『サン・トワ・マミー(Sans toi m'amie)』
新婚ではあるもののマスターはいつも通り店を開け、遼はお店に来て音楽を聴いたり、お客様のお話を一緒に聞くこともあるが、基本的にマスターの仕事に口を挟まず奥でのんびりとテディベアを作ったりしている。
マスターははぐらかすが、夫婦仲はとてもいいらしい。
今日は、越路吹雪さんのベストアルバムをかけた。
実は、遼の花嫁道具……と言うには、凄まじい荷物のなかに入っていたアルバムであり、
「大好きなんです。それに江利チエミさんのも。難しい曲程チャレンジしたいです!美空ひばりさんの曲もかなり難しいんですよ」
マスターは行かないが、時々、宣子が葛葉たちとカラオケに引っ張っていく。
今日も、葛葉の結婚祝いの女子会と言うことで連れられていった。
「あのっ!早めに帰ります」
「あ、明日送りますね~?マスター」
「宣子さん。よろしくお願いしますね?」
新婚早々、妻を送り出したが、心配と言うよりも安堵していた。
人見知りも少しずつ解消され、宣子たちとも仲良くしているようだ。
元々気立てはよく温厚で大人しい……素直すぎて傷つきやすい遼を、ただ守るだけでなく見守ることも良いだろうと思っていたのである。
扉が開く。
姿を見せたのは、超ミニスカートとブラウスのボタンが開いた女性……夜の仕事をしているにしては髪は乱れ、服にもしわが寄っている。
「いらっしゃいませ。どうぞ」
「ありがとう」
投げるようにハンドバッグを椅子におき、隣に座ると、
「お酒を頂ける?もう散々!酔わないとやってられないわ!」
「散々……そうでしたか……」
「そうよ!あの男!面白くもない。田舎者!この私が付き合ってあげるって言ったのに!さいってい!」
マニキュアを塗った爪を噛む……それが彼女の無意識の癖らしい。
「それに、同期のあいつも……男の癖に料理とか掃除とか……男同士でいちゃいちゃして気持ち悪い!でも、あの二人が優良物件だから仕方なく付き合ってあげて、結婚までこぎ着けたのに、結婚決まった相手じゃない方が栄転なんて!」
マスターは、前に会った谷本の婚約者、遠野南都子だと思い出す。
谷本やその親友の森田と一緒に来た時には、甲斐甲斐しく面倒を見、愛想を振り撒いていたが、今の姿が本来の彼女らしい。
「あぁ、やってらんない!本当ならもう嫌だけど結婚していたのに!あの田舎者、バレンタインデーになって婚約キャンセルだって!その上、もう一人の方に会いに行ったら、関係ない!ですって!」
罵る。
「店から出ていくから追いかけて服を掴んだら振り払われて、よろけたあいつが車にはねられて、あーもう、散々!酔わないとやってられない!私のせいじゃない!向こうが悪いのよ!それなのに、谷本の奴、あームカつく!」
文句を言うのは勝手だが、一方的に相手を罵るのも聞いているマスターには久々に嫌悪感がわく。
昔は、客の話は聞き流していたが、泣き虫の嫁に感化されたのか……もしくは自分もいい意味で変わってきたのかもしれない。
曲が変わる頃、マスターはグラスを差し出す。
「お客様。どうぞ」
「あぁ、出来たのね」
「はい」
口に運んだ南都子は不思議そうに、
「このお酒は?」
「『シャンディ・ガフ(Shandy Gaff)』と言います。ビールベースのお酒です。歌と共にお楽しみ下さい」
「この曲は?」
「『サン・トワ・マミー』と言います。この越路吹雪さんが歌っているものが有名です」
「……何か、私をバカにしているのかしら……」
顔をしかめる南都子に、マスターは微笑む。
「美しい曲は素敵だと思いますよ。シャンソンです」
「私が振られたとでもいうの?」
「それは解りませんし、私がお伝えしても意味はないと思います。ただ、お客様が飲み干したカクテルには意味があります。『無駄なこと』と言う意味です。貴方のしてきたことはそのカクテルの意味と同じ。貴方に振り回され辛い思いをした二人に……特に、大ケガをした森田さんに謝罪の一言でもあればと思ったのですが……」
「私は悪くないわ!」
「ひいたのは車ですから、それに飛び出す形になった森田さんも辛いと思いますが、森田さんは生死の境をさ迷って、ようやく目を覚ましたとか……好きだとか、愛しているとか言うのなら、この様な所でくだを巻いていないで、ついていてあげれば良かったのに……谷本さんは連絡を聞いて飛行機に飛び乗ったのでしょう?」
マスターは南都子を見つめる。
「貴方のように恋を、愛情をもてあそぶような人には、この曲の深みや、本当の恋情も解らないでしょう。お帰り下さい。お代は結構です」
「えぇ!もう二度と来ないわよ!こんな店!文句を言われたら嫌だから……はい!」
バッグの中の財布から札を出して、テーブルに叩きつけた。
「お釣りは結構よ!」
そういい捨て、店を後にしたのだった。
「……うーん。遼の、ごそごそ小銭を出して、ちょこまかと帰っていくのを見ていたせいか……品がないですね。あぁ、森田さんのお見舞いにお釣りは送りましょうか……」
マスターは、無事だった息子世代の青年のことを安堵し、祈ったのだった。
《シャンディ・ガフ(Shandy Gaff)》
ビールベースのカクテルで、ジンジャー・エールと合わせたもの。
ビール特有のホップの苦味をジンジャー・エールが和らげ、同時に生姜のピリッとした風味を添える。
シャンディとも呼ぶ。
由来
名前の由来は不明。イギリスでは昔からパブで飲まれている。昔のシャンディ・ガフはジンジャー・エールではなく、ジンジャー・ビアとエールで作っていた。現在も、イギリスのパブでは、もっともポピュラーな飲み物の1つ。
ドイツではレモネードで割ったものを、南部で「ラドラー」(Radler)、北部では「アルスター・ヴァッサー」(Alsterwasser)と呼ぶ。
フランスには、同様にビールを透明な炭酸飲料かレモネードで割った、「パナシェ」というカクテルがある。名前の由来はフランス語で「混ぜ合わせる」である。フランス人から見ればシャンディ・ガフはパナシェの一種ということになるが、逆にイギリスではパナシェのこともシャンディと呼んでいる。
スペインでは、缶入りクルスカンポ・シャンディ(Cruzcampo Shandy)が広く売られている。
標準的なレシピ
ビール - 1/2
ジンジャー・エール - 1/2
作り方
ビールを先にタンブラーに注ぐ。
ジンジャー・エールを充たし、軽くステアする。
備考
材料はいずれもよく冷やしておく。
ビールは発泡酒、第3のビール、黒ビールを使わないように(味が本来のものとはかなり違ってくる)。
カクテル言葉は『無駄なこと』
『サン・トワ・マミー』は、ベルギーの歌手サルヴァトール・アダモの楽曲で、越路吹雪さんなどが日本語カバーしている。




