『桃夭(とうよう)』
あぁ、今年も来る。
恐ろしい地鳴りと、その後に襲ってきた、海……。
津波じゃない。
海が怒っているのだ……愚かで無力な人間を、飲み込もうと口を開けた……北欧神話のラグナロクのように……海の巨大蛇ヨルムンガンドの顎は、全てを飲み尽くそうとしていた。
あの時、たった二段後ろを歩いて逃げていたおばあちゃん。
必死に手すりを掴み一緒に逃げていたはずなのに、振り返ると、足すれすれに波が来ていて、おばあちゃんはいなかった。
「おばあちゃん!おばあちゃん、どこ?」
おばあちゃんを探すが、先を走っていたおじさんに止められ、
「何してんだ!逃げろ!」
と、手首を掴まれ引っ張られた。
手を繋いでいればよかった……もっと早く逃げていればよかった。
おばあちゃんはまだ戻らない。
それに、家も思い出も全て流されてしまった。
私たちは娘を探している。
可愛い一人娘。
どうして、あの時一緒に逃げなかったのか……海に近い場所に住む両親を迎えに行き、高台に避難するといった私たちに、友達と逃げるから家に残ると言った娘……。
その友達は、車が津波に飲み込まれたが、脱出し高台の避難所までやってきた。
でも、一緒に脱出したはずの娘は、一緒じゃなかった。
もうすぐ、あの日がやってくる……。
次第に暖かくなり桃を忘れ、桜の開花がいつになると言っているが、店内では久しぶりに来たマスターの妻と息子の遼一に、店内の客はメロメロになる。
マスクの不足で、遼が、手先の器用さを遺憾無く発揮し、ガーゼを重ねたマスクを何枚も作ったのだ。
そしてそれは、表が、彼女のパッチワークの時に使う布を選んだので、かなり可愛らしい。
遼一も母親に作ってもらったお揃いのマスクをして現れたので、特に女性陣が集まったのである。
「か、可愛い!どうしたの?これは」
雄洋の母、優子が、目を丸くする。
「作ったんです。で、皆さんマスク足りなければどうぞと思ったので。これは、ハンドソープとかで洗って、絞って、水がある程度落ち切るまで干しておいて、その後に、このジャバラ状に折り畳んで、表にアイロンを当てたら良いですよ。それに、内側にガーゼを挟んでおくと湿気もこもりません」
「でも、鼻の部分は……」
「薄い針金を入れてます。眼鏡が曇りにくいです。本当はミシンをと思ったのですが、遼一が起きるので手縫いです。でも丈夫ですよ」
ちなみに、夫には、何故か戦国大名の家紋の入った色違いの布を出してきて、マスクを作った。
それは地味派手すぎるのではないか……それなら、このメジロの羽色と茶色の渋めのも良かったと言うと、じゃぁ、あと二枚作りますねと言いつつ作ってくれた。
交代に使うので多い方がいいのだが、妻は何枚作ったのだろう。
すると、ごそっと……しかも一枚一枚ビニールに入れたマスクが二十枚出てくる。
「えへへ……遼ちゃんの分を合わせて35枚作りました。一応、数種類、こんな柄です」
「……まぁ。よく作るわね」
「一応、近所のバザー用に作ったんですが、中止になったでしょう?それに、実質マスク販売禁止ですもの」
ため息をつく。
「まだ、使い捨てマスクも除菌スプレー、除菌ウェットティッシュも品薄なのに……」
「トイレットペーパーなどがないのを見ると、本当に1973年じゃねえんだぞ?2020年かよと思うぜ。ティッシュは国産だっての」
雄堯は呆れる。
「本当に、私は生まれていませんが、大変だったとか。あ、宣子さん、優子さんもどうですか?」
「私に?可愛すぎない?」
「そうですか?私はこんなのが似合いそうだと」
女性陣はクスクスと楽しげに選び始める。
「あ、これは、雄洋さんの分ね」
「えぇ。いいの?実は私のマスクも、もうすぐないんだよね。買い占めとか転売って嫌だね」
「あ、作る時も自分はマスクして、手はちゃんと洗って、作った後に除菌スプレーしてますから」
遼はかなり心配性である。
受け取ったマスクを見て、
「うわぁ……細かい。丁寧。しかもゴム痛いのじゃないし」
「ベビー用、マスク用のゴムです」
「はぁぁ……遼さん、子育てしながらこんなことまで凄いですね。宣子もボタンつけとか色々してくれるけど」
「やめて〜!比べないで〜!私はあれくらいしか、できないのよ」
宣子は顔を赤くする。
その時ベルが鳴り、姿を見せたのは先日の村井宏輝とその彼女らしい女性。
一時退院ができたらしい。
「いらっしゃいませ」
微笑むと、深々と頭を下げる。
「先日はありがとうございました。こんなに早く回復できたのは驚異的だと……一時退院まで許されました。まだ、少し疲れやすいのですが、これから体力を取り戻そうと思っています」
「そんなに大袈裟な……ただ、知人がいたからですよ」
「いえ、本当に……」
「どうしたんです?」
雄洋はキョロキョロとする。
雄洋とさほど歳の違わない青年は、もう流行遅れになりつつあるニット帽をかぶっている。
「あ、そうでした。相席になりますが、どうぞ……」
マスターは笑う。
「失礼します」
「あ、待って」
宏輝についてきた女性が、椅子を引き座らせている。
「兄ちゃん、調子悪いのか?」
「あ、実は先日、脳腫瘍を取ったばかりです」
「はぁぁ!取ったばかりって、体調は大丈夫か?」
