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浮雲の庵に龍神の訪ね来しこと

作者: 子志

 とある山の中腹。

 山深い場所というわけでも、人里離れているわけでもないその場所に、ぽつりと一軒の家が建っている。

 見たところ、何ということも無いごく普通の、やや古風な造りの木造家屋。

 しかし知る者は知る。

 夜が来ると、時折何かがその家を訪れる。

 人であるもの。

 人ならざるもの。

 家の主は彼らの望みを聴き、それぞれの代償と引き換えにそれを叶えてくれるという。

 誰も知らないこと。

 誰かが知っていること。

 そんな場所の物語。


 月明かりの清かなる夜更け。

 部屋の中に坐していた主の耳に、涼やかな鈴の音が届く。

 ちりん、ちりん。

「おや」

 小さく、主は呟いた。

「これはまた珍しいお客が見えたようだ」


 月明かりの青く差す縁側。

 微かな音を立てて障子が開き、一人の老人が姿を現した。

 白く豊かな髪と顎髭、まるで仙人のような、この不思議な家の主たるにふさわしい風貌をしている。

 黒い着物を纏った彼はゆっくりと障子を閉めると、縁側から草履を履いて庭に降りた。その足元に、小さな雀が寄ってくる。

「道に迷ったのだね?」

 老人は柔らかく微笑みかけると、懐からすいとひとひらの紙切れを取り出した。蝶の形に切り抜かれたその紙切れは、老人が息を吹きかけるとひとりでに羽ばたき、ふわりと宙に浮いた。

「ついてお行き。行くべき場所へ連れて行ってくれるだろうよ」

 雀は老人に向かってちょこんと礼をすると、蝶の後について飛び去って行った。暫く飛んだと見る間に、蝶と共にふわりと消えうせる。

「ちゃんと成仏できたようだね」

 老人は目を細め、手のひらを広げた。そこには小さな羽根が一片、薄明るい光芒を発していた。

「お前が此処の主か」

 不意に響いた声に、老人は驚いた様子も無く静かに首を回す。庭の中央にある小さな池の傍ら、池を囲むように並んだ岩のうち最も大きな岩の上に、声の主は座っていた。

「珍しいお客だね」

 老人は微笑むと、客人と対面するように縁側に腰かけた。

「いかにも、私がここの主だが」

 老人が答えると、客人は見定めるようにすいと目を細めた。老人の方も、柔らかい笑みを浮かべたまま客人をじっと見ている。

 

 人ではない。

 人の姿をしているが、明らかに常と違ういでたちである。


 客人は若い女の姿をしていた。顔立ちは整っていて、そこだけ見るなら美女と言って差し支えない。しかしながら、彼女を見た者が受ける印象は鋭利な刃に感じるものと似ている。整った顔に浮かぶのはただただ怜悧で鋭く相手を射すくめるような表情であり、柔らかさや優しさとは縁遠い。纏う衣裳は襟の高い中華風の男装であり、黒地にあしらわれた繊細な銀模様は地位の高さを感じさせる。肩の前に垂らして束ねられた艶やかな黒髪も彼女を女性らしく感じさせる要素にはなっておらず、何より見る者を恐れさせるのは、彼女の傍ら、地面に無造作に突き立てられた大ぶりの青龍刀であった。長い柄と幅広の刃には、龍の姿が浮き彫りにされている。

 見るからに物騒な客人であった。


「龍神がこのような場所にわざわざお越しとは」

 客人のいでたちに物怖じする様子も無く、老人は言った。客人は腕を組み、視線を老人に固定したまま口を開く。

「ここの主は願いを叶えると聞いた」

「確かに。願いの内容にもよるがね」

 老人は頷くと、袂から一振りの扇子を取り出し、広げた。その上に先程の小さな羽根を乗せ、ふっと息を吹きかける。羽根は吹き飛ばされたと見る間に輝き始め、指先ほどの小さな小鳥に姿を変えて老人の肩に止まった。

「部屋へいっておいで」

 老人がそういうと、言われた通りに老人のもとを離れ、家の中へと飛んで行った。

「式か」

「そう言うべきものだろうね」

 龍神の問いに柔らかく答えて、老人は扇子をたたむ。

「さて、龍神ともあろうお方がこの私に何の御用かな」

 扇子を開いたり閉じたりと手慰みにしながら、老人は龍神に問いかけた。龍神はそれに応じるように立ち上がり、青龍刀を地面から引き抜く。

「その前に」

 さして広くもない庭で、一瞬にして間合いを詰めた龍神が、老人に刃を突き付ける。

「仮にも龍神の端くれたる私に、偽りの姿で相対するのは無礼とは思わないか」

 目の前に鈍く光る刃を突き付けながら詰問されて、しかしながら老人は笑みを浮かべた。これまでの形だけの微笑みとは違う、含むような笑みである。

「さすがは龍神というべきかな」

 どこか楽しそうに言いながら、老人が扇子をくるりと回し、何事か呟く。と見る間に、老人であった姿は消えうせ、白い髪は黒く、髭や皺は消えうせ、曲がっていた腰は伸びてすらりとした若い体躯へと様変わりした。

