きな塊があり、更地にする作業中に砕けて広がった可能性。誰かが意図的にまいた可能性」
「もともとあったのなら、ルーナベイビーズの誰かが見つけて、集めているでしょ」
皆川真紀が問題点を指摘した。
「そう。だから、偶然そこにあった説は消える。大きな塊があった説は、残る。が、それだけの大きなものが落ちていれば、当時有名になっている。聞いたことがないということは、この説も消える。誰かがまいたとするなら、最近だということになる。でなければ、ルーナベイビーズの誰かが拾っている。そう考えると、誰かが意図してばらまいたことになる。となれば、依頼主、地主が絡んでいる可能性も出てくる」
「おいおい…」
「突っ込みどころがあるのは心得ている。続けさせてくれ。次に別件だが、俺や賢吾が襲われた事件。どうやら、誰かに、俺たちが石を隠し持っている、と言われていたらしい。中には明らかに、俺たちを襲うように依頼された人物もいた」
「何だと…」
「とすると、俺たちを狙う人物は、ルーナベイビーズの習性をよく知っているということだ。おそらく、石のことについても、詳しいのだろう」
「その詳しい人物が石をまき、弘樹が集めるように仕向け、俺たちを襲うように指示したと?」
「一つ一つだと突拍子もないが、ここ最近の出来事を考え合わせると、意外とストーリー性が出てくる。つまり、俺たちに恨みを持つ人物が、月の石やそれを集めるルーナベイビーズの習性を利用し、嘘の情報で俺たちを襲わせた。そして、大量の石をばらまき、それを集めるように仕向け、そこへ暴徒を仕掛ける。どうだい?確かに証拠は何もないが、筋が通ってくるだろう?」
「襲撃もこの前の暴徒も、それほど時期が離れていない。前者が失敗したから後者を仕掛けた、というわけではないだろ。すると、暴徒まで含め、始めから計画していたことになる」
「ああ。相当な恨みを持って、俺たちをつぶしにかかっているとみていいだろう」
「待ってパパ。その恨みを持った人が、どうして、ばらまいた石がここに集まると分かっていたの?」
「ああ。そこが問題点の一つだ。その人物が、月のかけらに霊的な力があることを知っている、あるいは知っている協力者がいるのかもしれない。あの石に幽霊が集まると知っていれば、近くでそういうものを生業にしている弘樹に行きつくことは想像に容易い」
「僕もあの石に幽霊が集まるとは知らなかった…」
「おい…お前が、大量の石と一緒に、幽霊も数多くいた、と言ったんじゃないか。あり得ないほどだと」
「弘樹の情報が推理の根幹か…」
皆川龍也も木村賢吾も、不安そうな顔になる。しかし、皆川龍也の表情から不安の色はすぐに消えた。
「もしかして、月のかけらが大量に集まった時だけ、幽霊が引き寄せられる?」
皆川真紀が新たな仮説を立てた。
「なるほど。それなら、今まで幽霊と石の因果関係が分からなくても、当然だな。あんな石が大量に集まる機会など、そうそうない」
「え、ということは、待って。あの石、今、どこにあるの?」
「事務所…」
そう答えた皆川龍也が駆けだそうとした。しかし、思いとどまる。
「俺が行ったところで見えない。頼りないが、弘樹、確認してきてくれ」
「頼りにしてくださいよ」
「あたしもついていきます」
「それは心強い」
「え、僕の存在価値って…」
「ほら、いじけてないで行って来い。急げ!」
皆川龍也に急き立てられ、三上弘樹と武田祐美が連れ立って、事務所に保管してある石の元へ向かった。
「恨みを持った者の陰謀だとしても、手が込み過ぎていないか?」
「かもしれない。だが、恨みを晴らせるうえに、容疑のかかりにくい方法だ。保身に長けた相手なら、あり得るだろう」
木村賢吾が疑問を口にし、皆川龍也が答えていく。事務所に向かった二人が戻るまで、問答が続いていた。
二人が戻ってくると、誰かがすぐに尋ねた。
「どうだった?」
「幽霊が三人いました」
武田祐美が報告する。
三上弘樹はなぜか、首をかしげて悩んでいる様子だった。
「つまり、石が集まると、幽霊も集まる、という仮説は、証明されたな」
「いやな証明だな」
「ただ、不思議なんだよね」
三上弘樹が口を開いた。
「何が?」
「あの幽霊たち、なぜか事務所の前に佇んで、中には入ってないんだ」
「でも、石につられてやってきたのは、間違いないと思う」
武田祐美が補足した。相手の心が読めることが周知の事実となっているのだから、隠すことはない。
「それは、幽霊の心を読んだから?」
皆川真紀が確認する。
「うん」
「いいね。弘樹よりよっぽど役に立つ。祐美ちゃんが正社員で、弘樹はアルバイトに降格」
「えっ、ちょっと待って、酷くない?」
「あたしは除霊ができません」
「おっと。弘樹を排除できないのか。残念」
「所長、冷たい…」
三上弘樹がいじけようとするのを、皆川真紀が肩を叩いて止めた。
「パパのブラックジョークじゃない。いじけないの」
「まあなんだ」
皆川龍也が話を戻しにかかった。彼の推理はまだ続くようだ。
「今のことから、石が大量に集まらないと起こらない現象。つまり、大量に集めたことのある人物、または機関に属する者で、霊感のある人物しか、知り得ない情報、だな」
「回りくどいが、要するに、石を盗み出した人物は元々研究機関の関係者で、今は俺たちに恨みを持つ人物の協力者、と解釈すればいいのか?」
皆川龍也が木村賢吾を指差して頷いた。
皆川真紀が武田祐美に声をかけた。
「あの暴徒たちの心にも触れたんだよね?」
「うん」
「何か思い当たるものはなかった?」
武田祐美は一分ほど考え込んだ。
「そう言えば、何人か、杖を突いて、フードを深くかぶって、マスクをした、老人みたいな人に、ここのことを聞いてきたみたい」
「背は高い?」
「分らない。どの人のイメージでも、腰が曲がっていて…」
皆川龍也がポケットから一枚の写真を取り出した。それを武田祐美の目の前に差し出す。
「似てないか?」
「マスクをしていたから…」
「目の部分は?」
「言われてみれば、似ているような…。でもしわが…」
「二十年前の写真だからな。生きていれば、七十五か?」
写真の人物は背筋が通り、貫禄のある立ち振る舞いだ。白衣を着て、厳格な顔つきをしていた。
「北村宗信、か」
写真を見た木村賢吾が呟いた。
「ああ。俺たちに恨みを持つ人物で一番心当たりがあるのは、こいつだろう」
「かもしれんな」
北村宗信は産婦人科の医師で、自身の病院を経営していた。その病院で双子が生まれると、片方がなぜか死産になる。
実際は北村宗信が「間引き」を行っていたのだ。大昔の迷信、双子は縁起が悪い、というものを信じての行動と思われるが、当人は捕まらず、逃げ果せているので、動機は不明だ。
北村宗信は自分の娘の子まで手にかけて、記録上死産としていた。娘はショックで亡くなった。この娘と子の霊が中心となり、悪霊になった。この悪霊が、三上弘樹が初めて除霊した相手であり、幽霊のゆみが消滅するきっかけとなった相手であった。
皆川龍也、木村賢吾らによって、北村宗信の悪行が表に出た。
病院関係者の多くは捕まり、生まれたばかりの子供を殺していた事実が明るみに出た。さらには、裏で、表では診療できない、暴力団関係者の治療を内密に行っていた事実まで発覚し、世間を騒がす一大ニュースとなった。
ところが、主犯の北村宗信はどういうわけか、調べが入る直前に行方をくらませてしまい、二十年経った今も指名手配のままだった。
北村宗信から見れば、人生を破壊した人物が、皆川龍也であり、木村賢吾であった。そしてその発端を作った、三上弘樹も、恨まれていてもおかしくない。
「こいつに、月のかけらの知識なんてありはしない。必ず協力者がいる」
「いや、その前に、奴はこの町にいるのか!」
「いるんだろうな。ずっと潜伏していたのか、戻ってきたのかは知らないが」
「だが、奴だと断定するのも早すぎないか?」
「もう少し、何かがあれば、だな」
「だが、北村宗信と考えれば、魅力的なストーリーが出来上がったな。確かに、推理としては面白い。お前のことだ。その推理に出てくる協力者も、当てがあるのだろう?」
「まあな」
皆川龍也は答えたものの、推理は披露しなかった。代わりに警告を発する。
「まあなんにせよ、みんな襲われないように注意してくれ。特に弘樹。お前も恨みを買っているはずだ。気をつけろ」
「う、うん」
「それで、今ある月のかけらはどうするんだ?可香谷姫子氏に持ち帰ってもらえなかったのだろう?」
「ああ、あれは、石を盗まれた研究機関が引き取ってくれる。後日来る予定だ」
「なるほど。龍也はいつも段取りが早い。では、それまでの幽霊の対処、弘樹に任せるぞ」
「僕じゃなくてもいいじゃない」
「何時までもいじけるな…。もう四十のおっさんが」
「まだ三十代だ!おっさん言うな!」
「はいはい」
何人かが、両手を広げ、苦笑し合っていた。
16
数日後、一人の男性が皆川総合調査事務所を訪れた。外見上、若いのか歳をとっているのか、判断がつかない。その男性が、事務所を訪ねると、名乗った。
「先日お電話でお伺いした、笹山優一郎です。お世話になります」
笹山優一郎と名乗った男性は体の線が細い。
「ああ、月の石の件の」
皆川龍也が応じた。電話で名前を聞いていたので、月の石を受け取りに来た研究員だとすぐに分かった。皆川龍也は笹山優一郎の細い体つきを一瞥した。二十キロもの石を運べるのかと、訝るが、口にはしなかった。
皆川龍也は別に聞きたいことがあった。石が盗まれた時の状況や、それ以降連絡の取れない関係者がいないかどうかである。自分の推理通りの人物が盗みを働いていれば、その人物が、最近の騒動の協力者に当てはまる。
笹山優一郎は人がいいのか、聞かれるままに答えていた。
「そう言えば、一つ前の駅で、鈴木に似たやつを見かけました」
「鈴木?」
「ええ。鈴木海斗。僕の三つ下だから、二十九歳ですね。そいつ、事件の前に問題を起こして、クビになっているんです」
皆川龍也は内心ほくそ笑んだ。表情に現れないよう、気を引き締める必要があった。
「問題…。当ててみましょうか?研究対象の石を盗んだ」
「ええ、そうです!なぜ分かるんですか?さすが探偵さんですねぇ」
笹山優一郎は素直に驚き、称賛していた。特定の年齢と、月の石を扱っていた研究所で問題を起こしたとなると、想像に易いのだが、笹山優一郎には考えが及ばなかったらしい。
「鈴木海斗の写真か何か、ありませんか?」
皆川龍也に問われ、笹山優一郎は、
「うーん、どうだったかな?」
などと呟きながら、ポケットからモバイルを取り出して操作した。
「ありました。去年の慰安旅行の時の」
皆川龍也が立ち上がり、画面を覗き込んだ。
茶色く染めた長髪で、少し頬の肉が厚く見える。長髪も茶髪も似合っていない。小太りで気弱そうな顔つきだった。一見すると盗みを働くような人物には見えない。
「そのデータ、もらえませんか?その彼が、二十キロもの石を盗み出した可能性がありますので。こちらでも鈴木海斗を探してみます」
笹山優一郎は二つ返事で受け、モバイル同士のデータ通信を行った。
「研究所は、被害届は出されていますよね?」
「ええ、もちろん」
「では発見しましたら、警察の方に届けておきます」
「はい、よろしくお願いします」
笹山優一郎はそう答えると、月の石がたっぷり入った箱を受け取り、お礼を述べて立ち去った。階段を降りるとき、手伝う必要があったが。
