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月のかけら  作者: ばぼびぃ
6/8

Stone on the moon 前編

  0


 微かに、雨の音が響いていた。その部屋には窓がない。それでも聞こえてくるほど、激しく降っているのだ。

 雨音は規則正しく、人を落ち着かせる効果があるのかもしれない。或いは、憂いを呼ぶ響なのかもしれない。人によって、受け取り方は異なるだろう。

 部屋の住人にとって雨音は、さしたる興味もなかった。机の上のモニターに集中していたのだ。

 空調が利いているので、いくら冷たい雨が降ろうとも、中は快適だった。

 住人がモニターから目を離し、椅子の背もたれに寄り掛かった。同時に、大きなため息が一つ。住人の顔にはしわ一つない。健康的な色合いの肌に、弾力が伴っている。その顔に、苦笑するような表情があった。

「あの二人はもう…」

 外見は背の高い少年のようだが、声変わりをむかえていないのか、声のトーンが高い。

 今度は手も使って背筋を伸ばした。

 どうしたことか、胸に膨らみがある。少年のように見えた人物は、女性だったのだ。

 頭髪は短い。胸の膨らみが無ければ、美少年で通用するだろう。

「転機、ねぇ。二人してこんなもの書くなんて」

 少女は苦笑とも妬みとも取れそうな複雑な顔つきになった。マウスへ手を伸ばし、画面上のファイルを閉じる。

 部屋の中は、パソコンが設置された机と書類棚がある。壁際は本棚で埋め尽くされていた。本棚には過去の資料や、誰かが買ってきた小説などもある。

 机の前にはソファーが一つあるものの、基本的にこの部屋は、資料整理に使われているだけなので、ソファーと椅子が同時に人で埋まることはなかった。

 今は少女が一人、この部屋を独占している。

「四番目の転機って、どうせ、この前の事でしょ…。大げさな」

 少女はぼやきつつも、どこか懐かしそうな表情だ。たった数ヶ月前の出来事が、もう懐かしく思えているのだ。

「悔しいな…」

 今度は涙ぐんでいる。感情の起伏が激しい。

「やっぱりボクじゃ、ダメなのかな…」

 それは過去のことなのか、それとも未来に対してだろうか。

 少女にとって、この部屋はありがたい。誰もいない部屋なので、多少泣いても、誰かに心配をかけさせることもない。安心して泣ける場所だ。もちろん用心して、戸口に鍵をかけてある。

 いつの間にか、雨音が消えていた。雪に変わったのかもしれない。もし雪だとしても、今年最後の雪になるだろう。

 少女はひとしきり泣くと、手で目元を拭った。

「さて、ボクもけじめをつけなきゃ」

 少女が「ボク」と言うと、なお一層少年のように見える。しかし、何処か女性らしさも備わってきている。優しい仕草でキーボードを操作し、何やら打ち込み始めていた。



  1


 残暑も落ち着き、やっと秋らしくなったころ、皆川総合調査事務所に一人の客が舞い込んだ。特に印象的な客でもない。満月が近づくころに訪れる客たちと、大差はない。

 満月の前後、幽霊などの霊的事案に悩まされる人々が、皆川総合調査事務所の噂を聞きつけ、助けを求めてやってくる。

 毎月、満月の前後で、不可解な事件が多発する。それが秋の名月のころに差し掛かると、より一層、狂ったように発生するのだ。

 秋の名月は、昔よりも月の位置が近づいたため、大きく、奇麗に、そして神秘的に輝く。その輝きは人の心をかき乱した。

 満月の度に、一種の興奮状態に陥り、犯罪や事故を起こす者が続発した。ために、政府は満月の前後一週間ほど、注意喚起の警告メールを、全国民に送り付けていた。ただ、メールの効果は甚だ疑問ではあったが。

 政府は霊的事案を把握していない。非科学的なこの分野も含めるなら、注意ではなく、勧告になり、外出禁止処置もあり得たのではないだろうか。

 悪面ばかりではない。満月の夜、告白すると成功しやすいとか、子宝を望む夫婦にはうってつけの日であるだとか、亡くした親しい人と出会える日だとか、言われている。真偽のほどはともかく、満月には人を結び付ける効果があると信じられていた。

 政府の注意喚起のメールが届き始めると、幽霊を見た、などという依頼が舞い込む比率が高くなる。幽霊に金縛りにされた。柱の陰に人影が…。亡くなったおじいちゃんに出会った。そういった相談とも雑談とも取れそうな話が舞い込むのだ。

 大抵は、除霊の依頼で落ち着く。出会った幽霊に対して、悪い印象を持っていない依頼者に対しては、その幽霊を放置しても大丈夫かどうかを確認して、処置の方法を決定した。

 しかし、この日、事務所を訪れた人物の依頼は、少し変わった内容だった。

 所長が不在のため、所長の妻、皆川令子が対応していたものの、途中から三上弘樹を呼び出した。霊的事案を担当するのが、彼だったからだ。ただの除霊であれば、要件と費用の話をつけて、あとで彼に説明すれば済む。だが、依頼内容が、普段のものと異なった。霊的事案に対しては素人の皆川令子では答えに困ったので、三上弘樹を呼び出すに至った。

 呼び出された三上弘樹は、大きなあくびを何度ももらしながら、事務所にやってきた。

 寝間着の上に綿のズボンと紺のシャツを着ていた。シャツの襟から、寝間着のそれが覗いている。ズボンの裾を見ると、同じように寝間着が見え隠れしていた。

「ちょっと。もうちょっとましな格好で出てきなさいな」

 皆川令子が呆れ顔で嘆いた。

 三上弘樹は大きなあくびで答えると、

「仕方ないでしょ。明け方戻ったんだから」

 と言い訳した。そしてまたあくびを一つ。

「もうお昼よ。…とにかくシャキッとなさい」

「はいママ」

「あぁ?」

 皆川令子の目が鋭く光った。こぶしを握り、関節を鳴らす。彼女と三上弘樹は、五歳しか違わない。彼女の表情が激変した理由もおのずと分かろうというものだ。

「あ、目が覚めました。はい。お姉さま」

 さすがに危険を察知した三上弘樹が平謝りした。皆川令子の娘が、母親の物言いに対して、しおらしく従う時によく言うセリフをまねしたのだが、冗談にはならなかったようだ。

 皆川令子は大きな鼻息で返事をすると、踵を返した。

 三上弘樹は寝ぐせの残る頭をかいて、あくびを漏らした。しかし、ここでじっと立っているわけにもいかない。衝立の向こう側で待つお客のもとへ向かった。

「お待たせしました。三上弘樹と言います。御用のほどをお伺いします」

 三上弘樹が現れると、客はソファーから立ち上がり、お辞儀をした。

「私は可香谷姫子と申します。折り入ってお願いしたいことがありまして」

 可香谷姫子は、ブラウスにスカート姿だ。ソファーに上着が見える。上着を着ていれば、颯爽とスーツに身を包んだ仕事のできる人物に見えるだろう。上着を脱いでいることで、どこか親しみ易さがにじみ出ていた。太い眉毛が個性的だ。黒髪は短めで、肩にかかる程度にそろえられている。年のころは三十前後といったところだろう。

 対する三上弘樹は、四十に手のかかった中年だ。当人に言わせれば、まだ三十代、である。四十代と三十代の溝は大きいらしい。

 可香谷姫子は、三上弘樹の格好を見て、やや眉間にしわを寄せたが、何も言わなかった。

「まま。立ち話もなんですので、座ってください」

 三上弘樹は相手の表情の変化に気づかなかったのか、形通りの対応を進めていた。そして自分も、客の向かい側に腰を下ろす。

 皆川令子がコーヒーカップを持って現れ、三上弘樹の前に置いた。

「令子さん、砂糖とミルクは?」

「それ飲んで目を覚ましなさい」

「あ、はい…」

 三上弘樹は顔をしかめながらも、コーヒーを一口すすった。口を開け、苦みを訴えてみても、誰も同情はしなかった。

「あー、それで、可香谷さん。どういった御用件でしょうか?」

 三上弘樹が気を取り直して、客に尋ねた。

「こちらに所属する探偵さんが、霊的なものを探すことができると聞き及んできました」

 彼女は二度目の説明だろう。言葉に詰まることなく答えた。

「とすると、探し物ですか?」

「はい」

「どのようなもので?」

「ただの石です」

「ただの石ころ?」

 三上弘樹の声が上ずった。探し物といえば、価値のあるものと相場が決まっている。それが持ち主にしか価値のないものであったとしても。しかし、ただの石で、その価値が見いだせるのか、疑問だ。

 それにしても、疑問に思えるということは、コーヒーのおかげで頭の靄が少しは晴れたのだ。三上弘樹は顔をしかめつつも、二口目をすすった。

「世間的には、隕石、月の石、と言われています」

「ああ」

 三上弘樹は、一人納得した。

 今から三十年前に、月の裏側に巨大な隕石が衝突した。その衝撃は凄まじく、地球から徐々に遠ざかっていた月が、再接近したほどだ。当時は月の接近に、地球と衝突するなどと実しやかに噂が流れ、人々がパニックに陥った。

 隕石が衝突したときに舞い上がった石が、地球の各地に降り注いだことも、恐怖を煽る一端となった。中には大きな破片が落ち、クレーターのできた畑が、幾つもあったのだ。

 その時降り注いだ石が、月のかけらと呼称されている。科学者がこぞって集め、研究した結果、月に衝突した隕石の破片と、ナサが所有している月の石と同一成分の破片とが存在すると判明した。このうち、月の石を、月のかけらと人々は呼んでいた。

 見た目では区別できないこの石を、なぜ区別できるのか。

 不思議なことに、この月のかけらに異常な執着心を働かせる人々が現れたからだ。

 月が接近し、パニックに陥った反動で、種の生存本能でも働いたのだろうか。世界的にベビーブームが起こった。このベビーブームに生まれた世代が、どうしたことか、月のかけらに異常な執着を寄せているのだ。

 かけらを集めようと、互いに競い、暴力事件ならまだしも、殺人事件まで起きている。そのことからしても、尋常ならざる執着心であることがうかがえる。しかし、なぜそこまで月のかけらに執着するのか、誰にも解明できていなかった。同時に、なぜ彼らは月のかけらと隕石とを見分けることができるのか、ということも謎のままだった。

「月のかけらを探す、ということは、あなた、もしかして、二十九歳?」

 三上弘樹は、探偵らしい推理ができたと、誇らしげだ。

 しかし、目の前の女性にしろ、衝立の向こうの女性にしろ、彼のぶしつけな質問に呆れ返っていた。衝立で遮られて見えないが、皆川令子は天井を仰ぎ見ていたほどだ。

 可香谷姫子は大きなため息を漏らすと、一つだけ頷いた。そのほうが、話が早いと踏んだのだ。

「やっぱり!じゃ、聞いてみたいんだけど、どうして見分けがつくの?」

 三上弘樹は、女性陣の反応に全く気付いていないのか、謎の解明ができるかもしれないという誘惑に抗えないのか、それとも相手の年齢を当てられたのが嬉しいのか、嬉々としている。

「あの」

 可香谷姫子が警戒するような顔つきになった。

「はい?」

「幽霊などのオカルト、そういうものが絡んだ事件を解決されているのは?」

「ああ、はい、僕が担当していますよ。オカルト全般」

「失礼ですが、証拠を見せていただけませんか?」

「証拠?と言われても…。ここに幽霊でもいれば…」

 三上弘樹は歯切れの悪い言い方をしていた。霊を見ることができない相手に説明することは困難であったし、都合よくこの場に霊がいるわけでもない。はたまた、彼が超常現象を引き起こせるわけでもなかった。

 三上弘樹が困って目を泳がせていると、ふと依頼主の横に置かれた上着が気になった。上着のポケットだろうか。いや、さらにその下のようだ。

「そこに、カバンか何かあります?中に何か、変わったものは?」

 三上弘樹がそう言うと、依頼主は無言で、上着の下に置いていたカバンを取り上げた。そしてカバンの中から、一つの石を取り出す。

 その石は、親指の爪くらいだろうか。一見するとただの石だ。しかし、三上弘樹は、その石から、妙な気配を感じていた。石が何らかのオーラを発して、微かに輝いているように見えた。

 数十秒、じっくりと観察した後、三上弘樹は口を開いた。

「もしかして、それが月のかけら?」

「そうです」

「不思議な石ですね…」

「やはり分かるのですね?」

「たぶん。というか、この石、霊的なものだったんですか?」

「いえ、ちゃんと実在します」

「え、あ、いや。霊的力が備わっている、と言ったほうがいいかな。いわゆるパワーストーンみたいな」

「そうかもしれません」

「でも、本物のパワーストーンを見るのは、初めてだ」

 三上弘樹が感激していた。そして食い入るように石を見つめていた。

「これなら、もしかしたら、僕にも探せるのかも」

 三上弘樹はそう感想を述べた。同時に、僕が探してもどうなるものでもないけれども、と考えていた。

『依頼でしょう?』

 どこからか、三上弘樹の頭の中に声が聞こえてきた。

 そうだったと、頭の中で呟くと、三上弘樹はソファーに座りなおした。

「ということは、僕に月のかけらを集めて欲しいと?」

「いいえ。確かに月のかけらを探して欲しいのですけれど、探しているものは、これではないのです」

「ほう…。月のかけらの中に、特別なものがあると?何か特徴は?どんな違いがあります?」

 今度は可香谷姫子が、ゆうに一分、沈黙した。

「正直、分かりません。だからワラにもすがりたいのです。私が見れば、違いが判りますが、普通の、霊能力がある方が見ても、その違いは判らないと思います」

「とすると、集めて、あなたに判別してもらう必要がある、と」

「そういうことになります」

「期限はありますか?」

 再び、可香谷姫子が考え込んでいた。

「できるだけ早く」

 可香谷姫子は答えるべき言葉が見つからず、無難な返事をした。

「ふむ。探す範囲は?世界中?」

 月のかけらにせよ、隕石にせよ、世界各地に降り注いだ。それをすべて捜し歩くとなると、至難の業だ。

「いいえ」

「日本中?」

「いえ、おそらく、この地域だと思います」

 可香谷姫子の答えに、三上弘樹は安堵した。とはいえ、この地域と言っても、広大だ。誰かが所有しているかもしれない。海の底かもしれない。アスファルトの下に埋まっているかもしれない。上に家が建築されているかもしれない。

 考えるだけで、途方もない予感が漂う。依頼を受けても、達成できる可能性が見いだせない。どこそこで悪さをする悪霊を退治してくれ、と言われるほうがよほど楽で、達成しやすい。

