電柱ハウス
僕は恋人とケンカをした。クリスマスの数日前だった。
「今年のクリスマス、どうしよっか」
明子が言った。明子は僕の恋人だ。
「ごめん、今年はクリスマス、仕事があって一緒にいられそうもないんだ」
と僕。
「正吾ったら、去年も同じことを言ったじゃない。今年は、私、絶対に許さないから。駅前で正吾のこと待っている」
そう言うと、電話が切れた。年末は仕事が忙しくて、僕はなかなか明子に会えない。明子に悪いなあと思いながらも、僕は仕事を優先しなくてはならない。だって、僕はサンタクロースにならなくてはいけないのだから。
僕は普通のサラリーマンだ。ごくごく普通の会社勤めをしている。一つだけ人と違うことがあるとしたら、それは僕が大人になってもサンタクロースを信じていることだろう。僕は今度サンタクロースに会ったら、サンタクロースになりたい。
サンタクロースの先輩に弟子入りをお願いするんだ。
サンタクロースになるのは子どもの頃からの僕の夢だ。サンタクロースになることが夢なのに、夢のない話だけれど、サンタクロースはお金がかかる。プレゼントを沢山買わなくてはならない。それで、僕は毎日働き詰めだ。一生懸命働かなくては、僕の貯金はたまらない。
クリスマス、明子と会う約束が出来ないのには、もう一つ理由がある。僕は明子にこれ以上「好き」だと言う自信がない。僕と明子は付き合い始めてもう3年になる。明子は、色々なことを考えているだろう。例えば結婚とか。
結婚は僕だってしたい。だけど自信がない。明子は僕のことを本当に信じてくれるだろうか。僕とずっと一緒にいてくれるだろうか。僕は不安で、明子にこれ以上「好き」だと言うことが出来ない。
リンリンと鈴の音が聞こえた。それで僕は家にあるアンティークみたいな古い電話が鳴る音を思い出した。昨日も、ケンカの時に言われたこと。
「やだ、正吾、まだ信じているの」
本当に電話の音が聞こえた気がして、僕は携帯電話を見た。携帯電話は寒さで冷えている。携帯電話が鳴った様子はない。
リンリン、リンリン……。
鈴の音が聞こえる。僕を安心させ、うきうきさせる音だ。
その音は、雪のない道のどこかからする。僕は必死で鈴の音がどこからしているのか、探した。北国のこの町に雪が降らないのは、奇跡の反対が起きたからだと思っていた。僕は悲しいことを考えてしまいやすい性格だ。だから明子に気持ちを伝えても、届かないと思っていた。
けれど、鈴の音が聞こえる。
電柱の出っ張り棒に、鈴が掛けてあった。僕は、空を見上げた。思わず、僕が子どもだった時のことを思い出した。
それは、僕が小学校の5年生。その年も、なぜか雪が降らない年だった。
僕は自信のない子どもだった。授業中、答えが思い浮かんでも、自信がなくて、他の子みたいに手を上げてものを言うことが出来ない子どもだった。
その日は夕方まで家の近所にある公園でサッカーをして遊んでいた。汗を一杯かいて、そろそろ帰ろうと誰かが言った。あれはケンだっただろうか。
「なあ、サンタクロースってまだ信じている奴いるか」
僕は頭の中が真っ白になった。
「信じない」
「いつまで信じてた?」
「うーん。3年生くらいまでかな。正吾は?」
会話が回って来て、僕は真っ白な頭の中を動かさなくてはならなかった。
「サンタクロースって、いないの?」
思わず声が小さくなった。でも、僕の言ったことは皆に伝わった。
「え。正吾、サンタ信じているの」
「皆は、信じていないの?」
「サンタクロースなんて5年生になったら皆、いないって知っているよ」
ケンが言う。僕はまた頭が真っ白になった。汗が乾きはじめた体から、どんどんどんどん汗が出る。
ケンは僕の頭の中はお見通しだというふうに笑った。