皆川龍也はおぼつかない足取りで去っていく笹山優一郎を見送りながら、考えを巡らせていた。
17
鈴木海斗は後悔していた。
石を持ち出したことや、腹いせに大量に盗み出したことではない。
研究所から、研究対象の石を一個持ち出したからと言って、なぜ処罰されなければならないのか。納得いかない。過去に何度か持ち出した時は何もしなかったではないか。
真面目に立ち働いていたというのに、突然、研究所から解雇を言い渡された。
納得のいかなかった鈴木海斗は、腹いせも含めて、研究所が所持していた月のかけらをすべて、持ち出した。
彼からしてみれば、
「ざまあみろ!」
であった。
大量の月のかけらを手に入れた満足感は、言い知れぬものがあった。同時に、この石を取り戻しに来られてはたまらないとの思いが募り、衝動的に電車へ飛び乗った。
その電車の中で、不思議な出来事に遭遇する。
幽霊を見かけたのだ。
今まで三十年近く生きてきて、初めての経験だった。最初こそは、珍しいものが見られたものだと思った。幽霊とはこんなものかと。
少し目を離していると、幽霊がいつの間にか、二体になっている。またしばらくすると、三体。四体。どこから湧いてくるのか、増え続けていた。
さすがに気味が悪くなり、車両を移動した。
ところが、その幽霊たちもついてくるではないか。
慌てふためいた鈴木海斗は、電車を降り、新幹線に乗り換えた。
幽霊まで新幹線に移ってきた。
背筋に冷たいものを感じながらも、なぜなのか考えた。今手元にあるものは、大量の月のかけらしかない。
しかし、今まで月のかけらを持っていても、幽霊を見かけたことはなかった。関係あるとは思えなかった。
恐怖のためか、激しい尿意に襲われた。箱を持ったまま用を足すことはできない。やむを得ず、通路に置いて用を足した。
通路に出てみると、幽霊が箱を囲んでいた。一瞬で背中が凍り付く。
石を幽霊たちに取られるわけにもいかない。勇気を振り絞り、幽霊の合間から箱を持ち上げて移動すると、幽霊たちがついてくる。
鈴木海斗は思わず箱を落として逃げ出した。
取り乱したまま振り向くと、幽霊はついてきていない。
足元には石がいくつか転がっていた。周りの乗客が、何事かと、鈴木海斗の方を眺めていた。彼らに月のかけらを奪われてはならない。鈴木海斗は衝動的に石を拾い集めていた。
鈴木海斗が石を拾い集めていると、自動ドアのセンサーに触れたのだろう。勝手にドアが開いた。
幽霊たちが、月のかけらが入った箱を囲んで佇んでいる。こちらに迫ってくる様子はなかった。
鈴木海斗は散らばった石を集めきると、覚悟を決めて通路へ戻った。幽霊の合間を縫って、箱に石を詰めていく。通路に散らばった石も、忘れずに集めた。
その間、幽霊たちは相変わらず、箱の周りに佇んでいるだけで、何もしない。
鈴木海斗は試しに、箱だけを残して石を持ちだし、離れた。すると幽霊が一斉にこちらを向き、追いかけてくる。
石を箱に戻すと、幽霊たちは再び箱を囲んだ。
鈴木海斗は身震いした。この幽霊たちは月のかけらを求めている。彼らが本気を出して奪いに来たら、自分ではどうしようもない。いつ、彼らが行動に出てくるか、分からない。
せっかく手に入れた石を、幽霊などに奪われるわけにはいかない。
なぜ自分だけがこのような苦労を強いられなければならないのかと、腹が立った。研究所の自分に対する対応も不公平で、腹が立つ。座席でこちらの様子をうかがう人々の、あの恨めし気な目つき。なんと浅ましいことか。
鈴木海斗は自分だけが不幸の渦中にあるように思え、すべてのことに憤った。その怒りが、幽霊を相手にするエネルギーとなる。とはいえ、彼に幽霊の対処ができるはずもない。取り得る行動は、逃げの一手だ。
新幹線が停車した。そこがどこかも確認せずにホームへ飛び降り、改札へ向かって駆け下りた。
幽霊たちも駆け足で追ってくる。まるで飛んでいるかのようだ。
鈴木海斗は踵を返し、在来線のホームへ駆けあがると、ちょうど目の前にあった電車に飛び乗る。
幽霊たちがたどり着く前に扉が閉まり、電車が動き出した。
安堵したのも、つかの間であった。
幽霊たちが電車と同じ速度で、外を移動しているではないか。
鈴木海斗は次の駅で、扉が開くのももどかしく、ホームに転がり出た。
訳の分からない叫び声をあげつつ、転がった大切な石を拾い集め、駆け出した。
どこをどう走ったのか、覚えがない。
道路で躓き、派手に転んでしまう。
足が痛い。幽霊がなぜか追ってくる。悪いことは何もしていない。鈴木海斗はそんなことを考えて、悔し涙を流していた。
すでに財布の中身は空になっているので、もうどこへ逃げることも叶わなかった。幽霊に追いつかれ、憑り殺されるに違いない。
「若いの。大丈夫か」
鈴木海斗が顔を上げると、杖を突いた老人が立っていた。腰が曲がり、背が縮んでいる。フードをかぶり、マスクをしているので、表情は分からない。老人かとも思ったが、年齢も推察しがたい。
その老人と思しき人物は、意外にも、石を拾い集めるのを手伝ってくれ、鈴木海斗の傷の手当までしてくれるというのだった。
追い詰められていた鈴木海斗にとって、天の助けであった。
18
再び、満月の注意週間を告げるメールが届くようになった。日暮れは早くなり、朝晩が冷え込む。なのに、日中は暑い。若い人々は半袖で出歩いているほどだ。
「最近の気候はおかしいね」
三上弘樹が隣にいる助手に向かって呟いた。三上弘樹は、半袖のシャツの上に、ジャケットを羽織っている。電車内ではジャケットが必要なほど、冷房が効いているのだ。
武田祐美は、斉藤心美が選んでくれた、青色のチュニックに白いズボンをはいていた。三年前の夏は半袖シャツにデニムのホットパンツだった。変われば変わるものだ。
斉藤心美は、
「胸元にブレスレットでもあればいいのに」
などと言っていた。しかし、武田祐美には、アクセサリーはまだ敷居が高く感じていた。
三上弘樹の助手として、仕事中なのだが、異性と二人で出かけるので、これはデートともいえるのではないか。そんな考えが突然浮かび、慌てた。
デートなら、アクセサリーがあった方が断然いい。お金を貯めて、今度買いに行ってみようかとも思うのだった。そのことを口実に、斉藤心美や皆川真紀といった友人と、遊びに出るのもいい。斉藤心美などは喜々として、アクセサリーを選んでくれるだろう。
武田祐美は三上弘樹と付き合っているわけでも、告白したわけでも、されたわけでもない。なので、デートではない。ないのだけれども、考えてしまう。
同時に、この感情が、自分のものなのか、前世のものなのか、不安になってしまう。
それに、親友の皆川真紀を差し置いて、彼に手を出すわけにはいかない。彼は友人の思い人なのだ。
そもそも、仕事で出かけている。邪な考えをしている場合ではなかった。
三上弘樹とは、思考の表層部が互いに聞こえてしまう。気づかれないように気を付けなければならない。
意外と気づかれないところを見ると、思考が漏れないようにガードができているのかもしれない。あるいは、彼が鈍感すぎるのかもしれないが。
電車が止まる。
三上弘樹に続いて、武田祐美もホームへ降りた。このホームで降りたのは、三年ぶりだろうか。いつもはもう一駅先まで乗り越して、買い物をする。この駅で降りる用事は皆無だった。
ここは、武田祐美が三年前まで一人暮らしをしていた町だ。アパートは、駅を出て、右へ向かい、道路を渡った少し先にあった。古ぼけた木造アパートだが、三年しかたっていないのだ。まだ健在であろう。
改札をくぐって外に出ると左方向へ向かった。
コンビニの角を左へ曲がり、踏切を渡る。
この道も、武田祐美には懐かしい。すぐ先に廃ビルがある。人を避けて日中を過ごすのに、ちょうどいい場所だった。
廃ビルなのに、一階のトイレが奇麗で、水も出た。電気も使えたので、扇風機を使用できた。五階建ての屋上近辺にいれば、人々の思考が聞こえずにすみ、助かったものだ。
廃ビルの先にはお城のような建物がある。塀で囲まれ、カラフルな尖塔がいくつも立ち並ぶ。武田祐美はここをお城だと考え、奇麗な建物だと思っていた。ところが、男女の睦事を行う場所だと知らされ、ショックを受けたものだ。
その建物の前を異性と二人で歩くのは、少々緊張を伴った。
突然、ここへ連れ込まれたら、どうしよう、などと不安になってしまうのだ。いや、不安なのだろうか。彼女自身にも分からなかった。
何事もなく通過すると、武田祐美は安堵の吐息を漏らすのだった。しかし、なぜか、後ろのお城が気になる。
武田祐美は頭を振って、変な考えを振り払った。
さらに進むと、民家が並んだ。その内の一軒の前で、三上弘樹が立ち止まった。
19
愛想のいい、愛らしい年配の女性が玄関を開けた。
「あら。いらっしゃい。あのね、うちにね、ヒロユキが帰ってきてくれたの」
老婦人は初対面の三上弘樹に向かって、嬉しそうに話しかけた。
「へー。よかったですね。ヒロユキ君、どこにいます?」
三上弘樹は戸惑うことなく、受け答えた。
「裏庭で元気に駆け回っているの。見ていきます?」
「あ、はい、お願いします」
老婦人は腰が曲がり、ただでさえ低い身長がさらに低くなっていた。壁に手をつきながら、ゆっくりと裏手へ回っていく。
三上弘樹と武田祐美はその後を、老婦人のペースに合わせて歩いた。
古い民家の脇を三人並んで進むと、少し開けた場所に出た。庭だ。庭を囲むように垣根がある。
その庭を、一匹の柴犬が走り回っていた。ただし、向こう側が透けて見える。犬の幽霊だ。
犬の幽霊は老婦人を見かけると、嬉しそうに駆け寄った。目の前に迫ると、腰を下ろして座り、しっぽを振って老婦人の顔を見つめている。
「おーよしよし。ヒロユキはいい子ですねぇ」
老婦人がそう言って、幽霊の犬を撫でた。どういうわけか、幽霊に触れることができるらしい。
「可愛らしい子ですね。僕が触っても大丈夫ですか?」
「ええ。人懐っこいから、大丈夫よ」
老婦人はそう言うと、脇へ移動した。
三上弘樹は前へ進み出ると、しゃがみ込み、幽霊の犬を撫でた。幽霊の犬が嬉しそうに、のどを差し出して、そこを撫でろとでもいうかのようだ。
『この子を、除霊しなきゃいけないの?』
武田祐美の思考が伝わってくる。
(依頼だからね)
三上弘樹は思念で答えた。武田祐美の視線が鋭い。
「この前ね。この子がね。勝手に家に上がり込んだの。普段お庭にいて、中には入らないのにどうしたのかしら」
老婦人がヒロユキのことを嬉しそうに語っていた。
「そのときね。息子の代理って人が来ていて。ヒロユキがその人を追い返しちゃったの。代理の人に通帳と印鑑渡しそびれちゃったわ」
三上弘樹と武田祐美が顔を見合わせた。
「そういえば、以前も時々、吠えたていたわねぇ。めったに吠えないいい子なのに。吠える人と吠えない人がいるの。どういう違いなのかしら?」
「吠えた時、どんな人が来ていました?」
「どうだったかしら?そうそう、お布団を売りに来てくれた親切な人とか」
「ああ」
三上弘樹の鈍い頭でも、察しがついてきた。
『もしかして、すごく賢い子じゃない?』
武田祐美が思念で指摘していた。
『おばあさんを守ろうと…。だから幽霊になってまで…』
三上弘樹は、所長ならどう考えるだろうかと、想像した。そして質問を口にする。
「吠えなかった人はどんな?」
