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貴族令嬢なんて、辞めてやりましたわ!  作者: 綾野 れん
自由の都 オーベルレイユ
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第78話 白銀の乙女


 何処からか投げ込まれた輪っか状の浮具をリゼの身体に通したのも束の間、突然耳に飛び込んできたその声の主に導かれるようにして、私は浮具に付いていた取っ手のようなものを掴んで引っ張りながら、その相手のあとを必死に追い続けた。


 よく見るとその浮具からは紐のようなものが伸びていて、どうやら相手の泳ぐ方向に沿って牽曳けんえいされている様子だったものの、向かっているところは岸がある方角ではなく、感覚的にはほとんど真横に移動しているように思えた。


「ど、どちらに向かわれているのですか! 岸はあちらでは――」

「いいから黙って付いて来なさい。話はそのあとよ!」


 そうしてしばらく岸とは違う方角に進んだ後、ようやく相手がそちらに向けて方向転換を行ったようで、私たちもそれにならって移動の向きを変えたところ、先ほどまでとは打って変わって、対向する水の重さが軽くなったのを確かに感じた。


「これは一体どういう……でも、これなら何とか岸にまで辿り着けるわ! あともう少しよ、リゼ!」

「は……はい!」


 そしてやがて砂浜の波打ち際にまで辿り着いた私たちは、持ちうる体力のほとんどを使い果たした上に、間近にまで迫っていた死の恐怖から脱したことが手伝って、二人してその場にくずおれてしまった。


「はぁ……はぁ……何とか、助かった……わね」

「え、ええ……かなり水は飲んでしまいましたが、私は……大丈夫、です……」

「危ないところだったわね、あなたたち。あれは恐らく離岸流りがんりゅうという、局所的ながらも沖の方向へと導く、とても強い流れだわ」

「……ん、あなたは……」


 砂浜に打ち上げられたかのような恰好で、仰向けになって倒れていた私たちを、見下ろすかのように覗き込んでいたのは、一人の女性だった。


 次第に鮮明になっていく視界の中に描き出されたものは、暁光に洗われた新雪の如く美々しく照り映える、幾重にも華麗に巻かれた白銀の御髪。左右に結わかれ、潮風を受けて微かに揺曳ようえいするその毛束は、毛の一本一本が柳のように細くしなやかで、さながら光の全てを通してしまうに等しいほど極めて透徹していた。


 加えて、私たち二人の間を往来するその大きな双眸は、まるで悠久の煌きを太古の昔から秘めてきた琥珀かと見紛うまでに、明澄で且つ豊麗な光彩を放っており、そして其処から発せられる鋭い視線は、こちらの全てを射抜くかの如く、何処までも冴え渡っているように感じられた。


 またどうやら彼女もこの砂浜に海水浴に訪れていたらしく、その身体には瑠璃や岩群青を想わせる深い青の色を称えたビキニを纏っていて、ショーツ部分に付属したスカート状の生地の下と、溢れんばかりの豊満なものを収めたブラの縁には、白いフリルが豪勢に幾重にもあしらわれていた。


「初めまして……よね。私はシャルレーヌ・ド・ボワモルティエ。ここからそう遠くはないところに住んでいる者よ。時にあなたたち、この辺りでは見かけない顔だけれど、ひょっとして他の国からいらっしゃたのかしら?」


 いくら自分が疲弊している身であるとはいえ、恩人に対してその真下から覗き見るような体勢のままで返事をするのはあまりに失礼だと感じて、私は微かに残っていた力を振り絞りながら何とかその身を起こし、自身をシャルレーヌと名乗ったその女性の問いかけに、極力息を整えた上で答えた。


「は……はい。私たちはわけあって、ここから遠いロイゲンベルクからこの地に身を寄せることになった者です。私はメルセデス、そしてこちらがリーゼロッテといいます。この度は自らの危険を顧みず、私たち二人の命を窮地から救っていただいて、何と感謝の言葉を申し上げてよいやら……」

「ふふ……そんなにかしこまらないで頂戴。私はそんな大したことはしていなくってよ。この目の前から今にも消えてしまいそうだった美しい蝶々に、ほんの少しだけ力を貸して差し上げた、ただそれだけのことだわ」

「それでも、これだけは言わせて下さい……本当に、ありがとうございました、シャルレーヌさん。私たちが受けたこの御恩は生涯、忘れることはありません」

「わ、私からも、です……シャルレーヌさん、この度は危ないところを助けていただいて、本当にありがとうございました」

「何、礼には及ばないわ。それよりあなたたち、こちらに身を寄せると仰っていたけれど、そんな遠方の国から移住するというのは、本当に深い理由があるようね。もし、あなたたちさえよければ――」

