あっけなく鎮圧。
当時の共産党の戦闘力なんてこんなものかな
ちなみに99式小銃と言うのは、有名な38式小銃の弾の口径が小さく威力が他国のより劣ることから、口径を大きくし、かつ反動やらを小さくしながら軽くするために、装薬ん少なめにした弾を使うように設計された小銃である。
もともとの設計は、きちんと弾や銃本体のバランスも考えられた、それなりのものだったが、戦時中は無理な大量生産過程で粗悪品が多数作られてしまった。
さらに戦後、米軍が捕獲した99式小銃は韓国軍に供与するため、強力な米軍の弾薬にあわせて改造された。
そのため戦時急造で もともと強度、耐久性の落ちたものがさらに余裕の無いものになったことから故障が頻繁に起きるようになったのである。
どうやらこの銃が韓国軍に供与されたことから、朝鮮戦争で大量に北朝鮮軍に捕獲されさらに、前述した人民艦隊ルートで持ち込まれたようである。皮肉にもこの処置が、突撃隊の突入の際に多数の射撃不能な状態を起こしたのである。
このため、1個中隊いたにも関わらず実質、2個小隊位の火力しか発揮できない散々な事態を招いたのである。
支援されたはずの火器が使い物にならなかった
ことが彼らの戦意を挫き、戦闘が早期に鎮圧されたのである。
とは言え迎撃した側も対空自走砲1台全損、ジープ2台破損、基地施設に損害、人員は15名戦死、負傷35名の損害を受けたのである。
突撃隊については28名死亡、残余は何らかの負傷を負ったあげく捕虜になった。
日本人党員は警察に引き渡されたが引き渡す前に、「面談」がなされ一部には減刑と引き換えに、組織のスパイとなることを承知させた。
朝鮮半島出身者については強制送還となり、その後の消息はしれない。
この事件は作戦失敗した責任をめぐり、共産党内部で責任転嫁、擦り合いを生み出し結果として「なかったこと」にされてしまったと後にスパイの手により報告されたのである。
つまり吹田事件はあくまでも「囮」部隊の不徹底な、曖昧な行動のみが目立つ事件として記録されたのである。
異議を唱えるべきものは、戦闘で死ぬか、生き残り責任転嫁の対象となり人知れず粛清されるか、朝鮮半島に強制送還されて半島の露と消えるか、いずれにせよ歴史の影に消されてしまうのであった。
そして伊丹基地であった銃撃戦については、基地の警備についての夜間訓練とされ戦死者(すべて米軍であった)は、あくまで朝鮮半島での戦死とされたのである。
そしてまた警察予備隊初の交戦の事実も国内状況からなかったことにされたのである。
ただし適切な指揮、果敢な戦闘ぶりにより当該部隊の各員は後に昇進、昇給を密かに受けるのであった。
なおこの際に捕獲されたソ連製の小火器は、伊丹駐屯地で保管展示されることになって今に至るのであった。
やれやれです