「吠えない人?大勢いるわよ。あなたもそうね。気に入られたみたい」
老婦人はそう言ってにこやかにほほ笑んだ。
「そうそう、この前、親切な人が落とし物を届けてくれたの。こんなに大きな男の人で、びっくりしちゃったんだけど」
老婦人が片手をいっぱいまで上にあげ、両手を広げて横幅を示した。
「私はすごく怖かったのだけど、ヒロユキは吠えなかったの。それで話を聞いたら、落とし物を届けてくれたって。もう私ったら、親切な人を怖がっちゃって、失礼よねぇ」
老婦人が今度は、恥ずかしそうにはにかんだ。
『ねぇ』
武田祐美が思念で、警告している。たった一言の呼びかけでも、理解できた。
「お母さん、こんなところに」
後ろから女性の声がかかった。
その女性は、老婦人が背筋を正し、顔のしわを減らし、少しばかり横幅を減らせば、瓜二つだったに違いない。年のころは五十代と見受けられた。
「あら?おかえり」
老婦人は驚きながらも、迎え入れる。
「お母さん、お客さんにお茶を入れてくださいます?」
女性がそう言うと、
「そうね、気が利かなくてごめんなさいね」
と、老婦人は答えて家の中へ向かった。
「どうも、ご足労願いました」
老婦人が見えなくなるのを待って、女性が頭を下げた。
老婦人の娘で、今回の依頼主だ。依頼主には、ヒロユキが見えていない様子だった。
「そこに、いるのですか?」
女性は顔を引きつらせながら、適当な空間を指さした。
「ええ、ここにいますよ」
三上弘樹は、ヒロユキを撫でながら答えた。
「でもこの子、賢い子だったんですね」
「え?そうかしら?よく吠える子でしたけど。でも、確かに、母には懐いていましたね」
「どんな時に吠えていたか、覚えていますか?」
「どうかしら?ずいぶん前だから…」
「押し売りとか、どこかの訪問販売とか?」
「ああ、そうそう、そういう時はものすごく吠えていました」
「なるほど」
「でも、ちゃんと幽霊がいるのですね?母がボケたのでは?」
「ボケてはいないと思いますよ」
「ヒロユキがいなくなったら、ボケちゃうかも」
武田祐美が小さな声で呟いた。
「え?」
「あ、いや、何でもないです」
三上弘樹が慌てて遮った。
「ところで、旦那さんが、おばあさんの通帳と印鑑を預かる、って話ありました?」
「いえ、そんな話はないはずです」
「おばあさんの息子は、ほかには?」
「兄がいましたが、他界しました」
「それは…失礼しました」
「いえ」
女性はそう言いながらも、気になったのだろう。主人に電話を入れ、通帳と印鑑の話を尋ねた。少々の押し問答をしたが、確認は取れた様子で、
「やっぱりそんな話はなかったです」
と言った。
「では、よかったですね。幽霊のヒロユキが、守ってくれましたよ」
三上弘樹はそう言って、先ほどの老婦人の話を教えた。
「なんですって!お母さんたら、誰でも彼でも家にあげて!」
話を聞き終えた女性が急に怒りをあらわにした。
「いえ、ヒロユキのおかげで事なきを得た、という話で」
女性の剣幕に逃げ腰になった三上弘樹が諭そうとするものの、効き目はなさそうだ。
武田祐美は意を決すると、女性の意識に焦点を合わせた。そして、彼女の意識を幽霊のヒロユキへ導く。
ぶつくさと文句を言っていた女性が、口をあんぐりと開けて止まった。目が、三上弘樹の前に止まっている。そこに、ヒロユキがお座りをして見上げていた。
(ん?見えて…る?)
『初めて試したけど、できちゃった』
武田祐美が嬉しそうに、思考していた。
(何を?)
『彼女に幽霊を見るように導いたの』
(そんなこともできたのか…。この人が幽霊を見まくって、苦情こなきゃいいけど)
『あたしが焦点を合わさせているから、はずしたら見えなくなると思う』
(ふーん…便利だね)
女性と目が合ったヒロユキの方は、嬉しそうに、お座りの姿勢のまま、にじり寄っていた。
「ヒロユキ…」
女性が呟いた。足の力が抜けたのか、崩れるように縁側に腰を下ろした。
ちょうどその時、縁側に面した窓が開けられ、老婦人が現れた。
「お茶が入りましたよ」
老婦人はそう言って、お盆に乗せた湯呑を縁側に置いた。茶菓子まで添えられている。
「ありがとうございます」
三上弘樹は遠慮せず、湯飲みと茶菓子を一つずつ受け取って、縁側に腰を下ろした。
「お嬢さんもどうぞ」
老婦人に促され、武田祐美も遠慮がちに受け取った。
「お母さん…ヒロユキが…」
「ね。帰ってきてくれたでしょ?」
女性の顔が引きつっている。しかし、返す言葉がない様子だった。一つ頷くのが精いっぱいだ。
「こんなに嬉しいことはないわ」
「おばあさん。ヒロユキの様子が違っていたら、何かを警告していると思ってください。彼は、おばあさんを守るために戻ってきたのだから」
三上弘樹がお茶をすすりつつ、そう言った。
「そうなの?」
「はい。実は今までも、ずっと守ってきてくれたんですよ。だから、ヒロユキが吠えたりしたら、知らない人を家にあげては駄目ですよ」
「ええ?親切な人でも?」
「吠えたら、駄目です」
武田祐美が微笑み、茶菓子をほおばった。三上弘樹の意図が読め、自分の意見が通ったことが嬉しいのだ。
三上弘樹自身も、いつも除霊するばかりではなかった。害のない霊であれば、相手に理解させたうえで、放置することもあった。見ている限り、今回も害のない幽霊だ。害がないどころか、守ってすらいる。老婦人のためにも、ヒロユキはここにいるべきだろう。
実のところ、三上弘樹は初めからこうするつもりがあった。ただ、動物霊は祟ることも多いため、実物を見て、周りの話を聞いて、判断することにしていた。
三人で老婦人の家を出た後、女性に説明した。ヒロユキを取り上げると、特殊詐欺にあう可能性があること。いることでそういう被害から守られていること。年齢からみて、ボケ防止にもつながること。そして、除霊しなかったので、報酬は発生しないこと。交通費などの諸経費分をもらうだけ、ということ。
女性は完全には納得しなかったものの、ヒロユキを目撃したことが非常に印象に残ったようで、しばらく考えてみると答えた。
この場で費用を受け取り、また何かあったら相談くださいと告げて、分かれた。
20
「ありがと」
帰り道で、武田祐美が嬉しそうに言った。
「ん?ああ。たまにはこういうこともあるさ」
帰り道、再び、塀に囲まれた尖塔のある建物の前に差し掛かる。
三上弘樹は、この建築物が何かを、もちろん知っている。なので、異性と通りかかると、入る予定がなくても、意識してしまう。四十手前になって、まだ利用したことがない。そのせいか、魅惑的な輝きがあるように見えるのだ。同時に、背徳感が漂っているようにも思えた。
後ろを歩く少女に、この気持ちが発覚すると、気味悪がられるだろうか。親子ほど離れた少女だ。「キモい」だとか「ありえない」だとか、言われてしまうのではないか。
意識しまいと思えば思うほど、逆に意識してしまう。ここは早めに通り過ぎるべきだ。
自然と足早になる。
自分の意識を別のものへ向けようと、辺りを見渡した。視界の隅に、五階建てのビルが飛び込む。
そのビルは、今は使われていない。三年前、このビルで、後ろを歩く少女と出会った。
通りすがりにビルを眺める。
気づくと、少女も同じようにビルを眺めている。違うのは、足を止めていることだ。
三上弘樹は引き返して少女の隣に立った。
「懐かしいね」
「うん。あたし、ずっとここで過ごしていたから」
使われていないビルなのに、なぜか、電気と水道が使えた。一階のトイレだけ、清潔に保たれていた。
ひと気のないビルだ。人の思念が絶えず聞こえていた武田祐美が、避難所として使っていた。三年前に三上家へ招かれてからは、一度も来ていない。
「その廃ビルがそんなに珍しいのか?」
ふいに声がかかった。
二人が振り向くと、皆川龍也がそこにいた。
「所長、こんなところで何を?」
「探し物。少々難航中でね」
「しばらく事務所に寄り付かないと思ったら…。何調べているんですか?」
皆川龍也はその質問には答えず、別の質問で返した。
「何か珍しいものでも?」
「いえ、ここ、彼女と出会った場所で…」
「珍しいといえば…」
三上弘樹が説明しようとした矢先、武田祐美が呟くように言った。
皆川龍也が頷いて、先を促す。
「そこに階段がありますよね。その横は奥へ行って行き止まり」
武田祐美がビルの入り口をくぐった。皆川龍也も後に続く。
上への階段脇に、スペースがある。正面と右は壁で、左が階段になる。左の階段は折り返して頭上へ続く。奥の壁は左の階段の途中に位置していた。
「その奥の壁が、扉に変わっていたことがあったんです」
「ほう」
皆川龍也は奥の壁へ向かった。壁を眺め、左右を見渡し、振り向いた。顔がほころんでいる。
「面白い」
もう一度振り向き、壁際を確認した。
「何にもないでしょ」
後を追ってきた三上弘樹が、つまらなそうに言う。
「いいや、奥行きが確かにおかしい。本来なら、この壁がもっと奥にあるべきだ」
皆川龍也はそう言いながら右側の壁を丹念に調べつつ、戻ってきた。
「中々に面白い。こんなものを誰が作ったのやら」
「何か分かったの?」
「分ったね。隠し扉があるということは、簡単にわかる」
「やっぱり、あれは見間違いじゃなかったんだ」
「ああ、祐美くん、もしかしたら、お手柄かもしれないぞ」
皆川龍也はそう言うと、外に出て電話していた。相手はどうやら、村上正樹警部補のようだ。このビルの持ち主を調べるように頼んでいた。
「もしかしたら、今までの借り、いっぺんに返せるかもしれないぜ」
皆川龍也はそう言って電話を切った。
「所長、隠し扉は、開けられないので?」
「いや、開けるのは簡単だ。が、中に誰がいるかが、問題だ」
「へ?」
「確証と、準備が必要なんでね。さあ、帰るぞ」
皆川龍也は言うが早いか、駅に向かって歩き出していた。
三上弘樹は理解が追い付かず、首をかしげながらも後を追う。
武田祐美はもう一度ビルを見上げると、二人の後を追った。
21
村上正樹警部補から折り返しがあったのは、次の日の昼過ぎだった。
朝から苛立っていた皆川龍也は、呼び出し音の一回目が鳴り終わる前に電話に出ていた。
皆川総合探偵事務所の一角だ。狭い事務所なので、在席していた皆川令子、皆川真紀、武田祐美に、応答の声が聞こえていた。
三上弘樹は昨晩、仕事があったので、まだ寝室でまどろんでいる。
「よしよしよし!」
しばらくして、皆川龍也の威勢のいい声が響き渡った。
「どうしたの?パパ」
娘の質問に、意味ありげにほほ笑む。
「祐美ちゃんが教えてくれたビルだが」
皆川龍也がそこで言葉を切った。次の言葉を発しないので、じれた皆川令子や武田祐美まで集まってくる。
「とある不動産会社が所有していた」
何の変哲もない答えで、皆の顔が一様に曇った。
「その不動産会社は、とある暴力団組織の関連会社だ」
皆川龍也はそう言って、聴衆の顔を見渡した。
皆川真紀の顔に、確信の色が現れた。状況や話の流れで、推察できたのだ。
「山神組ね」
娘が答えた。
「正解!」
父親が親指を立ててほほ笑んだ。
「それがどうしたというの?」
皆川令子が不満そうに吐き捨てた。もったいぶった割には大した情報ではないと感じていた。
「甘いな!山神組と言えば、二十年前、どこぞの医者が殺害した新生児を、裏で処理していたヤクザだ」
「だから?」
皆川龍也が片手で顔を覆い、うつむいた。