「御名答」

 くすりと笑った男は、まだ若い。明らかに十代の青年である。彼は愉快そうに目を細めると、閉じた扇子を青龍刀に軽く当てた。

「あの方が何かと便利なのさ。まぁそう怒るなよ」

「別に怒ってなどいない」

 青年の言葉にそう返しながら、龍神は刀を下ろした。

「それで?本題に入ろうじゃないか」

 青年はそう言うと、膝の上に頬杖をつき、龍神を見上げた。龍神は微かに不快そうに眉を寄せながらも、咎めることはせずに口を開く。

「お前に依頼したいのは失せもの探しだ」

「失せもの?」

 頷いた龍神は暫時言いにくそうに言葉を切り、意を決したように口を開いた。

「北海龍王の龍玉が失せた」

「は?」

 龍神に刃をつきつけられても動じなかった青年が、初めて目を見開いた。

「それって大事なんじゃないか?」

「無論大事だ。だからこうして頼みに来た」

 青年は暫しぽかんと龍神を見上げた後、考え込むように額に手を当てた。

「どうりで北で雨が降らないと思った……それどころではなかったのか」

 ひとりごちて、視線だけをまた龍神に向ける。

「そんな大事を何故俺に?藁にも縋るというやつかな?」

 青年の問いに、龍神は淡々と答える。

「東海の(みずち)の推薦だ。奴はお前なら探し当てると言っていた」

 出来ないとは言わせない、とばかりの眼光を受けて、青年は頭を抱えた。高い評価を受けると言うのも考えものだ。何しろ事は龍王の龍玉なのだ。龍玉は龍にとっては命そのものである。万一北海龍王の龍玉が誰かの手に渡れば、それはそのまま龍王の命が握られる事を意味する。

「大体龍玉が失せるってどういうことなのさ」

「それがわからないから探しあぐねているのだ。龍王はある日目覚めたら失せていたとおっしゃっていた」

 青年は眉を寄せ、つと立ち上がって池に歩み寄ると、手にしていた扇子から佩玉を外して池に落とした。玉は池に小さな波紋を残し、沈んでいく。それをじっと見つめていた青年は、ふっと息を吐いて龍神に向き直った。

「わかった。引き受けよう。何日かかるかはわからないが」

 扇子を袂に仕舞い、腕を袖口に隠しながら龍神に告げる。立ち上がってみれば、意外にも青年の方が龍神より背が高かった。

「それと」

 体の向きを変え、家の方へ向かいながら、青年は龍神を横目に見て笑みを浮かべた。

「この代価は安くないよ?」

「無論、承知の上だ」

 龍神が頷いたのを見て、青年は歩みを進め、草履を脱いで縁側に上がった。

「では手掛かりが見つかったら報せるよ」

「待て」

 障子を開けようとした青年を、龍神が呼びとめる。

「何か少しでもわかったらすぐに私に知らせろ」

「わかっているよ……ああ、そうだ」

 青年が思い出したように手をたたく。

「貴方は誰なのかな?北海龍王に近しいようだけど」

 青年の問いに、龍神は暫時言葉を止め、考えるそぶりを見せた。

「側仕えだ。北海水晶宮の玄玲(げんれい)と言えばわかる」

「そう、では報せを待つことだね」

「待て」

 障子を開けて家の中へ入ろうとした青年を、龍神が再度呼びとめる。

「お前の名は」

 龍神の問いを聞いた青年は、含むような笑みを見せた。

「名が必要かな?……まぁいいか。朔夜(さくや)と呼んでくれればいいよ」

 その言葉を最後に、今度こそ青年は背を向け、障子を閉めた。



 とある山の中腹。

 山深い場所というわけでも、人里離れているわけでもないその場所に、ぽつりと一軒の家が建っている。

 そこへ向かう、山道と言うにはなだらかな道を、麓の高校の制服を纏った学生が自転車で上っていく。慣れたしぐさで古風な家の軒先に自転車を停めた彼は、どこから見ても何の変哲もないごく普通の高校生だった。

