第75話 それは、あとのお楽しみ
役所に入る前に、手を繋いでいたリゼと共に、一旦その気持ちを切り替えた。
こんなにやけた顔をした女性が二人してこの役所に来て亡命申請書を提出するのは、いくらその審査を行うのが彼らではないと言っても流石に憚られた。
あの感じのままだと、彼らに婚姻届の間違いではないかと思われそうで。役所を出たあとにその話をしたら、リゼはまたその頬を紅潮させたようだった。
「それにしても女性同士で婚姻届……ですか。でもこの国だと至極普通のこと、なんですよね……」
「ええ。きっと世界の何処を探しても、同じような国は二つとして存在していないわ。けど、良いものでしょう? 個々の意思がここまで貴ばれているのだから」
「はい、とっても……。ここでなら、色々な可能性を夢見ることが出来そうで、今からとっても楽しみです。もちろん何よりもまず、あの亡命申請が通るかどうかが問題ではありますが」
「そうね。優先度の高い案件だから、数日中に正式な返答が送られてくるだろうけれど、それまではあの宿からは動けそうにはないわね。まぁ、今の内に準国民でも利用することの出来る物件のうちで、良さそうなものが無いかどうか探るのも良いかも知れないわ。あとこの先の収入源をどうするかも考えないとね」
「そうですね。とりあえず役所からこの町の地図をもらって来ましたから、宿に戻ったらこれを参考にして皆で街中を色々と見て回りましょうか」
「それが良いわ。……しかしこの通りの並び方、とても規則正しいわね」
リゼが手にした地図が示しているように、オーベルレイユの都市内にある街路には全て名前が付けられていて、さらにそのほとんどが南北と東西とで直角に交差しており、縦と横の通りが整然と並んでいるため、目的地の方角や通りの名前さえ判っていれば、それが何処であってもさほど迷わずに到達出来そうだった。
「あら、この区画が一際大きいところは……なるほど、貴族街なのね」
「特にこの侯爵家の屋敷は広いみたいですね。はは、もしここの人と友達だったら、例の推薦状も書いてもらえそうなものですが」
「ふ……そうね。まぁその辺りに訪れることは当面無さそうだわ。いつか私たちがお店を開いて、そういう貴人から依頼を受ける日が来れば、また別だけれど」
時々、かつては自分自身もそういう身の上であったことを忘れそうになる。たまにこういう話題が出てそれを意識する機会があっても、もはや貴族というものが何処か別の世界の住人であるかのように感じられてしまう。けれど、その貴族であることを辞したあの日の自分に、後悔の念は一切ない。
「あ……そういえばメル、行かないんですか?」
「ん? 行かないって、何処へ?」
「いや……海ですよ、海!」
「あぁ、もちろん忘れていたわけではないわよ。けど、どうせなら皆で一緒に浜辺に行って、その海というものを全身で感じたいじゃない? だから今日中に色々と諸事を済ませて、それを明日の楽しみに取って置こうと思っていたのよ」
「そうだったんですか……いやはや、失礼しました。ここに辿り着く直前まであまりに色々とあり過ぎて、ついお忘れになっていたのかと思いまして」
実際のところ、リゼの推察は半分ほど当たっている。彼女と二人きりでこのフィルモワールを目指していた頃までは、漠然とした期待感にただ胸を膨らませていたものの、その道中で訳の分からない化物に命を脅かされたり、気が触れたような輩と一戦を交えたり、挙句は命の恩人と命のやり取りをする事態にまで陥ったりして、とてもそんなことを考えていられる余裕が此処に来るまで無かったのも、確かな事実。
――正直、私が色々と首を突っ込んだり世話を焼いたりしなければ、もっと楽にかつ早くこの地へ辿り着くことも出来たでしょうけれど、やはり私が私であるための旅でもあったから、ここまで選んできた選択の中に間違いなんて何一つ無かったと自分では思っているのよね。唯一、独りきりで旅立とうとしていた点以外は。
「ん……? どうかされたのですか、メル。私の顔を覗き込んだりして」
「いえ、何でもないわ。それより一旦宿に戻りましょうか。それから街の探索も兼ねて、色々とお買い物もしなくちゃね」
***
「……で、買い物だとは聞いていましたが、これは……」
「あなた、海に私の水着を着て入るつもりだったの? どうせならちゃんと……大きさのあった、自分の好みのものを着る方がずっと良いでしょう?」
「そ、それは……そうですけど」
――そのちょっと残念そうな表情は一体どういう意味なのかしら……?
