忘れられていた二人
西姫は、東瀛の九州からまっすぐに国術院へ戻った。彼女の感覚ではすでに5年がたっており、まっすぐに戻るべきだろうと考えた結果だった。
国術院とその周りの町の様子は、すっかり変わっていた。見たことのない建築様式のビル群、真っ直ぐ縦横に整備された広い道路、そして何よりも国術院の錬成場や建物はすべてが見たことのない構造に代わっていた。鬼没旅団の攻勢が及んだ場合の対策なのだろうか、渦動結界を効率的に波及させて隙のない守りを固めるために入り口が広く全体が放射状の構造になっていた。
西姫は、その一つ一つにあっけにとられ、上を見ながら国術院の正門を入ろうとすると、そこに立っていた禿げ頭の衛士に阻止された。
「待て、どこへ行く」
「私はここの学生です」
「ここの学生だと? 名前を言ってみろ」
「権西姫」
「そんな在校生はいない」
「確かに、戻ってくるのに時間を要しました。しかし、確かに私はここの学生です。何なら、私の担任をしているチャイヤサーン師範にお問い合わせをお願いします。彼が私のクラスの担任よ」
「チャイヤサーン師範だと? チャイヤサーン院長のことか?」
「院長? 彼が? いつの間に?」
「もう十五年前からだ。担任だと? 彼が担任を持ったのは、もう二十数年前だぞ。そんなバカなことはない。帰れ、帰れ」
門に立っていた衛士は、西姫に取り合おうとはしなかった。
「なぜですか、チャイヤサーン院長に取り次いでください」
「うるさい。腕づくで追い出すぞ」
「そうですか。それならば押し通りましょう」
西姫は、濃い渦動結界を感じながら考えた。屋内にいるであろうチャイヤサーンに気づかせるには、結界術を活用すべきか、霊剣操を唱えるべきか・・・・。西姫の一瞬のためらいを弱腰と感じたのか、衛士が玄武丈で西姫に殴り掛かった。西姫は反射的に衛士の玄武丈を蹴り上げる。それと同時に、衛士の喉元に玄武丈を突き付けた。
「何事じゃ」
駆け足ででてきたのは壮年の男、ソンタヤー・チャイヤサーンだった。
「院長、お呼び建てして申し訳ありません。この娘が国術院の学生だと言い張るのです。しかもあなたが担任であるとまで言っていまして・・・・」
「林衛士、なぜ手を出した。気短に対応するなと言いつけてあるはずだ」
「しかしこの女、無理やり入り込もうとしたんですぜ」
西姫は反論した。
「取り合ってくださいと申し上げたではありませんか」
「うるさい、黙れ。部外者が来るところではない。下がれ、下がれ」
「林康煕!。お前こそ控えろ」
チャイヤサーンの一喝で衛士は静かになった。
「お前は、学生のころから短気で乱暴だった。お前は確かに歴代の強さは持っていたが、使えないと感じられたのだ。だから、なんとか衛士で使ってやっているのに。我が教え子ながら情けない」
衛士は、林康煕、僕や西姫のクラスメートだったはずだった。西姫は、目の前の禿げ頭が林康煕であろうとは信じられなかった。
「確かに昔、私が師範だったころに権西姫という女子生徒がいた。そして、康熙、きみも袁崇燿も、宇喜田秀明という男子生徒もだ」
林康煕と呼ばれた衛士は、目の前の西姫を見てしばらく声が出なかった。
「西姫…。しかし、この娘があの西姫か…。この女に俺はまたやられたのか・・・・」
林康煕の目は、西姫をにらんだままだった。
院長室に通された西姫は、まだ事態を飲み込めていなかった。聞いた限りでは、西姫と僕とは遭難して行方知れずとなり、除籍処分となっていた。
「五年はかかりましたが、私は戻ってきました。なぜ除籍処分なのですか」
「五年ではない…。二十五年だ」
院長は、ためらいながら西姫の主張を修正した。