 三上弘樹は三口目のコーヒーをすすり、渋い顔をした。コーヒーの苦みだけが原因ではなかった。

 頭は回転し始めていた。目の前の困っている女性は助けたい。美しい女性を助けることができれば、何かしらいいことがあるかもしれないと、邪な考えもよぎっている。しかし、達成困難な度合いが強すぎて、安易に受けることができなかった。

 そのことが三上弘樹の表情に出ていたのだろう。可香谷姫子は落胆した表情になり、

「無理なお願いをして申し訳ありません」

 そう言って立ち上がった。

「あ、いえ」

 三上弘樹は返す言葉がなかった。

「もしどこかで見つけたら、集めておきますから、また気軽にお越しください」

 唐突に若い女性の声が聞こえた。可香谷姫子よりやや短めの黒髪の少女が、衝立の脇から現れていた。

「ありがとうございます」

 可香谷姫子は驚きで一瞬硬直し、慌てて、深々と頭を下げていた。



  2


「ちょっと。依頼料、どう設定する気なの?安易に受けて」

 皆川令子が不満を漏らしていた。可香谷姫子はすでに帰り、事務所内は三上弘樹と少女と皆川令子の三人だけになっていた。

「いいじゃない。片手間に石を見つけて、集めておけば」

 少女が食い下がった。

「だから、対価はどうやって請求するの?相手が求めるものじゃなかったら?労賃は?そういう話全くしてないじゃないの」

「まあまあ、令子さん」

「あなたは黙ってて」

 三上弘樹は開いた口を動かしたが、さすがに声は出さなかった。それほど皆川令子の語気は鋭かった。

「私たちは慈善事業じゃないの。生活がかかっているの。分かる?」

 皆川令子の勢いは収まらない。

「それに、誰が探すの?弘樹?彼にだって仕事も都合もあるわ。探しに行くにしても、経費もかかるの。遊びに行くのと訳が違うのよ」

「あたしが探します!」

「祐美ちゃん、あなたは学生の本分を全うしなさい。今年は大学受験でしょう!」

 少女は武田祐美という。三上弘樹同様、霊感があり、それがもとで家族といさかいが起こり、一人暮らしをしていた。とある事件がきっかけとなり、三上弘樹が彼女を助手兼居候として家へ招いたのだった。

 三上弘樹は四十歳手前で、いまだに独身だ。そんな彼のもとに、うら若い少女が居候するなんてもってのほか、と言われるのだろう。しかし、彼の家の事情もまた、複雑だった。

 三上弘樹は幼少のころ、両親を失っていた。その両親の残した広い土地がある。土地の一部を、育ての親ともいえる木村夫妻や、彼の窮地を救い、仕事の基盤を与えてくれた皆川龍也といった面々に、貸していた。

 木村法律事務所、皆川総合調査事務所が一つの建物の一階と二階に分かれていた。その奥に家屋があり、木村家、皆川家が間借りして住んでいる。

 木村法律事務所は、今の場所にできて十五年ほどになる。三上弘樹が大学を卒業後、両親の残した土地に戻るとき、育ての親である木村夫妻を招いた。三上弘樹は、広い実家で、一人になるのが寂しかったのである。

 木村賢吾は当時、弁護士として独立し、小さな事務所を構えていたが、家賃のやりくりに苦労していたので、三上弘樹の提案を受け入れたのだった。

 木村賢吾、康代夫婦の間には子供ができなかった。代わりに、三上弘樹が九歳のころから世話になっているので、木村夫婦は彼を息子のようにかわいがっていた。息子から敷地の利用を勧められ、子に甘える形になった。

 木村夫妻はさらに息子の申し出を受け、三上弘樹の屋敷の一部を間借りして住むことになる。そして早々、屋敷内すべてを木村康代が掌握し、家事全般を執り行うことで、自然と主導権を獲得していったのだった。おかげで、三上弘樹は広い屋敷内で、寂しい思いをすることはなかった。

 皆川龍也は木村賢吾の下請けで、彼の調査を担っていた。皆川龍也は、木村賢吾が三上弘樹の土地で事務所を構えるのなら、その二階を貸せと、従業員の彼に頼んだ。

 三上弘樹は通勤が非常に楽になると喜び勇んで、許可した。

 皆川龍也が、仕事が終わると、裏の家に上がり込み、夕食をご馳走になって帰ることが増えるにつれ、いっそのことここに住んだら、と三上弘樹が呟いたがために、皆川一家も越してくる運びとなった。

 皆川一家は、妻の令子、娘の真紀の三人暮らしだった。皆川令子は新たな住まいに移ると、旦那の事務所を手伝うようになった。まだ幼かった娘の真紀の面倒は、木村康代が見てくれた。また、娘も父親の事務所で遊ぶことが増え、彼女としても嬉しい引っ越しだったようだ。

 皆川真紀は今年十六歳になった。中高一貫の通信教育を受けていたが、高校へは進学せず、代わりに、高等学校卒業認定試験を受け、資格を得た。なので、十六歳にして、大学受験の真っただ中にいた。二歳年上の武田祐美と受験仲間である。

 武田祐美は三年前の出来事と、三上弘樹の招きをきっかけに、この六人の住む家に居候することになった。

 計七名が一つ屋根の下に暮らしていた。だからこそ、うら若い少女が未婚の男性のもとで居候ができたともいえる。

 これらの事情も伴い、皆川令子は皆の姉的存在であった。妹が問題を起こせば、導くのは自分の仕事だといわんばかりだ。

 大家である三上弘樹は、本来、もう少し敬われていいはずであったが、あっという間に皆川令子に主導権を握られ、取り戻す目処も立たずにいた。

 三上弘樹は一度、主権を取り戻そうと努力してみた。しかし、食事の用意をしたり、家の掃除をしてくれたりする木村康代、皆川令子には、逆らえなかった。

 木村康代が強く出ることはない。しかし、三上弘樹には幼少の折から育ててもらった恩がある。母親と言っていいほどだ。何事にも落ち着いて対応してくれる、一家の要だ。彼女がいるからこそ、この七人がまとまっていると断言できる。

 皆川令子は、気の強い女性だけに、三上弘樹はことあるごとに、責められていた。その後で、この美しい夫人は、三上弘樹を魅了する。

「私を惚れさすような男になりなさい」

 言った当人は人妻なのだが、過去に好いたことのある女性からそう言われて、悪い気がするはずもない。三上弘樹は簡単に乗せられてしまうのだった。

 三上弘樹は皆川令子の説教を横で聞き続けた。説教を受ける武田祐美は、黙って下を向いている。

(大丈夫。僕も手伝うから。何とかなるなる)

 三上弘樹は頭の中で呟いた。

『ありがと』

 頭の中に、武田祐美の返事が返ってきた。

 これは二人だけの秘密。後の五人は、知らない。知られてはいけない。これが、彼女が家族とともにいられなかった理由なのだから。



  3


 木村賢吾は多忙を極めていた。弁護士である彼は、大きな難事件を担当している、などということはない。今扱っている案件は、単なる暴行事件だ。ただし、その一件の暴行事件が、二十七件もの傷害案件と複雑に絡み合っていた。

 各事件とも、被害者が単一から複数名。加害者も単一から複数名。そして、とある事件の被害者が、別の事件の加害者。といった具合に絡み合い、見事に二十七件もの傷害案件が芋ずる式にぶら下がってしまった。

 すべての傷害案件に共通する項目がある。加害者が二十九歳であることだ。第三次ベビーブーム、俗にルーナベイビーズと呼ばれる。月の接近によるパニック下で生まれた世代だ。

 だが、この世代は月のかけらをめぐって暴力事件を頻繁に起こしていた。この世代が小学生のころは、いじめによる自殺者も続出した。年齢を重ねるにつれ、暴力事件に発展し、ついには殺人事件まで起こす始末だった。

 一部では、ルーナベイビーズをもじって、ルナティックベイビーと呼ぶ人たちもいるほどだ。

 そんな世代の傷害案件が、二十七件も、絡み合っている。狂気というほかないのも、頷ける。

 この世代が事件を起こした以上、月のかけらがかかわっている。否定しようのない事実だ。

 たかだか石ころ一つをめぐって、競い、争い、略奪し合っている。被害者の中には、偶然石を拾った一般人も含まれている。災難で済ませるには、あまりに不条理極まる。

 加害者には法に則った罰を受けてもらわねばならない。とはいえ、木村賢吾は弁護士であって、検事ではない。その加害者の権利を守り、必要最低限の罰に留めるのが仕事だ。

 ことの発端は、一人の加害者の弁護を引き受けたことだった。彼は別の事件で、被害者でもあった。事件のことを調べていくと、芋ずる式に事件が発覚した。食物連鎖よろしく、弱肉強食の世界が浮き彫りになった。

 BはAの被害者で、Cに対しては加害者。CはAに対して加害者。などという風に、二十七件が絡み合ってしまっていた。

 たった一件の暴行事件を担当するのに、二十七件すべての背景を確認しなければならず、手に負えなくなった。

 もちろん、二十七件すべてを木村賢吾一人が処理するわけではない。別の弁護士がそれぞれ就いている。就いてはいるが、弁護士同士で情報の共有も必要だった。

 情報不足で事に当たれば、他の事件の減刑を得るために、それらの担当弁護士からいらぬ矛を向けられる。ただでさえ、検事も相手にしなければならないのに、横やりを入れられてはかなわない。

 無様な裁判を行えば、自分の評判に傷をつけてしまう。煩わしくても、できる限りの準備をしなくてはならない。

 依頼人は実際に事件を起こしている。その責任は負うべきだ。しかし、必要以上の責任を押し付けることもできない。それ以上でもそれ以下でもない。必要な刑罰と、最低限の権利を守る必要がある。それが木村賢吾の仕事だ。

「あの時表に出ていれば、そんな仕事受けなくていいものを」

 木村賢吾の資料集めに協力している、皆川龍也はことあるごとにそうぼやいた。

「いいから資料を。もっと詳しく」

「ほらよ」

 皆川龍也は、文句を言いながらも、いい仕事をしていた。彼がいなければ、多忙を極めるどころか、身動きできなくなっていただろう。

 木村賢吾が資料に目を通す傍らで、皆川龍也は言葉を続けた。

「もう二十年前か?せっかく世間に名が知られたのに、テレビ出演も断っちまって」

「テレビに出演する気はない」

「あれに出ていれば、今頃、有名な弁護士として活躍できたものを」

「質素な弁護士で十分だ。で?そっちは最近どうなんだ?」

「高橋の父つぁんの件か?公僕の下請けは銭にならんよ」

「もう終わったのか?相変わらず早いな」

「もっとこう、世間を賑わす事件を解決してみたいねぇ」

「関係者が次々に死んで、最後の一人をかろうじて助ける名探偵か?」

「そんなドラマ染みたことは望まんよ」

「まあなんにせよ、龍也もいい歳なんだ。そろそろ落ち着けよ」

「俺が落ち着きないみたいに言うな」

「よし、これで何とかなりそうだ。頭がこんがらがりそうだがな」

 木村賢吾は資料を閉じ、必要な書類とともにカバンに押し込んだ。

「しかしまあ、なんで石ころなんぞ、奪い合うかねぇ」

 皆川龍也はため息交じりにそう言うと、戸口へ向かった。

「さあな。だが、俺達には不確定なものよりも、事実とそれが導き出せる要素を把握していればいい」

「味気のないこって」

 皆川龍也は背中越しにそう答え、出て行った。

 戸口の向こうは、いつの間にか、紫色に染まっていた。徐々に日暮れが早くなっている。つい先日までと違いすぎて、時間の感覚が狂ってしまう。

 もうこんな時間かと帰り支度を始めた。時計を見て、いつもよりだいぶ早いことに気付くと、木村賢吾は驚いた。が、せっかく早く帰れるのだ。妻が喜ぶと内心思いながら、事務所をしまうのだった。



  4


 大きなテーブルに、七人分の支度がされていた。七つの椅子の前に、それぞれ、皿に盛りつけられた揚げ物とサラダが並んでいた。

 徐々に人が集まってくると、席に着いた人の前に、みそ汁とごはん、お茶が追加されていく。

 小柄な女性が忙しく立ち働いている。木村康代だ。白髪が混ざり始めた短い髪に、白い布巾を当てている。

 その横で、皆川令子がお茶の手配をしていた。皆川令子は木村康代より頭一つ分、背が高い。

 食堂の入り口に足音が近づいてきた。背の高い、少年のような面持ちの女の子が、武田祐美と連れ立って入ってくる。皆川真紀だ。皆川龍也と令子の一人娘で、今年十六歳になった。

 親の遺伝子を受け継ぎ、背が高い。母親の遺伝子を受け継いで、胸が大きい。ために、女の子と分かるのだが、さらしなどで隠してしまうと、美貌の少年としても通用するだろう。父親から格闘技を習っているおかげか、体が引き締まり、奇麗な曲線美を醸し出していた。

 皆川真紀は、さらしをまくことがよくあり、そのまま外出すると、少年に間違われることが多かった。生まれてこの方、スカートなるものをはいたことがない。服装的にも少年だった。

 そして極めつけは、自分のことを「ボク」というので、誤解が深まるのであった。

 皆川真紀が「ボク」というには逸話がある。彼女自身は恥じていて、話すことはない。なぜなら、物心つくまで、自分のことを男だと信じていたからなのだ。

 そして、その間違いに気づいたきっかけも、人には話せない。いつも身近にいる、父親以外の男性、三上弘樹のことを好きになり、憧れなのか、はたまた自分は同性愛者なのかと悩んだことがきっかけだった。自分の体が女性だったと判明した時、皆川真紀はどれだけ安堵したことか。

 長年、「ボク」で通してきたので、急に変えるのもどうかと思い、変えずにいた。気が付けば、変えるきっかけを失っていたともいえる。

 皆川真紀は、無人の三上弘樹の席を目だけで見やり、一瞬、顔を曇らせた。すぐに表情を戻し、友人に感づかれないようにしていた。

 友人の武田祐美は、ここへ迎え入れられた時と比べ、体つきが一回り大きくなった。とはいえ、いまだにスリムな体系だった。元が病的なほどやせ細っていたのだ。

 武田祐美はある事情から、親元を離れ、一人で暮らしていた。多くの悩みを抱えていたものの、誰にも相談することができずにいた。体が成長するにつれ、悩みをため込んでいった。

