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阿蘇結界

 暗闇の中で、滝のしぶきと水の轟音に僕は消耗していった。岩壁にくくりつけられたままの夜明け。見上げた出口に差し込む木々の間からの朝日。

 洞穴の中からは煮炊きのにおい。冷え切った体をしびれさせる芳醇な香り。

「所詮は人間。身体が弱まれば心も萎える。さあて、この食事が恋しかろうよ。国術院の学生なら、耐えられるだろうて」

 僕には応える気力さえ残っていなかった。霊剣操の言葉、辺境の長崎にて得た祈りの言葉。弱りつつある鼓動。匂いさえも頭から遮蔽した。

「私に乞え。しからば一口進ぜよう」

「人は…パンのみにより活くるにあらず。天からのひとつひとつの言葉によって活くるものなり」

 僕はそう言って、刺激の入りこまない寂光に身を沈めた。それでも、倶利伽羅姫は何かを言い続けている。

「ほれ、腹は減らぬのか? 鍋はここ。お前の目の前じゃぞ。……。鼻に近づけて匂いを進ぜよう……。なんと、息をしとらぬ……」


 彼女は僕の首筋を捕まえ、喉を開かせて強制的に呼吸させた。無の境地に閉じる目。体を押し付けてくる倶利伽羅姫。僕の呼吸を確かめるため? それとも煮物の匂いを嗅がせるためか。冷え切った僕の体に呼吸を思い出させるためか。自らの女体を触れさせ官能の想いをさせるためか。

 僕は判断をすることもできないまま、長いその時間を耐え過ごしていた。僕の側で倶利伽羅姫は、しばらくモゾモゾとのたうちまわっていた。しかし、僕は冷え切って動く気もなく力も残っていなかった。

「少しは元気があるかと思ったが、見込違いね。ここ四百年の中でも、一番非力な男だこと」

 そう言って彼女は奥へ引っ込んでしまった。


 そのまま動きのない静寂な時が流れた。それは、死の直前の幻なのだろうか。単なる幻なのだろうか。ふと気づくと、僕の目の前には倶利伽羅不動の化身、龍がこちらをにらんでいた。

「弱っていては答えられないだろうから、これを一口飲め」

 彼は半ば強制的に丸薬のようなものを僕の喉の奥へ押し込んでいた。すると、体は動くことができないのに、話す力だけが湧いて来ていた。

「昨日はしぶとく耐えていたらしいな。鬼没のエージェントよ」

「僕は違う。国術院の学生だ」

「ほほう、なればこれにも耐えられるだろうて」

「僕は嘘を言っていない。しかし、この仕打ちはそろそろ我慢ならないですね」

「ほほう? 何か出来ると言うのかね」

「この場合、何を知っているかが大切なことですよ。ここは結界の中心、しかも貴方はこの結界の源。この時を待っていました」

 そう言うと、僕は霊剣操の言葉を語った。洞穴の奥から手元に二つの剣。二つの剣は僕の両腕の束縛を打ち砕き、飛躍して僕の手の中に収まった。龍は慌てて剣を取り返そうとしたが、僕は足のくびきを切り捨てて、後ろへ飛びのいた。

「さて、倶利伽羅不動様、今までの仕打ちは不必要だったと存じますが。あなたの知覚によれば、充分に僕の身の上はわかったはずなのに。理不尽な仕打ちです」

「だからどうしたのかね。私に向かって説教をするのかね。短命な人間ごときが。私は二千年の時を経てここに生きているのだぞ」

「たしかに短命です。しかし、先ほども申し上げたとおり、何を知っているかが、大切なのです。例えばこの倶利伽羅剣は、この阿蘇結界でしか用を成さない。今は私の手の中にあって、全力を私が扱えるのです。しかし、あなたがこれを奪っても、私がここから逃げ出して結界の外へ出れば、その剣は使い物にならなりませんね。つまり、私は学生であっても、これらのことをわきまえているから、その時々で充分に立ち回れるのです」

「ほほう、そこまで言うか。そこまでいうならば、その倶利伽羅剣を持った手が腐りおるぞ」

 途端に左手に握っていた剣が左手を腐らせ始めていた。仕方なく、霊剣操を唱え、剣の制御を行った。それと同時に左手は元に戻り、再び双剣の構えをとった。それと同時に全ての武器を制御した。龍は僕から少し後ずさりしつつ構えながら、静かに落ち着いた声を響かせた。

「お前は何者だ。そこまでしても、なぜその剣を使えるのか?」

「だから申し上げたはずです。国術院の……」

「その学生ごときがこのようなことをできるはずもない」

「そうですね。大声で言いたくはないですが、霊剣操を……」

「霊剣操……。それは倶利伽羅剣でさえも従わせるのか」

「知らないのですか……。そもそもは魔醯首羅、すなわち商伽羅支配下の渦動結界に存在する全ての剣に、普遍的に力を発揮するものです」

「お前は何者なのだ」

「やっとわかってくれましたか。僕は学生であって、霊剣操の操者です。僕は姫殿にわかってもらおうとしましたが、問答無用の扱いでした」

「しかし、前から指摘しているが、国術院のプログラムに沿った行動ならば、連れ合いがいるはずだ」

「彼女は今、身動きが取れない……」

「彼女? 連れ合いは女か?」

「……」

「けんかをしたのか? いや、違うな。まさか、一夜をともにして最初の訪問地の神域を汚し、お前だけ追い出された?」

「夫婦となり子供が出来ました」

 倶利伽羅不動は絶句して黙っている。しかし、僕はもう何を言うべきか、分からなかった。

「そうか……。それでも任務に向かった? そして、ここを守ろうと思ったのか。ならば国術院には、黙っておいてやる」

 龍はその形を変え始め、若い男の姿に変化した。

「そうなら、償いにはならぬが、しばらくここに逗留致せ。その女の代わりにはならぬが、姫に世話をさせよう」

 しかし、この神々の結界の中心で過ごす一日が、下界の一年になることを、僕は知らなかった。


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