『少女A』
今日のマスターは機嫌が良かった。
好きな歌手である中森明菜のCDをかけている。
カラン……ドアのチャイムベルが鳴り、現れたのはびしょ濡れの女性。
「いらっしゃいませ、どうぞ……タオルをお出ししましょう」
カウンター席を勧めると、はにかむように微笑む。
「ありがとうございます」
「いいえ、今日は天気が悪いですね……」
「はい、雨が……朝は晴れていたのに……」
雨音はこちらに届かない……その代わり、独特の深みのある声が店内に広がる。
「あら? この曲……」
「『少女A』ですね……中森明菜さんの曲です」
「あ、そうなのですね。あ、えっと……何をお願いしたらいいのか……どんなお酒がありますか?私は余り、お酒に詳しくなくて……」
気恥ずかしげに告げる若い薄化粧の女性に、提案する。
「では、サンドリヨンを……」
「サンドリヨン?」
目を丸くする。
サンドリヨン、もしくはサンドリオン(どちらもつづりはCendrillon)……英語読みではシンデレラ(Cinderella)である。
手際よく冷蔵庫から3種類のペットボトルを出してくると分量を計り、シェイカーに注ぎ入れるとゆっくりとシェイクし、カクテルグラスに注ぐと氷を入れ、オレンジで飾る。
「どうぞ」
「綺麗……」
しばらく見つめていた彼女は、そっと手を伸ばし、ゆっくりと口に含んだ。
「……おいしい……けれど、あら?」
目をパチパチとさせた彼女はマスターを見る。
「お酒、苦手なのですけど……」
「……実は、そのカクテルはお酒が入っていないのです」
「えぇ?」
マスターとサンドリヨンというカクテルを交互に見る。
「オレンジジュース、レモンジュース、パイナップルジュースなのです。炭酸ソーダで割ることもあるのですが、そのままお出ししました」
「お酒ではないのですか……?」
「カクテルの一種でノンアルコールです。特にお酒をたしなまれない方や、一息つきたい方が……それに、女性に喜ばれるのですよ。可愛らしい名前だと」
「だまされたのかしら……?」
考え込む女性に微笑む。
「楽しんで戴けたらと思いまして……お酒と言うよりも、カクテルの奥深さを……如何です?」
もう一口口にした彼女は、サンドリヨンを見つめ呟く。
「もっと敷居が高いのかと思ったわ……本当に思ったよりも身近なのね……」
「では、ガラスの靴を探しにいかれますか?」
「今日は雨ですもの。もう少しこのままで……」
後日、祐実と名乗った女性は、無邪気にウインクをしたのだった。
サンドリヨン(Cendrillon)もしくはシンデレラ(Cinderella)
オレンジジュース、レモンジュース、パイナップルジュース各60ml
をシェーカーを振り、そしてそのままカクテルグラスに注ぐ。
もしくは上記をソーダで割る。