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あるバーのマスターの話  作者: 刹那玻璃
マスターの章
24/66

『市場へいこう』

 今日は島谷ひとみのアルバムを選んだ。

 良く通る声を持ち、知られた曲も多い。


 今日は、バレンタインデー前だと言うのに、ひどく落ち込んだ女性が姿を見せた。


「いらっしゃいませ。風が強くなって、寒くはありませんか?」

「あ……はい……」

「どうぞ、暖かくしておりますので、こちらに」

「ありがとうございます」


 コートを脱ぎ、隣の椅子にかけると、持っていたバッグを膝におき、抱き締めるようにする。

 一応知識としては知っているが、有名なブランドのロゴが入っている。

 しかし、大切に使っているのだろう、使用感はあるもののベルトや金具は綺麗に磨いてあるらしい。

 貰った人を思う気持ちが伝わる。


 項垂れている彼女に声をかけることなく、ただ静かに見守る……あえて、そう心がける。

 元々、聞き上手……店に来るお客の情報は聞かない……相手が口を開くのを待つのも、自分の仕事である。


「……どうしよう……」


 呟く。


れん、お見合いが決まって……お相手は、会社のお得意先のお嬢さん……向こうが乗り気だって……」


 バッグを無意識だろうか、撫でる。


「……『妊娠届出書』……書けないよ……蓮の名前なんて……父親の欄に。でも、絶対に中絶なんてしない……したくない‼」


 涙を流す姿が慈母像にみえ、マスターはおしぼりを差し出す。


「お客様……どうぞ。私の飲んでいるものですが、梅昆布茶です。寒いでしょう。お飲み下さい」

「あ、す、すみません‼」


 涙を拭いた女性は哀しげに微笑む。


「恥ずかしいです。取り乱してしまって……」

「良いのですよ。外は梅が咲いていました。梅の実もこの梅昆布茶や梅干に、こちらだと梅酒と、とても重宝しますが、梅の花は春の訪れはもうすぐだと伝えてくれますね」

「あ、そう言えば……このお店の少し手前で濃いピンクの花が……紅梅だったのですね」

「えぇ」


 すると、扉が開き、ネクタイを緩め汗だくの青年が入ってくる。

 仕事帰りか荷物を持っていたが、荷物を取り落とし駆け寄る。


來未くみ‼ここにいたのか‼」

「れ、蓮……な、何でここに……?」

「何でじゃない‼会社の同僚たちに聞いたんだ‼お前の様子がおかしいって。それに、会社中に変な噂ばらまきやがって‼あの事務の山田課長……既婚者の癖に、來未に‼」

「課長?」

「あぁ、あいつから変な話聞いただろ?」


 近づいてくる青年に、マスターは微笑む。


「どうぞ、お座り下さい」

「ありがとうございます」


 礼儀正しく頭を下げた青年は來未の隣に座り、バッグを抱き締める手を握った。


「あの課長の変な噂は、でたらめだ‼」

「でたらめ……?」

「あぁ。一応、部長に呼ばれたが『君が小崎おざきさんとお付き合いしているのは解っているが、一応こういう話が来ていたんだ。もう断っておいたから』と言って頂いていた。本当はお前にも伝えようと思っていたが、俺は営業でお前は会社で行き違ってて、今日はお前が休んでると聞いて、それに、お前の同僚の増田さんが連絡をくれて……慌てて追いかけたんだ‼何かあったのか?」

「蓮……」


 顔が歪む。


「……び、病院……」

「やっぱり病気なのか?身体の調子は?」

「……い、一緒に病院行ってくれる?」

「当たり前だ‼どんな病気なんだ⁉治るだろう?絶対に一緒にいるから‼」


 來未は泣き笑う。

 そして、


「さ、産婦人科の先生に、妊娠届出書を書いて貰おうと思って……じゃないと、母子健康手帳……出して貰えないんだって……」

「えっ?母子手帳……」


恋人と、バッグに隠れているがそのお腹を交互に見て、


「俺の……子供?やったー‼」

「わぁ、れ、蓮……苦しいよ‼」

「あ、ごめん‼あ、そうだ‼」


キョロキョロと周囲を見回し、マスターが荷物を後ろのテーブルに載せていることを示すと、近づきくしゃくしゃになっている小さな袋を出して、來未に渡す。


「な、何?」

「本当は、クリスマスに渡すつもりだったんだ、ごめん。袋ボロボロ……」

「えっ?」

「一緒にいよう。子供ができたからじゃなくて、お前といたいんだ」

「……蓮……うん、うん‼ありがとう‼」


 抱きしめあう二人に、マスターが一つだけカクテルグラスをカウンターに置いた。


「おめでとうございます。本当はお二人でと思いましたが、お祝いに……」

「あ、ありがとうございます‼」


 來未には冷めた梅昆布茶を下げて、新しく入れ直す。


「えと……このお酒は……」

「スカーレット・レディと言います。『風と共に去りぬ』の主人公のスカーレット・オハラをイメージして作られたものです」

「スカーレット……」

「実は、この曲の中にサルビアと言う花の名前があるのですが、別名スカーレット・セージと言うそうです」


 耳をそばたたせると、流れている曲は優しい。


「ゆっくりされて下さいね……」

「ありがとうございます‼」


 二人は顔を見合わせると、お互いの未来を祈るのだった。

《スカーレット・レディ(Scarlet lady)》


ショートドリンクカクテル。

正式名称は、スカーレット・レディ・カクテルだが、通常、スカーレット・レディと省略する。

このカクテルは、1976年に日本ホテルバーメンズ協会が開催した第5回カクテル・コンペティションの優勝作品。作者は久保木康雄さん。




カクテル名について


スカーレット・レディというカクテル名の意味は、そのまま「深紅の女」「緋色の女」と解釈する場合と『Scarlet Woman』と書くと「売春婦」の意味になるが、そちらの意味を優先して「みだらな女」と解釈する場合がある。

しかしこのカクテルは、『風と共に去りぬ』のヒロイン、スカーレット・オハラをイメージして作ったためこの名前をつけたと言われている。




標準的なレシピ


ラム (ホワイト) : カンパリ : マンダリン・リキュール : レモン・ジュース = 1:1:1:1

マラスキーノ・リキュール = 2tsp

オレンジの果皮 (飾り用)




作り方


ホワイト・ラム、カンパリ、マンダリン・リキュール、レモン・ジュース、マラスキーノ・リキュールをシェークして、カクテル・グラス(容量75〜90ml程度)に注ぐ。そして、オレンジの果皮をグラスの縁に飾れば完成。

このオレンジの果皮は、適切な大きさ・形に切り、切れ込みを入れたもの。

レモン・ジュースは、その場でレモンを絞ったものを使用するのがいいが、市販のジュースを用いても良い。


《サルビア》


より正確にはサルビア・スプレンデンス (Salvia splendens) は、シソ科アキギリ属の1種の、ブラジル原産の草木。

俗にサルビアと呼ばれる。

標準和名としてはヒゴロモソウ(緋衣草)があるが、あまり使われない。

スカーレットセージ (scarlet sage) とも呼ばれ、ここでのセージとはアキギリ属のこと。


ちなみに、『市場へいこう』はイタリア語の単語があり、


・ボナセーラ……こんばんは

・イル ティーモ……il timo。ハーブのタイム

・ロズマリーノ……Rosmarino。ローズマリー

・ヴィオリーノ……Violino。ヴァイオリン

・パタータ……patata。じゃがいも、ポテト


だそうです。

曲はかなり、ダンスミュージックですが、歌詞が好きです。

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