ケデロンの谷
ジャラール、ハルムーシュ、絶姫、そして僕。それ以外の脱出できたエージェントたちを僕たちは見なかった。それでも僕たちは波斯を超え、さらに西の大海を見下ろす地の丘にある巡礼地、神殿の丘があるという地へ向かうしかなかった。
すでに波斯は崩壊した。それは、煬帝国の西進を止める者がいないことを意味していた。希望はただ一つ、それも不確かなもの。「神殿の丘で啓典を知ること、帝国の進軍を止める手がかりを得ること・・・・」
僕と娘の絶姫の望みは霊刀操の意味。霊刀操を学ぶにつれて、僕の中にある元の僕たらしめている何かが僕の外見までも変化させてしまう。それは絶姫には見られない現象。帝国に囚われる前の元の僕の姿、輝いて居た頃への変化…。霊刀操によって輪廻を超越して初めの愛を取り戻すという意味・・・・。それらのことに、霊刀操の言葉「空刀と真刀」「聖なる霊動ずるところに、光を生じ一気発動し闇に勝て万物を生ず」「万物一源の光に帰する」という言葉。ジャラールによれば、それらは啓典の教えだという。それが煬帝国に対抗する手段かどうかはわからないが、それでもその教えに未来を託すしか、僕たちには道が残されていなかった。
・・・・・・
ディヤーラー川沿いにザグロス山脈を降り、バクダッドを過ぎた地は、かろうじて草木の生えている砂漠だった。砂にけぶる黒い山影は、すでに見えない。追ってくる人影はなかった。夜はもちろん、昼もひたすら道を急いでいるが、三頭のラクダはまだ元気だ。
「今日は、休んだほうがいい。東から砂嵐が来る」
ジャラールがそう言うのだが、ユーフラテスから外れたヨルダンへの道には、小さなオアシスしかなかった。
オアシスには、枯れた井戸とかろうじて緑を有している木々、そして放置された無人の小屋しかなかった。そこに僕たちはもぐりこんだ。
砂嵐をやり過ごした夜の空には、満天の星、銀河が映えている。それを見上げながら、ジャラールが話し始めた。
「昔、この地を通り過ぎていった我々の祖先がいた。ペルシアの博士たちの隊商だったらしい。彼らが目指したものは、星のお告げという不確かな希望。そして、彼らを導く惑星の輝き。彼らは、現実の救いを目にしたいと思い、それだけで旅をつづけた。彼らはそれを得て帰国することができた。俺たちも、不確かなものを希望として旅をしている。ペルシア人は、昔からいつも星のお告げによって時代の幕開けを見てきている。今、俺も君たちを連れて神殿の丘を目指しているんだ。これが新しい時代の幕開けであると信じているよ」
ジャラールは熱く語った。絶姫も僕も、それにうなづきながら、明日生きることのみを考えていた。
・・・
神殿の丘を占領して既に一月。旅団の側の人間たち、彼らは『啓典の民』であり、啓典とは彼らによれば救済なのだそうだ。帝国の是とする輪廻転生から人間たちを引っぺがそうとする動きだ。そんなものが救済だというのか。啓典が救済だと人間たちに教えた最初の石板が創造主から与えられたというが、そんなものがあるから人間が輪廻転生から迷い出てしまう、そして帝国の是とする輪廻転生をつかさどる渦動結界が危ういものになってしまう。
今まで帝国をつかさどって来た鳴沢は、敵対する旅団と啓典の民が奉ずる啓典の最初の石板を追及してきた。鳴沢の目指すその手がかりは、まだ見つかっていない。
神殿の丘を含むケデロンの谷一帯は、すでに煬帝国の大軍が占領していた。僕たちは、その地域に入ることができず、人里離れた岩の荒地に落ち着くしかなかった。
「一通り探ってみたけれど、警備が厳しいね」
ジャラールが肩を落としながらつぶやいた。
そこに谷からの避難民の一団が通った。荒地とはいっても近くには道路がいくつもあり、寝起きできるような土地ではなかったはずだった。
「あなたたちはどこから来たのですか」
僕たちの問いかけに、避難民たちは疲れ切った表情で答えた。
「今、谷一帯は煬帝国の軍が占領し、神殿の丘や周りの町々を破壊し続けているぜ。ひどい有様だ。俺たちはたまらずに逃げだしてきたのさ」
「僕たちは、啓典の教えを学びに神殿の丘へと行こうとしたのですが・・・・」
「今は谷にはいかないほうがいい。山へ逃げるんだ」
僕たちは、避難民に続いて、近くの山へと昇って行った。
ケデロンの谷を見下ろす山から目を凝らすと、神殿の丘や町並みから炎と黒い煙が立ち上っている。時折、風に乗って怒号と鬨の声とが聞こえてくる。避難民たちは、その光景を見て怒り、あるいは嘆き、あるいは悪態をつくだけだ。彼らの間には無力感が漂っている。
その時、ジャラールは何かに気づいたように独り言を言った。
「荒らす憎むべき者・・・・・」
絶姫はその言葉を聞いた途端に、叫んだ。
「ジャクランの仇。仲間の仇」