「ただいま」

 ごく自然に呼びかけて、家の中に入って行く。しかしながら、家の中はがらんとして誰の居る気配も無い。彼は気にする素振りも見せず、庭に面した部屋に入ると机の上に学生鞄を置きながら、振り返ることなく言った。

「基本的に来客は夜しか受け付けてないのだけれど?」

「お前の都合など知ったことか」

 彼の背後、柱に寄りかかるようにして、龍神が立っていた。青年、朔夜はやれやれと首を振ると、龍神に向き直る。

「手掛かりが分かれば報せると言った筈だよ」

「もう三日だ。何の手がかりも無いと言うのか」

 食ってかかる龍神に、朔夜は肩をすくめた。

「無茶言うなよ。龍神様が必死で探して見つからないものを三日で見つけろなんてちょっと横暴すぎないかい」

 朔夜の言葉に、龍神はうっと言葉に詰まり、目を伏せた。

「そんなに焦っているということは」

 上着を脱ぎ、ネクタイを緩めながら朔夜は目を細めた。

「北海龍王の容体が思わしくないんだね?」

 龍玉が無いということは、命が体を離れたということ。距離が遠ければ遠いほど、本体は衰弱して当然だ。長引けば、龍王の命はいずれ失われることになる。

 悔しげに拳を握りしめる龍神とは対照的に、朔夜の口元は弧を描いた。

「安心しなよ」

 解いたネクタイを上着と共に壁に掛けながら、朔夜はこともなげに言った。

「見当なら付いている。もうじきわかるさ」

「何だと」

 弾かれたように顔を上げた龍神が、さっと顔色をかえて朔夜の胸倉を掴む。

「見当がついているだと?ならば言え。龍玉は何処へ行った」

「落ち着きなよ」

 胸倉を掴まれても顔色ひとつ変えず、朔夜は焦る龍神を宥めるように言った。しかしそれで引き下がる龍神ではなく、暫し至近距離で視線がかち合う。龍神の射抜くような眼差しを受けて、朔夜は目を細めた。

「俺を問い詰める前に、言わなきゃいけないことがあるんじゃないかな」

「何?」

 龍神の視線が揺れる。その瞳を覗き込むようにして、朔夜は静かに続けた。

「一つ、北海龍王の龍玉が失せたといえば大事件なのに、龍玉を探しているのは貴方一人。これは少しおかしいんじゃないかな。二つ、いくら龍玉が離れていたって、普通はたった数日で命に危険が迫るなんてありえない。それなのに貴方は夜を待たずにここへ来た。つまり龍王の容体は既に危険な状態ということ。これも不自然。そして三つめ」

 歌うように、呟くように、滑らかに言葉を綴った朔夜は、一度言葉を切って口角を上げた。

「何故素性を隠すのかな?玄玲公主」

 はっと息を飲む気配と共に、龍神の目が見開かれる。しかしそれは一瞬で、龍神はすぐにまた朔夜を睨み据えた。

「随分調べが早いようだな」

「お褒めにあずかり光栄です、とでもいっておこうかな」

 くすりと笑った朔夜は、微笑を浮かべたまま冴えた目を玄玲に向けた。

「これらの疑問を繋ぐと、おのずと答えは出る」

 ふわり、と外から吹き込んだ風に乗って、ごく小さな小鳥が一羽、部屋の中へ舞い込んだ。

「貴方は最初から、龍玉が失せた理由を知っていた。そうだね、公主?」

 玄玲は目を伏せ、唇を噛んで俯いた。


 観念した玄玲が朔夜に告げた経緯は、おおよそこういうことである。


 ある時、天帝から雨を降らせるよう命を受けた北海龍王は、しかしひょんなことからその命を違えてしまった。特に重大な結果を引き起こす出来ごとではなかったものの、事は天帝の命に関することである。北海龍王は天帝に罰を願い出、聞き届けられた。