「組長も北村宗信も行方不明だろうが。その関係組織が、隠し部屋のあるビルを所有しているんだぞ?」
これで分かるだろうと言わんばかりだ。
だが、妻は首をかしげるどころか、考えることを放棄していた。
「そこに北村宗信と組長が隠れ住んでいる可能性がある、ってことだ」
皆川龍也は呆れ、ため息交じりに答えを告げていた。
「私が聞きたいのは、そこへ乗り込むような無謀なことをするつもりかどうかなの」
「お、おう。行かずばなるまい!」
「ボクも行きたい!隠し部屋!」
「駄目です!特に真紀!」
母親が問答無用に告げていた。
「祐美ちゃんは助手として来てくれるか?」
「え?」
「ちょっと!祐美ちゃんも駄目でしょ!受験間際の女の子に危険なところへ行かせられないわ!」
「受験前でなければいいのか」
「変な突っ込み入れるな!」
「危険は、ない!」
「一瞬悩んだでしょ!」
「大丈夫だって。警官も同行する」
警官の話は嘘だった。令状がない段階では動けない。せいぜい、張り込みがいいところだ。指名手配犯が確認できて初めて、突入となる。または、そこに指名手配犯がいるという情報が寄せられれば、であった。
皆川龍也はその通報者たろうとしているのだ。
一方、娘の皆川真紀は、隠し部屋という言葉に魅了され、探索したかった。
「ボクが祐美ちゃんの護衛する!」
ていのいい言い訳を持ち出していた。
「お前に隠し扉を開けられるかな?」
父親が挑発までしている。
「やってみたい!」
母親は、父と娘のやり取りに呆れ、頭を抱えていた。こうなったら、止まる親子ではないことを知っていた。無駄に格闘技ができるだけに、少々の危険は蹴散らすだろう。
説得を諦めた皆川令子は、奥へ姿を消すのだった。
22
意外にも、すぐには行動しない皆川龍也だった。
満月の注意週間のため、三上弘樹は多忙を極めた。仕事が夜間のため、助手の武田祐美は暇を持て余すことになる。暇になると、ニュースを見る癖がついていた。
武田祐美が受けている通信制教育に、特別授業がある。特別授業にもいろいろあるのだが、中に、あるテーマに沿って、学生同士で討論する、という授業があった。時事の話題であったり、とある事件、事故が参考になったりするので、ニュースが役に立つ。何かしら発言しないと参加したとは認められないので、予備知識として、日々のニュースは重要だった。
初めのころは何とはなしに見ていたものの、次第に見るのが当たり前になり、新聞や、ネット上のニュース記事もチェックするようになっていた。
満月の注意週間に入ると、交通事故や事件の報道が増える。交通事故も居眠りが原因、と言うものは逆に減る。譲り合いでもめたり、強引に行こうとしてぶつかったり、軽い追突事故の後、当事者同士が殴り合う暴行事件に発展したり。人々が争う形の事故が多くなる。
ルーナベイビーズが絡んだ傷害事件も多くなるようだ。
また、世界規模で、人的ミスによる重大事故も、満月の注意週間に発生する率が高かった。
テレビでは、どこかの国で電車が脱線した事故を大々的に報じていた。別の国では大型客船が沈没したと言う。
年々、そういう事故、事件が増えているのではないか。
「また重大事故か」
後ろで皆川龍也の声がした。彼も仕事柄、世間の時事を仕入れている。木村賢吾もそうだ。皆川真紀も、武田祐美と同じ通信教育を三年間受けていただけに、ニュースをチェックする習慣がついていた。
ニュースは、話題も提供してくれる。誰かとの会話で話題に困ったとき、その時々のニュースを持ち出せば、会話のきっかけになる。
「最近多いですね」
武田祐美は何とはなしに答えていた。
「そのうちに、飛行機も落ちるかもな」
不吉な予想をする皆川龍也であった。
皆川龍也はのんびり過ごしていたわけではない。自分で何やら調べ事をしていた。また、村上正樹警部補とこまめに連絡を取り合い、件の廃ビルの動向も確認していた。
廃ビルには、週に二日ほど、若い男が食料などの日用品を持って訪れることが分かった。その男以外に、人の出入りはない。そこまで確認したうえで、皆川龍也は行動を起こした。
三人とも動きやすい格好だ。皆川真紀はさらしをまいて、動きやすさのみを追求していた。
皆川龍也は二人の娘を引き連れてビルの前に立つと、辺りを素早く見渡した。見える範囲に、警察と思しき車両や人物は見当たらない。だが、どこからか、この入り口を見張っているはずだ。
案の定、村上正樹警部補から電話が入った。
「任せておけって」
皆川龍也はそれだけ答えると、電話を切っていた。
武田祐美は大丈夫かと訝ったが、こういった調べ事というのか、捕り物というのか、とにかく経験のないことなので、指示されるとおりについて行くしかない。
「さて、真紀君。どこが隠し扉か、分かるかね?」
皆川龍也は面白がっているようだ。まるで探偵ごっこ、推理対決でもやっているかのようだ。
皆川真紀は父親の挑戦を受けて立つ。一人先立ってビルに入ると、辺りを見渡した。すぐに、階段脇の行き止まりの通路に入っていく。壁際を丹念に目視し、横の壁を確認しながら、戻ってきた。
「奥が隠し扉で、この柱の陰に操作パネルがあるでしょ」
父親が頷く。
「さて、開けられるかな?」
皆川真紀は一歩下がり、柱に近づいた。
武田祐美も興味本位で、友人の後ろから覗き込んでみた。
柱の陰に、よく見ると、四角い切れ目があった。皆川真紀がその四角の一部を押すと、ふたが開いた。数字が十個並んだボタンが現れる。
皆川真紀がボタンを見つめていた。一分も経っていないのだが、武田祐美には、数分経ったように感じる長さだった。
「番号を間違えると、開かなくなるかもな」
父親が挑発するように言う。どうやら、彼は暗証番号の察しもついているようだ。
「簡単じゃない。一〇二五でしょ?」
「ふむ。ちゃんと予習済みだったか」
武田祐美にはまるで理解できない。なぜ分かるのだろうかと首をかしげていると、友人が解説してくれた。
「使っているボタンには埃がなくて、代わりに手あかがあるの。後、ボタンが摩耗している」
言われてみれば、確かに、一と二と五と〇のボタンだけ、円形の跡があるように見えた。他のボタンは満遍なく、薄汚れていた。
「四桁のようだから、大した組み合わせではないけれど、総当たりしている場合じゃない。だから、関係のありそうな数字を資料から持ってくるの。この四つの数字と資料とで一致するのは、北村宗信の誕生日」
「そんな安易な…」
「ね。誕生日はパスワードにするなって、教わらなかったのかな?」
「他に該当するものがないからな。間違いないだろう」
「えらそうに言ってみても、最後はトライアンドエラーなの。こういう推理は」
皆川真紀はそう言って、ボタンを順に押していった。
どこかからうなり声のような音が聞こえたかと思うと、奥の壁が下へ沈み込んでいった。
壁の後ろから、通常の扉より一回り小さな、まるで子供だけが出入りするような扉が現れた。
「ビンゴ!」
皆川龍也が勝ち誇って言った。
「この数字の組み合わせってことは、北村宗信はここにいると確信するね」
壁の後ろから現れた扉を指さして、宣言した。
扉が現れても、また一つの問題に阻まれる。鍵がかかっているのだ。
「想定内」
皆川龍也はそう言うと、ポケットから何かを取り出した。布で包まれたものを広げ、金属の細い棒のようなものを手に取ると、カギ穴に差し込んだ。ポケットからペンライトを取り出して、鍵穴を覗き込む。
一つ頷くと、ペンライトをしまい、最初の棒を布に戻すと、別の二本の細い棒を取って、鍵穴に差し込んだ。
何をどう操作したのか、二本の棒を回すと、鍵穴も一緒に回り、カチと開錠の音が響いた。
皆川龍也が道具を片付けながら、後ろの二人に片目をつむってみせた。
「悪い人がいる」
皆川真紀が、友人の耳元でささやいていた。自分の父親を捕まえて、陰口をたたいている。
武田祐美は思わず吹き出していた。思えば、緊張感に欠けていた。
皆川龍也は気にも留めず、音を立てないように扉を押した。ゆっくりと開いた先は、すぐに壁があり、左方向へ隙間が見えた。天井は低く、中腰で歩かなければ、通れそうにない。上り階段の折り返し、踊り場の真下に、この入り口がある。上り階段の下に入るように、下りの階段が続いていた。ために、天井が低くなっているのだ。
細い通路が、黄色い裸電球の明かりで照らし出されていた。皆川龍也が中腰で中に入り、階段を下りていく。頭上の裸電球を避け、さらに左へ曲がって姿を消した。
皆川真紀も後に続いた。
武田祐美は友人のすぐ後に続き、腰をかがめて狭い通路に入った。
扉をくぐると、足元は下り階段の途中だった。階段はすぐに左方向へ折れ曲がる。曲がり角の真上に裸電球が灯っていた。
腰を屈めていても、裸電球に触れそうで、気を付けて歩かなければならなかった。裸電球が発する熱で、頭部が熱い。
階段をそのまま下る。上り階段のちょうど真下だろう。天井が段々になっている。やや急こう配の階段を下るにつれ、天井が離れていった。
通路は幅が狭く、人ひとりがやっと通れる程度だ。木製の手すりが添えられている。この手すりは後から付け加えられたのだろう。釘が無造作に打ち込まれ、壁にひびが入っていた。
壁は煤汚れ、明かりが乏しいので、黒一色に見えた。
三人は足音を立てないよう、ゆっくりと下りて行った。裸電球の黄色い明りが遠ざかり、足元が暗い。踏み外さないように気を配らねばならなかった。
この空間だけ、時間の流れが違うような錯覚に襲われた。今時珍しい裸電球の明かりのためだろうか。薄暗い階段のためだろうか。ゆっくりと進むからだろうか。あるいは、緊張のためかもしれない。
暗がりの先に続く階段は、どこまでも下りていくように感じた。終点のない階段なのかもしれない。
急に前が立ち止まった。武田祐美は思わず、皆川真紀の背中にぶつかっていた。
唇だけを動かして、詫びる。
皆川真紀は顔を横に向けて、頷いていた。
先頭の皆川龍也が手を挙げていた。その手が自分の頭を指さしている。顔まで視線を落とすと、唇が動いていた。どうやら、思考を読め、ということらしい。
『聞こえているか?』
皆川龍也にしては珍しく、一部の思考を聞き取ることができた。周りで騒音がしているかのように、他の思考があるものの、その一部だけは分かる。
武田祐美は頷いて見せた。
『左側に扉がある。扉の向こうに人がいるか分かるか?』
武田祐美は人の思考が読める。対象が見えなくても、できるのではないかと、彼は考えたようだ。
確かに、見えていなくても聞こえる。思考を読む、というよりは、聞こえる、の方が正しかったのだ。事実、アパートで暮らしていたころ、隣近所の思考が聞こえた。人々の思考は、不満や利己的なものが多く、不快な思いをする。あまり聞いていると、気が滅入ってしまう。
武田祐美は、心を開放していった。普段は周りの人の思考を聞かないようにするため、抑えている。意識しないようにしている。今は逆に、意識して、聞き取ろうと試みるのだ。
複数の皆川真紀の声が聞こえ、何を考えているのか判別できない。彼女の父親も、娘と同じように複数の思考が聞こえ、内容が理解できない。しかし、なぜか、この二人の思考に不快感は伴わなかった。
『…』
何かが聞こえる。ビルの外、見える範囲にひと気はなかった。おそらく、この奥から聞こえている。
武田祐美の背筋に、虫が這うような気持ち悪さがあった。聞こえてきた思考の持ち主が、負の感情を多くため込んでいる証拠だ。
