帝国外縁 ビアクトラへ。そして再びの秘跡:霊刀操
ハルムーシュ・アルアラビーは、白いひげを蓄えた老練な山越えの達人だった。ビアクトラ王国隊商の指揮者を長年務め、獅駝嶺をもたびたび訪れている。その食堂の食卓席で、彼が目の前にしているのは西方への旅を希望する僕と絶姫だった。
「お前らの顔はのっぺりしているな。一目で煬帝国本国人だとわかるぜ」
「僕も、娘も煬帝国本国人ではない。東瀛人だ」
「若者よ。そちらの女がお前の娘か? どう見ても兄妹に見えるが・・・・。まあ、俺たちには煬帝国人の人相の区別がつかねえ。どうせ西方へ行ってしまえば、煬帝国人自身が珍しい存在だ。東瀛人だろうが本国人かは区別がつかねえよ」
岩だらけのパミール高原を超えると、青い空の下に黄色と茶色の山並みが切れ、眼下に夏の雨期に入った草原が見えてきた。ビアクトラ王国の領域に入ったらしい。これで盗賊に襲われる心配はなくなった。また、ここまで来れば煬帝国の一般辺境からも離れている。まだ鬼没旅団の本拠地の一つであるペルシアからも、この王国には手を出していない。ここはいわば無風の中立地帯だった。
「約束はこの地までだったな。お前たちはヒンズーの死の山地へいくのか。俺たちはこのままペルシアまで向かうから、ここでお別れだ」
「そうだったね」
「この王国は平和だ。煬帝国のおかしな神域もない。俺はペルシア人だが、過激なペルシア人もここではおとなしい」
「ああ、ありがとう」
王国内では、ペルシア人がにぎやかに国づくりをつかさどっていた。僕たちはしばし休息をとり、そこからヒンズーの死の山地へと向かった。ここからケンジャニスタン峠を越えた先には、柳枝坡と呼ばれる小川のある谷へ至る道がある。そこは帝国領内なのだが、ビアクトラ王国からしか行くことのできない深い谷あいだった。それゆえ帝国を出ることを好まない煬帝国臣民や、物好きなペルシア人さえも行こうとしない帝国の人知れぬ辺境域だった。
「そこに何があるというのだ」
僕は絶姫に尋ねた。
「山脈に隔てられた秘境ゆえに、結界断層を設けていても目立たないのです」
「結界断層? それは渦動結界とは違うのか?」
「結界とは違い、重力の強度と異方性がとても強く、外と中とでは行き来がなかなかできないのです」
「その中に、その…六星とかいう人がいるというのか・・・・」
「私がその人に会ったときは、そう名乗っていました」
絶姫は決意を強めるように、そういった。
「わかった。僕も教えを請いたいことがある。協力するよ」
ケンジャニスタン峠への道は、黄色と茶色の山々が迫る急峻な道行きだった。今は雨期であるためか、インド洋からの湿気が雪を降らせている。
「まだ峠にはならないのか」
「私の見た峠の風景は、青い山並みに囲まれた中に、薄い雪が積もった岩だらけの道だったの」
「周りに草は見当たらないよ」
「高度は四千メートルほどだから。それでも、山には雪雲がかかっているわ」
「峠道になると、雪になっているということか」
空気は薄い。高度に慣れていない僕たちは、喘ぎながら進んでは途中で何回も休む。それを繰り返しながら、ようやく峠の最高点に達した。この高度でようやく重力が弱くなり、結界断層を突破することができた。
「よく来たのう」
峠を下り始めたところで、突然、疑似声音が僕の頭を満たした。それは、この谷あい一帯を満たしている精神感応の力場のなせる業だった。僕は緊張した顔つきをしたのだが、絶姫はホッとした表情を見せている。
「久しぶりじゃのう。絶姫」
「六星様。やっとここまで来られました」
「そちらの男は…。ほほう、帝国以前の力たる者…だな。名は宇喜多秀明、だね」
「あなたは、藤原六星様ですか…?」
「その名は久しく聞いていなかったが・・・・。いかにも私が六星じゃ」
僕は、質問をぶつけざるを得なかった。
「六星様。僕は帝国の国術院で、さまざまな武術を教育されました。また、霊剣操も国術院入院前に習得していました。霊剣操に書かれている内容もそれなりに把握しているつもりです」
「霊剣操。それは、この帝国を成立させた太極の基だ。アサシンの帝国はこの基でできている。もちろん、それには帝国を維持するために霊剣操を扱うアサシンの働きによるところが大きい」
