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残された西姫と愛娘

 予定日が近かった。その日、暑い日が昇っていたが、夕刻には凪になった。潮騒の響きが涼しく感じられる。西姫は、看護師助産師の資格を持つマードレに助けられながら、夕方の涼しいうちに一キロほど離れた診療所へ向かった。

 七月の崎津はあまり暑くない。海辺の漁村はそんなもの。臨月の西姫にとっては暑かった。七月後半の予定日が近くなって、部落の朝市を手伝うこともできなくなった。他方、七月に入ってからは、毎朝夕にお御堂のマードレが見に来ており、今夕にも西姫を小さな診療所へ運び込む手はずになっていた。ここのマードレは看護師、助産師の資格を持つ、部落の医者がわりだった。

「なかなか出てこようとしないねえ。お母さんのお腹は居心地がいいものね」

「いつもありがとうございます」

「こんな時に父親がいないなんてねえ。まあこの辺の女達も、漁の間に子供を生んで来ているから、同じようなもんだが」


 ・・・


 僕と西姫とは、国術院の規範に反して結婚をし、男女の仲となった。今の西姫は身重。国術院に気づかれることなく天草に隠れていられたものの、二人ともいずれは国術院のプログラムに復帰する行動が必要だった。僕は先んじて六月に、国術院のプログラムに間に合うように、徳島県三好市山城町の大渡峯へ向かった。

 一人旅は孤独でわびしいもの。単身赴任の悲哀に似ている。西姫を思わない日はなかった。寂しさが募り、一ヶ月がたたないうちに手紙を認めた。予定日が近くなったこともあり、崎津で使っていた真鍮製のロザリオを託しつつ。


「今は徳島に向かう途中、阿蘇山を越えているところです。

 徒による道中はなかなか前に進みません。

 旅の空に思うのは西姫のことばかり。寂しく侘しく感じます。

 ところで、もうそろそろ子供が生まれるころでしょうか。

 その子のために、このロザリオを同封しました。その子に受け継がせてほしいと思います。

 君にはそばにいてやれなくて済まない思っています。僕たちは互いに誓い合った仲のはずなのに。

 西姫が僕の妻でいてくれるから、僕は力を失わないのです。

 君がこの世にいることが分かっているから、僕は希望を失わないのです。

 君のために毎日祈り続けています。

          貴女を愛する夫   秀明」


 この後、僕は手紙を出すことがかなわなかった。西姫はそれが寂しく、口惜しかったらしい。

「秀明、あなたにいてほしい」

「あなたは今どこにいるのかしら」

「もうすぐ子供が生まれるわ」

 誰に聞かせるでもない、ため息とつぶやき。車で行く海沿いの道で、海の上に傾いた西日が痛かった。それは破水が始まった時でもあった。慌てたマードレは急ぎ西姫を診療所に運び込んだ。着いた途端に西姫は子を産んだ。

「安産ね。元気な女の子よ」

「マードレ、ありがとうございます」

「いいや、いいのよ。今日のために私がここにいたのよ。これも神様の祝福よ。この子は間違いなく豊かな導きの下にあるわ」

 産湯を済ませた嬰児。僕に似た子の眠る顔と、見つめるマードレと西姫の微笑み。西姫は、初子の小さな手にそっとロザリオを握らせ、名前を呼んだ。

「かわいい絶姫たえひめ


 その後、母娘はマードレからお御堂の居住施設に一時的に滞在することが許された。絶姫と名付けられた乳児は、よく母乳を飲んだ。この時西姫は、大渡峯にも達せずに消息を絶った秀明へ、届かぬ手紙をしたためていた。


「秀明殿

 今はどこぞへ行かれたのでしょうか。

 絶姫は、よく乳を飲みます。元気で可憐な赤子。眉と切れ長の目は貴方に似ています。

 それ故に、あなたのことを思い出さない日はありません。

 あなたは今どこにいるのでしょうか。

 大渡峯へ行くといいながら、あなたの足取りは阿蘇のすそ野からふっと消えてしまっています。

 私たちはいずれ国術院へ戻らなければなりません。

 そのために、私たちは貴方の道をたどっていこうと思います。

 貴方を探し求める旅がどんなに長くても、どんなに険しくても、

 私たちは貴方を慕い続け、探し続けるつもりです。

 あなたは今どこにいるのですか。何をしているのでしょう。

 私たちが毎日あなたを思って暮らしていることを、あなたは知っているのでしょうか。

 絶姫は貴方からいただいたロザリオと手紙から、あなたの何かを感じ取っているようです。

 匂いなのか、ぬくもりなのかはわかりません。

 いつか絶姫を抱いてあげてください。父親のいない娘にさせないでください。

 そして、わたしにも貴方の何かをください。匂いでもぬくもりでも何でも構いません。

 一目会いたい。

   あなたの妻   西姫より」


 その後、幼子の成長はいちじるしく、日々の想いに秀明の占める割合は小さくなっていた。また国術院の記憶も日々小さくなった。それが西姫をして秀明を待ち今の生活を満足するように仕向けている。西姫も幼子も、手紙に染み付いていた秀明の匂いを枕に、まるで三人家族揃っているかのような錯覚を覚えていたのかもしれない。