 武田祐美は、人の心の声が聞こえてしまうという悩みを抱えていた。これは誰にも相談できない。力を知ってしまった母親は、彼女を恐れ、避けるようになってしまった。ために、中学進学を機に、一人暮らしを始めたのだ。中学も、人と接することの少ない、通信教育の学校を選んだ。

 武田祐美の力のことを誰かに相談すれば、母親と同じ反応を示すに違いない。打ち明けることができず、怖がられることを避けるために、人から遠ざかった。

 結果、万事、人に相談することができなくなっていった。

 心の声が聞こえること以外に大きな悩みは、女性特有の体の変化だ。痛みと血を伴う変化は特に、恐怖の対象だった。

 相談する相手がいないために、下着の選び方、着けたかも知らずに過ごしていた。

 今の武田祐美には、相談する相手が存在する。木村康代しかり、皆川令子しかり。下着の選び方は、皆川真紀と共通の友人、斉藤心美に教わった。武田祐美のスタイルが変わるにつれ、斉藤心美は嬉々として、彼女の下着を選ぶのだった。下着を選ぶ代わりに、斉藤心美はスキンシップも欠かさない。

 武田祐美はある時、狐の霊の綾に出会い、導いてもらったこと、心を読めることでパニックに陥ったところを三上弘樹に救われたこと、皆川真紀や斉藤心美と友人になれたことで、大きく変われた。

 三上弘樹の誘いで、この家にやってきたときも、恐る恐るではあった。しかし、物おじしない皆川家に接し、木村康代の母親のような優しさに触れるうちに、馴染んでいったのだった。

 狐の綾の指導で、人の心を聞かないようにする術を身に着けた。このことも、人に囲まれて生活するうえで、大いに役立った。住人の心を勝手に聞いてしまっていたら、馴染むことができなかっただろう。

 三上弘樹以外、武田祐美の能力については知らされていない。このことだけは、露見してはならない。武田祐美は新しくできた居場所を失わないため、必死に隠し続けている。

 各々が自分の席についていく。

 テーブルの片方の端が、木村康代の席。お替りなどの対応ですぐに立ち動ける場所なので、自然とここに落ち着いた。

 木村康代の左隣が、旦那である木村賢吾の席。右隣が皆川令子。皆川令子と木村賢吾が向かい合って座る。皆川令子の隣が皆川龍也、皆川真紀と続く。

 向かい側は、木村賢吾の隣に三上弘樹、武田祐美と続いた。

「今日はトンカツだ!」

 自分の席に着いた皆川真紀が明るい声を上げた。正面の武田祐美と顔を見合わせ、笑い合う。

「賢吾さんに勝ってもらいたいもの」

 木村康代が台所から答えていた。加害者の弁護なので、勝つ、という言葉では語弊があるものの、意味は通じるので誰も指摘しなかった。

「おー、そいつは嬉しいな」

 木村賢吾が食堂に入ると同時に答えていた。

「あら。お帰りなさい。手を洗ってうがいをしてらっしゃい」

「おっと」

 木村賢吾は慌てて踵を返していた。

「うちの宿六は?」

 皆川令子が新たなお茶を用意しながら尋ねた。

「さあ?先に帰ったぞ?」

 遠くから木村賢吾の返事が返ってきた。

「あ、ヒロ兄は?」

「まだ寝てるかも」

 皆川真紀と武田祐美だ。

「ああ?あいつ、まだ寝ているのか?」

 木村賢吾の声が近づいてきていたものの、再び遠ざかっていった。

「途中で起こされたから、また寝るって、そのまま」

 武田祐美が説明していた。

「おい、弘樹!起きろ!飯だぞ!」

 遠くで大きな声が聞こえた。

 食堂で、皆が顔を見合わせ、苦笑していた。

 しばらくすると、三人の足音が近づいてきた。この家の男性陣三人がそろって食堂に入る。

「はい、そこの寝坊助。手と顔洗ってきな。そこの風来坊も」

 皆川令子が乱暴に告げた。手を洗わない者は食堂に立ち入らせない構えだ。

「俺は帰宅早々やったぜ」

 旦那の皆川龍也は言うが早いか、妻の横をすり抜けていた。

 三上弘樹は重い足取りで洗面所へ向かっていった。

 全員が席に着くのを待って、食事が始まる。

 これだけの人数がいると、食事もにぎやかだ。以前、三上弘樹がテレビを見ながら食事をしようとしたが、テーブルの上を縦横無尽に飛び交う会話がうるさすぎてテレビの音が聞こえず、断念した。

 会話の内容は、その日の出来事だったり、次の休みの打ち合わせだったり、各自の仕事の進捗具合だったり、他愛のない雑談だったりした。

「祐美ちゃん、勉強はどこまで進んだ?」

「もう講義も特別講義も終わった!」

「いいね!大学はどこ受けるか決めた?」

「ううん。まだ。無理して大学行かなくてもいいかなって」

「行っておいた方がいいぞ」

「賢吾おじさんの言うとおりだよ。ボクはもちろん行く!」

「そのために卒業認定取ったものねー」

「そそー。このヒロ兄だって、どういうわけか大学出ているんだから」

「おいおい。どういう訳かって…」

「まあ、役に立っていないがな」

「パパ、それは言っちゃダメ」

「酷い…。親子して…」

「ソース取ってくださる?」

「ほいよ」

「賢吾兄さん、お仕事のほうはどう?」

「お宅の旦那のおかげで、何とかなりそうだ」

「ろくでなしも、たまには役に立たないと」

「口が悪いのは、皆川家の家風だな」

「そういえば、あなた。昼間に依頼があったのよ」

 皆川令子が思い出したように、昼間の客のことを説明した。

「あー、どのみち、弘樹の案件だな。令子。悪いが、日割りの計算だけでもしておいてやってくれ。それで相手がごねるなら、それで終わりってことでいいじゃないか」

 皆川令子は、返事の代わりに大きなため息を一つ漏らした。

「それにしても、石か」

 木村賢吾が呟いた。

「石だな」

 皆川龍也も、短く呟いた。

「何かあるの?石が?」

 当事者であるはずの三上弘樹が一番素っ頓狂な反応だった。

「お前な…」

 周りの皆が一斉に呆れていた。

「あれ?変なこと聞いた?」

 当の本人はまるで理解していない。

「霊的なものなら、弘樹さんの専門でしょう」

 武田祐美が指摘した。

「ああ。そか。うん、まあ、どんな効果があるのかもわからないし、まあ、いいんじゃない?」

「なにが」

「さあ」

「とにかく、あたしも見れる人だから、気にして集めてみます」

「勉強を疎かにしないようにね」

「はい、康代さん」

「受験も考えな。費用が心配なら、皆で用意する」

「ありがとうございます。…パパ」

「こら!ボクのパパを取るな!」

 言った端から、二人の少女が笑い転げていた。



  5


 数日も立つと、木村賢吾の多忙さが暴力的に増していた。あまりにも資料がそろっていたので、担当以外の事件にも、助手として参加するように、各弁護士から求められてしまったのだ。

 留守をしがちになった弁護士事務所は、木村康代が取り仕切った。彼女がいるからこそ、旦那は自由に出て働くことができる。家のことでも言えた。木村康代が切り盛りしてくれるおかげで、皆が外で立ち働けたし、勉学に励めたのだ。

 一方の一家は、夫婦そろっていなくなることもあった。そういう時は、三上弘樹か、皆川真紀が事務所を切り盛りした。

 とはいえ、三上弘樹は霊的事件を担当するため、深夜に出かけることも多く、結果、事務所を見るのは皆川真紀の仕事になっていった。

 皆川真紀は塾などには通わず、独学で勉強を続けている。なので、事務所は彼女の勉強部屋と化していた。勉強で分からないことは、モバイルで検索すれば、事足りた。

 三上弘樹は、そこに霊が本当に存在するのであれば、除霊してみせた。普段、とぼけて見える彼も、除霊に関してだけは、一流だった。

 そしてなぜか、この界隈は霊的被害が多く、三上弘樹が仕事にあぶれることはなかった。特に、政府から満月の注意喚起メールが届く時期は、繁忙期と言えるほど忙しかった。繁忙期は深夜の業務が多くなる。さすがに受験生のアルバイトを助手として連れ歩くことはできず、一人で事に当たっていた。

 皆が自分なりに忙しく立ち働いている中、武田祐美は手持無沙汰であった。

 武田祐美は通信制高校に所属している。本来三学期に受講する講義でも、課題さえ提出していけば、時期に関係なく視聴できるので、早々に終了まで進めていた。

 中学時代、同じ通信教育を受けていた、二歳年下の皆川真紀に教わった方法だ。彼女は中学卒業までに、高校の終了課程まで進め、高等部には進学せずに、卒業認定資格を取ったのだった。

 日本にある大学のうち、ごくわずかに、飛び級制度がある。そういう大学のみ、資格さえあれば、十六歳から受験ができた。皆川真紀はその制度を利用して、二年早く、大学に進もうとしていた。

 武田祐美からみれば、目標のしっかりしている皆川真紀が羨ましかった。武田祐美は人を避けて過ごしていた期間が長く、世間を知らずに育った。ネットで得る知識はあっても、偏ったものだ。人と接する社会は避けて育った。そのため、将来の展望につながるものなどなかった。

 本来なら、どこかにお気に入りのショップがあり、行きつけのファストフード店を巡り、友達と青春を謳歌する間に、自分のやりたいこと、興味のあることを見つける。買いたいもののために、アルバイトをし、それがきっかけとなることもある。だが、武田祐美はそのどれも、未経験だった。

 ここ三年、やっと友達と言うものができ、買い物や、どこかの喫茶店で食事しながら語り合うことを経験している。しかし、彼女は友人たちについて行っただけに過ぎない。自分からどこかに行きたい、何かを食べてみたい、という提案は、未だにしたことがなかった。

 武田祐美は世間との接点が薄い。未だに、身近な人以外、内心のどこかで、避けている節がある。人の心を聞かないようにすることが、返って、人を避ける傾向を生んでしまっているのかもしれなかった。他人に深入りせず、自分の見知った人々の中で暮らせれば、幸せだった。そんな彼女には、自分の未来は思い描けないものだった。

 ここ最近になり、周りから大学進学と言われて、やっと将来のことを少し考えるようになったものの、三上弘樹の助手以外、やったことがない。人とあまり深くかかわりたくない。人に対する恐怖心がある。このような状況で、将来何になりたいのか、何をしたいのか、考えようがなかった。

 だからこそ、周りの人々は、彼女が大学へ進学し、将来の目標を見つけて欲しいのだが。

 周りの人々の気持ちも、武田祐美は承知していた。承知していたが、彼らに頼り切るわけにもいかない。大学へ進学するとなれば、受験費用、入学金、学費など、多額の費用が掛かる。疎遠になった両親に頼みに行くこともできない今、彼女には重すぎる負担だった。

 それに、学校へ通うとなれば、多くの人と接することになる。パニックはもう三年、経験していないが、多くの人々に囲まれたら、再びパニックを起こしてしまうかもしれない。三上弘樹が傍にいないときにパニックを起こせば、今度こそ自分が消えてなくなるかもしれなかった。

 何よりも、お金がない。もしも大学へ行くとなれば、ほぼ全額、周りの人々の援助を請わなければならない。ただでさえ、日々の生活を助けてもらっているのに、さらに負担をかけることは、心苦しい。選択肢にはなり得なかった。

 頼めば、答えてくれることも分かっている。分かっているだけに、頼めない。そんなずるい人間になりたくないとの思いがよぎるのだった。それに、頼む以上は、お返しもしなければならない。何を返せばいいのかも分からないのだから、なおのことだ。

 武田祐美は、将来のことも含め、ぼんやりと考えていた。頬に当たる木漏れ日が気持ちいい。

 日中は、まだ日差しの下では暑い。日陰では、風が吹くと寒い。この微妙な季節に、適度に木漏れ日の当たるベンチは、快適であった。

 彼女の背後、壁の上に道路がある。この道路脇に、皆川総合調査事務所と木村法律事務所があった。その事務所の奥に、家屋がある。

 事務所前の道路は南北に続く。北へ向かえば線路に行き当たる。そこで東へ向きを変ると、駅舎が視界に飛び込む。

 事務所前の道路を南へ向かうと、二つの道路を横切った先に、海があった。

 武田祐美のいる場所は、周囲より二メートルほど低い。元々、資材を運ぶために作られた用水路だった。その資材を扱う工場が徐々に減っていき、用水路が無用の長物と化した。ヘドロがたまり、環境問題にもなっていた。そこで行政は、用水路を埋め、遊歩道として改良したのだ。

 桜の木を植え、屋根付きの憩いの場を作った。壁にも土の部分を残し、植物を植えているが、こちらはうまくいっていないようだ。

 あまりうまくできているとは思えない遊歩道だが、ただ一ヵ所、この木漏れ日の当たるベンチだけは、武田祐美のお気に入りの場所になっていた。

 上の道路は、車の通りは少ない。抜け道としてたまに通るだけだ。道路の利用者はもっぱら徒歩や自転車だ。駅の利用者が自宅との間に通過する道だった。その道を、杖を突いた老人らしき人物が、駅から歩いていた。

 ゆっくりとした足取りで歩く老人が、皆川総合調査事務所と木村法律事務所の前で立ち止まった。

『こいつらか…』

 武田祐美に聞こえた心の声は、老人とは思えない力強さだった。

 気になって振り向いても、角度が悪く、人影は見えなかった。移動して確認しようかと思っていると、反対方向から声がかかった。

「おひさー」

 声に振り向くと、腰までかかる髪を揺らしながら、女性が近づいてきていた。長い髪の毛が風になびいて、キラキラ輝いて見えた。胸の大きさも特徴的だ。どこか温かみのある表情に、笑顔を浮かべて手を振っていた。

「綾さん!お久しぶりです!」

 武田祐美の声は上ずっていた。綾と呼ばれた人物は、人の肉体を得た狐の霊だ。彼女のおかげで、武田祐美は自分の力の制御方法を身に着けることができた。制御できるようになったからこそ、今の生活ができている。綾がいたからこその、現在であった。武田祐美にとって綾は大切な恩人の一人だった。

「心美ちゃんは?」

 武田祐美は綾が近くまで来るのを待ち、友人であり、綾の同居人でもある斉藤心美の様子を尋ねた。

「相変わらず。男性恐怖症は治らないわね。でも、虚言癖はなくなったと思うわ」

「もう妖怪なんかに心の隙間を突かれることはない?」

「ええって私が言うのもなんだけど」

 綾はそう言って笑った。綾自身も妖怪の一員なのだ。

 斉藤心美も、武田祐美同様、両親と疎遠な環境で育っていた。斉藤心美には特殊な能力などなく、ごく普通の少女なのだが、同年代の武田祐美には想像も絶する体験を強いられ、トラウマとなっていた。