「気の毒だが、除籍処分ははるか昔に決定された帝国裁判所の決定だ。確かに何かが原因でこの齟齬が生じているのだろうが、我々には何ともできん」
チャイヤサーン院長は、気の毒そうにそう言った。
「そんな、ひどいじゃないですか。私はやっとのことで戻ってきたのに・・・・・」
西姫は院長室のソファに座り込んだ。
「それよりも、連れの秀明はどうしたのだ」
西姫は驚いたように答えた。
「彼はまだ戻っていないのですか」
これもまた、事態を複雑にする事態だった。
・・・・・
連絡を受けた帝国内府陰陽太一局から指導責任者が来たという。それは鳴沢だった。学生は、本来二人一組で戻るはずなのだが、一人での帰還は異例中の異例だった。この事態に、鳴沢は何かを感じて西姫を質しに来たのだった。
「帝国は今、旅団との戦いで追い込まれているんだぞ・・・・・・・・彼らは・・・・旅団と彼らの側の民たちは・・・・『啓典の民』なのだそうだ。啓典・・・・啓典とは彼らによれば救済なのだそうだ。帝国の是とする輪廻転生から人間たちを引っぺがそうとする動きだ。そんなものが救済だというのか。啓典が救済だと人間たちに教えた最初の石板が創造主から与えられたというが、そんなものがあるから人間が輪廻転生から迷い出てしまう、そして帝国の是とする輪廻転生をつかさどるタブラカス結界が危ういものになってしまうのだ・・・・そんな時に、お前たちはなぜすぐに戻らなかったのだ…なぜだ。なぜすぐに戻らぬか。二十五年近くもの長い間何をしていたのか。まあ、国術院の学生とはいえ、あの時からアサシンと位置付けられていたお前と秀明にとって、国術院外での活動の間に経過した年月など問題ではない。だが、報告があまりになさすぎる。秀明は何をしているんだ。どこにいるんだ」
鳴沢には、天草の古きカトリックの里は見えておらず、海での遭難以降の僕と西姫との行動も見えていなかった。西姫の正体は、商伽羅の眷属妖獣である九尾狐であり、彼女の主人は鳴沢のはずだった。ところがその西姫からは、僕と西姫の秘密はもちろん、今まで起きたことを一切報告がなされず、彼女は無言のままだった。それが余計に鳴沢を怒らせていた。
そこへ、チャイヤサーン院長から連絡を受けたアチャ倶利伽羅不動が、空中から身を晒しながら駆けつけていた。
「商伽羅様、お待ちください」
「誰だ・・・。アチャか。お前は、ここに居る際の俺をその名前でよぶのか。愚か者!」
「し、失礼いたしました。師匠。しかし、師匠、師匠の弟子である西姫が一人で戻ったのには、わけがございます。彼女はハルマンとオンゼナに捕らえられていたのです」
「なぜお前が知っておるのか」
「私が彼女を救い出したからです。そのあと治療のため、私が彼女を留め置いたのです。また、連れ合いの秀明殿も、…実は我が娘が永く捕らえていたようで……」
「戯け者!」
アチャは平身低頭で、怒り狂う鳴沢を宥めている。鳴沢の怒りは専らアチャに向かっていたため、西姫は怒りから免れていた。
しばらく経ってようやく鳴沢の怒りはおさまった。
「オンゼナの気ままさは許せん。ゆえに、オンゼナを捨てたハルマンは許そう。そこで西姫、お前はこれから杭州府の帝国内府の陰陽太一局に出向き、神邇のハルマンと落ち合ったうえで西に行け。この二十年の間、渤海の地から北京に至る帝国の北方支配が、鬼没旅団の工作員によって立て続けに覆されたのだ。そこにいた義和をはじめとした神邇達が、次々に敵方筆頭工作員のドンジャクランに敗れ、首府に逃げ戻っている。帝国はその地で敗退しているのだ。それに対抗するには、お前の霊剣操が威力を持つ。場合によっては神域が没滅されているかもしれん。その際に、霊剣操の共鳴が必要であろうから、秀明も帰還次第後を追わせる」