『なんで俺がこんなところに隔離されなきゃいけないんだ!理不尽だ!世の中不公平だ!』
どちらかと言えば、若そうな声に聞こえた。この声に焦点を合わせてみる。
『ああ!月のかけらが欲しい!』
『俺が表に出れば、あんな辛気臭い研究所よりも華々しい成果を上げてやれるのに!』
『ああ!息が詰まる!』
『女の一人でも用意しやがれ!くそ爺ども!』
声の主の思考は支離滅裂だった。女のことを考え始めた途端に、卑猥な思考に変わっていった。武田祐美は慌てて焦点を外した。
別の思考が聞こえないか、様子を見る。先ほどの思考を拾わないように気を付ける。
『おのれ皆川龍也!木村賢吾!どうやったか知らぬが、あれを切り抜けおるとは…!』
『次はどうしてやろう…。直接手にかけてやるか?いい加減に復讐を果たさねば、気がふれるわ』
『わしの人生をめちゃくちゃにしおったにっくき者どもめ!』
『おお、そうだ!娘を傷物にしおったあの不届き者も成敗せねばならん』
『名を何と言ったか…三上…まあ良いわ!そやつもこの手で…』
声から受ける印象は、老齢の男性だ。
他には思考の声を発する者はいなかった。
武田祐美は指を二本立て、唇を一音ごとにゆっくりと動かした。
(ふ、た、り)
皆川龍也が頷いた。両手の指を使って何やら形を、次から次へと作る。娘とそれで会話している様子だ。
武田祐美がその指の動きについて、手話ではないかと思い至るのに、しばらく時間を要してしまう。手話と理解したのは、親子の会話が終わる寸前だった。
皆川龍也はしゃがみ込むとペンライトを取り出し、灯した。小さな明かりが目に刺さる。
皆川龍也の左側に、ドアノブが見えた。今までそんなものがあるとは気づきもしなかった。裸電球の明かりは遠く、暗闇と言っていい状態だった。その暗がりの中に、小さなペンライトが強烈な明かりを放ち、ドアノブの姿をさらけ出していた。
皆川龍也が先ほどと同じように道具を取り出して、鍵穴に差し込んでいた。
開錠の音が鳴り響いた。小さな音のはずなのに、やたらと大きく聞こえ、中の人たちに聞こえなかったかと、不安になる。
ペンライトが消されると、再び闇が支配する。目が慣れるまでに少し時間を要した。
皆川龍也の手が挙がっていた。指が立てられており、何かを数えるように、一本一本折り曲げていく。その彼の片目が、なぜか閉じられていた。
すべての指を折り曲げると、扉が奥に向かって押し込まれ、中から明かりが漏れた。暗がりに慣れ始めていた眼には強すぎる明かりだ。
武田祐美は一瞬視界を失った。目を細め、光に耐えようとする。
ようやく見えるようになると、前にいたはずの親子の姿がない。
慌てて室内に飛び込む。
そこは蛍光灯の灯った、小さな廊下だった。奥に扉が一つだけある。
「お、女!抱かせろ!」
男の叫び声が聞こえた。
『女って分かったの?』
皆川真紀の思考が、なぜか嬉しそうだ。
「貴様!なぜここに!」
もう一つ、男の叫び声が聞こえた。
「女女女!」
最初の声だ。だが、鈍い音が響いた直後、その声が途切れた。
「俺は探偵だぜ?下手にちょっかい出せば、お礼参りに来るってものだろう?」
皆川龍也の声だ。お礼参りは、探偵なんて関係ないのでは、と武田祐美が思っていると、何かが破裂するような音で思考を遮られた。
嫌な予感がして、扉を開けた。
皆川真紀が、左手の戸口から飛び出してきた。
一瞬、二人して顔を見合わせる。二人の顔に、一様に、不安が忍び込んでいた。
そこはソファーのある六畳間ほどの部屋で、床はコンクリートむき出しだった。壁際に、冷蔵庫がある。左側に二つ、正面に一つの扉があった。皆川真紀が出てきた扉は、左の奥側だった。
皆川真紀は迷わず、武田祐美から見て正面の扉へ駆け込んだ。武田祐美も後を追う。
「まったく、物騒な物をもってやがった」
部屋へ飛び込むと、皆川龍也の声が聞こえた。吐き出すように言うのはなぜだろう。
部屋の中を見渡す。
先ほどの部屋よりはるかに広い。奥にベッドが一つあった。タンスや机がその傍にある。手前にソファーと机。テレビも見える。
ソファーに皆川龍也が倒れこんでいた。娘が駆けつけている。
武田祐美が回り込んでみると、娘が父親の太ももをベルトで縛っていた。その下が、黒い液体で染まっていた。金属の匂い。
武田祐美の足が震えた。あの黒い液体が何なのか、一瞬では理解できなかった。震えが先にやってきた。
両手で口を押える。言葉が出るわけではない。別の何かが出てきそうだ。自分の腕で自分の体を押さえつけないと、何かがこぼれ落ちそうだ。
コンクリートの床に、黒い何かが落ちていた。硬そうなもので、L字の形をしている。そのさらに向こうに、枯れ果てた手があった。その手の先に人がうずくまっている。動く気配はなかった。
「突入してくれ。後、救急車を一台。しくじっちまった」
皆川龍也がいつの間にか、電話していた。
「ああ。撃たれた。いや、のしたよ。いいから早く来やがれ」
皆川龍也がモバイルを放り投げた。画面に赤黒いものが付着している。
武田祐美はただ呆然と、見ているしかなかった。
「すまんな。怖がらせて。せっかく祐美ちゃんに中の様子を確認してもらったのによ。このざまじゃ、世話ないわな」
皆川龍也は努めて明るく、そう言ってみせた。しかし、言葉の端々に、力みが入る。足を撃たれているのだ。相当な痛みのはずだ。出血によって意識も保ち辛いのではないか。
皆川真紀が部屋を飛び出すと、どこかをひっかきまわしている音が返ってきた。しばらくしてタオルをいくつか手に戻ってきた。
ベルトとタオルを差し替えて、傷口の少し上、体に近いところをきつく縛りなおした。そのタオルの上からさらに、ベルトで縛る。
皆川龍也がうめく。
太ももから出る黒いものが、少し落ち着いたようにも見えた。
皆川真紀は別のタオルで傷口を覆った。彼女の手が、黒い。傷口に当てたタオルに赤黒いシミが広がっていく。
「心配しなさんな。人はこれくらいじゃ死にはしない」
皆川龍也は気丈にも、そう言って笑ってみせた。
言われた武田祐美は、答えることができない。ただただ、口を押さえ、自分の体を押さえ、倒れないようにするのが精いっぱいだった。
娘の皆川真紀の方がよほど動揺していたであろう。だが、微塵も見せず、献身的に動いていた。武田祐美にはそのことに気づく余裕すらなかった。
23
皆川龍也が目覚めたのは、事件から二日後だった。
清潔に保たれた白い個人用の病室に、妻と娘と娘の友人の、不安そうな顔を見つけることができた。
「ほら、死にはしなかっただろう?」
あまりにも場違いなセリフを吐いて見せる、皆川龍也であった。
「開口一番がそれかい!」
皆川令子の声が震えていた。普段なら、殴りつけている勢いだが、さすがに堪えていた。深呼吸をして気持ちを抑えると、主人の枕元にあるナースコールを押した。
皆川令子はナースコールを押さずとも、自分で確認すべき事柄を知っていたが、引退して二十年が経つ。現役の看護師と医師に任せるべきと考えていた。任せなければ、机の上の体温計を取り出し、主人に突き刺していたところだろう。
「どうしました?」
天井のスピーカーから女性の声が響いた。
「主人が目を覚ましました」
皆川令子が声に答える。
「分りました」
返事の後、スピーカーがオフになった。
しばらくすると、白衣を着た中年の医師と看護師が二名、さらに、村上正樹警部補まで現れた。
「おいおい、大げさな」
「何が大げさなものか。動脈を傷つけていたんだぞ。いくら弾は貫通していたからと言って…」
医師の代わりに、村上正樹が文句を言っていた。
医師と看護師は黙って作業を続ける。一人の看護師が体温計を患者に手渡し、脈をとる。
医師が幹部の包帯を取り、傷口を視診し、触診し、消毒する。もう一人の看護師が助手として、ガーゼや包帯を医師に手渡していった。
脈を計っていた看護士が、点滴を交換する。
「そんなに血を流していたのか?」
当の本人は、あまり自覚がなかった。何せ、警官が突入してきたのを確認した途端、意識を失っていたのだ。眠って起きたら、ベッドの上だった、程度の感覚だ。
「ごめんなさい。あたしが確認…」
武田祐美が謝り、人前で言ってはならない事実を語りかけたのを、皆川真紀がとっさの判断で止めていた。
皆川龍也は娘に向かって頷くと、
「いや、俺の油断だ。あの意味のない廊下を見た時に気づくべきだった。あそこにセンサーがあって、それで侵入がばれた」
「ケガする前に気づけよ。だから無理に突っ込むなと言ったんだ」
村上正樹は文句を言うものの、声に力はなかった。自分が関わった事件で民間人にけが人を出してしまったという負い目が、そうさせていた。
「もっとこう、可憐にやるつもりだったんだがなぁ。現実は甘くない」
作業を終えた医師が、皆川龍也の視線を遮った。
「大量に血を失っているので、しばらくめまいや倦怠感が襲うかもしれません。安静にお願いします。傷口がふさがるまで、歩くのも避けるように」
医師は簡単に説明すると、村上正樹に会釈をして、病室を出て行った。看護師たちも役目を終えると道具を持って去っていく。
「本当は面会謝絶だったりして」
皆川龍也がおどけて言う。
「ヒロ兄みたいな冗談だね。笑えない」
「おっと、すまん」
皆川龍也は頭を枕に沈めた。実のところ、頭を持ち上げているのも辛かった。妻子や、責任を感じている武田祐美の手前、気丈に振舞っていただけだ。
「それで」
皆川龍也は天井を見つめたまま、村上正樹に促した。
村上正樹は大きなため息を一つ漏らした。意を決し、簡単に説明する。
「発砲事件の現行犯でやつをとらえることができた。やはり、北村宗信その人だった。おかげで今や署を上げててんやわんやの大騒ぎだ」
「よく出て来られたな」
「これからすぐ署に戻る。非番も返上だ。まったく、貸しを返してもらったのか、逆に貸しが増えたのか、よく分らん」
村上正樹はぼやきながら、病室を出て行った。たったそれだけを告げるためだけに、彼は病院へ訪ねて来ていた。いや、友人の安否を確認するためであったのだろう。
病室が一気に静かになった。
「本当にごめんなさい」
沈黙を破ったのは、武田祐美だった。人の思考を読んで、中にいる人数を確認したのが彼女だ。もっとしっかりと確認していれば、武器のことや警報のことに気づけたかもしれない。彼女はずっと、友人の父親にけがをさせずに済む方法があったのではないかと、後悔していた。
「祐美ちゃんのせいじゃない。警報の存在を考えなかった俺の、自業自得だ。俺としたことが、功を焦って肝心なものを見落とすなんてな」
皆川龍也が慰めるように言う。
「そうだよ。祐美ちゃんは役に立ったの。祐美ちゃんがいなかったら、もっと酷いことになっていたかもしれないんだから」
「そんな危険なところに、大事な娘を二人、連れ込んだ…」
皆川令子の声が、異常に低い。
「あ、待て、今は勘弁してくれ!」
危険を察知した旦那はベッドの上で身じろぎした。思うように動かない体を引きずって、ベッドの反対側へ逃げようとする。だが、たいして動けていない。妻に対して背中を向けただけだった。
「心配させんな、バカ!」
予想に反して、妻は逃げようとする旦那の背中に抱きついた。
「お、おう。すまん」
皆川龍也にしては、間の抜けた返事であった。
24
武田祐美は、自分を責めずにはいられなかった。