「シャルレーヌ様! 他の皆さま方も今、着替え終わりましたよ!」


 その時、彼女の言葉を遮ったのは少し遠くに見える黒髪の女性で、どうやら彼女の連れであるらしく、さらにその後ろには『他の皆さま方』と称されていた女性たちの団体が控えているようだった。


「今行くわ、エステール! ふ……流石に今日はあの子たちに付き合ってあげないといけないわよね。では、メルセデス――」

「あっ、メルでいいですよ」

「あらそう? なら私のこともシャルと呼んで頂戴。今日は少し都合を付けることが難しそうだから、もし何か悩み事があるのであれば、後日改めて私の屋敷を訪ねにきて貰えるかしら。場所は……ふっ、ここに記しておいたわ」


 彼女が自身の右手に軽く息を吹きかけると、何処からか取り出した、という風ではなく、もはや生み出したといった感じで、その屋敷の場所を記したと思われる名刺ほどの大きさの紙が突然其処に現れ、それを私にそっと手渡してきた。


「えっ……あ、ありがとうございます」

「それでは今日のところはこれで。またお会いしましょう、メル」


 シャルはそう言うと、軽やかに踵を返して颯爽と女性たちの方に向かって歩き始めた。そして傍らで佇んでいたリゼが、ふと自身の身体に密着していた浮具の存在に改めて気づいたのか、離れてゆくシャルの後ろ姿に向かって呼びかけた。


「あっ、あの! この浮具はシャル、あなたのものでは……?」

「あぁ、それならあなたたちに贈るわ。あとは好きなように使って頂戴」


 彼女は私たちを一瞥しながら右の目だけをゆっくり瞬いてみせた後、遠くで彼女を待っているであろう女性たちのもとへと再び歩き出し、その悠然とした後ろ姿はやがてとても小さくなっていった。


「何だかとても、上品な方だったわね……あの去り際の歩き方にさえ気品が感じられるように思うわ」

「ええ……何だか、メルがもう一人居るみたいでした……。メルよりもほんのちょっとだけ、年上であるような感じもしましたが」

「えっ、私ってリゼから見たらあんな風に見えているの?」

「そうですね……全身からこう、品格といいますか、とても高貴な気配が滲み出ているところや、気品が漂ってくる語調もすごくよく似ているように感じました」


 ――かつてザールシュテットで遭遇したクリストハルトにも似たようなことを言われた記憶があるけれど、リゼに言われると悪い気はしないものね。何はともあれ、彼女には後日、こちらから改めてご挨拶に伺わなくては。


「メル! リゼ! ご無事でしたか!」

「お姉ちゃんたち! 大丈夫だった⁉」


 声を揃えて共にこちらに駆けよって来たのは、レイラとエフェス。最初に彼女たちが居た場所からは随分と離れたところに来てしまっていたものの、憂いに満ちた彼女たちの顔を見れば、両者共に酷く心配させてしまったことが窺える。


「ごめんなさい。私、リゼを助けにいくつもりが、かえって新たな危険を重ねてしまったようだわ……結果的にはリゼも私も無事だったから良かったけれど……」

「きっとリゼのことを想って、身体が勝手に動いちゃったんですよね……そんなの誰にも止められませんよ。それよりメル、やっぱり今でも泳げるんじゃないですか! 私、昔の話を聞いたばかりでしたから、本当にびっくりしてしまいましたよ?」

「そうですよメル……! さっきはそれどころじゃなくって、すっかり頭から抜け落ちていましたが……確かに泳げていましたよね!」

「いえ……あの時はもう、怖いだとかそんな余計なものを感じている余裕すらなくって。自然と身体が動いてしまっていたのよ。きっとリゼを救いたいという強い想いがそうさせたのでしょうけれど、人の気持ちって……本当に不思議なものだわ」


 あの時以来、私にとって泳ぐことは、それこそ身体がすくんでしまうほどの恐怖でしかなかった。しかし溺れそうになっていたリゼを見た瞬間、そんなものは何処かへと吹き飛んでしまったようで。気が付いたら私はまた、小さな頃と同様に水の中を泳いでいた。ずっと忘れていた泳ぎ方をこの手足が思い出したかのように。

 そしてやはり、人の想いというものには時に不可能をも可能にする、そんな不思議で果てしない力を持っているに違いないと、私はそう強く感じた。

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