 ………………………


 絶姫が四歳を過ぎ、五回目の夏を迎えた。そろそろ秀明の後を追わねばならない。西姫と絶姫とが崎津から大渡峯へと旅に出る日が近づいていた。マードレは、以前からこのことを予想して、児の絶姫に長崎天草一帯に昔から伝わる古いカトリックの教えをしっかりと記憶させていた。母の手にひかれて旅立つ幼い絶姫は、ロザリオとともにその教えをしっかりと握っていた。


 ・・・・・


 二人は崎津から数日、海沿いに進んだ。その先の阿久根の鉄道駅近くには海水浴場とそれに面した茶屋があった。付近は海水浴の季節。幼い子供と母親はそこでつかの間の休みを取った。

 幼い絶姫がトイレに行っている時だった。その時の西姫は若い娘に見えたのか、やくざ者が声をかけて来た。

「お姉ちゃん、どこから来たんかい?」

 言葉からして関西の男らしかった。

「何かご用事かしら」

 西姫は冷たくこたえた。このたぐいの人間はどこにでもいる。しかし、今は子連れであるため昔のように立ち回る事は憚られた。

「あのさ、あの奥の方が君とお話ししたいらしいんだ。一人で来ているんでしょ?」

 確かに奥の座敷にやくざ者とは雰囲気の異なる紳士がいた。見るからに上品なアロハシャツ。それなりの地位にある人物のようだった。

「お断りするわ。私はいま家族連れなので」

 このときちょうど絶姫が戻って着た。

「行きましょう」

「待てや」

 力づくで来るのかと構えたところに、奥から例の紳士が近づいて来た。

「これは失礼しました。私は大阪における煬帝国元老院議員なのです。そう、皇帝の名により皆さんの上に立つ者です。貴女はお子さんがいる。母娘での暮らしは大変なんでしょ? 私が手配すれば、どんな問題も改善できますよ」

 確かに西姫の服も、絶姫の服も、貧しい出で立ちだった。彼等から見れば、喜んで相手をしてくれる女だど見えたのか、紳士は話を続けている。

「この辺境の地でお会いするのは、何かの縁です。奥で少しお話しできませんか」

 彼はそう言いながら、札束の詰まった財布をこれ見よがしに見せつけながら、西姫を見た。絶姫はこのような視線を見たことがなかった。

 西姫が無視をして踵を返したとき、絶姫がやくざ者の一人に羽交い締めにされ、奥に連れていかれてしまった。絶姫は突然のことで泣き出してしまった。

「待って。その子に手を出さないで」

「そう、貧民なんだから、初めから素直にこちらのいうことを聞いていれば良いのさ」

 やくざ者たちは西姫を紳士の隣へと案内した。

「さ、さ。こちらにお座りなさいな」

 紳士は手を握り、腰へ手を伸ばして来た。あまりに我慢ならなかった。そこへ、絶姫が飛び込んで来た。

「母上、こんなところにいたくない」

「そうね」

 西姫ら二人が荷物を手にとって店から出ようとすると、彼等は棒、短剣、果てはレイピアまで持ち出して立ちふさがった。この段階に至って、西姫が只者ではないことに気づいたのかもしれなかった。

「まてや」

「そこをどいてもらったほうがいいわ」

 西姫と絶姫は、彼らを振り切るように店の外にかけ出る。それを折った彼らが道に出た途端に、西姫の傍の道端には、うめき声を上げる怪我人の山ができていた。


 ………………………


 本線の駅に着いた西姫は、阿久根から海沿いに雲仙を行く列車に乗った。佐賀関港に行けば、豊後水道から四国の愛媛県三崎港へと渡ったはずの秀明を追跡できる。

 だが……。絶姫は発熱していた。道中の疲れか、それともヤクザに風邪をうつされたのか? 二人は差し掛かった霧島で旅を中断せざるを得なかった。


 霧島温泉郷は、山々を覆う木々と湯煙の中に温泉宿がところどころに建っている。西姫たちは、温泉駅から正面の山を右回りに迂回して広大な温泉郷の奥へ、案内された借家へと向かった。そこは、温泉郷から少し離れた八幡ハルマン部落のそれも木々の奥、山あいの赤い瓦の小さな家だった。

 次の日には、定住するための様々な手続きを済ませ、西姫は温泉郷に職を得て、生活を始めることとなった。


 この集落は八幡ハルマン宮の神域の麓にあるため、うっすらと結界が感じられた。西姫は国術院の学生として、部落を挟んで反対側の山の上にあるハルマン宮を訪れた。山沿いの道を奥へ進むと二人の職員が開門の準備をしていた。二人の名はオンゼナとハルマンという男女だった。男は祭司、女は巫女だろうか。理由はわからなかったが、娘を連れてこなくてよかったと直感した。