けどあのままじゃちょっときついでしょう、特にその……胸元の辺りが。
そうして皆で足を踏み入れた店内には、所狭しと並べられた色とりどりの水着があり、その色合いや模様はもちろんのこと、形状の差異やフリルといった装飾の幅も実に多岐に渡っていて次々と目移りしてしまい、一体どれにしようかと迷ってしまうほどだった。
なお、水着は事前に皆一人ずつに手渡した予算をもとに、各々が好きなものを選んで、当日に見せ合うことにした。それは、そちらの方が何だか、あとのお楽しみといった感じで面白そうに思えたというのが最大の理由。
「ねぇねぇ、リゼお姉ちゃんこれみて」
「ん、どうしたのエフェ……ええっ!」
「お尻のところが紐みたいになってて、変なの。お姉ちゃんたちぐらい大人になると、こういうのも着たりするの?」
「き、着ないよそんなの! もう……すっかり忘れていたのにあの町で踊った時のことを、思い出しちゃったよ……」
「ん……そうは言うけどリゼ、あなた、最終的には一番嬉々として舞い踊っていたような気がしたのだけれど、私の思い違いかしら? ねぇ、レイラもそう思わない?」
「あぁ、そういえば確かに、そんなところが――」
「き、嬉々となんてしてませんでしたから……! 全く、また二人してそんな風に私のことをからかうんですから……」
――しかしあなたはあの時、最初は恥ずかしさからとてもぎこちない動きだったものの、途中からはもう宙を回転しながら活き活きとして舞っていたような……。まぁ、あまり深くは突っ込まないであげた方がいいかしらね。
「それで? リゼはどんなのが良いの?」
「私、ですか……? とりあえず、さっきエフェスが持っていたようなものは絶対に避けたいです……はい」
「……もし、私が着て欲しいって言ったら?」
「え……ええっ⁉ そ……それは、そんなの、困りますけど……! でも、メルがどうしてもって言うなら……考えなくも、無いかな……って」
「そう? ……じゃあ、どうしても」
「……えっ?」
「ふふふふ、冗談よ!」
「んもう……! 止めてくださいよメル! 全然笑えませんからね!」
「ははは……ごめんなさい、あなたを見ていたらつい、ね。それで――」
話を聞けば、露出にはまだ抵抗があるものの、私が以前お風呂で身に着けていたような、可愛らしいフリルやリボンがふんだんにあしらわれたものが良いようで、色は自身の髪の色とよく似た淡い桃色や桜色のものが好みであると告げた。やはりリゼの好みは、小さな頃からそれほど変わっていないように思える。
「ん……なら、こんなのはどうかしら? あなたの好きなフリルも上下共に多くあしらわれていて、色だってあなたの髪色にとてもよく馴染むわよ」
「確かに、とっても良い感じですね……けど、ちょっと布の面積が小さくはないでしょうか?」
「どうかしらね……けど、海辺に行ったらきっと他の子たちも同じようなものを着ているはずだから、そんなに恥ずかしいものでもないし、どうせなら可愛い方がいいでしょ? まぁ、いずれにせよリゼが好きなものを選ぶといいわ。だからこれは一応その候補の中にいれておいて」
「あっ、はい……」
「ふふ。じゃあ私もそろそろちゃんと選ぼうかしらね……」
私も、お風呂で着ていたような自前の水着があるものの、せっかくだからここで新しい一枚を用意したいと思う。そして明日、他の皆がどんな水着を身に着けて海に出てくるのか、今からとっても楽しみだった。