そして「大人に聞いてみなよ。大人はサンタクロースがいないって知っているぜ」と物知り顔をして言った。
僕はサンタクロースをずっと信じていた。「サンタクロースはいない」なんて、初めて聞いた。僕は俯いて家までの道を歩いた。その日はクリスマスイブで、サンタクロースには新しいゲームをお願いしていた。僕はゲームが好きだったから。
家の前まで来て、僕は空を見上げる。夕暮れ時、空はピンク色に染まっていた。もうすぐ空が真っ暗になって、トナカイがひくソリに乗ったサンタクロースが、子ども達にプレゼントをこっそり置くために駆け巡る。だけど、僕は自信がなくなって来た。だって、皆がサンタクロースはいないって言うんだ。学級会でも多数決をした方が、良い意見が出てくる。僕一人だけ「サンタクロースはいる」ってことが普通だと思っている。僕は、間違えているんだろうか。その可能性は高い。でも、そしたら、僕は絶望的だ。だって、僕は将来、サンタクロースになりたいんだから。
空を見上げていると、もう暗い所があることに気付いた。それは、僕の目の前の空だった。空というより、もっと地面に近い所だ。暗い所は電柱の上にあった。地面に大きく薄い影を落とす、それは家だった。
ツリーハウスというものを5年生の僕は知らなかったけれど、それは電柱の上に建てられたツリーハウスだった。電柱だから、電柱ハウスかもしれない。小さくて、こじんまりとした家が、電柱の一番上にある。
こんなものを見て、どきどきするのを抑えられるわけがない。僕は電柱ハウスに入りたくなった。何か良いことが起こる予感がする。この日はクリスマスイブだったからね。きっと、不思議なことが起きても当たり前になる日なんだ。
電柱から突き出た棒をハシゴみたいにして、僕は上へ登る。途中、寒さで手が震えそうになったけれど、がんばった。
家のすぐ近くまで行くと、誰かに手首をつかまれた。次に僕が見たのは、電柱ハウスの中だった。木の板を組み合わせて壁は出来ているけれど、真ん中にはレンガで出来た暖炉がある。暖炉の火と、ランプの灯りで、まあまあ明るい部屋だった。
「まったく」
僕の手首を握った人が、ため息をついてそう言った。
その人は僕から離れると、するりと椅子に座った。机に向かって何かを真剣に書いていた。
冬なのにティーシャツとジーパンを着たおじさんだった。おじさんが書いている紙のページをめくると、灯りで出来た影が揺れた。僕はなんだか眩しくて、目を細めた。
「何の用事だ」
おじさんの言い方は少し偉そうだった。そして、面倒くさそうだった。僕はおじさんの目があまりに真剣なので、怖くて何も言い出せなかった。だから、茫然とおじさんを見て、棒のように立ちすくんだ。
「じろじろ見るな」
おじさんが僕を見ている。おじさんの目は黒だけれど、色んな灯りを取り入れて、もっと複雑な色をしているように見えた。
その目は僕が、初めておじさんの横顔を見た時よりも、優しく見えた。だから思わず「寒くないのかなと思って」と答えていた。
「仕事をしているから暑いんだ。邪魔をするな」とおじさんが、目を鋭くして言った。僕はやっぱりおじさんが怖いと思った。
机の上にはたくさんの紙が何枚も束になって積み重ねられていた。崩れたら、机がまるごと埋まってしまうくらいの紙。おじさんはそれを一枚ずつめくっては、何かを書いた。
「今夜、仕事が終わらないかもしれない。そうしたら、オレの信頼はガタ落ちだ」
僕はそこにしばらく立っていた。おじさんが怖くて、臆病な僕はどう動いたら良いかわからなくなっていた。それに、さっきケンや皆に言われたことが気になって仕方ない。おじさんは大人だ。サンタクロースがいるかどうか、おじさんなら、もしかして、知っているんじゃないだろうか。
