『I LOVE YOU』
今日、マスターは機嫌が良かった。
年末に別れた友人の高坂が、早速遅ればせながら『年賀状』の代わりにと挨拶状を送ってきた。
すると、新しい住所と高坂政義、彩和、花橘と言う名前が並び、
「『オレンジ・サキニー』を彩和と飲んだ。彩和が喜んでくれた。ありがとう。花橘も成人したら3人で飲もうと思う。また、会いに行くよ、マスター」
と、書かれていた。
少しずついい方向に向かって欲しいものだと、それに、家族の幸せをと思っていた。
そして、お店を開ける際に選んだCDは、尾崎豊。
独特のハスキーな声と、それでいて激しさと物悲しさ、もどかしさを感じる。
お店を開けてしばらくはお客はこなかった……年始の為に忙しいのかもしれない。
静かな店の中で、今日はグラスを磨いたり、カクテル用の道具をチェックしていた。
カラン……
ドアベルが鳴って、お客が姿を見せる。
「……おや? 篠さんではありませんか! それに、確か……」
「お久しぶりです。マスター」
「阿倍保名です。こんばんは」
華やかな印象のある篠と、落ち着くと言うか端整なのだが地味な印象を受ける保名である。
聞いたところによると、二人は二つ違いの従兄妹同士である。
宣子が来て日はないが、悲しげに泣いていたあの日から気になっていた為、優しげに微笑む姿にこちらも頬が緩む。
「明けましておめでとうございます。どうぞ、今日は本当に来て頂けて嬉しいですよ」
篠……葛葉の指定席だった柱に沿った席と、その隣に案内する。
「……去年は……あんな風に出ていったから……宣子に『マスターが心配していたわよ』って……ご心配をお掛けして本当にごめんなさい」
頬を赤くして気恥ずかしげに頭を下げる葛葉に、
「いいえ。宣子さんにお伺いして、お元気そうだと……安心していました」
「あぁ良かった。自殺したとか思われなくて。へこたれないんだから!」
「葛葉。一時期本気で大丈夫かって、おじさんやおばさんが本当に心配していたんだぞ?」
「ごめんなさい。兄さん……あら?」
マスターがテーブルにおいていた挨拶状に気づく。
「マスター、これ」
「あ、気にされないで下さい。篠さんも知っている、お酒を持って来てくれていた高坂さんが、お店を閉めて引っ越されたんですよ」
「……あら? 本当。高坂さんの字だわ。でも……」
「奥さんが彩和さん。お子さんが花橘さんだそうです。奥さんがつけたそうですよ」
「花橘ちゃん……可愛い名前ね」
篠は目を細め、懐かしげに微笑む。
「橘の花言葉は『永遠』、古今和歌集の和歌にもあって、懐古の情といった意味があるそうです」
「『五月待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする』……懐旧の情、昔の恋人への心情ですね。ここからとられたんでしょうか?」
「保名さん、お詳しいですね!」
「兄さん!……もう……マスター、ごめんなさい。兄さんってば、和歌や日本の昔の連歌等の研究をしているの。もう……今日はマスターに会いたいっていってるのに、着いてくるんだから」
口調は、鬱陶しくついてくる彼氏が邪魔! と言いたげだが、顔はうっすらと頬を赤くしている。
二人は、宣子がいっていたように従兄妹同士だが、それ以上の絆があるようである。
「篠さん、保名さん。今日は私のおすすめでよろしいですか?」
「『オレンジ・サキニー』かしら?」
「いいえ。少々お待ち下さいね」
氷を入れたゴブレットに赤ワインを入れ、そしてゆっくりと同量の飲み物を流し込む。
最後にストローを差すと、差し出した。
「次の曲になったら、どうぞお飲み下さいね?」
篠はキョトンと、
「次の曲?」
「えぇ」
今の曲は『oh my little girl』である。
首を傾げている篠の横で、実は一人緊張していた保名にマスターは軽くウインクをする。
はっとする保名の耳に、次に聞こえてくるのは、
「『I LOVE YOU』ね……このカクテルは……?」
問いかける篠に、隣にいた保名が、
「く、葛葉……」
「なぁに? 兄さん」
「に、兄さんじゃない! 葛葉。私と結婚して欲しいんだ! ずっと傍に居て欲しい……泣かせたりしない。大切にする、駄目か?」
横に並ぶ幼馴染みであり従兄を見つめ、ボーッとしていた篠は、ボロボロと涙を溢れさせる。
「えっ? だ、だって……だって、兄さん……」
「葛葉の傍にあいつが居て……諦めようと思った。だから離れた……でも、あいつは最低な行動で、お前を苦しませ悲しませた。もう、離れるものかと思ったんだ」
ポケットを探り、緊張した手つきでケースの蓋を開けると、シンプルだが篠の誕生石らしいブルーサファイアのリングが現れる。
「神様に誓う前に、マスターの前でお前に誓う。だから……受け取ってくれないか……?」
「……に、保名……あ、ありがとう……本当に?」
「男に二言はない!」
「男前ですね! 篠さん、益々お好きになられたんじゃありませんか?」
「ま、マスターまで!」
潤んだ瞳のまま保名を見ると、微笑む。
「……はい。はい! ありがとう……」
「はぁぁ……良かった」
本当に緊張していたらしく、大きくため息をつく。
「保名さん、篠さん……乾杯のカクテルをどうぞ」
「はい」
「戴きます。ね、ねぇ、マスター。このカクテルは?」
ひと口口に含んだ篠は問いかける。
「『キティ』と言います」
「キティ?」
「えぇ。英語で女性の名前のキャサリンの愛称であり、子猫を子供が呼ぶ時の略称です。今回はこの曲の中に、『子猫』と言うフレーズがありましたから……」
「えっ? 待ってって、マスター、保名に聞いていたの?」
篠の問いかけに、
「いいえ。でも、お二人の雰囲気が……ですから」
二人は顔を見合わせ頬を赤くする。
「ま、マスター、式に、来てくれる?」
「是非……ありがとうございます」
「良かった……」
長年の親しい篠の新しい道を祝うように、音楽がバーの中を流れていたのだった。
・キティ(kitty)
赤ワインをベースとするカクテル。冷たいロングドリンク(ロングカクテル)。
カクテル名のキティとは、英語圏の女性の名前キャサリンの愛称、または、英語圏の幼児語で子猫のこと。
標準的なレシピ
・赤ワイン
・ジンジャー・エール
これらを、等量ずつ用いる。
作り方
氷を入れたゴブレット(容量300ml程度)に赤ワイン、次にジンジャー・エールを注いで、ストローを差す。
赤ワインを白ワインに替えると「オペレーター」となる。
ジンジャー・エールをコーラに替えると「カリモーチョ」となる。