あの時、もっとちゃんと思考を読んでいれば、危険を察知できたのではないか。友人の父親に、命の危険を伴うけがなど、負わせずに済んだのではないか。考えれば考えるほど、そう思えてならなかった。
警報の存在に気付いていれば。武器のことを察知していれば。もっと慎重に、相手の思考を読んでいれば、答えにたどり着けたはずだ。自分のせいで、けがをさせてしまった。
武田祐美は一人、沈み込んでいた。頭の中で同じことが繰り返され、何も手がつかなかった。
何かが破裂する音。大量の血。何もできない自分。防げたはずの出来事。頭の中はそればかりだった。
武田祐美の頬に、何かが触れた。
闇をとらえていた瞳に、人影が映る。同時に、彼女の心に温かい何かがしみこむ。それは頬に触れている手から注ぎ込まれていた。
「君はよくやった。間違いなく」
男性の声が、耳にも、心にも染み込む。
武田祐美の焦点がやっと合う。
目の前に、男性の顔があった。三上弘樹だ。目尻にしわがある。目が充血している。これと言って特徴のない、年相応の顔だ。しかし、武田祐美にはなぜか、光をもたらす顔だった。頬に彼の手が触れているおかげかもしれない。
頬の温もりが、心の中まで温め、冷たい闇の中から浮上させてくれる。
いつもそうだ。武田祐美が人々の思考を拾い集め、パニックに陥った時、彼が頬に手を当てて、救い出してくれた。彼女にとって、救世主の手だ。
もっと触れていて欲しい。武田祐美はただそれだけを願った。手が離れ、頬が冷えると、そこから心の闇が冷気を忍び込ませるに違いない。
「君は彼の命を救ったんだ」
三上弘樹が呟いた。
武田祐美には言っている意味が理解できない。自分の不注意で、皆川龍也は重傷を負ってしまったというのに。
「君が二人いることを確認したからこそ、あの親子は別々に行動した。だからああなった。でも、もし知らなかったら?二人で同じ部屋に入り、娘が撃たれそうになったら?きっと所長は身をていして守っただろう。そうしたら、あの程度のけがでは済まなかった。死んでいたかもしれないんだ。もしかしたら、真紀ちゃんが撃たれていたかもしれない。そういう不幸を未然に防げたのは、君のおかげなんだ」
彼の言い分は、仮定の話だ。現実には起きていないし、武田祐美の介入がなくても、起きなかった可能性もある。
ただの気休めだ。武田祐美にもそうと分かる。分かるのだが、なぜか、胸が締め付けられた。皆川真紀に危険が及んだかもしれないと思うと、背筋が震えた。
皆川龍也が、あるいは、皆川真紀が、凶弾に倒れていたかもしれないという可能性。考えもしなかった。そんな危険が身近に起こり得るとは、想像もできなかった。
言われて初めて、想像してしまった。
友人が死ななくてよかった。けがをしなくてよかった。その父親が死ななくてよかった。
武田祐美の考え方に変化が生じていた。
心の闇の冷気が治まったように感じられる。
三上弘樹もそう感じたのだろう。優しい眼差しになっていた。
やはり彼は、武田祐美にとって、救世主なのだ。負の感情に支配されていた彼女を解き放ってくれる。彼女にとって大切な救世主だ。
「それにしても、所長は自意識過剰でいつまでも若いつもりだから、とんだヘマをやらかすんだ。あんな大人について行っちゃ、駄目だよ」
余計な一言で、台無しにすることも多いのが玉にきずだが。
25
三上弘樹は、珍しく悩んでいた。彼としては色々な悩みがあるものの、周りから悩んでいるように見られることは少ない。
今回も例外ではなかった。
事務所で悩みにふけっていると、
「何をボーとしているの。働きなさい」
と追い出され、自宅で考え込んでいると、
「いいお天気なのだから、たまには体を動かしなさいな」
などとていよく追い出されてしまう。後者は特に、掃除の邪魔であったのだが、三上弘樹に自覚はない。
三上弘樹は仕方なく、遊歩道を散策した。
木村康代の言うとおり、一面の青空が広がっていた。ところどころ薄い雲がうろこ状に広がっている。
三上弘樹は、つい先日、日中に熱いと感じていた。今は、急に季節が廻ったかのように、風が冷たく、日差しの温もりを吹き飛ばしていた。
平日の日中、それも風が冷たいとなると、遊歩道に人影はほとんどなかった。三上弘樹が遊歩道を散策する間にすれ違ったのは、愛犬を散歩させる老人など、数えられる程度の人数だった。
三上弘樹は道路より低い遊歩道を南へ向かって歩いた。少し歩くと階段に行きつく。階段を上がると、東西に続く道路が横たわっていた。道路を渡ると、再び階段があり、南への遊歩道が続く。
三上弘樹は遊歩道の手前で、西へ向かった。事務所前を通る南北の道が、ここまで続いている。この道路も渡ると、西へ向かう遊歩道が百メートルほどあり、さらに向こうにも別の遊歩道がある。ただ、手前の遊歩道は数メートル下にあるのに対し、その向こうの遊歩道は道路と同じ高さだ。同じ用水路を埋め立てたのに、この差は何なのだろうと、三上弘樹は考えてしまうのだが、さしたる疑問でもないので、すぐに考えるのをやめた。
二つの遊歩道を通って西へ向かうと、大きな道路に出る。南北に続く、片側二車線の道路で、南側へ向かえば、スーパーやレストランなどがある。北へ向かえば、陸橋で線路を超え、やがて大きな川沿いに出る。その先に東西にのびる交通の要所があった。東西の血流ともいうべき、高速道路、新幹線、国道の三本が、東西に横たわっていた。その高速道路の近くに、皆川真紀が目指す大学がある。
さすがに歩いていくには遠すぎるので、道路を渡ってさらに西へ向かった。こちらも遊歩道にするつもりがあるのか、更地にしたまま放置された土地が続く。
三上弘樹が子供のころ、今歩いているところは入川だった。護岸は石垣で囲まれた川で、海水がここまで入ってくる場所だった。海水なので、干潮の時は水がほぼなくなり、どす黒い地面が見えたものだ。ヘドロの中で小さなカニたちが体操していたのを眺めたことがある。
大潮の満潮時には、石垣の切れ目のすぐ近くまで水が増したものだ。
その景色はもうない。石垣の一部と思しきものがわずかに見え隠れする程度だ。
三上弘樹は、その川の上を歩いていた。足元の数メートル下を、海水が満ち引きしていたと思うと、哀愁に似た思いがよぎる。
しばらく歩くと、川の跡地は南へ向かって曲がる。
この辺りになると、昔の名残はもうないようだ。空き地ではあるものの、道路との境は縁石で囲まれている。その一角で、近くに暮らす人々が各々、草花を育てている。元が川だったとは、分からない。
南へ向かい、海の傍へ来ると、地蔵が並ぶ一角がある。地蔵のさらに南側に、昔の名残として、入川の入り口が残っていた。
そこに東西に続く道があり、小さな橋が架かっている。手を加えるには、費用が掛かり過ぎると踏んだのではないか。
西へ向かえば、小さな神社がある。無人の神社だ。三上弘樹は神社に入り、切り株を見つけてそこに腰を下ろした。
ここまで歩く間に、色々考えたが、結論は出ていない。大まかにまとめると、女性のことについて考えていた。
初めは、武田祐美について考えていた。彼女は人の心、思考が読める。そのために、実の両親に避けられ、一人暮らしをしていた。
三上弘樹が三年前に出会ったとき、彼女の魂は消え入りそうなほど、弱っていた。肉体と魂が分離してしまうほどの状態だった。
幽霊などのオカルト全般を、認識できる三上弘樹には、彼女の魂の状態が見えた。何かに苛まれ、飲み込まれ、消えていこうとしているかのようだった。
とっさに彼女の魂を抑えつけた。幽霊などの対処はできるが、生きた人間の魂に自分の力が通じるかどうか、考えもしていなかった。幸いにも、三上弘樹は成功した。彼女の魂を肉体に押さえつけ、救うことができた。
それから三年間、見守り続けていたが、同じ症状は出なかった。なので、もう治ったものと考えていた。
しかし、武田祐美の魂と肉体は再び分離しかかった。先日の皆川龍也が大けがを負った事件が発端らしい。彼女は自分を責め続け、塞ぎ込んでいった。塞ぎ込み方が尋常ではなかったのかもしれない。彼女の精神が異常をきたしたがために、分離したのではないか。
三年前のその症状は、思い返せば、他人の思考に振り回され、武田祐美の精神が崩壊しかかったのではないか。今回も、自分を責めるあまり、精神が崩壊しかかったと考えれば、同じ原因だと言える。他に何か原因があるのかもしれないが、彼女のあの症状が出るきっかけとなった事柄が分からない以上、判断のしようがない。
対処療法として考えるなら、彼女の精神の安定を図ること、だろう。それもかなり安定させなければならない。
三上弘樹の与り知らぬところで彼女の魂と肉体が分離してしまったら、彼女の魂はどこかへ消え去る可能性がある。そうなれば、残った肉体は、死ぬのみだ。それは防がなければならない。とはいえ、四六時中傍にいることもできない。
彼女の精神を安定した状態で保つためには何が必要か。家族愛ではないだろうか。周りの人々の優しさではないだろうか。そう考えると、彼女を家に招いたことが間違いではなかったと確信できる。元々は、病的に痩せていた武田祐美が可哀想で、深く考えずに招いたのだが、結果として、良いことをしていたのだと、自信を持てた。
だが、周りと触れ合うからこそ、先日のようなことも起こり得る。家族の誰かが、交通事故や、病気で亡くなる、などということも、あり得るのだ。
彼女の精神をもっと安定させ、そのうえで、根本的な解決方法を探す必要がある。では、さらなる安定剤は何か。
彼女が人を愛せば、どうなのだろう。例えば恋人ができれば。三上弘樹の脳裏にその疑問が浮かんだところから、思考は迷走した。
三年間見守ってきた彼女に彼氏の存在。そう考えると、無性に腹が立つ。それがどういう心境なのか、三上弘樹本人にも分からない。ただ、自分が彼氏になれたら、とも考えてしまった。
即座に、あり得ないと考えを否定する。彼女との年齢差は二十一歳で、親子ほど離れている。今でこそ、晩婚化が進み、親子の年齢差が広がっているものの、一昔前であれば、確実に親子である。
結婚して子供をもうけたことがないので実感はないものの、相手や周りからすれば、異質に映るのではないか。彼自身は、そんな若いパートナーを得ることができれば、幸せの一言だ。だが、相手からすれば、気持ち悪い、の一言かもしれなかった。
三上弘樹は近年、異性に対して、奥手になっていた。元々奥手で、異性と手をつないだ経験すら、僅かでしかない。それでも何度か恋愛したことはあった。しかし、命の恩人である幽霊のゆみを失ったときから、異性に対して声もかけられなくなってしまった。
恋人を失い、それでもその恋人を思い続けているために、次の恋に進めない。そういう状態に近いのかもしれない。
幽霊のゆみは恋人ではない。良き隣人で、肉体のない霊体だ。確かに、幽霊のゆみが肉体を持てば、自分の伴侶は彼女しかいないと三上弘樹は考えていた。
武田祐美は、その幽霊のゆみと同じ能力を持つ。三上弘樹は時折、二人を混同してしまうのだった。だからこそ、自分が彼氏に、などと考えてしまう。あり得ないことと分かっていながら。
三上弘樹が武田祐美にできることは、守ること。言うなれば、親としての立場が近い。父親のような心境で接すればいいのだろう。頭では分かっていても、ふとしたことで、おかしなことを考えてしまうのだった。
