倫理教師
僕の頭とは別のところで何かが反応した。リーン。張りつめた一音、澄んだ鈴音。僧侶か誰かが静かに奏でる音色。その音色に合わせて何かが一瞬動く。そう感じたゆえに目を開けた。
これはやばい。授業中だ。起きているかのように装って目を開けたのだが、鳴沢の鋭い視線が僕に刺さる。意外なことに彼の目に怒りはない。ふと安心した時に彼の目が動き、周りの生徒達は全て吹き飛ばされた。いや、僕だけが吹き飛ばされていた。
黎明。発光する灯はないが、薄く明るいところだった。それでいて、床面には様々なものが転がっている。 そこに僕の五つの影が写しだされていた。
「汝の操力を見いだしたり。汝我等に加われ」
何処からの声か? 擬似声音が響く。
「僕を呼ぶのは誰?」
「我は商伽羅。混沌より陰陽を生ぜしめ、すなわち万物を遍歴せしむる者。ゆえに我、汝が存在より幾生ごとに汝を汝たらしむるものなり。汝ら人類に繁栄を約す具を伝えし者」
今、僕は確かに変な奴に声をかけられている。小学生の頃、背の高い見知らぬ男に声をかけられ、なけなしの小遣いをせびられたことがある。その時以来の恐怖感が顔を出した。
「なぜ僕を?」
「汝操たることによりて世界全ての維持をただ二人にて成せる者なれば、汝の操力我に捧げよ」
「二人? 誰と? 操たることってなんだよ?」
「二人とは、まだ見ぬ片割れ。操たることすなわち操力とは混沌の面を動じるものを観自在とする力なれば、すなわち真の力ぞ」
やっぱり変な男だ。恐怖感から困惑に気持ちが変わった。僕の父、名前は直明と言うのだが、彼だってこんな話し方はしなかった。それに、何を言っているのかサッパリ分からない。
「まだ倫理の授業ですか。わけのわからない言葉が並んでいて、さっぱりわかんねえ。僕は嫌いなんですよ」
「選り好みは論外、ただ我の問いかけに応答有りや無しやのみ、答えをなすべし。すなわち、汝、その操力を捧ぐるは必定」
「えり好みじゃない。第一に俺はそんな力はないよ。難しい言葉なんて勉強できないからわからないし、運動ができないし・・・・」
「汝の操力明らかなりぬれば、ただただ汝の操力我に捧げよ」
「ねえ、僕の話聞いている?」
「今必要なことは汝の操力、われに捧ぐことぞ」
「僕は、頭が悪いし、運動音痴だから…。そんな力は…ないし。操力なんてものは…」
「操力とは操たることぞ、すなわち混沌の面を動じるものを観自在とする力なれば、すなわち真の力ぞ」
「混沌の面…? はあ」
「汝、混沌なることを理解せしや? 観自在とは観世音たり。真理に至らんとする道ぞ」
「要は『真理を見出す力』なんだろ?」
「しかり」
「でも、真理ってなんだ?」
「そが真理とはまだ誰も至っておらず。真理に至らんとすることこそ操たること」
「じゃあ、真の力を僕が探すの? そんなこと、無理だよ。真の力を探すんだよ。真を考えるなら頭がよくないといけないし。探し回るなら運動ができないといけないし…。どうして僕ができるのさ」
「汝の頭脳不明晰、運動音痴は、すでに知られしこと・・・」
「なんだって! なんで否定しないんだよ。いいよ。どうせ僕は頭は悪いし、運動音痴さ」
「それゆえ、汝の性格に基づき…」
「なあに言ってんだろ。そうかよ。僕は性格も悪いですよ。どうせ、ひねくれ者ですよ」
「聞け! 汝をして強制せしむるぞ」
「ちょっ……」
僕は目が覚めたように感じた。いや、鳴沢を見つめながら一瞬夢を見ていたのだろうか。その夢の続きそのままに、大声を出してしまった。
「ちょっと待てよ。待てってば」
・・・・・・・・
窓の外の校庭や町の路地裏には秋の霧が漂っている。ようやく訪れた中秋の晴れの気候のせいか、眠気が特に強い。台風ナンシーの後片付けがひと段落した後だけに、まだ疲れが残っている。