 武田祐美は斉藤心美の心とつながったことあり、そのあたりの事情もよく分かっている。まるで自分が体験したかのように、見えたのだから。

 斉藤心美の男性恐怖症の原因は、一言で言ってしまえば、レイプだ。だが、その負債は、一言では片付かない。信頼を寄せた男性に裏切られ、体も傷つき、そして身近な人に相談もできなかった。そんな彼女がたどり着いたのが、嘘をつくことだった。空想の世界の住人になることだった。

 やがて、斉藤心美にとって、空想が真実であると信じ込むようになり、周りの人々を巻き込むに至った。巻き込まれた、皆川真紀、武田祐美が、それでも彼女と友人になろうと努力したのだった。

 しかし、心の隙間を抱えた斉藤心美に、悪霊、妖怪といったたぐいのものが憑りつき、ひと騒動起こした。

 斉藤心美の騒動を治めたのは、三上弘樹だ。彼は颯爽と現れ、瞬く間に解決していった。その手伝いをしたのが、武田祐美だ。あの時の三上弘樹ほど、頼りになる人物はいなかった。武田祐美はそう思わずにはいられない。普段の頼りなさが、閉口ものではあるのだが。

「あらあら、男のことを考えちゃって」

 綾が武田祐美の心を読み、からかった。

「違います!…ほんとにもう、綾さんたら、すぐそれなんだから」

「それにしても、祐美はすっかり、いい女になったわね」

 綾が、武田祐美の全身を値踏みした。

「やっぱり、肉付きがよくなったほうが、いいでしょ?」

「そう、かな?」

「ええ。奇麗になったわ。胸も大きくなったでしょ?」

 綾はあけすけに言う。

 武田祐美は顔が赤らむのを自覚しつつも、小さく頷いていた。

「じゃあ、そろそろ、私に抱かれてみない?」

「それはお断り!というか、ストレートすぎ!」

「じゃあ、そうね。私と、めくるめく愛と官能の世界に浸ってみない?」

 大して変わっていないと思う、武田祐美であった。言われた方の顔がさらに赤くなっていたことが違いだった。

「こ、心美とそういう関係なんでしょ?」

「あら。私は二人でも三人でもお相手しますわ。女性でも男性でも」

「浮気者!心美の代わりに責めてあげる!」

「彼女は束縛しないの。問題ないわ」

 武田祐美は言葉を失った。なんと言っても勝てそうにない。

 話題を転じたのは、綾だった。

「もう正体を明かしたの?」

「え…。まだ」

「あの霊能者も、存外、鈍感よねぇ」

「気づいてくれてもいいのに、と思うことはあるけど、自分で言う気にはなれない…」

「そう…。それに、恋の悩みかしら?」

「人の心を勝手に読まないで!」

「なら、ガードの方法を覚えなさいな」

「うー」

「父親のような、兄のような、感覚ね。でも、彼の姿を見かけたら、目で追うでしょ?ほっとするでしょ?」

「う、うん」

「それは、恋よ」

「でも…」

「恋なら恋で、それが前世の感情なのか、自分の感情なのか、自信がないのね」

「うん…」

「こればかりは、自分で答えを見つけるしかないわね。でも一つアドバイスするなら、前世のあなたも、今のあなたも、同一人物だということを、頭に置いておきなさい。…一つじゃなかったわ。その気持ちをどうしたいか、諦めてもいいのか。それも考えるといいわ」

 忠告を受けた武田祐美には、実感がわかなかった。

「いいの。じっくりと時間をかけなさいな。あなたはまだまだ若いのだから」

 綾の目線が武田祐美から外れた。目線を追って武田祐美が振り向くと、頼りなげな足取りで歩いている三上弘樹の姿があった。

 彼を見つけて、気持ちが晴れやかになるのが、武田祐美にも自覚できた。綾のアドバイスよりも、彼が特効薬なのかもしれない。

「あなたを抱こうと思ってきたのに、邪魔が入ったわ」

 綾はそう言って踵を返していた。

「え、それだけのために来たの?」

「そうよ。と言いたいところだけど、忘れるところだったわ。私、戸籍をとったの。名実ともに、祐美の姉になったから、よろしくね」

「はい?」

「ちょちょいと役所の人を誘惑して、戸籍を作ったの。武田綾として」

「えええ!」

「じゃ、その報告だったから。お姉さんが恋しくなったら、連絡ちょうだい。飛んできて、抱きしめてあげるから」

 驚く武田祐美にはお構いなく、綾はさっさと来た道を引き上げていった。

 取り残された武田祐美は、ただ呆然と立ち尽くすのだった。



  6


 武田祐美にとって、綾の指摘は、今まで間違ったことがなかった。綾の言葉を信じ、人の心を読まないようにする術を学んだ。料理の仕方も教わった。お肌の手入れや化粧についても教わった。

 化粧については、お金がないこともあって、いまだに必要とは考えていなかった。でも、時々、色味のいい口紅をつけたら、彼がどういう反応を示すだろう、などと考えてしまうこともある。斉藤心美に相談すれば、喜んで化粧品売り場を案内し、似合いそうなものを選んでくれるだろう。

 綾の指摘する通り、確かに、三上弘樹を見かけると、あの頼りなげな歩みをじっと見つめてしまう。

 しかし、武田祐美は、三上弘樹に救われたのだ。だから、彼を頼ってしまっているにすぎない。

 武田祐美は、人の心が読める。勝手に聞こえてしまう。為に、人々を避け、暮らしていた。大勢の人に囲まれると、一人一人がラジオ番組でも流しているかのように心の声が聞こえ、それらが合わさってとてつもない騒音となり、彼女を飲み込む。飲み込まれ、パニックに陥ったことが、何度もある。

 最後のパニックは、今から三年前だ。その時は、偶然近くに居合わせた三上弘樹の手によって、救われた。彼がいなければ、武田祐美は心の声の波に飲み込まれ、消えていたかもしれない。

 思い返してみても、恐ろしい。だが、その恐怖も、三上弘樹が傍にいれば、救ってくれると思え、拭い去ることができた。

 だから武田祐美は、ことあるごとに、三上弘樹を目で追ってしまうのだ。彼が安定剤なのだ。決して恋などではない。そう自分に言い聞かせていた。

 仮に恋だとして、もう一つ問題がある。武田祐美が親友だと信じている皆川真紀の存在だ。彼女の思い人が三上弘樹であることを、武田祐美は知っているのだ。友人の思い人を、横から出てきて、奪うわけにもいかない。

(だから、これは違う!)

 武田祐美は心の中で、念を押して否定した。

「何が違うって?」

 三上弘樹が、上から声をかけてきた。

 どういうわけか、武田祐美と三上弘樹は、まるでテレパシーのようなことができてしまう。他の人ではできなかった。心を読める者同士である綾とであれば、似たようなことが可能だが、彼とのこのつながりは、どこか違っていた。

 武田祐美と三上弘樹は、魂の波長が合うのだろうか。波長が合うので、互いに思ったことが伝わるのかもしれない。

 かといって、すべての思いが伝わるわけでもなかった。その時に強く思っていたことや、頭の中で言葉に置き換えて考えていた物事が伝わるだけだった。

「何でもないの」

 武田祐美は、内心の焦りを隠して、そっけなく答えていた。

「そう?」

 三上弘樹は怪訝な顔つきをしたものの、すぐに収め、手に持ったものを掲げた。

「武田さん、見てごらん」

 武田祐美は、名字で呼ばれると、胸が苦しくなる。三上弘樹は「きみ」とか「武田さん」などと呼ぶ。皆川真紀のことは「真紀ちゃん」と呼ぶのに。

 その理由も、もちろん知ってはいた。

 三上弘樹の恩人と武田祐美は、同じ名前なのだ。彼にとって、名前で呼ぶと、恩人と混同してしまいそうで、遠慮と、警戒も交じっているのだろう。武田祐美と恩人は別人だと区別する意識があった。彼の中でまるで神のような存在になっている恩人と、重ねたくないという思いがあった。

 武田祐美が、自分がその恩人の生まれ変わりだと、勇気を振り絞って告白すれば、どうなるのだろう。名前で呼んでくれるのだろうか。喜んでくれるのだろうか。それとも、嘘をつくなと、怒られるのだろうか。勝手に心を読んで、都合のいいように言うな、などと言われてしまうのだろうか。

 名前で呼んで欲しいと思う気持ちは、はたして自分の気持ちだろうか。前世の記憶がそう思わせているだけではないのか。そういう疑問も、武田祐美に躊躇させる要因となっていた。

 武田祐美は深呼吸をして気持ちを落ち着け、思考を吐き出した。幸いなことに、彼との心のリンクは表層部のみだ。例えるなら、頭の中で口にしたことが伝わる程度だ。思考のすべてが伝わるわけではない。

 武田祐美は、僅かながらも、自分の思考を漏らさない術を、自然と心得ていたのだが、本人はまるで気づいていなかった。この術は、人々を避け、隠遁生活をしていたおかげでもあった。その気になれば、表情も見事に隠せる。たいていは、失敗するのだが。

 武田祐美は近くの階段から道路へ上がり、三上弘樹の傍へ向かった。

 彼女の悩みを知らない三上弘樹は、自慢げに手のものを見せつけていた。

「ほら。もう見つけてきた」

 彼の手に、小さな石があった。よく見ると、霊的な、オーラとでも呼べばいいのだろうか。そういったものをまとった石だ。

「月のかけら?」

「そう!いやーその辺に落ちているとは思わなかった」

 三上弘樹は石を見つけたことが、よほど嬉しいらしい。自慢げに、見つけた経緯を語っていた。

 その姿が、まるで小さな子供が新発見をして、嬉々として報告しているように見え、微笑ましかった。

「すごいね!その調子でいっぱい見つけて、依頼主の探し物、見つかるといいね!」

 武田祐美は、素直に喜んで見せた。自分が勝手に約束したのに、自身はいまだに見つけていない。代わりに見つけてきてくれたのだから、ありがたいことだ。

「あたしも探してみなくっちゃ」

「僕も一緒に探すよ。もうすぐ満月の注意喚起週間も終わるし、そしたら仕事も落ち着くから」

「うん」

「それはそうと、大学、どうするか決めた?」

「ううん。まだ」

「大学でやりたいこと見つけるのも、一つの手だよ。きみが特に行きたい大学がないのなら、例えば、真紀ちゃんと同じ大学へ行ってみては?友達と通えば…そういう楽しみも、できるだろ?」

 皆川真紀は、偶然にもこの近くにある大学が飛び級制度のある所だと知り、その大学を目指すことにしていた。いや、彼女のことだ。それを知っていたからこそ、飛び級を考えたのかもしれない。

 尾永大学という。市の名前を有しているが、私立大学だ。自転車で通える距離だ。三十分くらいだろうか。

 自転車でなくても、駅の北側に大学用のバス停があり、そのバスで通うことも可能だ。

 皆川真紀は、できるだけ親に負担をかけずに済む道筋を考え出していた。

 武田祐美は今まで具体的に考えたことがなかった。お金がないと諦めていたこともあるが、やりたいことも分からないのに、大学を選べるはずもないと考えていた。いや、それらは言い訳に過ぎなかったのかもしれない。人との接触を怖がり、逃げていただけなのではないか。

 それを三上弘樹は、友達と一緒に通える大学はどうか、などと言う。なんとも気楽な提案だ。だが、なぜか、心に引っかかる。

 友達と通えれば、人に対する恐怖心は、多少和らぐのではないか。パニックに対する恐怖は付きまとうものの、友達と街へ買い物に出かけるのと、大差ないのではないか。友達と遊ぶくらいの気楽な考えで、大学へ通うのならば、もしかしたら、大丈夫かもしれない。いざとなれば、三上弘樹も傍にいてくれるだろう。

 武田祐美は自分でも驚いていた。大学は選択肢にないと思っていたのに、意外な言葉で揺らぐ自分がいた。

 確かに、お金さえあれば、大学進学は人生の選択肢の一つとして、あってもいい道だ。

「受けるにしろ、受けないにしろ、勉強だけはしておきな。いざ受けようと思ったときに、勉強してなかったでは、手遅れだからね」

「うん」

「でも、お金のことが気になる?」

「うん」

「そうだな。きみが働いて、順々に返す手が一つ。この場合は、所長にしろ、賢吾兄さんにしろ、用立ててくれるさ」

「返す当てが…」

「そんなの、働きだしてみないと、分からないだろう?」

「でも…」

「もう一つ。きみの親御さんに出してもらう。親なのだから、出して当然だろう?」

「それは…」

「疎遠になっているから?怖がられているから?頼みに行けない?」

「うん」

「じゃあ、その案の修正。賢吾兄さんに代理に立ってもらって、きみの親御さんに大学の費用を請求する」

「そんなとげとげしい方法は…」

「これもダメ?娘なんだから、親にすがるのは当然なんだけどなぁ。じゃあ、そうだな…」

 武田祐美が三上弘樹の心を覗いた限りでは、はっきりしたことは分からなかった。でも、どこか勿体着けた言い方だ。彼は何かしら方法を知っているらしい。

「じゃあ、もし、きみが知らない、きみの名前の銀行預金があったとしたら、どうする?」

「え?そんなものがあるの?」

「実はあるんだ。賢吾兄さんには口止めされていたんだけどね。きみがこの家に来た時、賢吾兄さんがきみの親御さんと話をつけていたんだ」

「え、どういう…」

 武田祐美の表情が曇った。自分の与り知らぬところで、何が約束されていたのだろう。

(あたしは、あの家には、帰りたくない!)