「私が願い出た罰は、位をそなたに譲ることだ」

 北海龍王は玄玲を呼び寄せ、そう告げた。

「龍王の位に就けるのは一人。位を譲るということは私がこの世を去るという事だ。天帝は既に私の龍玉を受け取って下された。私はもう長くはない」

 玄玲にとって、この出来事は青天の霹靂である。ひきとめた所で、既に龍玉を失ってしまったのでは龍王の命をつなぐすべは無い。

 そこで玄玲は父の龍玉を探し出し、何とか父の命を繋げないかと考えたのである。


 話を聞き終えた朔夜は、小さく溜息を吐いた。

「何でそうなるのさ。天帝の命だろう、従えばいいじゃないか」

「嫌なのだ、私は」

 目をそらし、不機嫌そうに眉を寄せながら、玄玲は言う。

「僅かな過ちで父があっさり命を捨てるのも嫌だし、龍王にもなりたくはない。弟が成長するまで父が永らえてくれれば、私は龍王になぞならずにすむのだ」

「しかしそれは貴方のわがままだ」

 朔夜の語気は変わらず静かだが、発される言葉は厳しい。玄玲は拳を握りしめた。

「わかっている。しかし、見てわかるだろう。私には慈雨を降らせることはできない」

 絞り出すように言った玄玲の言葉に、朔夜はぴくりと眉を動かした。

「なるほどね」

 龍神の性格は、降らせる雨にある程度影響する。その点から言えば、玄玲の性格は不向きどころか全くの規格外だ。対面しただけで感じ取れる彼女の性格からは、激烈な雷雨や肌を刺すような冷たい雨が連想される。年を重ねればある程度制御できるようになるだろうが、今の段階ではまだ穏やかな雨を降らせるのは難しいだろう。