こうして、西姫は帰校早々国術院を出発する予定となった。このころ、僕は倶利伽羅不動の計らいでやっと国術院に戻ることができたのだが、西姫が戻っていることを知らなかった。
・・・・・・・・・・
「入学希望者か?」
門で登校する生徒たちを見守っている衛士らしき禿頭が、僕を押し留めた。僕は17歳程度に見えたのだろうか。
「宇喜多秀明だ」
「それは誰だ?」
禿げ頭は何かを考えている。おもむろに言ったことは、入校拒否のことばだった。
「OBの父親の名前を出しても、親の七光りでこの学校に入れるわけがないだろ。さあ帰れ、帰れ」
禿げ頭は、僕がそれ以上何を言っても取り合わず、僕を中に入れようとはしなかった。
「仕方がない、押し通らせてもらう」
「なにい。ガキが俺に挑戦するのか。馬鹿なことはよせ。俺は国術院卒業生の中でも、歴代の強さを誇っていた林康煕だぞ」
禿げ頭は、そう名乗った。おかしな奴だった。僕の友人の名をかたるとは…。
「そうですか。わかりました。押しとおります」
僕は、衛士から玄武丈を取り上げ、すぐに打倒してしまった。
「だから押しとおると申し上げたじゃないですか」
「この野郎。俺は油断した。こいつは秩序を乱した犯罪者だ。懲らしめてやる」
その時、事務本館から僕を怒鳴る声がした。チャイヤサーン院長だった。
「おまえたち、何をしている。康煕、また何をやっておる」
「院長。こいつは・・・・」
「控えろ」
チャイヤサーン院長は、一喝した。
「この若者は、宇喜多秀明だ」
林康煕と呼ばれた衛士は、目の前の僕を見てしばらく声が出なかった。
「宇喜多…。こいつの連れに、西姫にも俺はやられたのか・・・・」
林康煕の目は、僕をにらんだままだった。チャイヤサーン院長はそれを制し、僕を院長室まで案内した。
「あ、宇喜多ではないか。今までなぜ連絡をしてこないのか? 何をしていたんだ?」
鳴沢は、僕の首根っこを捕まえて院長室へ勢いよく引き込んでいた。
「今まで何をしていたんだ。なぜ連絡をしてこないのか」
僕は、規定の三年の間に戻ってきたはずだった。また音信不通になったことについては、理由を説明すればわかってもらえると思っていた。
「僕は、いろいろとありまして、今やっと戻れたのです。西姫を…あの、僕が問題を起こしたせいで、一人にさせてしまって…。実は、西姫は病になってまして。それで、僕は一人で・・。でも、すべての立ち寄るべきポイントは行きましたよ。徳島県、そして京都・・・・」
「連絡がなかったのは、女が原因だろ」
『いいえ、女なんて・・・。西姫にさえてこずったのに…。ましてやほかの女なんかにうつつを抜かすことなんてありえません」
「西姫にてこずった? 何が問題だったのかね」
「西姫は、あの・・・・旅先で言葉使いがひどすぎて…。態度もじゃじゃ馬で・・・・。あの…。聞いていただいていますか」
鳴沢は、僕の弁明に無関心だった。ただ、しきりに僕の後ろを見ながら、ふふん、とか、あーそうかい。などという言葉を繰り返すばかりだった。
「先生、僕の話を聞いていただいていますか。信じていただいてますか」
「どうせ出まかせだよな。なあ。西姫よ」
この言葉は僕を凍らせた。後ろを振り返ると複雑な顔をした西姫が立っていた。
「秀明、お帰り・・・・。女に引き留められていたんですって?」
「え、いや、それは…」
僕は、西姫が何かを誤解しているなとは感じた。しかし、何をどこまで知っているのかはわからなかった。その僕の態度を見た鳴沢は話す言葉が急に変わり、雷のような叱責が機関銃のように出てきた。