三上弘樹は別のことを考えることにした。
武田祐美以外の女性で、彼女にできる、あるいは彼女にしたい人はいないものだろうか。
ここで皆川真紀の名前が思い浮かばないことが、皆川真紀にとっては不幸だったのかもしれない。皆川真紀の思いが、三上弘樹に伝わっていない証拠でもある。あるいは、三上弘樹にとっても不幸だったのかもしれない。皆川真紀の気持ちに気づけば、親の障害はあるものの、簡単に伴侶を得ることができたのではないか。それもとても若い妻を。男性なら多くの人が羨んだだろう。若すぎて、蔑まれたかもしれない。とにかく、三上弘樹は気づかなかった。
三上弘樹の頭に浮かんだのは、可香谷姫子だった。特に親しいわけではない。彼女の十歳くらいのころを知っていた、というだけだ。その彼女が仕事の依頼に来た。
凛々しく美しい女性だった。年齢は二十九歳だったはずだ。三上弘樹とは十歳差だ。このくらいなら、問題ないのでは、と考えた。考えるのは自由だ。相手が見向きもしない場合でも。
何かに誘ったわけではない。可香谷姫子と男女の仲になるという具体的要素は一つもなかった。
恋愛について、考えに困ると、いつも思うことがある。幽霊のゆみが肉体を持ち、傍にいてくれればよかったのに、と。幽霊のゆみであれば、色々思い悩む必要はない。自分の思いは筒抜けだ。幽霊のゆみが自分を思いさえしてくれれば、簡単に両思いになる。思い悩む必要はないのだ。告白する勇気も必要ない。それと知れてしまうのだから。これほど便利なことはないと常々思っていた。
三上弘樹は、自分でも、実のない空想だと理解していた。まずは、誰かいい人を見つけ、声をかけなければならない。
三上弘樹は大きなため息を漏らすと、考えるのをやめた。
26
三上弘樹が皆川総合調査事務所へ戻ると、客が待ち受けていた。可香谷姫子だ。思わず驚いてしまう。誘うチャンスが来たのではないかと、おかしな考えがよぎってしまう。
可香谷姫子は依頼したことがどこまで進んでいるのか、確認に来ただけだった。
進展はない。ないが、尋ねたいことがあったことを、三上弘樹は思い出した。
「あの、月のかけらのことだけど」
可香谷姫子にソファーを勧めながら、尋ねた。
「数を集めたら幽霊が集まるって、ご存じでした?」
「いいえ」
可香谷姫子は即答したものの、首をかしげた。皆川令子が用意したコーヒーカップを、優雅な仕草で持ち上げ、そのまま止まった。
コーヒーカップを持っていることに気づいて、テーブルに戻すと、彼女は口を開いた。
「でも、あり得ないわけではないわね」
「それはどうして?」
可香谷姫子が三上弘樹を凝視した。何かまずいことでも聞いてしまったのだろうかと、三上弘樹は焦り、何度も座りなおした。
「お答えできません。しかし、探していただく石は、幽霊を集める習性があります」
「それなら、すぐ見つかりそうなものだけど」
「そうなんです。だからこんなにも苦労するとは思ってもなくて…。あ、すみません」
可香谷姫子が勢い込んで語りだしたが、途中で気づき、詫びて終わった。
「いいえ。十歳くらいの時はもう少し心を開いてくれてたと思うんだけどなぁ」
三上弘樹は話を途中でやめられたのが少し悔しくて、ついそんなことを言ってしまった。少し前に、恋人候補として考えていたことも影響しているのだろう。
「な…」
可香谷姫子が三上弘樹を睨んでいた。ゆっくりとコーヒーカップを持ち、一口飲む。そしてカップを戻す。その間、視線を外さなかった。
三上弘樹は蛇に睨まれた蛙よろしく、身動き一つできずにいた。
「覚えてらしたのね」
可香谷姫子が呟いた。色々言いたいことがあるような表情だが、ほとんどの言葉を飲み込んだようだ。
「相変わらず、人が悪い」
「ええ?あの時、僕、何か悪いことした?」
「そのセリフをゆみちゃんが聞いたら、呆れるでしょうね」
「う。やっぱり、姫ちゃんも幽霊見える人だったんだね」
三上弘樹は勇気を出して、二十年前の呼び方をしてみた。
「せっかく転…」
可香谷姫子はそこまで言って、顔をこわばらせ、自分の口を押さえた。
「てん?」
三上弘樹が先を促そうとするものの、彼女は、
「何でもない」
としか答えなかった。
「とにかく、幽霊が集まる石を探して」
可香谷姫子はそう言って表情を変えた。
「そうは言っても、姫ちゃんにも見つけられないんでしょ?」
「そうだけど、ヒロキは仕事として関わっているんでしょ」
「そうだけど」
「この辺りは確かに、霊が集まっているの。だからこの辺りにあるはずなの。でも、何かに妨害でもされているのか、幽霊がその石の傍まではいけない様子なの」
「ほほう。例えば、その石をどこか厳重にしまい込んだら、あり得る?」
「幽霊には関係ないわね。たとえ核シェルターであっても」
「また突拍子のない例えで」
「でも分かったでしょ?」
「まあ」
いつの間にか、二十年前のやり取りをしているかのような錯覚に襲われた。目の前にいるのはおかっぱの女の子で、少々おしゃまなしゃべり方をする。
三上弘樹にとって、それは喜ばしいことだ。空想が現実味を帯びる可能性があるということだ。美しい女性へと成長した彼女と親しくなる可能性がある。そう思うと、心が弾んだ。
現実にするには、この仕事をやり遂げねばならない。やり遂げれば、可香谷姫子に認められ、誘い易いのではないか。
「それにしても、なぜ幽霊がそんな石に集まるんだろう?」
「それは霊界の…」
可香谷姫子が再び自分の口をふさいだ。そして三上弘樹を睨みつけていた。テーブルの下から、彼女の足が、三上弘樹の足を蹴った。
「痛っ!ちょっと!」
「何でもありません!」
可香谷姫子は怒ったようにそう言うと、立ち上がった。三上弘樹に顔を見せないよう、背を向け、去っていく。
三上弘樹はそれを、自分が何か悪いことをして怒らせたのではないかと考えていた。邪な考えが見え隠れし、嫌われたのではないかと思えた。見当違いではあったのだが。
27
可香谷姫子は焦った。危なく、自分の正体にかかわる秘密事項を、他人にしゃべってしまうところだった。
三上弘樹が二十年前のことを覚えていた事実が、口を軽くしてしまった。
彼の前から逃げるように立ち去ったことに後悔を覚える。しかし、あの時の真っ赤な顔を見られたら、何を勘繰られるか分かったものではない。次回に立ち寄った時、急用があったとでも言えばいいだろう。
三上弘樹が自分を覚えていたことが、不意打ちであり、嬉しいことだった。
二十年前、可香谷姫子は盲腸で入院したことがある。術後、安定してくると、病室が別館に移動した。その別館の屋上で、三上弘樹と出会った。
別段、彼が印象的だったわけではない。彼の隣に、自分と同い年くらいの、女の子の幽霊がいたことが、印象的だった。
当初、三上弘樹はさえない男、程度にしか考えていなかった。そのさえない男が、どういうわけか、悪霊を除霊してしまった。可香谷姫子は自分が対処せねばならないのかと覚悟を決めていたところ、意表を突かれた形になった。
当時の可香谷姫子では苦労する案件だと分かっていたのに、彼は、幽霊のゆみを犠牲にしただけで、あっさりと解決していた。
そのさえない男は、傍にいた幽霊がいなくなり、沈んでいた。たかだか幽霊のことに、そこまで悔いている彼が、急に愛おしく思えてしまった。
思ってしまったのが、運の尽きだ。自分で自分の気持ちを制御できない。彼のことを考えると、胸の奥が締め付けられ、切なくなった。かといって、当時九歳の可香谷姫子に、胸の奥の衝動に突き動かされるだけの自由はなかった。
かくして、可香谷姫子の内に、初恋として刻まれ、二十年の歳月をかけて、熟成されていた。
可香谷姫子はこれまで、いくつかの恋愛を経験してきた。その度に、初恋の彼と比べてしまう。初恋の彼はさえない男なので、勝る人物は非常に多い。多いのだが、初恋の彼が幽霊に見せた優しさや、困難な悪霊をあっさりと除霊した能力などと言った傑出した部分を持つ人物は、案外いないものだ。
考えてみれば、除霊などという能力は、この世で生活する限り、特に必要な能力ではない。必要のない能力なのに、そこに注意がいってしまうのだった。
うわさを聞きつけて訪ねた探偵事務所で、初恋の相手に再会してしまった。二十年を経て、互いにいい大人になっているにもかかわらず、彼の名前を聞いた途端に、胸の奥が締め付けられた。顔に出ないよう気を付けるので精いっぱいだった。冷静に、仕事の依頼ができたのか、少々不安でもあった。
そこで武田祐美にも出会った。一目で彼女の正体が分かった。可香谷姫子が上司に掛け合い、転生させた相手なのだ。こんなにも早く二人が出会っているとは思っていなかったので、これも驚きだった。
二人は互いの正体に気付いているのだろうか。気づいたら、どうなるのだろう。可香谷姫子はそのことも気になった。同時に、三上弘樹が自分のことを思い出せたら、自分との関係もどうなるのだろうかと、考えてしまった。
幽霊のゆみとも大して親睦を深めたわけではないが、転生した武田祐美と、少々語り合ってみたい。だが、本人が前世について覚えていなければ、話が通じない。それに、下手に聞けば自分の正体もさらしてしまう危険があった。彼女に関しては、様子をうかがうことしかできないだろう。
二度目に事務所を訪れた時、三上弘樹は自分のことを思い出したそぶりもなかった。意気消沈していたところへ、今日の不意打ちである。可香谷姫子は考えがまとまらず、ただただ、
「ずるい奴!」
の一言をぼやくのが精いっぱいだった。
しかし、今は仕事の関係で、それ以上でもそれ以下でもない。彼から食事でも誘われれば別だが、可香谷姫子から行動を起こす考えはなかった。
次回に探偵事務所を訪れるまでに、可香谷姫子は内なる思いと折り合いをつけておかなければならなかった。
28
武田祐美と皆川真紀は連れ立って、市の中心街へ出ていた。住まいから電車で二駅上ったところだ。
この街の駅は、地方の一駅だが、新幹線が止まる。小さな駅ビルも付いている。北口には城がそびえ立つ。南口は繁華街だったのだが、今は廃れ、再開発が少しずつ行われていた。
最盛期にはデパートもいくつか存在し、商店街も人で賑わった。今では、デパートは一つだけになり、商店街もシャッター街と化していた。数年前には、商店街にあった映画館がその歴史を閉じた。
それでも、駅近辺はいろいろな店が立ち並ぶ。飲み屋が集まった一角もあれば、商店もいくつかあった。
商店が立ち並ぶ一角に、小さな喫茶店がある。店内の一角に、少女が三人、額を寄せ合っていた。少女たちにとっては、寂れた街が当たり前なので、窓の外を憂い見ることはない。
武田祐美は薄手のオレンジ色のニットを着ていた。皆川真紀は紺のトレーナーだ。もう一人、斉藤心美は淡いピンクのロングニットを着ていた。
三人とも受験生で、会う機会が減っていた。たまには息抜きを、と言い訳して、駅で落ち合った。買い物を楽しんだ後、この喫茶店に落ち着いたのだった。
三人とも、横に上着と紙袋がある。武田祐美はやはり薄手の、ベージュのコート。皆川真紀は黒いライダースジャケット。斉藤心美はストールカーディガン。友人同士でも、こうして違いのある三人であった。
注文した飲み物もそうだ。それぞれ、紅茶、コーヒー、ホットチョコレートだ。
三人の会話は、もちろん受験の話もあった。買い物で、どれがよかったなどとか、次は何を見たいとか、他愛のない話も続いた。
