遭難行、二人の愛
「西姫。大丈夫か?」
「おめえ、いつも人のことばかり心配しているな。不思議に・・・
嫌いじゃないけど・・・」
二人は救命胴衣を着用していた。とはいえ、破損した胴衣ゆえに僕たちは溺れそうになっては互いに引き上げ合い、助け合っていた。
「秀明。こんなところで死ぬな」
二人は次第に疲労してきた。互いに掛け合う声も、単に名前を呼びあうだけだった。
「秀明!」
「西姫!」
暖かな海であったのは幸いであり不幸だった。体温こそ奪われなかったが、意識が朦朧としたままの僕は鮫にとって格好の餌だった。幾度となく襲撃をやり過ごしたものの、腕と足に大きな歯型がつくほどの怪我を負った。失血した末に見た幻の中で、僕の周りで鮫を追い払う西姫は九本の尾を持つ龍のように見えた。
そのうちに、西姫はどこからか漂ってきた板切れを見つけ、僕を海面から引き上げた。仰向けにした僕を柔らかくフアサとした毛布のようなものですっかり水けをふきとり、温めてくれた。僕は、大きな波の揺らぎの中で、僕を温める西姫の温かさを感じていた。
「ありがとう」
僕はそういうと眠ってしまった。
海原はようやく凪いできた。周りには誰もいない。僕は自分の運命を諦観した。ただ、西姫には生きてほしい。その思いだけを念じ続けていた。
「秀明! 秀明!」
「西姫、僕は足手まといだから。ここで僕を捨てろ」
「何を言っている。必ず二人で助かるから」
そう言いながらも、僕たち二人はただ浮かぶ板切れに身を任せているだけで、何もできないままだった。けがをした僕は次第に消耗し、介抱し続ける西姫も不安を募らせるばかり。
「僕は、もうもたない。時間が来れば死んでしまうだろう。君にとって負担になるだけだ。だから、僕にかまわず…」
「もうそれ以上言わないで。それならば、ここで、私があなたの生きた証を受け取ってあげるから」
何かを決意したように西姫は二人の素肌をあらわにした。動けない僕を助けながら動く西姫のうなじに見とれていると、西姫は僕を見つめながら体を重ねてきた。二人は揺れる波に揺らされるように生きた証を交えていた。僕はそのまま精魂尽き果てて気を失った。その僕の身体の周りを囲う西姫の声と姿は、柔らかなウール毛の龍のようにも、遥かな前世以前に見たと思しき最愛の女のようにも見えた。
・・・・・
僕たちが京都へ行く日程は、すぐにやってきた。高速船で行くことになっていたのが、なぜか急遽特別に監視役として鳴沢が同行することになり、鈍足のフエリーを使うことになった。
「来る時も帰る時も鳴沢先生かよ」
小さなフエリーに乗せられた僕らは、狭い三等船室に放り込まれ、西姫が僕の溜息を代弁するように毒づいた。
「付き添いが僕でよかったよ。ラーマン師範だったら、二人とも柱に縛り付けられているぜ」
「ふん、私を縛り付けるって? そんなことができるわけないさ」
鳴沢は、もうたくさんだという顔をし、話は終わりだという仕草をした。こんなやり取りはもう珍しくもなかった。
次の日、鳴沢はどこからか船舶用のロープをせしめて、慌てた様子で船室へ帰ってきた。僕たちは杭州府を出てから東海をすでに1日半程渡って神戸に向かっていたのだが、東海には観測されていない小さな台風が来襲していた。
「残念だが、二人をロープで繋いでおくことにした」
「なんだよ。結局は従わないから縛るのかよ」
「違う。パイロットが嵐が来ると言っている。この大きさのフェリーではやり過ごせるかどうか。座礁の危険があるので、甲板の上で家族や同行者同士でロープで繋ぎ合うことになった」
「三人で縛り合うのかよ。私は嫌だね」
「二人だけでも良いさ。単に万一のための処置なんだから」
鳴沢は僕と西姫の二人が互いに縛り合うことで、許してくれた。僕は成り行きに任せていたが、それでも二人だけで繋ぎあったことに不安を感じていた。