「お前がどこで何をしていたかは、もうわかっているんだ。倶利伽羅不動の娘とすっかりしけこんでいたらしいではないか。しかも、その結果、倶利伽羅不動の娘は縛られたまま呆けていたというではないか」
西姫の顔色が変わった。鳴沢は、追及を西姫に任せたといわんばかりに、再会早々の僕を放って出て行ってしまった。
「そんなことはしていません」
僕は、身の危険を感じて懸命に弁明をした。
「倶利伽羅不動が、ご存じのはず…。僕はあの姫君にさんざんもてあそばれていたのです」
そこへ倶利伽羅不動が現れた。
「秀明殿、お久しぶり。娘がすっかりお世話になって」
「倶利伽羅様、あなたの娘に私は拷問されていたことをご存じですよね」
「ああ、知っているよ。そして、あんたもうちの娘をもてあそんだよね」
「もてあそんだなどと…。そんなことは…」
この後、沈黙している西姫の前であらぬ疑いを晴らすのは、容易ではなかった・・・・。僕と西姫とは、互いの体、互いの人生が相手のものであるはずだったから、自らのすべてを相手が知り、自らのすべてを相手が支配する権利を持っていた。
「あなた、私たち家族を置いて、倶利伽羅様の姫様と何をしていたの?」
「僕は、倶利伽羅姫に捕らえられて、壁にはりつけにされて長い間遊ばれていたんだよ。僕を拷問したのは、倶利伽羅人形とか言ったかなあ。倶利伽羅姫の発明らしい。たまたま、倶利伽羅人形が故障して、僕を解放する代わりに倶利伽羅姫をはりつけにしてしまって…。そのあとは、僕は逃げだしたんだ。彼女は、何か、痛みか何かに耐えるような声を発していた。悲鳴ではなかったから、痛みとかではなかったと思うが・・・」
「そうなの・・・」
なぜか、西姫の追及はそれほど強くはなかった。あえて僕は、西姫のそのためらいを問いただそうとは思わなかった。それが僕の西姫に対する信頼と愛だった。
この日、僕と西姫は二人だけの卒業式を迎え、二人は帝国のアサシンとなった。意外なことに、西姫はこの後すぐに旅に出て行ってしまった。疑いが晴れたのかどうかはわからない。ただ、僕に挨拶もなく、ハルマンにあうために国術院を後にしたらしい。口を利いてくれない西姫を放っておくわけにもいかず、僕もすぐにあとを追うことになった。
…………………………
半年後の秋、西姫はハルマンとともに黄花観を過ぎて獅駝嶺に至ろうとしていた。この辺りは帝国辺境ながら地域ごとに神邇による結界がまだ維持されており、住民たちも寂静そのもの。
だが、彼女たちが足早に通ってきた渤海から北京に至る地域は、既に帝国が撤退を余儀なくされていた。そこでは結界のあった霊廟は全てが廃墟に成り下がり、かつては結界の中で寂静のなかで生きていた住民たちは、すっかり霊廟を忘れて自由闊達に往来していた。
獅駝嶺のしぼんだ結界。その結界を西姫とハルマンが訪ねていた。結界へ至る道はすでに結界の外に露出してしまい、道の周りでは大声で声を出し合う民達が闊歩している。まるで毎日が活気のある市場か祭りのような喧噪だ。
ハルマンと西姫は結界の中心へと進んだ。その結界を守っていたのは、饕餮。彼は先日来からジャクランとその弟子と戦っている。正確にいうと、饕餮は神出鬼没のジャクランたち工作員に手を焼いていた。饕餮に代わって西姫がジャクランと戦うのは時間の問題だった。
西姫は言った。
「敵はジャクランとその弟子の二人、饕餮の話によれば、工作員の二人とも卑怯者で正面からは来ないらしいわよ」
「それなら、こちらが二人を道に迷わせて攪乱してやりましょう」
ハルマンはそう言った。今後の計画を相談しながら、二人は饕餮の前を辞した。
………………………
獅駝嶺の山は深い。秋日は低く、大石の影が谷をより深くしている。ここでも結界の中心は霊廟。山麓の住民たちの話によれば、獅駝嶺の霊廟は獅駝洞にあるという。ジャクランたちは、ついに饕餮をここまで追い詰めていたのだ。二人は獅駝洞を目指して歩いている。