「そうか、霊剣操が帝国の基なのか」
はるか背後から聞こえたつぶやき。精神感応の力場によって、つぶやき程度のちいさな声であっても谷あいの中央にいた僕と絶姫の頭の中に響いた。その方向に向いた僕に見えたのは、はるか後ろの峠口に立つ林康煕の禿げ頭だった。彼もまたこの谷に入った途端に、精神力場によって僕や絶姫と六星とのやり取りを聞き取ることができたらしい。
「六星様。あの峠口に、帝国のアサシンが来ているようです」
「そのようじゃの。彼らには結界断層を簡単には超えることは出来まいと思ったが」
「僕や絶姫を追ってここまで来ているとは。このままでは、僕や絶姫があなたからの教えを伝授される前に、台無しになってしまう」
いつの間にか、僕たちのいる建物のすぐ近くに康煕が迫っていた。彼のつぶやきが頭の中に響く。
「霊剣操が帝国の基、つまり帝国の生殺与奪を支配するのが、霊剣操の操者だとはな。つまり、帝国に敵対する霊剣操の操者がいる限り、帝国が危ないということだ。なればここで死んでもらう」
「絶姫。僕が相手をしている間に、六星様から霊刀操を授かりなさい」
「でも」
「いいか、君は霊剣操を完全に操することができる。そして、君が今霊刀操を求めてここまで来たのだ。この二つを体得した時、君は何かを得られるのではないか。それが君のさだめだ。そして、僕は君の父親だ。僕が彼らを食い止める。君のために働く」
「でも」
「大丈夫だ。今は言い合いをしている暇はない。君が受けろ」
僕はそう言って外へ飛び出していった。ちょうどその時、康煕が目の前に現れた。
「宇喜多秀明か。俺たちは、西姫そして鳴沢様の指示書によって、お前を旅団の奴らから救うためにやってきたのに・・・・。まさか、あの若い女工作員の援助をしているとは思わなかった。お前は帝国を裏切ったな」
僕は無言のまま剣を抜き放った。
六星老人が絶姫を道場へ案内していく。その姿を見届けた僕の目の前に、康煕に続くアサシンが複数やってくる気配が感じられた。
「六星様、時間がありません。早く・・・・」
「絶姫、時間が迫っている。こちらへ」
絶姫が通されたところは、よく手入れの届いた道場。国術院の錬成場とよく似ているところだった。
「まずこの文書を授ける。『霊刀操』じゃ。今は時間がない。これを持ち帰り、悟れ」
古い羊皮に書かれた文は、以前に読んだものそのままだった。
「そして、この刀。ここにある二本の刀を与えよう」
「刀ですか。細身で折れてしまいそうな・・・・。剣といっても片刃ですね」
絶姫の不安そうな顔を見て、六星老人は少し笑いながら答えた。
「剣ではない。日本刀、この刃物はそもそも引き鋸鎌の技術による作品。つまり本来は戦いのための道具ではない。平和をもたらすものじゃ」
「このような細身で、金属の棒のような剣に対抗できるのですか」
「できる。この刀はしなやかで弾性に満ちながらも、刃は金剛の結晶となっている。すべての金属を引き裂くだろう」
絶姫が見つめる刀の刃。それらは薄暗い道場の中で光を放っていた。
「さて、構え方は、こうじゃ」
六星老人の構えは、絶姫が一度見よう見まねで僕に対して構えた型と同じだった。
「一刀撃破。一刀息吹、一刀裂破。構えからこれらへの動きを教えよう。それらは基本、残りはそれらの応用。今はそれぐらいが関の山じゃ」
六星老人は、構えと動きを絶姫に教え、そのあとで刀の意味するところを教え始めた。
「今教えた刀さばきは、霊刀操に通じる。さて、霊刀操を授ける前に、まず、お前の父のことを言っておく。お前の父は帝国以前に生まれた。だが、帝国にとらわれ、苦しみの中に輪廻を繰り返してきた。それゆえ、霊刀操を体得したお前によって輪廻を超越して初めの愛を取り戻させるのじゃ。なぜか?という顔をしておるなあ。.......彼が今の人生が始まってまだ幼い時、儂が彼にアラベスクという太極よりも優れた結晶を服用させたのじゃ。それらの結晶は彼の小脳と生殖細胞に豊富に残留した。それゆえ娘であるおまえにもアラベスクの結晶が体内に豊富に存在しているのじゃよ。......それゆえ、お前にも、お前の父である彼にも、この霊刀操を遣わす。それとこれも大切なことじゃが、父にこの世の初めの真の姿を悟らしめよ。彼は今までの姿とは異なるもともとの人間に立ち返って活躍するようになるであろう」