「おい、邪魔だ。さっさと帰れ」
おじさんは怒った。僕は足踏みしながら、どうしても気になることを言おうと口を開いた。
「あの……、その……、サンタクロースって……」
「は! 何を言っているか全く聞こえないぞ。子どもはとっとと家に帰れ」
いよいよ怖くなって、帰ろうと思ったけれど、僕は足踏みを止められなかった。
「僕、サンタクロースになりたいんです!」
おじさんの手が止まった。黒に色々な光の色が混ざった目が、僕のことを見ている。
「でも、皆は、サンタクロースはいないって言うんだ……」
僕は俯いて、足をもじもじと動かした。自信がない時、僕はクセでこうしてしまう。
「それをオレに言ってどうする」
ペンで紙を書きなぐる音がする。おじさんは仕事に戻ったのだ。
僕は自信がないまま、喋った。
「おじさんなら大人だからわかるかな、って……」
紙を威勢よくめくる音がする。
「大人なら何でもわかると思うな。大人だって子どもだったんだ。何もわからないまま大人になることだってあるさ」
僕は驚いた。
「じゃあサンタクロースがいるか、おじさんはわからないの」
今度はおじさんが仕事をする姿をはっきりと目で見て言った。自然と声が大きくなってしまって、僕は慌てた。本当に驚いた時、人は自然と大きな声が出る。だけど、僕は僕の声の大きさに自分で驚いていた。
おじさんは片方の眉毛をつり上げた。
「サンタクロースがいるかいないか、オレに聞いてどうする。お前はどう思うんだ」
「どう思うって……」
せっかく、大きな声で質問が出来たのに「オレに聞いてどうする」と言われて、台無しになってしまった。おまけに「お前はどう思うんだ」って言うだなんて。
「はっきり答えろ」
まるですごく悪いことをしたみたいに、おじさんはきつい調子で言った。俯いて、僕は迷いながら口を少し開いた。
「わかりません……」
僕は正直な気持ちを言った。サンタクロースを信じ切っていたさっきまでの僕がウソみたいに、僕は、サンタクロースは、いないのかなと思い始めていた。
「声が小さい。お前は自信がないとろくに返事も出来んのか」
影が動いて、僕の前に来た。僕よりもずっと背が高い。見下ろされると怖くて、伸びた背筋に震えが走った。
「いいか、大人になっても自分の意見を持てない奴がたくさんいる。そんな奴が大人になっても言うのさ『あーあ、サンタクロースが来てくれたらなあ』」
「大人になっても?」
「ああ、大人になってもだ。サンタクロースを信じていないくせに、都合の良い話だ」
希望の光が差した気がした。
「じゃあ、大人はサンタクロースがいないって知っているっていうのはウソなんだね」
「お前はどう思うんだ。サンタクロースはいないと思うのか」
僕は俯いた。
「家に帰って聞いてみる……」
声が小さくなり、震えてしまった。
「わかった。お前は大人になってもサンタクロースにプレゼントを願う奴なんだ。そんな奴はプレゼントをもらえるありがたみがわからないまま大人になるんだ」
「そんな……」
「サンタクロースがいるかどうか、他の奴に聞くなんてバカらしい。帰んな。仕事がある」
僕の後ろで、床の扉がギイーと開いた。
「いやあ、今年も沢山仕事が届きましたよ」
太っちょのおじさんが家の中に入って来た。赤いティーシャツを着ている。
「お疲れ様」おじさんは、太っちょの方のおじさんから袋を受け取ると、机に行って紙を一束、持ち上げた。
「さようなら」
僕は電柱から突き出た棒の上に立ち、挨拶をした。
「またな」とおじさん。おじさんは袋の中から箱を取り出していた。
一生懸命、震えながら電柱を降りた。地面に着いた時は手は汗だくになっていた。