獅駝嶺の道は砕けた石ばかり転がる暗闇の谷筋。道中はいていた貧弱な履物ではままならなかった。二人はもう半日も登り続けている。麓の住民は奥の院まででも三時間ほどと聞いていたのだが、獅駝洞はおろか、山門すら見えていなかった。
「この二、三日、俺たちを邪魔をしている奴がいる」
「師匠、ここの奥の洞が目標ですよね」
「その通りなのだが……おかしいな。このあたりのカラス天狗は警戒しておいた方がいい。彼らはいまだまつろわぬ神邇たちだ」
「でも、この嫌がらせ、いや混乱策は組織立っていませんか」
「確かに、多くの経路をランダムにつないで迷路を構成している」
「それなら、そろそろ彼らの意図しない行動によって裏をかく必要があります」
「どういうことだ?」
「経路をつなぐことに彼らは奔走しているはずです。それだけ空間ごとの切り貼りを急がなければならないことになります。それなら、もっと忙しくさせ、そのうえで意表を突く動き方をしましょう」
「ここに来るまで難儀していたお前がそれをできるのか」
「足元を滑らすような石が転がっている谷あいの道は、苦手なのです。星明りのある尾根道や石の上を行くのであれば、問題なく早く動けます」
「それなら、お前の跡についていくから、先行してみろ」
「はい」
絶姫はひらりひらりと岩を上に登り始めた。次には隣の岩に飛び移り、下へ、そして斜め後ろへ・・・・。ジャクランも後に続く。彼らの動き方は、二次元だったものが、三次元となり、彼らの行く方向の選択肢がそれだけ増えてしまった。それを踏まえたうえで、方向をランダムに上下左右斜め西東北南とし、さらに一度に異動する距離を大きくしたり、小さくしたりを繰り返した。
「この辺で、二手に分かれてみましょう。ただし、離れずに」
接続させている空間に隙間が見えた。影のはずだったところに筋状の光が差し込む。
「そこの光に突っ込んでみましょう。この混乱策を陰で操作しているものがもう疲れているようです」
絶姫は手にした玄武丈を筋状の光の中へ突き刺した。とたんに閉ざされていた空間が開かれ、目の前に獅駝洞、すなわち霊廟への道が見えた。道の周りには、カラス天狗たちとハルマンとが息を弾ませて空間をもう一度接続させようと、無駄な努力をしていた。
「ハルマン・・・。ご無沙汰しておりますね」
「誰だ・・・。西姫? お前、ジャクランをここまでおびき寄せて連れてきたのか?」
「私が西姫?!。違うわよ」
「じゃあお前は誰だ」
絶姫は用心して返事をせず、ジャクランに告げた。
「師匠。あの一団の中にいる女。あれはハルマン…」
「うわさに聞くまつろわぬ神邇達だな。さて、ハルマンよ。我ら鬼没旅団に帰順せよ。お前たちの仲間はすでにわれらに帰順してまつろう神爾すなわち八幡に至っている。カラス天狗たちよ。お前たちも帰順せよ。いずれにしても、この結界は没滅させてもらう」
「そうはさせるか」
ハルマンとカラス天狗たちは、一度にジャクランと絶姫に襲い掛かった。しかし、多くのカラス天狗は絶姫の持つ玄武丈の打撃に霧散し、ハルマンは這う這うの体で逃げ出してしまった。
逃げてしまったハルマンの後姿を見送った際、絶姫は玄武丈が突き広げた空間の破れの奥を見つめた。
「師匠、この声は何でしょうか」
時空の破れは、ハルマンたちが空間のつぎはぎを急ぎすぎ、処置が間に合わなくなったことが原因で、あらわになったらしい。空間の破れから、絶姫が幼い時に覚えた霊剣操と似ている旋律がにじみ出ている。ただ、ジャクランの前で絶姫はそれを口にできない。
「これは・・・」
