閑話『朝のリレー』
久しぶりに休みを取った彰一は、息子を抱き上げる。
「おぉ?大きく、首が座ってしっかりしてきたね。遼一」
ふにゃふにゃしていた身体ががっしりとしてきた息子は、母の遼が今日出かけているので、むぅぅっと渋い顔をしている。
いや、まだ幼いのでそんなに表情は出ないはずだが、完全に父より母が好きだと言わんばかりである。
まぁ、彰一の仕事が夜ということで、昼夜逆転生活をしているから仕方がないのだが……しかし、久しぶりに息子と遊ぼうと、
「遼一。おもちゃはどうかな?」
差し出したおもちゃを見た遼一は、プイッとそっぽを向く。
「駄目か……じゃぁ、絵本はどうだい?」
「……」
「困ったねぇ」
彰一は苦笑する。
昔、巴を育児放棄していた親族から半ば取り上げ、なるべく側において、忙しい時や昼間は信頼できる夫婦に養育を頼み、自分用のマンションを購入し、そこに帰るようにしていた。
最初は他人に怯え、声も出さずヒックヒック泣く巴を片腕に抱きしめ、仕事をしていた。
本当に環境は最低だと思うが、今は叔父一家が勝手に引っ越してきてもう居ついてしまった実家に、巴を連れ帰る気にはなれなかったのだ。
時々頭を撫で、クッキーやお人形、ぬいぐるみを見せるとおずおずと手を伸ばす巴に、微笑みかける。
「巴、泣かなくていいんだよ?お父さんがいるからね?」
「おとうしゃま……?」
「そうだよ。巴のお父さまだよ。もう少ししたら、お仕事が終わるからね。そうしたら、一緒に帰ろうね。巴は歩く?手を繋いで歩けるかな?お父さまと」
「おてて?あるく!ともちゃん、おとうしゃまと!」
嬉しそうに笑ったあの子は、もう二十歳を過ぎた。
最近は、彼氏の大輔と共に店に来るようになって、養父ではあるものの寂しい限りである。
しかし、最近、巴にせがまれた。
「お父さま。私、昔聞いたあれが聞きたいです」
「あれ?」
大輔や雄洋、宣子も興味深げに彰一を見る。
「あの、えっと、『カムチャツカの若者が……』って言う詩です」
「あぁ、谷川俊太郎先生の『朝のリレー』だよね。教科書によくある」
「あ、CMもあった。聞いたよ」
「あの歌詞って不思議なのよね。それに、私はあの谷川俊太郎さんが訳した『PEANUTS』。面白くて大好きだったわ」
「PEANUTS?」
キョトンとする大輔に、宣子が、
「あら?知らないの?日本語版だと『スヌーピー』だけど、スヌーピーは『PEANUTS』の登場人物……と言うか、主人公のチャーリー・ブラウンのペットのビーグル犬の名前で、原作名が『PEANUTS』。チャールズ・モンロー・シュルツ氏が1950年から描き始めた四コママンガよ。とても皮肉やツッコミとか、哲学的だったり……四コマでここまで表現できるのねって感心したわ。シュルツ氏もだけど、日本語訳版の谷川俊太郎さんの言葉の使い方が凄いのよね」
「えっ?そうだったのか?知らなかった!」
大輔は驚く。
「スヌーピーって、主人公じゃなかったんだ?」
「えぇ?そこからなの?」
宣子は頭を抱える横で、雄洋が宥める。
「まぁまぁ……それより僕は、巴ちゃんが聞きたいって言っていた、マスターの『朝のリレー』を聞いてみたいな」
「聞くほどのものではないですよ」
苦笑して逃げようとするが、巴が、
「お父さま、お願い!」
と言う一言に、負けた。
「余り、お客様の前ではしないんだけど……」
「お父さまは私のお父さまだもの!」
「だから特別……では、巴。これを運んでくれるかな?」
作っていたカクテルをロンググラスに注ぎ、差し出すと、
「では、お耳汚しになった場合は、聞き流してくださいね」
と告げた。
「『……受けとめた証拠なのだ』」
囁くような、それでいて広がる声が、最後の言葉を紡いだ。
手を叩こうとした大輔たちだったが、その横で、
「『 "Morning Relay"
While a young man……』」
流暢なENGLISHに訳された詩が、巴の口から流れる。
カクテルに口をつけつつ、うっとりと聞き入る宣子と雄洋。
大輔は彼女が帰国子女であることを改めて思い出す。
あの時の巴の成長が嬉しくなり、先日の詩を口ずさむ。