 嫌な予感がして、強く否定していた。

「ああ、ごめん、そういう約束ではないんだ。僕らがきみの面倒を見る代わりに、きみの両親に、養育費を、きみの名前で貯蓄するように依頼したんだ。アパートを引き払って、家賃が浮いただろう?食費もこちらが持つから、相当分を家賃と足して、月々貯めるように、書面にまでして契約したんだ。将来、きみが必要とするときのために」

 武田祐美には驚きだった。三上弘樹の心はほぼ筒抜けなのに、よくも隠しおおせていたものだ。他の住人の心は、極力聞かないようにしていたので、分からなくても仕方ない。しかし、彼の心の声は、どうしても聞こえてしまう。なのに、関連する事柄は一つも聞いたためしがなかった。

「ふっふっふっ。驚いた?こう見えて、心を読まれることには慣れているからねぇ」

 三上弘樹は隠しおおせていたことが、嬉しいようだ。武田祐美の驚いた顔を見て、喜んでいた。

「でも、どうして…」

 武田祐美は、言葉が見つからない。何を言っていいのやら、皆目見当もつかなかった。

「その顔が見れただけで、満足だな」

 三上弘樹はそう言って、武田祐美の肩を軽くたたいた。

「賢吾兄さんに聞いてみないとだけど、あれから三年たっているし、三百万くらいになっているんじゃないかな?なかったとしても、二百は超えているんじゃないかな。どう?まだ四年分はないにしても、学費の足しにはなるだろう?」

 武田祐美は、もう言葉も出ない。今にも泣きそうな表情になっていた。想像もできない金額が、自分のものだと言われて、理解が追い付かない。同時に、あまりに現金だとは思うものの、このお金があれば、大学に行けるのではないかとの考えがよぎってしまった。

 武田祐美にとって、大学は興味のないところだと思っていた。いや、そう思い込もうとしていただけなのかもしれない。お金がないことで諦め、関心のないふりをしていたのかもしれない。人が怖いことを言い訳に、自分の本心を偽っていたのかもしれない。

 お金の話を聞き、大学のことが一気に現実味を帯びると、武田祐美の中で何かが芽吹いたようだ。

 そして何より、このようなサプライズを用意してくれた、木村賢吾、三上弘樹たちの心意気に、感動していた。どうして彼らはこんなにも優しいのだろう。どうして赤の他人に、ここまで親身になってくれるのだろう。

 本来、両親が自然な立ち振る舞いで示すものだが、武田祐美にはすべて経験のないことだ。両親に怖がられ、避けられているのだから、本来与えられるべき愛情に、触れることがなかった。

 三年前もそうだ。一人、隠遁生活をしていた武田祐美を救い出したのは、三上弘樹だ。彼らの一家だ。

 木村康代が、新しい娘ができたと、優しく迎え入れてくれた。皆川令子が常識というものを教えてくれた。皆川龍也はアルバイトに雇ってくれた。皆川真紀は、良き友人として接してくれた。木村賢吾は、こっそりと、隠れたところで何かをしてくれている。三上弘樹は、彼女がパニックに陥った時に助けてくれる人物であり、その予防となってくれる人だった。

 武田祐美は、いつの間にか、愛情豊かな環境に浸っていた。三年前までの環境とは比べ物にならない。感情があふれ、こぼれ落ちそうになる。

「ああ、そうそう。きみのバイト代も振り込んであるから、少なく見積もっても、二百五十万だ」

「え、でも、バイト代は…」

 武田祐美の声がかすれている。

「月々一万円のあれ?あれは一部だよ。まさかあれがバイト代のすべてだったと思っていたの?いやいや、安すぎるから」

「でも、食費とか…」

「食費なんて、これだけの人数がいたら、もう一人分なんて、おまけみたいなもんさ。家賃?それは僕の意向次第だね。どうせ部屋も余ってたんだし、問題ない。家主が問題ないと言っているのだから、この件は追及なし!」

 三上弘樹は反論の余地を封じていった。

「それに、大学は四年ある。三年であの額なのだから、在学中に倍になる。五百万だ。どう?具体性が出てきただろう?」

 三上弘樹の勝ち誇った顔を、武田祐美は直視することができなかった。ぼやけてよく見えない。

「よっしゃ!大成功!」

 まるでどっきり番組で仕掛けが成功したような言い方だ。

「それでもまだ不満なら、みんなにお礼を言うといい」

「ずるい…」

 武田祐美が、かろうじて発することのできた言葉は、これだった。

「大人はずるいものさ。黙って受け取っておきなさい」

 帰ってきた言葉は、三上弘樹とは思えない、大人びた物言いだった。



  7


 誰かが帰宅するたびに、三上弘樹は武田祐美の驚いた表情をまねてみせ、説明して回った。まるで何かに勝ち誇ったように、自慢するかのように。

 言われる側の武田祐美は、最初こそは、「やめて」とか「そんな顔してない」などと文句を言っていたが、次第に疲れてしまったのか、部屋の隅っこで座り込んでしまった。

 皆川令子が帰宅すると、三上弘樹は同じように説明を始めた。が、途中でみぞおちに一発撃ち込まれ、途切れてしまった。

 皆川令子は三上弘樹をノックダウンさせると、悠然と、何もなかったかのように、台所へ向かうのだった。

 三上弘樹はしばらくのたうち回ったにもかかわらず、別の人物が帰宅すると、再び顔真似をしていた。

 居合わせた女性陣がそろって、目を見開き、両手を広げ、天井を仰ぎ見ていたことに、気づきもしない。

「ついに教えたのか。いつかお前の態度で露見すると思っていたんだがな」

 木村賢吾は、三上弘樹の説明を早々に遮り、そう言った。

「あー、祐美くん」

 部屋の隅でいじけている彼女のもとへ歩み寄ると、木村賢吾は一つの通帳を差し出した。

「祐美くんの将来に役立つと思ってね。勝手なことをしてすまない」

「いえ、勝手なことだなんて…。あの、ありがとうございます!」

「よかったね、祐美ちゃん!」

 皆川真紀も友人と一緒になって喜んでいた。

 武田祐美は通帳を広げて、固まった。

「三百五十ある。あと四年、一年につき百万入る契約だ。これがあれば、大学の費用は気にしなくていい」

「こんなに…」

「少ないくらいだ。一人娘を追い出し、安穏に暮らしていたのだから、これくらいの責任は負ってもらうべきだろう」

 木村賢吾はそう告げて、武田祐美の背中を軽くたたいた。

 実際は多い金額であった。離婚した場合の養育費は、収入にもよるが、月五万円程度だ。年間に六十万。ここから比較すると、多いことになる。

 離婚とは異なり、子供を一人暮らしさせると考えれば、今度は安い。家賃、光熱費、食費と計算していき、そこに学費を合わせると、年間百万では足が出てしまう。

 ところが、あまり高額を要求すると、払えないと突っぱねられてしまう。人とは因果なもので、手元にいる子供に対してはお金を惜しみなく使えても、離れた子供には渋る傾向があった。相手が払えるぎりぎりのところをついて話をまとめたあたりが、木村賢吾の才覚である。だが、三上弘樹と違い、自分の成果を誇ることはない。

 皆川真紀が駆け寄り、武田祐美を抱きしめた。

「ありがとうございます」

 武田祐美のくぐもった声が聞こえた。肩が震えている。溢れる感情に、耐えているのだ。頬を伝うものが、時間をかけて、溢れる感情を洗い流してくれる。友人の優しい手が、感情の流れを導いてくれる。

「まったく、どこかの馬鹿が大ポカやらかすから、一時はどうなることかと思ったぜ」

 いつの間にか、皆川龍也も帰宅していた。早々に事態を察し、三上弘樹の頭を軽くたたいていた。

「痛っ!大ポカって、僕が何やったのさ」

「自分の胸に聞け」

「本当よ。この馬鹿ときたら、めったにない良いことをしたと思ったら、直後に自分で破綻させるんだから」

 皆川令子まで、三上弘樹を責め立てた。

「えー。めったにないってなんだよ」

「確かに、この馬鹿はやらかすな」

「賢吾兄さんまで…。みんなして馬鹿馬鹿言うな!」

「馬鹿に馬鹿と言って何が悪い」

「うるさいやい!」

 今度は三上弘樹が部屋の隅っこで拗ねる番となった。

「四十にもなって、拗ねるな」

 容赦のない追い打ちまで打ち込まれていた。

「まだ三十代だ!」

 三上弘樹の抗議は、空しく響いていた。



  8


 三上弘樹は、実のところ、嬉しくて仕方がなかった。

 もう恩を返すこともできなくなった、幽霊のゆみという、大恩人がいた。命を救われたことも一再ではない。

 両親を事故で失ったとき、励ましてくれ、傍にいてくれると約束してくれた幽霊だ。三上弘樹が彼女の存在を忘れてしまっても、彼女は約束を守り続けていた。

 二十年前、悪霊と接した。幽霊のゆみは、三上弘樹を陰ながら助け、導いた。彼は次第に過去の出来事を思い出し、再び、幽霊のゆみを目にすることができるようになった。

 三上弘樹が感激し、感謝したのも、つかの間で終わってしまう。彼が初めて悪霊の除霊を行ったとき、幽霊のゆみも、彼を助ける形で巻き込まれ、除霊されてしまったのだ。

 以来、三上弘樹は悔い続けていた。二度と忘れまいと、心に誓ってもいた。そして三年前、武田祐美と出会った。

 恩人と同じ名前を持つ彼女は、相手の心を読み、操ることができるという能力も、恩人と全く同じだった。三上弘樹にとって、幽霊のゆみが肉体を得たように思えてならなかった。これはもう運命に違いないと、彼は思ったものだ。

 その武田祐美が苦しんでいる様子だった。代償行動であることは理解している。それでも、三上弘樹は、幽霊のゆみの身代わりとして、彼女を助けることにした。それは、恩返しができない苦しみから、自分を守る行為だ。

 しかし、行き過ぎてもいけない。武田祐美にとって迷惑になってしまう。同じ名前を持つからと言っても、別人であるのだから。

 三上弘樹の新たな葛藤が生まれた。意識しなければ、武田祐美と幽霊のゆみを混同してしまうのだ。彼女の手助けをする上では、混同すればするほど、自分の欲求を満たすことができ、喜びを得た。同時に、混同すればするほど、武田祐美に深入りしてしまう。相手の了承を得ずに深入りすれば、手痛いしっぺ返しが待っているだけだ。

 三上弘樹は、幽霊のゆみのことが好きだった。本人もある程度自覚している通り、愛していたと言っても過言ではない。しかし、その感情を武田祐美に押し付けるわけには、いかないのだ。思い余ってぶつけてしまえば、彼女の迷惑になる。

 三上弘樹は武田祐美を見るたびに、その葛藤を繰り返していた。だが、彼にしては珍しく、おくびにも出さないよう、努力していた。

 幸いにも、幽霊のゆみに心を読まれ続けていたので、心の奥に隠す術を心得ていた。武田祐美に気取られていないところを見ると、その術はうまく機能していたようだ。

 三上弘樹自身の葛藤はともかく、武田祐美の喜ぶ顔を見ると、胸が締め付けられた。心地よい感覚と、物足りない感覚とが入り乱れている。

 気取られないために、ふざけてみたりするのだが、どうもやりすぎるきらいがある。三上弘樹は、いい歳こいて子供じみている、などと言われる原因が、このあたりに由来した。

 三上弘樹は自室へ引き上げた。

 窓際の机に、黒光りする小物が飾られていた。黒メッキ加工されたジッポライターだ。元々は皆川龍也の所持品だった。三上弘樹が入院中に、彼が病室に置き忘れたものだ。

 三上弘樹はこの黒いジッポライターを使い、初めての除霊を行った。そして、初めて悪霊と対峙した時も、このジッポライターを使った。思い出深い品だ。

 三上弘樹は黒いジッポライターを手にとって、まぶしそうに眺めた。

 悪霊とともに、恩人である幽霊のゆみまで浄化してしまった。苦い思い出もついて回る。このジッポライターを見るたびに、思い出すことができた。

 このジッポライターは、絶えず三上弘樹の許にあったわけではない。悪霊を除霊した時、三上弘樹は満身創痍で倒れ、その現場に転がっていた。荒れ果てた病室を現場検証した警察が、証拠物件として、しばらく保管していた。

 当時かかわった、高橋大輔という警部補が、後に、

「もう必要なくなりましたので」

 と言って返してくれたのだ。

 受け取った皆川龍也はそのまま、三上弘樹に手渡した。

「記念品だろ?取っておけ」

 とだけ言ったものだった。

 おかげで三上弘樹は、二十年という歳月を経ても、恩人である幽霊のゆみを忘れずにいた。

 部屋の戸口がノックされた。

「どうぞ」

 三上弘樹は、黒いジッポライターを持ったまま、振り返った。

 扉が開くと、目の周りを赤くはらした武田祐美の姿があった。彼女は三上弘樹の手にあるものを見て、驚いていた。

「ん?これ?いつものと違うって?」

 三上弘樹は、ポケットからもう一つジッポライターを出した。こちらは銀色だ。

「実は二つあったの」

「そうなの…」

 武田祐美は素早く表情を隠した。今まで、前世の記憶にあるライターと、三上弘樹が使っているライターが異なっていたために、記憶にある彼と、万が一にも、別人であるかもしれないとの考えが拭いきれていなかった。記憶と符合するライターを見て、同一人物であると、より確信するに至った。だが、そのことを悟られるわけにはいかない。

「こっちは、初めて除霊した時の、記念品。今使っているほうも、所長にもらったものだけど」

 三上弘樹はそう答え、黒いジッポライターを机に戻した。銀色のほうは、ポケットにしまう。

 二人の目線が絡み合う。互いに、内心を悟られないように、必死だったのが幸いしたのかもしれない。互いに相手の心を悟らずに済んだのだから。

 いつまでも見つめ合っていると、内心が溢れてしまうかもしれない。互いに、何か言おうと口を開いた。

「あの!」

「えっと」

 まともな言葉になっていない声が、重なり合った。

「どうぞ…」

 互いに、相手に先を促し、重なっていた。気まずい空気が漂う。しかし、二人して、言葉を失っていた。

 時間が経てば経つほどに、内心が露見してしまうかもしれない。

 三上弘樹は焦った。武田祐美は相手の心が読める。特に自分の心の声は筒抜けだ。多少は隠せると言っても、自信がない。内心が簡単に発覚してしまうと恐れていた。

 逆に武田祐美は、テレパシーのように会話できる相手だけに、自分の内心が聞こえてしまわないかと、恐々としていた。

「あの!とにかく、ありがとう!みんなに言っているから!」

 先に逃げ出したのは、武田祐美だった。まくしたてるように言うと、飛ぶように廊下を走って行った。

 三上弘樹は、ゆうに十秒棒立ちし、

「うん、どういたしまして」

 誰もいない空間に向かって答えていた。



  9


 三上弘樹と武田祐美は、互いに相手を避けるようになっていた。

 武田祐美は、三上弘樹の顔を見ると、恥ずかしくなって逃げだす。もしも自分の思いが少しでも漏洩していたらと思うと、まともに顔も見られなかった。

 三上弘樹も、恩人と同一視してしまうことが発覚し、避けられているのではないかと、疑うに至っていた。発覚していたら、彼女に合わせる顔がない。三上弘樹も、できるだけ武田祐美を避けるようになっていた。