そう言ったとたん、絶姫は立ち上がって駆けだした。頭に血が上っているのか、彼女は走りながら剣を抜き放ち、真っ直ぐに谷へと駆け下りていく。
「絶姫、待て」
ジャラールと僕はそう怒鳴ったのだが、彼女には聞こえていない。僕とジャラールは彼女を追いかけるしかなかった。その先には神邇達の大軍が構えた結界が広がり、その中に守られるように煬帝国軍がひしめいていた。
「絶姫、気付いたか。目の前に結界があるぞ」
僕は前を走る絶姫に呼びかけると、絶姫が振り向きながら答えた。
「これなら、霊剣操、共鳴を使えます」
「走りながら共鳴を!」
「わかりました」
絶姫は共鳴をさせながら敵軍の中を走り抜けた。僕は共鳴の威力を広範にするために、絶姫のはるか後ろにとどまりながら、霊剣操を唱え続けた。そうすると、僕と絶姫との間で煬帝国軍のすべての武器や剣、果ては重火器までが、はるか天空へ飛び上がっていく。僕のはるか後方で観察しているジャラールから見ると、駆け下りていく絶姫とともに、その光景がまるで津波のように向かい側の丘へと押し寄せていく。それと同時に、谷に陣形を整えていたはずの煬帝国軍兵士たちは、突然のことに散り散りに逃げ出し始めた。
・・・・・
神殿の丘と呼ばれる山の頂上に、煬帝国軍の司令官、鳴沢が陣取っていた。そこに伝令が駆け込んできた。
「南からわが軍が突然混乱に陥っています。すべての武器が空中に放り上げられ、戦力は総崩れです」
「師匠!」
西姫が慌てたように走りこんできた。
「西姫、慌てるでない。あの津波の基を見てみよ。こちらに向かっているあの波の発生源は、あの先頭の人間じゃ。あれを叩け」
「はい」
「相手は結界内のすべてを滅している。ただ者ではないぞ」
「わかっております」
西姫はそこから駆け下りながら、前世の記憶と感情の波の中に己を沈ませた。西姫が身を切るような感情の高ぶりのままに九尾狐の姿に変幻すると、その手に握りしめた剣が周りの結界を巻き込んで共鳴し始めていた。西姫が走り進むのに比例して、周辺の結界中のすべての剣と武器とを引き寄せ、西姫の周囲に幾重にも重なり始めていく。そのすべて魔装として西姫は意のままに制御し始めた。
西姫と絶姫はそのまま激突する・・・・・。そう思われた。
・・・・
絶姫は霊剣操によって剣を共鳴をさせながら飛び込んでいこうとした。向かう先の九尾狐の周りの結界には、多くの剣、ガン、重火器が浮遊している。絶姫はそれらすべての煬帝国軍の剣、ガン、重火器が自分に向いていることに気づき、驚愕した。絶姫による共鳴による武器の制御の範囲は、西姫の変幻したクビルのそれに比べてあまりに小さく、対抗できるものではなかった。
絶姫は、一瞬躊躇の末に踵を返し、離脱し始めた。そこに九尾狐の放った十字砲火が襲い来る。間に合わない。
僕は絶姫を助けるためにその前に飛び込み、霊刀操を操した。剣ではなく、細身の刀を後ろに構え、かつて絶姫の行った構えをまねつつ、襲い来る十字砲火を思念の中で捉えた。後ろを振り返った絶姫が見たものは、念じる思いとともに別人の様相となった僕だった。
僕と西姫との間の武器は、すべて天空へ吹き飛ばされてしまった。僕の前には、ただクビルとなった西姫が仁王立ちをしている。彼女は抜身の剣をかざし、僕に向かってくる。僕もまた強面の別人の様相のまま、細身の刀を鞘に納めながら九尾狐をにらみつけた。
振り下ろされる剣。それに対するようにサヤから抜かれた刀。一刀撃破。九尾狐の剣は粉砕された。しかし、九尾狐は次々に剣を繰り出し、襲い来た。そのたびごとに僕は一刀撃破を繰り返す。
クビルは苦悶の表情を深くし、それがさらにある女の姿に変幻した。それは僕に、遠い昔、帝国デの輪廻転生に囚われる以前の昔に愛した女の記憶を思い出させた。
「豪姫!」
クビルが変幻した女に向かって、僕は叫んだ。その掛け声に答えた叫びが僕の心に突き刺さった。それは僕が帝国の輪廻転生に囚われる前の僕の名前だった。
「秀家様」
そのまま、クビルと僕は対峙して凍り付いたように動けなくなった。僕は秀家であり、クビルは豪姫・・・。遠い昔に引き裂かれた最愛の相手だった。
・・・・・・
その感慨に一瞬ふけったところに、鳴沢とジャラールのそれぞれの声が聞こえた。
「そこを引き上げろ、早く。上を見ろ。上空へ舞い上がった武器が落ちてくるぞ。この一帯が火薬で吹きとばされる。火の海になるぞ」
九尾狐と僕は、相手の今の姿がそれぞれ西姫と今の僕、秀明であることに気づくこともなく、その場を駆け去った。僕の心には豪姫の姿が鮮やかに刻まれ、クビルの心には僕のもとの姿である秀家の凛とした姿が記憶された。無理もない。はるかな昔、僕と豪姫は愛し合った仲だった。