鳴沢が危惧していたように、僕たちは玄界灘に至る前に済州島の南西の岩礁で遭難した。雑魚寝の船室は突然の座礁に悲鳴と怒号で大騒ぎになった。
「船の後部甲板へ急げ。舳先から浸水している」
船員達は右へ大きく傾いている船内を駆け回り、客員達を一所懸命に誘導していた。僕たちも船員達と一緒になって、動きの遅い老人や子供達を抱えて走り回っていた。僕たち二人が、最後の人員として岩礁に乗り移るだけだった。
僕たちは大きく揺れる中で、二人の間をロープで結びあげた。互いに励まし合い岩礁の上に飛び移ったのだが……。大波は一番後ろに居た僕たちだけを海にさらっていった。あっという間に荒れた海は僕たちを隠してしまい、鳴沢も誰もが僕たち二人の遭難を確信した。
・・・・
僕たちは、生きたまま漁船に助けられていた。僕たちが上陸したのは辺境の天草大江軍浦の漁港だった。重傷の僕はその近くの小さな医院へ収容された。僕たちがレッドカトリックの印を持っていたためか、漁師達は親切だった。
「心配するな。あんたらはレッドカトリックの学生なんだろ。身元が分かっていることもあるが、安心して療養しな」
僕が収容されている病室へ通う西姫は、日頃の剣幕は何処へやら、病床の傍の彼女は神妙で献身的だった。しかし、僕の病状は軽くはなかった。
二週間ほどのあいだ、この地域に残されていたペニシリンの処方がなされたものの、僕は十日ほど熱でうなされ、その苦しさに死さえも願っていた。
「熱い」
「もう、疲れた」
そういう僕に、西姫は黙って手を握っていた。毎日のように水枕を取り替え、体を拭き、傷の包帯を取り替えていた。
このような日々が二ヶ月ほど続き、漸く、十二月となった。この部落にはまだ電気は来ていない。まだ歩くことが叶わなかった僕は、石油ストーブでようやく温まった病室の中を、転びながら窓へと向かった。たどり着いた病室の窓からは、少し寒くなった天草の外気の中に合唱のような声を聞いた。
「オ、グルーリーオ、インヌクセルセーデーオ」
それは、この時代には忘れられ、レッドカトリックでは決して歌われることのない古いカトリックの歌だった。天使の声だったのかもしれない。夢うつつのまま病室の窓を少し開けると、外のベンチには西姫が一人いた。それは祈りの歌だった。
「啓典の神、主よ。わが心は主を仰ぎ見て、わが霊はわが救い主なる神を喜びたてまつる。この婢女の卑しきだにをも顧みたまえばなり」
西姫は、寒々とした月明かりの下で髪を風に靡かせてその歌を口ずさんでいた。彼女はまるで別人の、僕よりは十歳以上も年上の綺麗な女性に見えた。僕は、思わず問いかけた。
「なぜ、そんな歌を」
「ここの部落の母親達が教えてくれたわ。カトリックの古い歌だと」
「母親ってそんな優しい歌を歌うのかな」
「そうね。ここの女性たちは、特に優しいのかもしれないわ。特に母親達はね」
「僕は父母の記憶はないんだ。施設から高校へ通っていたから……。しかし、レッドカトリックでそんな歌を教わったことも、聞いたこともないね。僕たちは何かひどく場違いなところにいるような気がするんだ」
「そう……」
西姫はそう言うと、僕の方を見ずに言葉を継いだ。
「病室に戻るわ」
彼女は月明かりのベンチから歩き出し、軒の影になっている入り口へ入っていった。暗がりの中で、僕はその時の彼女の後ろに、ミンクの襟巻のようなものが九本ほどゆらりと泳いでいたのをみた。多分、また熱にうなされ始めたのだろうと思えた。
辺境の天草は、レッドカトリック誕生の地だった。長い間レッドカトリックのお膝元という扱いをされるも、辺境の地ゆえに結界の必要もなかろうとして注目もされずに忘れ去られていた。それ故に古来からのカトリックの普遍の教義を守り続ける教徒がそのまま残っていた。彼らは、退院したもののすっかり痩せ細った僕と、看病に疲れた西姫とを、しばらく滞在させてくれた。僕たちは、十二月下旬には外出できるようになった。部落の彼らに教えられるままに、近所に巡礼の機会を得て、殉教の地千人塚を訪れた。その丘には小さな古いお御堂があり、そこを守り続けているマードレと呼ばれる小柄な尼僧達がいた。