 食事の時、並んで座っても、互いの顔を見ようともせず、ぎこちなく座って、不自然な挙動で食事をしていた。

 二人の疑念は、互いに取り越し苦労なのだが、当人たちは確認する術もなく、思い悩んでいた。

 三上弘樹は、仕事の依頼で助手を連れて行こうとするものの、かける言葉に悩んでしまう。武田祐美の部屋の前で右往左往している始末だった。

 挙動のおかしな二人は、当然のこと、周りの住人たちの知るところとなった。

 大人たちは、

「ほら見ろ、あんな馬鹿なポカをするからぎくしゃくする羽目になる」

 などと、先日の、三上弘樹の顔真似などの行為を改めて非難した。

 見かねて口を出し、行動したのは、皆川真紀だった。

「ねえヒロ兄。久々に仕事するとこ見せてよ」

 そう言って、武田祐美の手を引いていた。

「ちょ…」

 武田祐美は驚いたものの、皆川真紀に従う風体だった。

「え、うん、まあ、いいよ。ちょうど助手も欲しかったところだし」

 三上弘樹の目が泳いでいた。それでも受けたのは、本当に助手が必要であったことと、皆川真紀がクッションになってくれると思ったからだ。

 仕事の現場は、とある空き地だった。持ち主がこの土地を整備し、家を建てたいと望んでいたのだが、原因不明の事故や故障が相次ぎ、機材が放置されたまま、作業が滞っていた。オカルトが原因ではないかと考えた地主が、除霊を依頼してきたのだ。

 現場に着くと、確かに幽霊がいる。三上弘樹の目には、一目瞭然だ。同じものを、武田祐美も見ている。皆川真紀だけが、見えない。

 見える者にとって、そこは異質な光景だった。地面のいたるところで、霊的な何かが光を帯びている。その合間に、幽霊が複数立ちすくんでいた。

 見えない者にとっては、ところどころ穴の開いた、中途半端な作業現場なのだが、どこか妙な雰囲気が漂っていることが分かる。

 多くの幽霊にかかわってきた三上弘樹でさえ、この光景は異様に映った。地面の光るものはいったい何なのか。あまりに多すぎて、想像できない。幽霊の多さも異常だ。何事が起きたのか、今までの経験からも推察することができなかった。

「何だこりゃ…」

 思わずつぶやいていたほどだ。

 武田祐美が、手近な地面の光るものを手に取った。小さな石だ。

「これ、もしかして、月のかけら?」

「ああ、かもしれない」

 三上弘樹の想像していなかった答えだ。

「この光っているの、全部、そうかも」

 武田祐美は驚いたようにつぶやいた。

 五十坪ほどの空き地だろうか。どうしてこの狭い範囲に、無数の光る石が点在しているのだろうか。

 皆川真紀は、武田祐美から石を受け取り、しげしげと眺めた。彼女には石から発せられる光を見ることができない。

「とにかく、あたしは石を集めてみます」

「ああ。僕は、除霊して回るか」

 二人は仕事を分担して、作業にかかった。

 三上弘樹はポケットから銀色のジッポライターを取り出すと、親指でふたを開け、返す指の腹で火をともした。

 立ちすくむ幽霊に近づき、ジッポライターの火を押し当てる。すると幽霊は瞬く間に炎に包まれ、ガスが燃えるかのように縮んでいき、やがて炎とともに消えた。この作業を、十数回続ける羽目になる。

 武田祐美のほうは、光る石をせっせと拾い集め、持てなくなると道路脇へ戻り、アスファルトの上に置いた。

 しばらく観察していた皆川真紀も、石を片手に、似た質感のものを集め始めた。それらを武田祐美に鑑定してもらう。

 武田祐美は驚いた。皆川真紀が集めた石のうち、八割方が月のかけらだったのだ。

「え?どうやって見分けたの?」

「見た目の質感と重さ」

 皆川真紀はこともなげに答え、再び石探しに没頭するのだった。

 すべての幽霊を除霊し終えた三上弘樹も石拾いに参加した。

 時間にして、半日もかかっただろうか。

 集めた石を丸く固めれば、サッカーボールくらいになったのではないだろうか。ここにきて問題が生じる。これだけの石を、どうやって持ち帰るか、であった。

 いち早く動いたのは、皆川真紀だった。最寄りのスーパーから段ボール箱とビニール袋をもらってきたのだ。

 三人で石を袋に詰め、段ボール箱に入れた。重量もなかなかのもので、三上弘樹が両腕を段ボール箱の下に入れ、抱えるようにして運ぶことになった。

 普段体を鍛えていない三上弘樹は、ただでさえおぼつかない足取りが、まるで千鳥足のようにふらついてしまう。

 あまりのふらつきように、少女二人が指差して笑い合っていた。

「ちょっと!手伝ってよ!」

「やだ!たまには男らしいところを見せてよ、ヒロ兄」

 皆川真紀はそう言って笑った。

 武田祐美も笑っている。彼女の表情から、いつの間にか、ぎこちなさが消えていた。

 三上弘樹は久々に武田祐美の笑顔を拝むことができたように思えた。彼女の笑顔を見ると、俄然やる気になる三上弘樹であった。ものの数メートルしか続かなかったが。

 ふと、行く手を阻む一団があった。男性四人、女性二人の六人組だ。スーツ姿、カジュアルな服装など、統一感のない集団だ。年齢は、三十前後だろうか。

 鈍感な三上弘樹も、さすがに思い当たる節があった。月のかけらを大量に所持しているときに、三十歳前後の人々に囲まれた。木村賢吾が担当している事件と同じことが、今、自分たちの身に降りかかろうとしている。

「はいおじさんたち、その石は置いて行ってもらおうか」

 集団の一人が告げた。

「痛い目見たかったら、そのまま抱えてな」

 別の人物がそう言うと、周りが一斉に笑った。

 だが、その笑いが一瞬で凍り付く。

 皆川真紀がいつの間にか、相手集団に接近し、一人を問答無用に蹴り飛ばしていた。

 蹴られた男は、文字通り、吹き飛んだ。足払いをかけて体勢を崩させ、崩れた方向へ蹴って押しただけなのだが、あまりの早業に、ただ蹴って吹き飛ばしたかのように見えた。

 皆川真紀は次の獲物に狙いを定め、低い位置から掌を、相手のあごに打ち込んだ。相手が一瞬、宙に舞ったように見える。

 皆川真紀は宙に浮いた男を避けるように回転し、そのまま回し蹴りを、もう一人にお見舞いした。

 瞬く間に、男性三人が、倒れ伏していた。

「まだやる?」

 皆川真紀が、指の関節を鳴らしながら、残った三人に迫る。

 だが、その程度でひるむ相手ではなかった。

 残った男性がナイフを取り出した。女性二人も、何かを手に持って身構えていた。

 戦意ありと見て取った皆川真紀は、刃物にも怯まず、一瞬で詰め寄った。

 男の手を手刀でしたたかに打ち付けてナイフを落とさせ、その手首をひねって相手をねじ伏せると、脇腹に強烈な蹴りを入れて動きを封じた。

 残った女性陣にも、容赦なかった。悠然と近づいていき、見事な突きで、みぞおちをしたたかに打ち付け、一人を行動不能にした。

 残った一人が喚き声をあげながら、手に持った何かを振り回す。

 皆川真紀はそれを難なくかわして懐に潜り込むと、掌で容赦なく、相手の鼻を折った。

「そのままじっとしててねー。警察の迎えが来るまで」

 皆川真紀は呼吸一つ乱していなかった。ゆっくりとした動作でモバイルを取り出し、通報しようとする。

 すると、倒れていた人々が、よろめきながらも立ち上がり、もつれる足を引きずりながら、逃げ去っていったのだった。

「さすがってか、やり過ぎじゃない?」

 三上弘樹は、手が空いていれば、拍手でもしただろう。

「いいの。あの手合いは、痛い目見たほうがいい」

 皆川真紀はそう言って、モバイルをポケットにしまった。通報する真似をしただけだったようだ。

 武田祐美は、皆川真紀が格闘技を修めていることは知っていたものの、実際の立ち回りは初めて見たので、驚いていた。

「どうだい?すごいだろ」

 なぜか、三上弘樹が自慢げに言う。言われた武田祐美は、頷くことしかできなかった。



  10


 皆川真紀に手ひどく返り討ちにあったルーナベイビーズも、おとなしく引き下がる連中ではなかった。

 ある日は、手に入れた石を放り出して、三上弘樹が逃げ帰った。

 ある時は、武田祐美が、相手の心を操り、手にある石をなんでもない石と思わせて、逃げおおせた。

 再々、ルーナベイビーズの襲撃を受けるようになると、皆川真紀による護衛が必須となってしまう。

 次第に、皆川真紀の凶暴性が知れ渡り、彼女が虫よけの効果を発揮して、三上弘樹らを守った。

 弊害として、受験勉強が滞る結果となると、皆川令子に、石探しを中断するように、圧力をかけられるのだった。

 かくして、三上弘樹は事務所に引きこもり、少女二人は勉強に勤しむことと相成った。

 だが、事態はそのままでは治まらなかった。

 始めは、事務所の窓に石を投げ込まれ、割れた。外を確認した時には、すでに犯人が逃げ去った後だった。

 次は、仕事から帰ってきた木村賢吾が、集団に襲われた。幸い、大したケガではなかったものの、事ここにいたり、傍観するわけにはいかなくなった。

 木村康代や皆川令子が買い物に出かけるときは、皆川龍也か皆川真紀が護衛に着いた。襲ってきた相手を返り討ちにして捕らえ、知り合いの警察官を呼んで、連行してもらう。

「いやいや、いくら何でも襲われ過ぎだろう。いったい何をやったんだ?」

 三回目に呼び出した時、村上正樹警部補が詰め寄った。

「ただの石集め」

 二歳年上の刑事に対し、ぶっきらぼうに答える皆川龍也であった。

「石?」

 村上正樹は怪訝そうにしばらく悩み、答えを思いついて顔を上げた。

「月の石か…」

「ご名答」

「まったく、あれは一部の人間にとって、麻薬か何かか?信じられんな…」

 四十代半ばの二人にとって、石に引き寄せられる人々のことが理解できなかった。

「すまんが、警官を何人か貸してもらえないか?」

「どうせ返り討ちにできるんだろう?こっちも人が余っているわけではないんだ」

「煩わしいじゃないか」

「知るか」

「ちっ…。高橋の父つぁんに頼んでみるか」

「あの人はもう引退した身だから、警官は呼べんぞ」

 村上正樹は捕らえた襲撃犯たちを引き連れ、引き揚げていく。

 事はそれだけで終わらない。皆川総合調査事務所付近に幽霊が集まり始めた。次の襲撃者は幽霊たちだったのだ。一家七人のうち、二人しか幽霊が見えないため、大した騒ぎにはならなかった。三上弘樹ただ一人が、ぶつぶつ言いながら除霊して回る羽目になった。

 三上家の居間でも、物議をかもした。竹取物語をテレビ観賞していたのだが、テレビもそっちのけで議論に熱がこもった。

「もうあの石、処分してしまいなさいな」

 皆川令子は、かかわらない方がいいと言う。当然だろう。実際に被害者も出ているのだから。そして娘の勉強も疎かになってしまっている。石の保持に賛成する理由はなかった。

「ここまで騒ぎになったら、目の前でばらまいたとしても、引き下がらないだろう」

 皆川龍也の意見も、もっともだった。すでに三上弘樹、皆川真紀、武田祐美の存在は、襲撃者たちに知れ渡っている。石が手元にあろうとなかろうと、襲われ、奪おうとするか、隠し場所を聞き出そうとするだろう。家の中も隈なく探そうとするに違いない。

「じゃあ、差し出してやればいいじゃない。喜んで持って行くでしょ」

「残りがないか、俺たちの身ぐるみをはいで、家をあさるだろうな」

「何?私に文句でもあるの?」

「いや、あり得る現実を伝えているだけだ」

「何その言い方!腹立つ!」

「夫婦喧嘩なら他所でやって」

 にらみ合う夫婦を、娘が切り捨てた。

「依頼主に取りに来てもらったら?」

 木村康代が提案した。

「連絡先は?」

「あ、聞いてない」

 三上弘樹が頭をかいた。

「馬鹿!」

「えー」

「馬鹿だな…」

「だから馬鹿馬鹿言うな」

 皆呆れるしかない。仕事の依頼に来た相手の連絡先を聞いていないのだから、始末に負えない。

「依頼人の名前は?」

「えっと、なんだっけ?」

「お前は…」

「いや、ちょっと思い出す時間をちょうだい」

「可香谷姫子」

 武田祐美が助け舟を出した。

「あー、そうそう、可香谷…ん?」

 答えを教わり、喜んだ三上弘樹が、途中で首をかしげた。

「どうした?」

「いや、どこかで聞いた名前のような…」

 視線の先にあるテレビに、大きな満月が映し出されていた。満月のたもとに、美しい着物姿の女性が物悲しそうに佇んでいる。竹取物語のワンシーンだ。

「可香谷姫子さん…。まるで、かぐや姫みたいな名前ね」

 木村康代が珍しく、冗談らしいことを言い、笑った。

「ああ!それだ!」

 三上弘樹が飛び上がって手を叩いた。

 武田祐美も思い当たる。前世の記憶の中に、答えがあった。しかし、頷くわけにはいかない。知らないふりを通して、隠さなければならなかった。

「二十年前?僕が入院した時、出会った女の子だよ!そうだそうだ!」

 三上弘樹が一人、はしゃいでいるものの、当時、その女の子と接点のあったのは、彼と幽霊のゆみだけだった。当然のこと、周りの人々は訝って見ている。

「僕がかぐや姫って呼んだら、怒られたなぁ」

 三上弘樹はお構いなく、懐かしんでいた。

「まあ、あれの感傷は放っておくとして」

 木村賢吾が話を戻しにかかった。

「だな。名前が分かったのなら、警部補に探してもらうか」

 皆川龍也は言うが早いか、モバイルを操作して呼び出していた。

「確か二十九歳よ、その可香谷って人」

 妻が補足情報を与えた。

 折り返しがあったのは、次の日だった。村上正樹は連絡先まできちんと調べて知らせてくれた。

「最近貸しが多いな。ちゃんと清算しろよ」

 と釘も刺していったのだが。



  11


 可香谷姫子は、その日の夕方にやってきた。彼女が皆川総合調査事務所の戸口をくぐると、大勢の人に迎えられ、身じろぎした。

 皆川一家三人、三上弘樹、木村賢吾、武田祐美の六人が、事務所を狭めていた。

「え?こんなにもあったんですか?」

 机の上に置かれた石の山を目の当たりにし、可香谷姫子は悲鳴に似た声を上げていた。

 ルーナベイビーズが集めて回っている石が、ひとところに、文字通り山になって見つかるとは、思いもよらなかったのだ。

 見つかってもせいぜい、二つ三つ程度と考えていたのだろう。ルーナベイビーズたちが月のかけらを集めるようになって、もう数十年経っているのだ。僅かしか見つからないと考えるのは、当然のことだった。