「手術の前は、ものが二重に見えたり、ひどい頭痛に手が痺れたりしましたが、今はほとんどそういった症状がなくなり、とても楽なんです。か、マスターが主治医を紹介くださったおかげです。本当に、本当に……感謝とお礼をと思っているのですが、主治医が、マスターはお金とか受け取るような人じゃないと聞いたので」
宏輝と女性が、持っていた袋をテーブルに置く。
「実は、私の実家が福島で……その……」
「福島は果物が美味しくて、お米も名産ですよね」
「そうです。菜穂の実家が作ったものです。あっ、放射線量は大丈夫ですから!」
雄堯は笑う。
「そんなん、解ってるさ。作るもんを愛するから生産者だ。愛するもんを送り出す時に受け取る相手のことを考えるさ」
「そう言うふうに考えない人もいるんです……何度、おじいちゃんや父さんが捨てたか……大丈夫になっても、私は送られてきたものを人に渡す時、福島産だと言えなかったです……」
菜穂は俯く。
「申し訳ないと……おばあちゃんのおかげで助かったのに……自分の故郷が自信を持って福島県だって言えるまで……最近までかかりました」
「それは、姉ちゃんが悪いんじゃない。それに、じいちゃんや父ちゃんたちに申し訳ない思うこともない。姉ちゃんは子供だったんだ。辛い思い出……傷ついたことをわざわざ口に出さなくていいと思うぞ」
「お前は……」
マスターは悪友を睨むと、二人に微笑む。
「どうぞ。宏輝さんはまだ無理ですが、菜穂さん。如何ですか?」
「あ、ありがとうございます」
「宏輝さんには、ノンアルコールのカクテルをお作りしますね」
「お手数をお掛けします」
二人は顔を見合わせると頭を下げた。
遼一を優子に預けた遼は、CDを選ぶとかけた。
流れ出した曲に聞き入る。
マスターは、クラッシュアイスを入れたシェイカーを振ると、グラスに注ぐ。
「どうぞ……」
「あ、可愛い……」
大人びたカクテルをイメージしていたが、可愛らしいピンクのカクテルに目を輝かせる。
「『ピーチ・レディ』と言います。福島県は農産物、海産物が豊富の国ですから……桃の花も咲きましたし、きっと皆さんの願いが実を結びますよ」
「『桃夭』ですね」
遼は微笑む。
「『桃夭』?」
「……雄堯、知らないのか?高校時代の漢文の授業で習ったはずだがな」
マスターは冷たい目を見る。
「中国の古代の詩集『詩経』にあるんですよ。『桃は若々しくその花は美しい。この娘が嫁いだら嫁ぎ先の家は栄えるだろう』と言う感じの意味ですね」
「へぇ……じゃぁ、うちに宣子さん来て貰ったら、そんな感じかな」
だらだらとひじをついて味も楽しまず飲む親父のその言葉に、雄洋と宣子がむせる。
「えっ?お義父さん?」
「早く結婚してくれよ〜雄洋。嫁に行った妹には子供が生まれてるのに……」
「あのね!ここで言わないでくれない?それに、急かすな!」
「……全然、夢がないわ〜。遼一くん、あのおじちゃんみたいにならないでね?お父さんのように賢くてかっこいい人になってね」
優子は、先輩と妹同然の遼の息子に言い聞かせる。
「一応、このピーチ・レディのカクテル言葉は……」
「なぁなぁ、彰一。式場とか紹介してくれねぇ?」
「……」
ピシッ!
眉間にシワが寄る。
「カクテル言葉は……」
「そんなのいいじゃねえか、その酒くれ!」
「お前に良い酒はやらん!帰れ!」
「じゃぁ、優子のを……」
「……家を追い出すわよ」
半目の妻の低い声に、慌てて姿勢を伸ばす。
「悪かった!ゆうちゃん」
「おだまり!……あ、遼一くん、何でもないのよ?おばさんと遊びましょうね」
「トーヨー」
「えっ?」
遼一はキャハッと笑う。
「ヨーヨー、シャーシャー」
「えっ?」
「あ、すみません。私は歌を歌わないので、色々な漢詩や和歌などを読み聞かせているんです。前は、『小倉百人一首』だったのですが……」
「百人一首?」
「えぇ、で、昨日、桃夭も聞かせたら喜んで……」
絶句する。
今から英才教育か?
「あ、英才教育じゃないんですよ。この子を眠らせようと思って、色々と話しかけるんです。そうしたら、『も!も!』とせがむんです」
「さすが先輩の息子さんだわ。どんな子になるのかしら……遼さんに似たら可愛いけれど、先輩に似たら無表情、無愛想だけどイケメン、天才ね」
「ゆ、ゆ、ゆー、ゆーちゃ!」
にぱ!
と笑いかける幼児に、優子は目を輝かせる。
「まぁ!おばさんをゆうちゃんって!」
「ゆーちゃ、キャハハ!」
遼一のおかげで店内の雰囲気は明るくなったものの、せっかくの曲とカクテルは置き去りとなり、彰一はため息をついたのだった。
「折角のカクテルだったのに……」
ピーチ・レディのカクテル言葉は「純愛」と言う意味だった。
申し訳ありません。
心が乱れて、文章がダメでした。
ピーチ・レディ
白ワイン …90ml
ピーチ・リキュール …30ml
ストロベリー・シロップ …30ml
ミルク …30ml
作り方
材料をシェーカーに入れ、氷を入れてシェークする
ワイン・グラスに注ぐ
『桃夭』はお祝いなどの歌になると思います。
嫁ぐ女性が幸せになるように、嫁ぎ先で可愛がられ子供が生まれるように、そして嫁ぎ先が繁栄しますようにという言祝ぎ(ことほぎ)の歌です。