 オンゼナは西姫をにこやかに迎え、ハルマンはやや警戒した視線を西姫に向けていた。

「朝早くからようこそ」

「初めてお目にかかります。国術院学生の権西姫と申します。各神域の破壊活動への対抗を学んでおります」

 すかさずハルマンが詰問してきた。

「国術院の学生さんなら、二人一組で行動するのではないのですか?」

「はい、確かにその通りです。もう一人の連れ合いは、目的地まで旅をする途中に発熱してしまい、今ここで休んでいるのです」

 ハルマンは疑いの目を西姫に向けながら、何かを探るような仕草をしていた。

「うーむ、確かにいるわね。貴女より強い力、珍しいわ、操力とか言ったものね」

「ほー」

 オンゼナは一瞬目を鋭くしたものの、驚きの声を少しあげただけだった。

 西姫は用心深く帰路についた。あの二人は西姫の周囲の何かから不必要な探りを入れてきている。特に、オンゼナという男は何かを感じ取ったらしく、獲物を見出した狼のような眼を光らせていた。住む場所を部落の外れにしておいてよかったと考えた。しかし、保育園にかよわせざるを得ず、漠然とした不安があった。その不安からか、絶姫に、様々な国術を学ばせる時期が来たことを考えていた。


 借家の裏には小さな裏庭がある。そこで西姫は、絶姫にレッドカトリックの国術を学ばせることにした。

「絶姫や。明日の朝より私とともに国術を学びましょう」

「はい」

「貴女の父上は霊剣操をしっかり諳んじていました。貴女も早く体得しなさいね?」

 本当は、絶姫の父親、夫の秀明に、娘の学びを任せたかった。それほど西姫は彼の国術の学びを誇りに思っていた。しかし、秀明はいない。彼はどこにいるのであろうか。この地域を通過していないことは、わかっていた。それでも西姫は気の静寂に身を沈めて秀明の気配を、痕跡を少しでも感じ取ろうとした。

 深夜の雲仙一帯は、ハルマン宮から派生する結界により、静かにたたずんでいるはずだった。しかし、感じられる気には二つの大きな波が感じられた。ハルマン宮には街中の本宮だけでなく、山深く人の近づけないところに奥宮があることが感じられた。その奥宮にいる二人の何か。あまりにも粗暴な男とそれを慕う女。いや、人間ではなく神邇(ジニ)達だった。やはり、西姫の不安は的中した。この帝国辺境の地で、気ままに動き回る神邇(ジニ)がいる。彼らは警戒すべき者たちだった。


 次の日から毎日、小さな絶姫は母親の背中を見て起床し、母親の口を見て霊剣操を諳んじ、母親の型を見て棒術、剣術、柔術、少林寺を習得した。一通りの学びを終えると、西姫は絶姫を保育所へ預けつつ、中居の仕事に出かけるのだった。

 絶姫の型と諳んじる声。それに秀明の姿が重なることがあった。忘れ形見のように感じられたのかもしれない。それほどに絶姫の太刀筋、構え、身のこなし全てが、西姫の知っている秀明のそれに似ていた。春になると絶姫は、秀明と西姫の両方の剣技を身につけるほどに成長し、幼いながら女の子らしい気づきも持つようになった。

「母上、首の周りの粒々は何でしょうか?」

 母娘の国術稽古は、首の周りの珠が垣間見えるほど激しいものだった。

「絶姫や。これはなんだと思いますか?」

「オシャレですか?」

「いいえ、これは古いカトリックの祈りの用具です。ロザリオの祈りは、クルス、メダイと59個の数珠珠を数えながら、数珠珠の位置に応じた祈りを唱えるものです。祈りは知っていますね」

「はい、私の欲しいものを手に入れるための儀式です」

 絶姫の答えは、カトリックの古い教えにも、レッドカトリックにもない歪んだものだった。

「誰がそんなことを?」

「保育園でみんなから………」

 絶姫は言いよどんだ。生まれてからこの方、母親であり師範である西姫の態度と好き嫌いに、絶姫は敏感だった。

「祈りとは、そのようなものではありません」

 保育園で教えられた「祈り」はご利益を求める貪欲そのものだった。レッドカトリックでの教えとは真逆であり、絶姫がマードレから受けた学びとも相いれないはずだった。

「崎津でマードレの教えてくれたことを忘れてしまったの?」

「はい、お祈りはデウス様と心を通わすことです」

 この答えも西姫を戸惑わせた。

「デウスって? 天のことではないの?」

「はい、マードレ様は、天を黙想することがデウス様を黙想することと同じであると、おっしゃってました」

 絶姫は、母親が未だ聞きたそうな顔をしたので、話を続けてみた。

「祈りは主の祈り一回、婢女の祈り十回、頌栄でおわります。教えてくれたマードレ様は祈りの言葉とともに、お母様と同じ数珠を一つづつ握り直してました。こうすることで、デウス様の臨在を感じなさいと言ってました」

 レッドカトリックでは、これほど具体的に祈りの相手を明確に教えられてはいなかった。絶姫にはこれらのやり取りを忘れてほしくない。西姫は秀明のロザリオを絶姫の首に下げさせる良い機会だと思った。

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