 それでも、可香谷姫子は石の山を一瞥しただけで、

「確かに引き付けられるものはありますが、探し物はこれらではありません」

 と告げた。

「何ですとぉ!」

 皆川令子が詰め寄りそうな勢いでうめいた。両手を乱暴に振って感情を治める。

「とにかく、それは引き取ってください」

 皆川令子ははっきりと告げた。

 にわかに、外が騒がしくなる。

 皆川龍也はブラインド越しに外を確認すると、

「時すでに遅し、だな」

 諦め顔で呟いていた。

 皆がそれぞれ、外を確認に走る。

 下の道路に数人、さらにその下の遊歩道に、数十人の集団ができていた。全員、似たような年齢に見える。

「今からラジオ体操?」

「馬鹿」

「いい大人が、集団で、秋空の下で?」

 三上弘樹の推理に、即座に否定する声が上がった。

「どこからこんなに集まったんだ?」

 木村賢吾が訝った。三上弘樹の推理は無視していた。

「それ以前に、どうしてここに集まる必要がある?誰かが、ここに石があると、あいつらに情報を流したのではないか?」

 皆川龍也が疑問を呈した。

「いきなり陰謀説か」

「あれほどまとまりのない奴らが、こうなるか?誰かの意図を感じるね」

 木村賢吾と皆川龍也が討論を始めていた。

 皆川真紀も、何やら考え込んでいたが、討論には参加しなかった。

 三上弘樹は、相手が霊的存在ではないので、自分の出番はないと、素知らぬ顔だ。自分の推理をけなされ、やや不機嫌そうでもあった。

 武田祐美は不安だった。外の人々の心に触れ、石を求めていることは分かった。そして、なぜか、ここに石があることを、皆が知っている様子だった。中には、誰かに聞いてきたという、具体的な思考もあった。

 知り得たことを、皆川龍也なり、木村賢吾なりに報告すれば、打開策も見つかるのだろうか。しかし、武田祐美には説明に耐える根拠がない。どうしても、心を読んだことを告白しなくては、得た情報の信ぴょう性がないのだ。

 同時に、集団心理とでもいうのだろうか。外の人々の心が、徐々に凶暴性、狂気に向かっているも分かってしまった。何かのきっかけで、人々が押し寄せてくるに違いない。

 もうすぐなのかもしれない。数時間後なのかもしれない。警告したくても、その根拠を示せないので、説得力に欠ける。何より、自分の力のことを、皆にさらすわけにはいかない。

 武田祐美は、一人、苦悶し続けた。

 この状況で、可香谷姫子が石を持って外に出れば、襲われるのは確実だ。さすがの皆川令子も、持ち帰れとは言えなくなっていた。

「とりあえず、警察権力に頼るか」

 討論を切り上げた皆川龍也がそう言って、電話をかけに向かった。

 クラクションが鳴り響いた。通りがかった車が、道をふさぐ人々に警告したのだろう。だが、それがきっかけとなってしまった。

 人々がクラクションを鳴らした車を取り囲み、激しく揺さぶった。下の遊歩道からも続々と上がってきて、車に群がる。一方で、車に群がれなかった人々が、皆川総合調査事務所へ階段を上り始めていた。

「まずいぞ!」

 気づいた木村賢吾が短く警告を発した。

「女性陣は奥へ!警察が来るにしても、数分はかかる!」

 奥から皆川龍也が駆け戻り、指示を出した。

 可香谷姫子は皆川令子に連れられ、奥へ向かった。

「石を外に投げたら?」

 誰かが提案していた。

「駄目だ!もう遅い!ここにもっとあるかもと考えて、調べ尽くすまで暴れまわるぞ!…しまった!」

 提案を否定した皆川龍也が叫んでいた。

「どうした?」

「家にも侵入される!」

 言うが早いか、皆川龍也は事務所の側面にある窓に向かった。

「俺はあっちを守る!ここは真紀!任せる!」

 返事も聞かず、窓を開けると飛び出していた。

「おい!ここは二階…行きやがった…」

 木村賢吾が止めようとする間もなかった。

 三上弘樹が駆け寄って外を見ると、皆川龍也が家屋へ向かって走っているのが見えた。

「大丈夫みたい」

「おいおい…」

 木村賢吾は呆れるしかなかった。

 ここを託された皆川真紀は、戸口の前に立つと、上着を脱ぎ棄て、やや腰を下ろして身構えた。

「心強い親子だねぇ」

 木村賢吾は苦笑しながらそう言った。そして近くにあった椅子を持ち上げ、構えた。

 外で、車がひっくり返ったのだろう。大きな金属音とガラスの割れる音が響いた。

 外の集団は、すでに暴徒と化している。何がそこまで人々を駆り立てるのか、意味が分からない。だが、現実に、暴徒が迫っている。

 皮肉にも、ルナティックベイビーという呼称は、言いえて妙だと思えた。が、そんなことを考えている場合ではないと、皆川真紀は気を引き締めた。

 このままでは集団に飲み込まれ、皆が危険にさらされる。武田祐美の苦悩は続いていた。彼女には、この事態を止める手段がある。自分なら止められるのではないかと、ずっと考えていた。

 しかし、行えば、自分の能力をさらしてしまうことになる。せっかく、親身になってくれる人々と巡り会えたのに、また両親のように離れて行ってしまうのではないか。他人に心を読まれるのは、皆、嫌がるはずだ。再び居場所がなくなるのは怖い。皆川親子と離れたくない。木村夫婦が、本当の親だったらよかったのに。力のことが発覚すれば、彼らは離れて行ってしまう。

 三上弘樹がかばってくれるかもしれない。いや、彼一人が味方に付いたところで、人々の心が離れてしまえば、無駄なことだ。

 だが、力を使えば、皆を無傷で救える。それは外の人々も同様だ。彼らも無傷で救うことができるだろう。

 暴徒によって、戸口のガラスが割られた。

 その割れた隙間に、皆川真紀が間髪入れず、長い足を突き出していた。

 暴徒の一人が後ろの手すりに背中を打ち付け、倒れこんだ。だが、波は止まらない。暴徒が次から次へと、波のように襲い掛かり、侵入を試みた。

 いつの間にか、皆川真紀の、むき出しの腕に赤い筋があった。血が流れている。

 武田祐美は、血を見た途端、我慢できなくなった。目の前の暴徒の一人に狙いを定め、心を覗いた。その中から記憶の扉を探し出し、開けて奥へ入る。そこで探すものは、月のかけらへの執着心だ。ほどなくして見つけ出すと、その部分を消し去った。

 武田祐美自身が少し前から考えていた方法だ。思っていた以上に簡単にできた。その相手は、戸惑いの表情を浮かべ、辺りを見渡した。そして周りの状況を理解すると恐怖し、逃げ出そうと試みていた。

 武田祐美は次の相手に取り掛かった。二人目以降は、同じ要領なので、もっと迅速に処理できた。三人目はさらに早く。もっと早く。皆川真紀が、武田祐美が愛する人々が、ケガを負わないように、急がなければならない。

 変化は唐突だった。

 暴徒の先頭集団が、恐怖に駆られて逃げまとい始めた。暴徒の只中に意識が戻ったのだから、慌てふためくのも当然かもしれない。

 逃げまとう人々と暴徒がぶつかり合い、誰も事務所に上がってこなくなった。

 皆川真紀も、木村賢吾も身構えたまま、立ちすくんでいた。何が起きているのか、理解が追い付かない。

 武田祐美はゆっくりと窓際に近づき、外の人々を、次から次へと処理していった。集中しすぎて、視界が傾いた。足の力が抜けていたのだ。

 三上弘樹が武田祐美を抱き留めていた。彼は、武田祐美が何を行っているのか、なんとなく理解していた。心配になり、傍に寄っていた。だからこそ、素早く抱き留めることができたのだ。

 武田祐美は三上弘樹に、目でお礼を述べ、外の人々の処理を続けた。

 ものの数分で、すべての人々が我に帰り、逃げるように去っていった。

「一体、何が…」

 木村賢吾が呟いていた。

 皆川真紀は、武田祐美を凝視している。

「お願い。あたしを家のほうに連れて行って」

 武田祐美は、もう自分の足では立てないほど、疲労していた。それでも、家に侵入した暴徒たちを止めなければ、皆川龍也や木村康代に害が及ぶ。

 三上弘樹は小さく頷くと、武田祐美の腕を自分の肩に回して連れ出した。



  12


 村上正樹が警官隊を引き連れて駆けつけた時、皆川龍也にのされた一部の暴徒以外、すべていなくなっていた。道路でひっくり返った乗用車。窓ガラスが割られ、戸口の壊された現場。それらが凄惨さを物語っていた。

「他の暴徒は?」

 村上正樹は、地面にのびている暴徒を警官隊に処理させ、皆川龍也に事情を尋ねていた。

「分らん。突然引き上げていった」

 皆川龍也には、そう答える以外になかった。

 現時点で、何が起こったのか理解していたのは、武田祐美当人と、三上弘樹のみであった。その武田祐美は、最後の暴徒を処理した後、倒れこんで、眠っている。

「何にせよ、嵐の後のようだな」

「だな」

「まったく、この貸しの多さは、回収できるのかね」

「そのうちに、でっかい手柄を立てさせてやるよ」

「当てもないことを言うな」

「で、この前の襲撃犯たちは、何かしゃべったか?」

 皆川龍也はポケットから煙草を取り出すと、ジッポライターで火をともした。煙を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。

 村上正樹は顔をしかめ、煙の軌道から離れた。

「ただの襲撃犯ではなかった」

 煙に対しての苦情は言わなかった。

「誰かの指示があったと?」

「よくわかったな」

「今回の件も、そう考えなければ、あり得ない集団だったからな」

「誰かが、お前たちが月のかけらを持っていると教えたらしい」

「ふむ。すると、俺たちに恨みを持つ奴か…」

 煙を吸い込み、吐き出す。

「ヒントがなさすぎるな。駄目だ」

「何か思い当たることを思い出せたら、知らせてくれ。こちらもできるだけ調査してみる」

 村上正樹は背中越しにそう伝えながら、立ち去った。

 皆川龍也はエチケット袋に煙草を押し込むと、肺に残った煙を吐き出し、家屋へ戻った。

 人々に踏み荒らされ、荒れ果てた事務所や庭の片づけは、後回しだった。

 一家全員が、武田祐美が眠る部屋に集まっていた。武田祐美にあてがわれた部屋の前に、という方が正確だ。

 六人が廊下に集まると、かなり狭いが、誰もそこから動こうとはしなかった。

「それで、どういうことか、誰か説明してくれるか?」

 木村賢吾が口火を切った。

 沈黙が返ってくる。

「祐美ちゃんは大丈夫なの?」

「疲労困憊しているだけだと思う」

 皆川真紀の心配には、三上弘樹が即答していた。

「なぜ疲労するの…?」

 皆川真紀は、上げ足をとる追及の仕方に、罪悪感を覚えたものの、聞かずにはいられなかった。

 三上弘樹は、しまったと、顔を引きつらせていた。皆の視線が集まる中、沈黙を守ることはできない。

 三上弘樹は大きなため息を一つ漏らすと、答えた。

「彼女があの集団の心を操って、月のかけらへの執着心を消したんだ」

「は?」

 何人かがおかしな声を発した。

「あの子は元々人の心が読めたんだよ」

「読心術のような?表情や仕草から探るように」

「違う。文字通り、心に触れるんだ」

「そんなことができるの…?」

「なぜそれを弘樹が知っている?」

「僕と彼女は、どういうわけか、心が通じ合うんだ…。あ、いや、言い方が変だな。えっと、心の波長が合う…?なんか妙な言い方だな」

「心…思考がリンクする?テレパシーみたいに」

 皆川真紀が代わりに答えた。

「それだ!テレパシーみたいに会話できるんだ。でも心の奥底までは見えない。あ、でも、彼女はその気になれば、見れたはず」

「思考の表層部が、互いにリンクしていた…」

 皆川真紀が自分の考えをまとめるようにつぶやいた。

「あー、たぶん、それ。んで、彼女は今回、あの集団の全員の心の奥深くを見て…」

「深層心理を探って、月のかけらへの執着心を取り除いた…」

 皆川真紀が、代わりに答えていた。

「そう、たぶん、そうだと思う」

「そんなことが可能なのか?」

「可能かどうかはともかく、弘樹は、彼女がやったと、信じているわけだな」

「うん、そう」

「それもオカルト絡みか?どうも、俺はそっち系が苦手だな」

「ちょっと待って。信じがたいことだけど、もしそれが本当のことだとして、私たちの思考も、あの子には聞こえていたってこと?」

 皆川令子の疑問に、皆が顔を見合わせた。

「あー。あの子はそれを聞かないように努力していたんだ。強い思いはどうしても漏れ聞こえていたようだけど」

 三上弘樹が武田祐美の弁護をしてみても、皆の表情に陰りが見える。

「あの子は悪気があるわけじゃないんだ。そういう理不尽な力を持って生まれてしまっただけなんだ。迷惑をかけないように努力していたし、聞かないようにも努力していたんだ」

 三上弘樹が拙い言葉で、皆の誤解、生まれてしまった疑念を払おうとしていた。

 再び沈黙が支配した。

 三上弘樹は何かを言わねばと思うのだが、言葉が出てこなかった。口を動かしてみるものの、後が続かない。

「俺たちの深層心理を操って、都合のいいように…」

「やってない!そんなことする子じゃないことは、みんな分かっているだろう!」

 三上弘樹が全力で否定した。だが、誰も答えない。

「でも、やろうと思えば、できる。今回のことがそれを証明した、ということだな」

「所長!」

「祐美ちゃんが、自分のためにその力を使っていたら、私たちはもっとぎくしゃくした関係になっていたのではなくて?それに、ここへ来てからの三年間、心を覗いた様なそぶりがあったかしら?」