武田祐美と皆川真紀の二人だけであれば、その程度の会話で終わっただろう。
斉藤心美はホットチョコレートを飲み、満足そうに微笑むと、おもむろに尋ねた。
「ねえー。好きな人ぉ、できたー?」
その質問に、即答できない二人が、苦笑いを浮かべ、それぞれの飲み物をすすった。テーブルの中央に置かれたケーキに手を出して、どう乗り切ろうかと思案していた。
「あー、二人ともいるんだー」
斉藤心美は案外鋭い。二人の当惑した表情から、察しをつけていた。そして、今の一言を受けて、明らかに二人の表情が変わった。確信するに十分な情報だ。
「ねー、だれだれー?どんな人ぉ?」
「べ、別にいいじゃない」
皆川真紀はケーキを口に放り込み、コーヒーを注ぎ込んだ。
「あたしは…好きかどうか分かんない」
武田祐美は紅茶を一口飲んだ後、何かを言わなければと、そう言った。しかし、それが呼び水となる。
「うそー!どんな人ぉ?どう思ってるのー?」
斉藤心美は容赦なく尋ねた。斉藤心美は甘いものを飲み食いし、気持ちまで甘く染まって、幸せそうである。
武田祐美は答えに窮し、ケーキを睨みつけていた。
「もー二人ともー。仕方ないなー。心美から話すねー」
斉藤心美はそう言って、自分の好きな人のことを語った。相手のことを、武田祐美も皆川真紀も知っていた。彼女が語るのは、のろけ話である。ただ、相手が同性なだけに、少々特殊ではあったが。
思い人が同性であろうと、異性であろうと、大差はないようだ。話を聞く少女二人は、自分が気になる異性に置き換えて話を聞くと、胸の奥が甘く切なくなるのだった。
斉藤心美はひとしきり話し終えると、次は武田祐美の番だと指名した。
「え、あの、えっと」
武田祐美は言葉に詰まった。真剣に考えこみ、言葉を選ぶ。すべてを語ることはできないが、この二人なら、自分の秘密の一部を語っても大丈夫ではないかと考えた。秘密を語らなければ、思い人のことについて説明し辛い。
「あたし、実は、前世の記憶があるの」
武田祐美は秘事を前置きにした。
「え、うそー」
斉藤心美は言葉ではそう言いながらも、目が輝いていた。
「そういうこと、あるんだ?」
皆川真紀は、話として、そういう前世の記憶を持った人々のことを知っていた。ネットやテレビで、ごくたまに取りざたされる事柄だ。ただ、眉唾物だと思っていた。しかし、友人の口から聞かされると、信じる価値があるようにも思えた。
「うん。ほとんど覚えていないんだけど、時々、デジャブみたいに」
「へー」
「その記憶の中の人と、その、ある人が重なって、良いなって…」
「なになにー?前世の恋人とロマンスー?」
斉藤心美は深読みして、とても嬉しそうに言った。
「違うと思う。そんないいものじゃないよ」
「えー。きっとそうだよー。ロミオとジュリエットみたいに反対された二人がー、生まれ変わって結ばれるのー」
斉藤心美がうっとりした表情で言い、自分の胸を押さえた。
「どこかのお姫様?祐美ちゃんかっこいい!」
皆川真紀が斉藤心美の妄想に付き合って、言いだした。
「やめてよ!」
武田祐美は恥ずかしくて、声を上げていた。
三人とも笑顔になる。自然と笑いが漏れ、華やいだ。
武田祐美は、本当に物語のような恋だったら、どんなに良かっただろうと思った。前世の記憶をすべて思い出せているわけではないので、もしかしたら、という思いもないではない。斉藤心美の思い描くような関係なら、武田祐美は悩むことなく、思いの人にぶつかっていけばいい。
「あー、祐美ちゃん、妄想しちゃってるー」
斉藤心美がからかう。
「え、違う!もーやめてったら!」
言いながらも、笑いがこぼれて広がった。
笑いが治まるのを待って、斉藤心美は皆川真紀へ矛先を向けた。
「それでー真紀ちゃんはー?」
皆川真紀は口に含んだコーヒーを吹き出してしまい、慌てておしぼりで口の周りや飛び散ったところを拭いた。幸いにも服にはつかず、安堵の吐息を漏らす。
皆川真紀が顔を上げると、二人の少女の目が自分に注がれていた。
「う」
思わずうなり声が出てしまう。
「皆言ったんだからー」
斉藤心美が笑顔で促す。穏やかな表情にもかかわらず、有無を言わせぬものがあった。
「ボ、ボクのは、片思い」
「どんな人ぉ?」
斉藤心美が前のめりになる。
皆川真紀は気圧され、背もたれいっぱいまで体を引いた。
皆川真紀は真剣に悩んだ。逃げ道を探したのではなく、どういう言葉で表現すればいいか、である。
ケーキを口に運んでコーヒーで流し込む。味わう余裕がなかった。色々なことを同時に考え、緊急時にも冷静に行動できる彼女にしては、珍しく、窮していた。
「一芸に秀でた人」
当たり障りのない、短い言葉で答えた。
「へー。秀才タイプー?」
「ううん。普段はぱっとしない」
「あー。そこがかわいくて、母性本能をくすぐられるー」
斉藤心美が心境を想像して言った。皆川真紀の思いとはやや違うと感じたが、反論はしなかった。
「告白するのー?」
「え?」
皆川真紀は驚きながらも即答で否定しようとした。口を開けたものの、声は出なかった。自分から告白する、という考えはなかった。しかし、言われてみれば、そういう手もあるのだ。
かといって、恋愛には奥手で臆病な皆川真紀に、行動に移れるかと問われると、疑問である。できれば、相手に気づいてもらいたい。その一心だった。
「告白しちゃいなよー」
斉藤心美は、皆川真紀の無言を、躊躇ととらえ、背中を押すように言った。
「胸の中でモヤモヤしているより、当たって砕けろーだよー」
「えー砕けちゃいや!」
「でもでもー、その方が返ってー、自分の気持ちの整理がついてすっきりすることもあるよー」
横でやり取りを聞いていた武田祐美は、その言葉にドキリとする。自分にも置き換えられる話だ。三上弘樹に、自分の前世を話す、という一事において。
恋愛感情がどうかは分からない。でも、一番胸につかえていることは、幽霊のゆみと武田祐美が同一人物であるという秘密だ。このことを告げるだけで、どれだけ胸の内が落ち着くのだろう。いつもの不安が取り除かれるのなら、打ち明けてもいいのかもしれない。
しかし、秘密を打ち明けると、今までの関係が壊れる。三上弘樹が自分を見限って、本当の両親のように自分から遠ざかっていくようなことになれば、耐えられない。それだけは、受け入れられない。
「あれー?祐美ちゃんも告白する気になったー?」
唐突に、斉藤心美が、武田祐美の顔を覗き込んだ。
「え?告白?むりむりむりむり!」
武田祐美はのけぞって、思わず椅子から転げ落ちるところだった。
その様子がおかしかったのだろう。友人二人が笑い転げた。顔を真っ赤にしていた武田祐美もつられ、笑う。
少女三人の笑い声が、店内に響き渡っていた。
29
皆川龍也が退院した。自主退院だ。病院のベッドに居続けることに我慢できず、無理を通して退院した。
傷口が再度開かないよう、銃弾を受けた右足は使わないように、固く念を押されていた。医者には車椅子の生活を勧められたが、皆川龍也は頑なに断り、松葉杖で行動した。
「車椅子じゃ、不自由でいけない」
と言い張るのだ。
そして松葉杖を器用に使い、動き回るのだった。
皆川令子は当初、呆れていたものの、夫の意向を入れた。彼女が夫の包帯を交換する役目を買って出た。二十年ほど前まで行っていたので、二、三回行えば、勘を取り戻した。
患部を消毒し、ガーゼを変え、包帯を巻く。多少きつく巻いてしまうのは、彼女の感情が一部漏れたせいだろう。
皆川龍也は意外にも文句ひとつ言わず、きつく巻かれる包帯を受け入れていた。
しかし、さすがの皆川令子も、旦那が武術の鍛錬を行おうとしたときは、激しく怒り、止めさせた。
「片足でもできるのに」
皆川龍也はぼやいた。
「諦めなよ」
日課の鍛錬でひと汗流した娘にも、言われるのだった。
「年寄扱いするな!」
「ヒロ兄みたいだよ」
返す言葉に窮する父親であった。
家にあっては、腫物でも触るように対処され、出かけようとすれば、監視がついた。
「えーい!もっと自由にさせろ!」
彼が吠えてみても、誰も頷かなかった。
皆川龍也はそれでも諦めなかった。事務所に顔を出し、営業時間はそこで過ごした。体の鍛錬も欠かさない。ダンベルを使って上半身を鍛え、ゴム紐を使って、無傷の足を動かした。
皆川龍也が病院を早々に逃げ出した大きな要因は、食事と煙草だ。食事は、帰宅によって大幅に改善され、満足した。しかし、煙草は妻に取り上げられた。外出して吸おうにも、妻が甲斐甲斐しくついて回り、奪われてしまう。病院を脱出した目的の半分が、未完に終わり、機嫌の悪そうな顔を下げて、家と事務所を行き来していた。
帰宅を聞きつけた村上正樹警部補が、調書を取りたいからと、迎えをよこした。娘たちから調書を取らないよう、釘を刺しておいたものだから、
「出てきたのなら、来い」
と、容赦なく、出頭させられた。
皆川龍也としては、仕方がない。北村宗信が潜む隠し部屋に侵入するとき、鍵を、違法に開けて侵入しているのだ。娘たちにそのことを証言されたら、色々とまずいことになる。ただでさえ、不法侵入なのだから、都合よく、筋の通る、もっともらしいことを言わなければならない。
皆川龍也は殺風景な狭い取調室に通され、固い椅子に腰を下ろした。後ろの窓には鉄格子が見える。正面に机があり、村上正樹がノート型パソコンを置いて、椅子に腰かけた。
警部補の後ろに扉があり、これは開け放たれていた。
時折、くぐもった声が鳴り響いた。無線連絡が入っているのだろう。管轄外の情報も流れている。どこかで職質をかけた、という内容が聞こえた。
「傷口は?」
村上正樹は旧知の相手に、短く尋ねた。
「ま、なんとかね」
皆川龍也も簡単に答えて済ませた。
調書の作成は、時間を要するため、予め、分かっている事柄を書き込んでいたようだ。警部補が内容を読み上げ、間違いがないかを確認した。
確認が済むと、皆川龍也が侵入した時のことを尋ねた。
皆川龍也は、鈴木海斗の行方を捜していたと言い、目撃された近辺を探していたと告げた。その過程で、廃ビルに隠し扉があることを発見し、侵入した。
不法侵入は否定できないので、正直に、ありのままを告げたが、鍵だけは開いていたことにした。そして娘に協力してもらい、鈴木海斗の身柄を確保し、偶然発見した北村宗信らしき老人を捕らえようとしたところ、発砲されて右大腿部を負傷した。
皆川龍也の説明はそのようなものだったが、調書の上ではもっと事細かに聞かれ、書き込まれた。例えば、何時何分頃、建物に侵入した、とか、どの部屋に誰がいて、誰がどういう順番で入ったか、などである。
調書が出来上がると印刷され、分厚くなった紙束を、村上正樹が音読しながら、再度の確認を行った。かなりの文章量で、村上正樹は何度かお茶でのどを湿らせる必要があった。
間違いがあるとその場で修正していき、いよいよ間違いがないとなると、もう一度印刷して、皆川龍也が署名し、右手親指を使って拇印を押した。
書類が完成すると、やっと解放である。だが、すぐには帰らない皆川龍也だった。
「おい、誰か、煙草をくれ」
署内に、僅かな人数がおり、皆に聞こえるように声をかけた。中の一人が煙草を手に立ち上がり、喫煙所へ、二人して向かう。
「そのまま禁煙すればいいものを」
村上正樹の嫌味を背中で受け流し、久しぶりの煙を胸いっぱい吸い込む皆川龍也であった。