僕、宇喜多秀明が通う高校は東京の江東デルタ地帯にある。墨田川から少し東に引っ込んだ京葉道路沿い。第六区の政策で、築地から退避させるように隅田川の東の奥へ移設されたらしい。
北側の正門をくぐるとその時に建てられた灰色の古めかしい校舎がある。僕のいる教室は東側の校庭に面した三階。毎日ちょうどこの時期の朝日が心地よい睡魔を呼んでくる。優しい睡魔との戦いは、勝てるはずもない。
クラスメートは、もう僕のことをかまってはくれない。どんどん進む勉強に、ついていくのがやっと。もちろん僕は落ちこぼれ。単なる落ちこぼれなら努力もするのかもしれない。しかし、僕は何をやってもダメ。この高校に入れたのは、偶然のいたずらに違いない。
まだこの頃の僕は、こうも優柔不断なのか、と自分に失望していた。それに加えて高校の新しいクラスでは、森 宜明や原 思来たち級友に既に昼行灯と渾名されている。もうこれだけで僕の特徴は言い尽くされているようなもの。
思来に限らず可愛い女の子が何人もいる。男女混合のクラスになったことで、少しでもかっこいいところを示したいところであるが……。今は可愛い子は愚か、女の子全てを見ないようにしている。どうせ相手にしてもらえるなんて、夢のまた夢。
なぜこの高校に入学できたのかと疑問に思うほど物覚えが悪いせいもあって、僕にとって座学は単なる我慢大会だ。それでも、苦労して入学できた憧れの高校なのだから、精神修養のつもりで頑張ろうと自分に言い聞かせている。
それにしても社会の授業は歴史、地理、倫理、政経の全てにおいて睡魔に負けてしまう。隣のおとなしい少女も、僕の前に座っているスポーツ馬鹿の男も、周りのみんなは、どうして耐えていられるのであろうか?
今日の午前は、倫理・魔戒の授業だ。担当の鳴沢東先生は、クソ真面目で挙動がおかしい。そのせいか、授業の内容はそっちのけで生徒達の弄りの対象にされている。それは僕にとっても楽しみのはずなのだが、眠りを優先している僕は彼の声を聞くだけで反射的に寝ている。
それに鳴沢の声は少し甲高く調子っぱずれである。今も、最近封切られたモスラの双子巫女の呪文のように、裏声の混じったトレモロで古代アジアの文献を読んで聞かせている。
「よく聞いてくださいね。此処が倭の国と呼ばれ始めた頃、藤原五星という道家の一人が大陸に渡航して諸学問を学び、集大成として書き記した真理に関する一節です。
『霊剣操。
霊は精神なり。霊剣とは陰陽未分の剣にして渾渾沌沌たる所の一気なり。
易曰闇と淵の水の面を無極動きて陽を生じ静みて陰を生じ一気発動し陰陽分れて万物を生ず。剣を直に立るは渾沌未分の形陰陽有て万象を生ず。故に是を陰陽剣生れと云う。
先ず己が情欲に同て敵を屠て敗退を思はず。心中の陰剣と陽剣と一致になりて千変万化の業をなす。再び剣を直に執るは万物一源に帰する形に表す。
此気を墨家に明鬼神と号し帝鴻氏是を太一と名づく。我朝 魔醯首羅と称す。始もなく終もなく火に入て焼けず水に入て溺れずと死て滅びざるとを以て当流未来までの執行とする者なり。
然りと虚ろに得て言べからず。耳に得て聴べからず。心に得て会し自得して知べきなり。』
お分かりのように、これは陰陽道です」
その上っぱずれな声に応じて俺は吹きとばされる白昼夢を見たのだ。
・・・
「ちょっと待てよ。待てってば」
もうおそかった。僕の大声に周りの級友達が一斉に僕を見つめていた。それに構わず鳴沢は僕に返事をよこした。
「待っていましょう。宇喜多秀明君。それこそ、その大声で怒鳴った訳を後でたっぷり社会科準備室で聞かせてもらいますよ」
周りの奴らには、居眠りをして寝ぼけて怒鳴ったとしか思えないだろう。しかし、確かにあの呼びかけは鳴沢のそれだった。