絶姫の中では父母つまり僕や西姫の敵であったジャクランに、自ら霊剣操に触れていたことを秘密にしていた。
「師匠。この奥の空間から何やらくぐもった言葉が聞こえてきます」
「なんだろうか。これは結界の一種なのだろうか」
絶姫の突きさした玄武丈を、ジャクランは無理矢理に振り回して時空の破れを大きくした。
「これでここからこの中へ入れる…」
入る際の違和感は、急な加速度があらぬ方向にかかったようなもの。斜めの方向に体が急に引っ張られたような、そんな渦動力場が張られていた。その奥には、大きく広がった谷あいの里と、そこに築かれた一軒の家、道場が見える。
玄武丈を突き刺したままにして、二人はその空間に入り込んだ。きわめておかしな場所だった。入り込んでから一本道を進み続けるとまた元の場所、玄武丈が付き刺さったままの空間の破れのところに戻って来てしまう。90度方向を変えてまっすぐに進んでも、また元の空間の破れのところへ戻って来てしまう。どうやら閉じられた空間なのだろう。
「師匠。ここは渦動力場の断層によって周りの空間と切り離された力場ポケットのような場所ですね」
「これは、奴らが渦動結界を形成する力を応用して作ったものではないか。あの道場にいる誰かをこの異空間に閉じ込めておくためにね」
「それでは、あの道場にいる方を助ければ、帝国とその支えの結界群、まつろわぬ神邇たちが作り上げたこの帝国を覆す何かが得られるのかもしれないということですか」
「わからん。会ってみないことには」
二人は、この異空間の唯一つの建物らしい道場へ向かった。
呪文のような低い声が聞こえる。
「これは、霊剣操・・・・、いやちがう。似ているけど…」
「なんだそれは? その名をお前から聞くのか」
ジャクランは不思議そうな顔をした。
「師匠、この不思議な旋律が何かを知るために、私の秘密を、霊剣操との関わり言わねばなりません・・・」
「何、霊剣操? それは・・・・帝国側の武術の神髄たる秘跡・・・」
「そうです。名前は霊剣操。これは帝国で私の父と母とが学んでいたものです。あなたが私を導いてくださる前、幼い私はすでに霊剣操を諳んじることも、操することも、それによって渦動結界内のすべての武器を自分の意志の下に置くことができました」
「なに? お前は帝国側のアサシンなのか。幼い時から私を欺いていた…。いや幼いお前はは逃げて来たと言った・・・・」
「今の今まで霊剣操のことを発動することはおろか、一切忘れていました。しかし、幼い時の記憶を今思い出したのです」
「とすると、今更ながら、絶姫、お前は単なる帝国民ではなかったのか。なぜ今までそれを。いや、なぜ私がそれを悟れなかったかということか」
「あなたが、その帝国の渦動結界を没滅する吹き颪の剣を、戦うすべとして教えてくださいました。私にはそれで十分でした」
「それは、絶姫がその能を有していたということ。それはわれら鬼没旅団の力を生まれながらに有していた、つまり根っからの渦動没滅師ということだ。…そして、帝国の秘跡をも体得していたのか」
ジャクランは絶句していた。
「そうだ。絶姫は帝国の礎たる者とそれ以前の力たる者との結晶だからだ」
突然、低い大きな疑似声音が二人の頭の中に響いた。
………………………
ハルマンは、西姫とともに現場に戻ってきた。
「私たちはここでジャクランと連れの女にやられたんだ。カラス天狗は全て粉砕され、私は逃げ出すのがやっとだった」
「私が居たって?」
「そう思ったんだ。年齢も同じ程度だった」
「私には姉妹はいない。家族は、秀明と……娘がいる。あんたが私を襲った時にいなくなった娘が……。でも、私と同じ年齢の女なんて、誰なんだろう」