 木村康代が口を開いた。

「顔色をうかがう様子はあったがな」

「それは生い立ちからしても、仕方ないでしょ」

「やらなかったとも考えられるが、その証拠はない。逆に、操っていたという証拠も、もちろんない」

「ボクは…ボクは操られていないと思う。だって、ボクたちの友情が、操られたものだなんて、思いたくない!」

「操ってないって!」

「にわかに信じろというのは、虫が良すぎる。各自が考える時間が必要だ」

 木村賢吾が告げた。

「そうだな」

 皆川龍也も頷く。

「先ほどの暴徒たちの急変も含めて、理解しがたい事象が起きすぎている。とにかく、時間をくれ。決して、結論は急がない」

 木村賢吾はそう告げて、妻とともに引き上げていった。

 皆川一家もそろって立ち去る。娘が再々振り向くものの、おとなしく両親についていくのだった。

 廊下に残された三上弘樹は、顔をしかめ、天井を仰ぎ見ていた。



  13


 結論は急がないと言ったものの、木村家の総意は、早々と決まっていた。

「もう、私たちの娘ですよね?」

 部屋に戻った木村康代が、開口一番に言った言葉だ。

 木村賢吾は何か言い返そうとして、言葉がないことに気づいた。妻にとって、自分にとって、武田祐美は、もう娘のような存在になっていたのだ。この事実は否定のしようがない。

 長年、二人の間には子供ができなかった。当初は共働きで、忙しさにかまけ、子作りは後回しになっていた。木村康代が仕事をやめ、本格的に子供を欲した時には、すでに遅かったのかもしれない。病院にも通い、努力したが、実を結ぶことはなかった。

 互いに四十半ばに差し掛かると、諦めが支配してしまった。諦めると、次第に妻がふさぎ込むようになってしまった。

 そこへ、三上弘樹が彼女を連れて帰った。ふさぎ込みがちだった妻の目に、光が宿ったように見えた。子供を授かっていたとすれば、武田祐美くらいの年齢だろう。想像していた子供が、現実のものとなった。たとえ、それが他人の子供であっても。

 数日も要さず、木村康代は生気を取り戻し、武田祐美を愛した。当時、他人を怖がっていた武田祐美を優しく包み込み、母親然として、自分の立ち位置を確立してしまったのだ。

 ある時、木村康代は主人を前にして、言ったものだ。

「私たちに娘ができたみたいで嬉しいわ」

 武田祐美もきっと、木村康代のことを母親同然、あるいはそれに近い存在として認めてくれているはずだ。

 見守る木村賢吾の目には、そう映っていた。

 その妻の言葉を否定し、再びあのうつ状態に戻す必要が、どこにあろうか。今の幸せそうな妻を守る方が、大切に決まっている。

「そうだな。ああ、娘だ。誰に何を言われようが、娘だ」

「あの子が迷惑でなければ、いいのですけど」

「迷惑なものか」

 木村賢吾は乱暴にそう言い放ち、妻をやさしく抱きしめるのだった。

 一方、皆川家は、討論が泥沼にはまり込んで、答えを得るまでに数日を要してしまった。

「あの時は操られていた可能性がある。なぜなら…」

「いいえ、絶対に操られていない。だって…」

 父親と娘の討論は、連日続いたが、一向に答えが出ない。どちらの主張も、憶測でしかないことを、当人たちが一番自覚していたからだ。

 数日間、二人の討論を聞き続けた妻が切り捨てた。

「何時までそんなくだらない討論を続ける気なの!」

「しかしだな…」

「でも…」

 反論やぶさかでない二人を黙らせたのは、次の言葉だった。

「結局のところ、祐美ちゃんのことが好きなの?嫌いなの?それでいいじゃない」

 皆川令子の言葉に、沈黙が答えた。そしてそれ以降、この件で家族会議が開かれることはなかった。



  14


 一週間、武田祐美は自室にこもった。自分の能力を人前で使ってしまい、皆に合わせる顔がなかった。顔を合わせれば、母親のように、心を覗かれることを怖がり、気味悪がり、避けるようになるに違いない。すでにこの家には自分の居場所がないかもしれない。

 そう考えると、足が鉛のように重くなり、動いてくれなかった。

 いつ、出て行け、と宣告されるのかと、廊下の足音一つに恐怖していた。

 唐突に扉が開いた。

「こら!ヒロ兄!女の子の部屋にノックもなしに入るな!」

 後ろから皆川真紀の怒鳴り声が聞こえた。

 戸口に立った三上弘樹は、廊下の先へ向かって、

「あ、ごめん」

 と言い、開いた扉をノックした。

 既に開け放ち、部屋に一歩踏み込んでいるのだから、もう遅い。なんとも間の抜けた行動なのだが、どこか、憎めない。彼が武田祐美にとって、救世主だからだろうか。

 心の声でパニックに陥っても、彼がいてくれれば、助けてくれる。彼が傍にいれば、パニックに陥りにくい。いうなれば、安定剤だ。だから、武田祐美にとって、彼は大事な存在だ。

「あー、とにかく、ちょっとこっちへ来て」

 三上弘樹は、彼女を部屋から連れ出す言葉が思いつかず、そう言っただけだった。

『もうみんな分かってくれている』

『ある程度は受け入れてくれている』

 彼の心の声は、武田祐美を安心させようとしているのが分かる。そして、皆の前へ自分を連れ出し、それぞれが自分に対してどう思うのか、どう行動するのか、あるいは自分をどうするのかを、聞かなければならないようだ。

 すでに一週間が経っている。暴動の時のことを、説明する義務もあるだろう。いつまでも逃げて、引きこもってばかりもいられない。

 もしも出て行けと言われるなら、出ていくしかない。武田祐美は覚悟を決め、立ち上がろうとした。しかし、足が思うように動いてくれない。崩れ落ちそうになるのを、三上弘樹が支えてくれた。

 もう一週間経っているというのに、いまだに疲労が残っていたのだろうか。それとも、こもり続けた結果、足が弱ったのだろうか。

 武田祐美は三上弘樹に肩を貸してもらい、辛うじて歩いたのだった。

 食堂に集まった面々は、三上弘樹の肩を借りてなお、ふらつきながら歩く武田祐美を心配そうに眺めた。

 皆川真紀は飛ぶようにやってきて、武田祐美の反対側の腕の下に肩を入れて支えた。ゆっくりとした足取りで、定位置の椅子に腰を下ろす。

 三上弘樹は武田祐美の後ろに立ち、座ろうとしないので、皆川真紀が武田祐美の隣に座った。

「まだ疲れが取れていないの?」

 木村康代が心配そうに尋ねた。

 武田祐美には自分の体のことも理解できていないので、答えることができなかった。

「ごめんなさいね。すぐに済むと思うから」

 木村康代がそう宣言した。

「あー、祐美ちゃんの、能力、か。これについては、弘樹に大体聞いて分かったつもりだ。が、はやりいくつか聞いておきたい。いいか?」

 皆川龍也が質問を始めた。

「この前の件は、祐美ちゃんが暴徒たちの心を操って、止めた、という認識でいいんだな?」

 武田祐美は小さく頷いた。

「何時からそんなことができた?」

 わずかな沈黙ののち、武田祐美の小さな声が答えた。

「聞こえたのは、たぶん、生まれた時から。人を操ったのは、初めて」

「一発勝負であんなことをやったのか?」

「ううん。多分、できると思ってた。前に、妖怪を操ったことがあったから」

「妖怪…。まあそれは置いといて。どうやって操るんだ?」

「この前の人たちが月のかけらに執着してたから、その部分を消したの。多分、あの人たちはもう、月のかけらを探そうとしないと思う」

「執着を消す…それは、記憶を消すこともできる、ということか?」

「たぶん、違うと思う。心の奥底にある衝動を消しただけ」

「深層心理に刻まれた欲求を消した、ということか」

「そうかも…」

「心というものは、どんなことが聞こえるんだ?」

「その人が考えていることがほとんど。もっと奥まで覗けば、記憶を見ることもできる」

「ふむ。とすると、表層心理を聞くことができ、深堀もできる、と。心、というよりは、思考か?」

「分らない」

「今俺が考えていることは?」

「分らない。今は、聞こうとしなければ、聞こえないから。そういう修業をしたし、それに、弘樹さんが傍にいたら、彼の声しか聞こえないから」

 武田祐美の声が、最後の方は不安定に揺れ動いた。頬に涙が伝っている。

「もういいでしょ」

 口を開きかけた皆川龍也を、木村康代の一言が遮った。

 皆川真紀が椅子を寄せて、武田祐美を抱きしめた。くぐもった嗚咽が響く。

「祐美ちゃん、よく聞いてね」

 木村康代が、一言ずつ、ゆっくりと発した。

「あなたは私の娘。だから、ずっとここにいていいの。今まで通り。これは、もう決定事項。誰にも文句は言わせないわ」

「おい、待て、それって、俺が悪者みたいじゃないか」

「あら?何か反論でも?」

 木村康代のひとにらみで、皆川龍也は引っ込んだ。

「いいえ、ありません」

「ボクたちの方はね、確かにいっぱい悩んだんだ。心、心理を読まれるというのは、やっぱりね。でも、ママが言ったんだ。あなたたちは祐美ちゃんのことが好きなの?嫌いなの?って。もう、始めから答えは出ていたんだよ」

 皆川真紀が、友人の背中を優しくなでながら、そう言った。

「それって…」

 武田祐美のくぐもった声が聞こえた。

「はっきり言ってあげて。好きか嫌いか」

 三上弘樹が補足した。

「大好きに決まっているじゃない!嫌いになんてなれない!」

 武田祐美は返事の代わりに、嗚咽を漏らしていた。

「ありがとうって」

 三上弘樹が代わりに答える。

「それと、康代さん、本当に娘にしてくれるのかって」

「ええ、もちろん。あなたが迷惑でなければ」

「本当にテレパシーのようなことができるんだな」

 皆川龍也が、三上弘樹と武田祐美を見比べながら、感想を漏らしていた。

「心の声を聞いてしまう…」

 三上弘樹はそこで躊躇した。しかし、彼女の心の声のままを伝えることにした。

「心の声を聞いてしまう、気味の悪い子なのに?怖くないの?だって」

「でも、私たちの心の声は、聞いていないのでしょ?聞こうとしなければ、聞こえないのでしょ?」

「強く願っていることは、勝手に聞こえてくるって。大声でしゃべっているような感じで」

「え?それって、例えば、俺がセックスしてー!って思ったら、聞こえている?」

「ばっ!なんてことを!」

 皆川令子が旦那の後頭部を強かに打ち付けた。

「聞こえているらしい」

 三上弘樹が答えた。

「答えるな馬鹿!」

「あ、ごめん」

 三上弘樹が武田祐美を見つめて目を見開き、一瞬固まった。

「え、それは言えない…」

 何かを断っていた。

「なんて言ったんだ?」

 皆川龍也の問いに、武田祐美が涙で腫れた顔を上げた。

「この人が、よく、どこかにいい人が落ちていないかなって…」

 後ろを指さして、答えた。

「ああ」

 全員が、一斉に、微妙な声を上げていた。

「ちょ!やめて!」

「まあ、この馬鹿の考えは放っておいて」

「いや、それもいや」

「バカ息子でごめんなさいね」

 木村康代が憐れむような顔になって、詫びた。

「ああ、もう、やめて!」

 三上弘樹は頭を抱えて、悲鳴を上げていた。

 武田祐美が噴き出していた。嗚咽と混ざっていても、それと分かる。皆川真紀も一緒になって笑っていた。

 ひとしきり落ち着くのを待って、木村康代が口を開いた。

「とにかく、私たちの心は、聞いていないのでしょ。その努力をしているのでしょ。なら、祐美ちゃんを信じるわ」

「でも、ちょっと気になるな。どんな風に聞こえるの?」

 皆川真紀が尋ねていた。

「真紀ちゃんのは、たくさんの真紀ちゃんがいるみたいで、その、声が重なり過ぎてよくわからないの」

 武田祐美の声が、だいぶ落ち着きを取り戻していた。

「同時にいろいろ考えているんじゃない?」

「うん。じゃあ、聞かれても、分からないんだ」

「あ、でも、出会った頃、時々、その声が統一のことを言う時があって、聞こえたことはあるの。あのころはまだ聞かないようにすることができなかったから」

「え…」

 皆川真紀の顔が、見る間に赤くなっていった。

「まさか…」

 そう言うと、武田祐美の耳元に手を当て、口を近づけて、何やら小声で尋ねていた。

「うん、ごめん、知ってる」

「ええ!」

 皆川真紀の顔がさらに赤くなった。

「大丈夫。ばれていないから」

「絶対に言わないでね!絶対だよ!」

「一体どんな隠し事だ?」

「パパには教えない!」

「じゃあ、私には?」

「ごめん、ママにも言えない!恥ずかし!」

「なになに?」

 三上弘樹が興味本位に聞こうとする。

「女の子の秘密!関わるな!触れるな!近づくな!」

「えらい言われようだな…僕、傷つく…」

「知らない!」

「ああ、これは、あれね」

 大人の女性二人は理解したようで、二人して顔を見合わせ、微笑んでいた。

「祐美ちゃん、これは、後で、ゆっくり作戦会議よ!そうだね、お風呂一緒に入ろう!」

 皆川真紀は、自分の秘め事を隠し通すために、必死だった。

「まあ、なんだな。これが俺たちだってことだな」

 皆川龍也が、台所を見渡して言った。

「そうだな。祐美くんも含め、この大所帯が、家族だ」

 今まで一言も発しなかった木村賢吾がまとめた。

「家族…」

 武田祐美が戸惑うように呟いた。

「そう、私の娘で…」

「俺の娘で」

「娘の親友で」

「不肖の従業員の助手で」

「ボクの大好きな友達で」

 それぞれが付け足していく。

「え、あ、僕?えーと…」

「まったく、締まらないやつだな。こいつは放っておけ」

 武田祐美は再び嗚咽を漏らしていたが、噴き出してしまう。なんとも頼りない三上弘樹だが、こういうところが、良いのかもしれない。彼に何時も救われている。そして今も、やはり救われたのだろう。

「あたし、ずっとここにいたい。あたしを家族にしてください」

「もうとっくの昔になっている」

 ぶっきらぼうに答える皆川龍也を、大人の女性二人が同時ににらみつけた。

「おっと、失礼」

 木村康代はゆっくりと一呼吸おいて、

「歓迎するわ。私の大事な祐美」

 暖かい声で伝えていた。




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