「お、ぐるーりよーざ」
その御詠歌に合わせるように、僕の口からも知らないはずのその言葉が溢れでた。
「オーグローリオーザ」
それは知らない言葉だった。僕は自分自身にも、西姫の歌声にも驚いていた。
「この言葉は一体?」
「私も、なぜか知っていたような気がする」
「国術院では学んだことのない柔らかな旋律だ。勇ましくないな」
「勇ましさ……。そう、それと似ているけれど、忍耐と言ったらいいのかな」
彼女達の静かな言葉は、国術院やレッドカトリックの騒がしく力づくの教えとは異なった、久遠不動の波動を感じさせた。僕らは不思議に素直な子どものように、彼等とともに捧げとおす時を過ごした。伝えられたオラショには、レッドカトリックでは忘れ去られていた『経典の主に於いて生きる』という古きカトリックの教えが込められていた。それらがすっかり二人の体の中に染み込んだとき、それとともに、ふしぎな風が二人の体を通り抜けたように感じた。
その風のおかげなのか、僕の体力は小さな旅行が出来るほどには回復して来た。僕たち二人はカトリックの一員であると言う自覚があったのか、旅行の予行訓練を兼ねて、東瀛のレッドカトリック発祥の地、古戦場の島原城勝利記念園を訪ねた。ここは宇喜多家、小西家の先祖達、小西四郎、またの名を天草四郎らの活躍の場であった。また、ここは、島原の戦いの時にレッドカトリック主体の守備隊が編成されたところでもあった。
島原の戦いは、豊臣一族と宇喜多家や小西家の先祖達が徳川政権に反撃して勝利を収めた最初の戦いだった。徳川側にはオランダが援助を与えていたはずだった。しかしその頃のオランダ経済は商伽羅の呪いによってチューリップバブル崩壊の最中にあり、ポルトガルに出し抜かれていた。逆に、豊臣と宇喜多家や小西家の先祖達は、ポルトガル艦の艦砲射撃の援助と、明を追われてレッドカトリックに加わった台湾の袁崇煥と子の袁崇煕による支援とに助けられた。今は魔装集団となったレッドカトリックも、元はポルトガルがイエズス会の駆逐を狙って創設した防衛秘密結社旅団だった。しかし、ポルトガルは渦動結界Tablacus (タブラカス)により駆逐され、今では、レッドカトリックは組織のあり方が変質し、重厚な教えも消え去っていた。
僕たちは天草 大江軍浦の部落に戻った。今まで滞在させてくれた民家を辞し、お御堂近くの小さな旅館へと移った。もう僕たちは、もう少しで完全に復調しそうだった。八畳部屋に通された二人は、何か不思議な違和感が体内をめぐり、僕たちは初めて互いをまじまじと見つめていた。
「何を見ているのよ」
「いっ、いや。何も見ていない!」
「見ていたわ」
「そんな髪だったっけ?」
「私の髪? 前から変わらないわよ」
「い、いや。髪ではないな……。首筋、うなじかな」
「なんでそんなところが気になるのよ?」
「うなじを見ると、僕は君に悪いことをしたのではないかと考えてしまう。僕たち二人が、何か、海の上で・・・・」
西姫は急に顔を赤くして伏せた。
「なんで今頃そんなことを言うの?」
「僕たちは海の上で…」
「なによ」
「いや、思い出せない。ただ、うずくんだ。体がうずくんだよ」
この会話がさらに僕を追い詰めていた。僕はたまらず西姫を見ないように向こう側を向いた。二人は級友であり戦友ではあったが、決して互いをそのように感じることはなかったのだが。