「はい」
「そして、霊刀操の解きほぐしじゃ。すでに一度伝えておるのう。ただ、操たることが、すなわちアラベスクを稼働させ、特殊な結界を形成させる力であることも、この際しっかりと伝えておこう。しからば、もう一回のみ語る故、心して聞け」
「『霊は精神なり。霊刀とは空真未分の刀にして渾渾沌沌たる所の唯一気也。理曰闇と淵の水の面を聖霊動ずるところに、光を生じ一気発動し闇に勝て万物を生ず。刀を直に立るは渾沌未分の形光有て万象を生ず。故に是を刀生れと云う。先ず己が情欲に勝て敵を恐れず勝敗を思はず。心中の空刀と真刀と一致になりて千変万化の業を成す。再び刀を直に執るは万物一源の光に帰する形に表す。』」
「この言葉は、この世の始まりと霊刀の発祥とは同じであって、霊刀とはこの世の始まりからの秩序に通じる道具であることを説明しておる。この言葉を心より理解したうえで真刀を構えると、その際空刀を伴う。そのとき刀はどんな大剣よりも強くしなやかに圧倒する。つまり、渦動結界内で霊剣操によって剣を自在に使おうとする動きを、聖なる霊の力によって圧倒し、渦動結界の源たる闇を地に叩き落とす。あなた方が使う渦動没滅という技ではなく、渦動結界の根源である邪悪な権能を空中から叩き落とす力となる。そして、続く言葉に、これらの言葉の出所が説明されている」
「『此の気を使徒に言と号し耶氏是を三一と名づく。我朝道と称す。始でありて終であり火に入て焼けず水に入て溺れずと死て滅びざるとを以て当流未来永遠の執行とする者也。然りと虚ろに得て言べからず。耳に得て聴べからず。心に得て会し自得して知べきなり。』とな・・・。省略して言うと、つまり、創造者による言葉ゆえ、いたずらにこの言葉を用いて戦うのではなく、欲と恐れを克服して戦うときに渦動結界の根源や全ての邪悪を光として圧倒することができるということじゃのう」
外では、僕が袁崇燿や林康煕、アーチャラー・ボースら三人のアサシンを相手にしていた。
「秀明。なぜあの工作員を守ろうとするのか。なぜ帝国を裏切るのだ?」
「僕は、先輩や君たちと戦いたくない」
「秀明…。俺たち三人のアサシンを相手に勝てるのかな」
その場には剣や武器を活用して魔装として制御できる一切の結界は感じられない。彼らは結界を利用した戦いはできないはずだ。それでも、相手の三人は国術院で学んだ「看」「健身」「実用」(武闘訓練)の実技全てを使いこなせる。その点でも僕は不利だった。
最初のうち僕は三人を相手にうまく立ち回ったが、多勢に無勢。僕は追い詰められ、簡単に隙を突かれた。構えた背中。剣を握る両腕。それらすべてに打撃を受け、倒れこんでしまった。その悲鳴を聞きつけて絶姫と六星が飛び出してきた。
「アサシンどもめ」
六星老人が刀を構えながら倒れた僕をかばうと、絶姫がうつぶせに倒れていた僕を抱え上げると、六星老人が大声で絶姫にアドバイスを出した。
「絶姫、今はまだ使いこなせぬぞ」
「はい、霊剣操による戦いを挑みます」
絶姫は小声で僕にささやいた。
「父上、霊剣操、できますか」
「少しの間なら・・・。共鳴を狙う・・のか」
仰向けのまま僕は絶姫とともに霊剣操を共鳴させた。それが周りのアサシンを吹き飛ばす。同時に僕の声は出なくなった。
「うっ。僕は…父親を…できたのか」
「何も言わないで」
「もう・・・行け・・・。あいつらはこの程度でやられる・・・はずがない・・・。今のうちに行け。・・」
しばらくすると、崇燿らアサシンたちはすぐに戻ってきてしまった。
「霊剣操の共鳴を使ったな。お前は敵ながら霊剣操を使うジャクランの弟子・・・・絶姫だな」
これらの様子を見た六星老人は、絶姫に促した。
「是非もなし。この場でやってみなさい」
絶姫の周りをアサシンたちが囲む。絶姫は左ひざをつき、刀を左後ろに控えさせた。一瞬の空撃音。アサシンたちの手から、すべての武器が粉砕され、吹きとばされた。
「こ、これは・・・」
康煕たちが絶句して立ち尽くした。
「去れ」
絶姫がそうつぶやくと、康煕たちは峠口へと逃げだしていった。すでに六星老人の姿は消え、残されたのは虫の息の僕と絶姫だけだった。