すると、しかめっ面の遼一が、じっとこちらを見つめている。
「おや、遼一。分かるのかな?聞きたいかな?お父さんは、お母さんのように歌が上手くないから……もう一回だよ?」
「あーう、うー!」
「はいはい。遼一」
久しぶりの親子団欒と思ったのだが、遼一はかなり頑固、いやしつこく……彰一にねだった。
「遼一……もう5回目だよ?お前はまだ意味が分からないだろう?」
「あう〜!」
「はいはい。もう一回だけだよ」
と言うやりとりが続き、遼が帰ってきた時には、ぐったりとして眠る父親の顔をペチペチ叩く息子がいた。
「まぁ……りょうちゃん?お父さんは疲れてるから、こっちに行きましょうね?」
「やー!」
と言うやりとりもあったとか、なかったとか……。
この『朝のリレー』は、谷川俊太郎さんが確か1982年に発表されたものです。
この詩の評価は二つに分かれていて、分かっていることを書くなとか様々な批評がありましたが、私はテンポ良く響く言葉に想像力をかき立てられて、とても好きな詩です。
ちょうどその前後、TMN(TM NETWORK)を友人が好きで、初期作品を聴かせて貰った時にこういうの好きかもと思った作品が『金曜日のライオン』だったりします。
『朝のリレー』谷川俊太郎
カムチャッカの若者が
きりんの夢を見ているとき
メキシコの娘は
朝もやの中でバスを待っている
ニューヨークの少女が
ほほえみながら寝がえりをうつとき
ローマの少年は
柱頭を染める朝陽にウインクする
この地球では
いつもどこかで朝がはじまっている
ぼくらは朝をリレーするのだ
経度から経度へと
そうしていわば交替で地球を守る
眠る前のひととき耳をすますと
どこか遠くで目覚まし時計のベルが鳴ってる
それはあなたの送った朝を
誰かがしっかりと受けとめた証拠なのだ
"Morning Relay" by Shuntaro Tanigawa
While a young man in Kamchatka
Dreams of a giraffe
A young girl in Mexico
Waits for the bus in the morning haze
While a little girl in New York
Rolls over in her bed with a smile
A little boy in Rome
Winks at the morning sun that colors the column capital
On this Earth
Always, somewhere, morning is starting
We are relaying morning
From longitude to longitude
Taking turns protecting Earth, as it were
Prick up your ears awhile before you go to sleep
And, somewhere, far away, you'll hear an alarm clock ringing
It's proof that someone has firmly caught
The morning you've passed on
谷川俊太郎さんは1931年生まれの詩人、翻訳家、絵本作家、脚本家で、お父さまが哲学者だそうです。
で、その谷川さんが翻訳家として本領発揮されているのがチャールズ・モンロー・シュルツ氏(1922〜2000)の『PEANUTS』。
主人公の気弱なチャーリー・ブラウンと周囲のお話です。
SNOOPYと言う名前が有名ですが、主人公ではなく、チャーリーの愛犬の名前です。
スヌーピーはビーグル犬ですが、哲学的なことを考えたり、チャーリーの愚痴を聞いたりと犬らしからぬ多才ぶりで、後ろ向きでちょっと気弱なチャーリーの分を補うようにコマの中で才能を発揮しています。
シュルツさんの『PEANUTS』は、1950年10月2日〜デイリー版は2000年1月3日まで、日曜日版が亡くなった翌日の2月13日まで掲載されたそうです。
 