僕らは互いの気持ちの盛り上がりに対する準備ができていなかった。故郷のように感じられた天草に来ていた安心感もあったのかもしれない。国術院から遠く離れたところという解放感もあったかもしれない。しかし、そのまま互いを受け入れることは自ら許せることではなかった。国術院やレッドカトリックは今まで二人に戦いのことのみを教え、男女の理については何も教えてこなかった。これを補うように古きカトリックの教えは、喜びとともに男女の仲を祝していた。その祝福と喜びの「産めよ、増えよ」という古きカトリックの自然な教えは、天草で過ごす僕たち二人に今までにない火をつけていた。
「どうしたのですか。二人とも思いつめたような顔をして」
「マードレ、僕たち二人はこのまま暴走してしまいそうだ」
「マードレ、助けてください」
事情を聞いた尼僧は、柔らかな眼差しを幼い二人に向けていた。
「心配することはありません。ただ、今夜は互いに耐えなさい。我慢をするのです。明日、パードレがこのお御堂に来ます。明日、ここであなた達二人は祝福のうちに式を挙げなさい」
次の日の寒い土曜日、白髪のパードレはその小さなお御堂で式を執行してくれた。
「若い君たち二人は、今祝福を受けて門出となった。さらに君たちには祝福の言葉もある。『産めよ。増えよ』と」
僕たちは、パードレが執行したその式によって自らを抑えられると思った。パードレは、式後に不安そうな僕たちのことを見て、驚いて質問をした。
「どうしたのですか? 普通ならば喜びに満ち溢れて門出をすると言うのに」
「この式によって、僕たちはこの苦しさから解放されると思っていました。我慢できる力が与えられるとも……」
パードレは、怪訝そうな顔をして僕たちに質問をした。
「ジェネシスを読んだことはないのですか?」
「それはなんですか?」
僕たち二人は顔を見合わせたが、互いに魅入るのが恐くなって直ぐに視線をそらせた。
「レッドカトリックでは、この箇所が失われているんですかね。さて、式の後にこのような教育をするのは初めてですが」
そう言いながら、パードレはアダマとエヴァが啓典の神の祝福のうちに互いを知り、喜びに満たされたことを語った。僕たちは知識でそのエピソードを知ることができたが、自分たちがその時を迎えているとは理解できていなかった。それでもパードレは僕たちに噛んで含めるように言った。
「あなた方の体は、すでに相手のものです。そして、あなた方のそれぞれの人生は、すべて相手のものです。だから日々心配せずに互いに身を相手に沿わせ、相手の手に任せなさい。愛し合いなさい。あなた方二人には祝福の言葉が与えられています。『産めよ、増えよ。』と」
しかし、式の後の夜、部屋に戻った二人は、ただ「日々心配せずに互いに身を相手に任せなさい」というマードレの言葉だけを頼りに、術も知らぬままに耐え続けていた。
「西姫、大丈夫か?」
「秀明は辛くないのか?」
場違いな遣り取りをしながらも、僕たちはその後のことを何も知らなかった。石油ランプで照らされるだけの薄暗い部屋のなか、用意された寝具の上で、僕らは向かい合いながら正座をしていた。僕らは、ただパードレの話を思い出し、互いに知り合うことをためらっていた。
「互いに知り合うことって…」
やがて、あかりの灯油がなくなり、新月の夜の部屋の中は闇に包まれた。西姫が僕の方へ近寄ってくる衣擦れの音がした時、僕は彼女にイニシアチブを取らせたことを後悔した。それもつかの間、探り合った手と手が繋がれて、そのあとはただ互いの頸に溺れ、息づかいのみが聞こえるものの、もう語り合うこともせずに互いの体に両手を回しあい、抱き合い、夜の帳を絡みつつ泳いでいた。
その後も、僕たち二人には戸惑う事ばかりだった。早春の訪れを示す南からのそよ風がそんな二人を包んでいた。
三月になって、西姫は懐妊していることを悟っていた。しかし、結婚も懐妊も国術院には知られてはならなかった。嘔吐をし始めた西姫を伴い、僕は子育てが出来る場所を求めた。大江のお御堂が紹介してくれたところは、少し離れた﨑津集落。雨の中で行き着いた借家は、やや左へ曲がっていく参道から右へ外れて入り込んだ小さな家並みの一つだった。