冷や汗だ。
僕はぶるっと震えた。鼻の上に雪が舞い降りた。雪のないクリスマスイブ。雪が降って来た。ホワイトクリスマスになるだろう。
リンリン、リンリン……。
鈴の音かな。音がして、僕は見上げた。そこに電柱ハウスは跡形もなかった。
ひょとして、今の人は。
僕の心に、それまで思い付かなかったのが不思議なくらいの考えが思い浮かんだ。
リンリン、リンリン……。
鈴の音が遠くで聞こえた。
その夜、僕はサンタクロースに会おうと思って、夜まで起きていたけれど、とうとう寝てしまった。次の年も、その次の年も。夜遅くまで起きていられるようになった時には、僕はもう子どもではなくなってしまっていた。
「サンタクロースがいるって信じるかい?」
僕の質問に、明子は言う。
「サンタクロース? いたらいいわよね」
僕はあの時から、サンタクロースを信じていた。でも恥ずかしくて誰にも言えなくなっていた。でも明子には本気でサンタクロースの話をした。
「やだ。正吾、サンタクロースをまだ信じているの」
明子は笑った。サンタクロースを信じてくれない明子とこのまま付き合っていいのか、僕は不安で一杯になった。
「僕にとって大事な話を、彼女は信じてくれない」
仲間達に相談した。仲間達はサンタクロースを信じている。インターネットのサンタクロースサイトで知り合った。「そんな奴、振っちゃえよ」と言う仲間もいた。
けれど、僕はもう止められないんだ。明子には良い所が一杯ある。小さな唇。優しい所。控えめな所。全てが僕にとって美しい。
僕は明子なしではこの先、生きて行けない。
「いいか、大人になっても自分の意見を持てない奴がたくさんいる」
思い出の中でおじさんがそう言って、僕は、自分の意見を持つぞ、と思った。
「わかった。お前は大人になってもサンタクロースにプレゼントを願う奴なんだ」と、電柱ハウスのおじさんの言葉を思い出す。
そうだ、僕は大人になってもサンタクロースにプレゼントを願う人間なんだ。
「サンタクロース。僕は、サンタクロースになりたい。僕は、もうサンタクロースを信じている。だって、もう大人になったんだから」
リンリン、リンリン……。
鈴の音が聞こえる。鈴の引っ掛けられた電柱を見上げると、上に家があった。電柱ハウスだ。
僕は迷わず電柱を上った。
扉を開く。電柱ハウスの中は暖炉に火が点き明るい。机の上には、あの時と同じ、紙の束が山になっている。その隙間に、紙が一枚置かれ、小さな箱が置いてある。
僕は紙と小さな箱を、ポケットに詰めた。そして、電柱ハウスを出て、下に降りて行く。
明子は駅前にいた。ずっと待っていてくれだのだ。
風で乱れた髪を手で整えようとしながら、明子は泣いた。
「今日ダメだったら、諦めようと思っていたの」
僕は明子に申し訳なく思いながら、謝った。
「ごめん」
そっと、明子を抱きしめる。
「今日、僕は君のサンタクロースになろうと思って来たんだ」
明子は泣きながら頷いた。
明子の手には指輪の入った箱が置いてある。僕が今、置いた指輪の箱だ。明子の薬指に、僕は指輪をはめる。
「信じるわ」
泣きじゃくりながら、明子が言う。
「あなたがサンタクロースで、今日、やっと仲間になれたのね。ありがとう」
「やったー!」
僕の声が空の上まで届くくらい響く。
リンリン、リンリン、鈴の音が響く。
僕はポケットから紙を取り出した。
『誰かのサンタクロースになることを決めた人が、これを届けてください。サンタクロースの仲間より』
サンタクロースの仲間達の笑い声が聞こえる気がする。
リンリン遠くから鈴の音が聞こえて、雪が降り始めた。聖なる夜、本当の奇跡が起きたのだ。
僕は今日、サンタクロースになった。明子のサンタクロースだ。