「弟は穏やかな性格だ。私などよりよほど向いている」

 玄玲はそう言って、掴んだままだった朔夜のシャツを漸く放した。

「事情は理解したよ」

 軽く胸元を叩いてシャツの皺を伸ばした朔夜が、ふっと目を細める。その肩に小鳥が止まり、二、三度小さく羽ばたいた。

「ああ、やっぱりね」

「なに?」

 急な朔夜の呟きに、玄玲がいぶかしげに声を上げる。朔夜は肩の鳥を手に移らせると、その手をひらりと翻した。同時に、小鳥が忽然と消えうせる。

「わかったよ、龍玉の在処が」

 その言葉を聞くや否や気色ばんで口を開こうとした玄玲を宥めるように掌を立てた朔夜は、少し考えるようなそぶりを見せた。

「教えてもいいけど……龍玉の在処を知ったら、貴方は取りに行くつもり?」

「当然だ」

 言下に言ってのける玄玲に、朔夜は苦笑を浮かべる。

「残念ながら、それは無理だと思うよ」

「何故だ」

 眉を寄せる玄玲に一歩歩み寄って、朔夜は彼女の顔を覗き込んだ。

「さっきも言ったけれど、龍王の容体の悪化が早すぎる。これは何を意味すると思う?」

 心当たりを探るように、玄玲の視線が焦点を散らす。続く言葉の重さを十分に知った上で、しかし朔夜はにっこりと笑った。

「つまり龍玉はもうこの世にない――冥界に渡っているということだよ」

 間近にある玄玲の目が見開かれるのを見ながら、更に言葉を重ねる。

「いくら龍王の娘の貴方でも、冥界に行って帰ってくることはできない……すべて命あるものは冥界に踏み込めば即ち死す。戻ることはできない」

 龍王の命を救うことは既に不可能。

 そう告げられた玄玲が、唇を噛んで俯く。その様子を、朔夜はじっと見つめていた。その表情から、常に浮かんでいた笑みが消えている。

「龍王にまだ生きてほしい?」

 囁くような問いに、玄玲が力なく頷く。

「どうしても?」

 すかさず重ねられた問いに、玄玲は怪訝そうに顔を上げた。朔夜と視線を合わせて、初めて彼がもう笑っていない事に気づく。

「……何故問う」

 かすれる声で、玄玲は訊いた。笑みを消した朔夜はまるで心を持たないかのような冴え冴えとした眼差しをしていて、玄玲に底知れない畏怖を抱かせていた。

「方法なら、あるよ。どうしてもと言うならね」

 玄玲の瞳に浮かんだ怯みを感じ取ってか、朔夜の表情に温度が戻る。

「勿論、対価は安くないけれど」

「……方法があるならなんでもしよう」

 玄玲の返答に確かな意志があることを確認して、朔夜は口角を上げた。

「わかった。じゃあ行ってくるよ」

 そう言って玄玲から離れ、戸棚の引き出しを開ける朔夜に、玄玲は一瞬あっけにとられた。

「待て。どこへ行くというのだ」

 ようやく玄玲がそう言った時、朔夜は戸棚から取り出した袋を開け、中を探っていた。

「何処って、冥界へさ」

 探り当てた呪符を手に、朔夜はこともなげに答える。玄玲は眩暈を覚えた。

「何を言って……お前なら帰って来られるとでも言うのか?」

「そうだよ」

 反問の筈の問いは、さらりと肯定される。言葉を失う玄玲に、朔夜は笑みを深めた。

「東海の蛟に俺の話を聞いた時、俺が蛟と会ったのがいつのことかは聞かなかったみたいだね」

 呪符に何やら書きくわえて懐に入れ、押し入れから古びた箱を引きずり出しながら、朔夜は玄玲に告げる。

「あれは確か、二百年くらい前の事だよ」

 玄玲は困惑を深めた。人間の寿命がせいぜい百年程度しかないことを、玄玲は知っている。あまつさえ目の前に居るこの青年は、どう見ても年若い姿をしているのだ。

「すべて命ある者は冥界に行けば帰れない……それは死が命ある者に平等に与えられた唯一の権利だからだ」

 古びた箱から大ぶりの鏡を取り出し、その表面を指でなぞりながら、朔夜は淡々と語る。

「もう何千年か……いや、もっと前だったかな。数万年だっけ?よく覚えていないけど……少々わるさが過ぎたようでね」

 鏡を部屋の隅に据え、朔夜は玄玲に向き直った。

「取り上げられたのさ、唯一平等な権利を」

 どんな苦痛に苛まれても、どれだけの悲しみを背負っても、永劫に生き続けろと、そういう残酷な刑罰を、この身に施されたのだと。

 朔夜の告白は、玄玲の想像を超えるものだった。

「ただ死ねないだけじゃない」

 作業を終えたのか、手の埃を払って玄玲に向き直りながら、朔夜は先ほどと変わらない笑みを浮かべたまま続けた。

「何を食べても味がしない。夜になっても眠れない。痛みは感じるけれど、どんなに体が傷ついてもいずれ治る。特に苦しみを与えられるわけではないけれど、これが未来永劫続くんだ。狂うことすら許されない……まるで真綿の拷問だよ」

 歎くでもなく、怒るでもなく、常と同じ微笑を湛えて淡々と語る朔夜に、玄玲は寒気すら覚えた。

 この男の感情は、既に麻痺してしまっているのではないだろうか。

 そう感じると同時に、玄玲はその罰の恐ろしさに気付いた。まさしく真綿の拷問だ。終わりなき平坦な時間。玄玲は息をのんだ。

「お前……お前、一体何をした」

 玄玲の問いに、朔夜は何も答えず、ただほんの少し笑みを深めた。

「お喋りは終わりにしよう」

 鏡の前に胡坐をかいて座りながら、朔夜は言った。

「龍玉を取ってくるよ。すぐ戻るから、そこで待っていて」

 そう告げると、鏡に向き直って何やら唱え始める。朔夜が言葉を綴るにつれ、鏡に映る像が徐々に陰り、歪んで暗い闇のような黒の中に消えて行った。それと同時にゆっくりと朔夜の体から力が抜け、抜け殻のようになる。実際、今の朔夜の体は魂が抜けた抜け殻にすぎないのだと、玄玲には分かった。

「一体何者なのだ……」

 小さな呟きは、誰に聞かれる事も無く風に溶けて消えて行った。



 朔夜の魂が抜け出てから数刻。

 じっと待っていた玄玲の前で、まず鏡が再び闇を映した。ほどなく朔夜の体がぴくりと動く。玄玲が声をかけようとした時、鏡の中の闇に何かが映った。何かが、近づいてくる。しかし玄玲がそれを見定めようと意識を移すより早く、頭をもたげた朔夜が鏡に手を翳した。同時に闇が消え、鏡は通常通りこちら側の物を映し出す。

「今のは……」

「追手だよ。龍王の龍玉を盗んできたんだ、冥界のほうも黙ってはいないさ」

 こともなげに言って、朔夜は玄玲に手に持ったものを差し出した。子どもの拳大の黒耀の玉。まぎれもなく北海龍王の龍玉である。

「道は閉じたからもう心配ない。龍王の容体も回復しているはずだ。貴方はまず早いとここれを持って龍王のところへ行くんだね。それから天帝に今回の措置を見直すよう上奏することだ。龍玉が戻った今、天帝だってわざわざまた奪うようなことはしないはずさ」

 玄玲が龍玉を受け取るのを見届けて、朔夜は鏡に布をかけ、元通り箱にしまった。

「対価は?」

 思い出したように玄玲が問えば、朔夜は片付けを続けながら答える。

「後でいい。俺にもまだすることがあるからね。まずは龍王の所へ龍玉を返しに行くことだ」

 まだすることがある、という言葉に引っかかりを覚えながらも、玄玲はひとまず彼の指示に従うことにした。龍玉を大事に懐に収め、立ち去ろうとしてもう一度朔夜を顧みる。

「ではまた来る」

 朔夜は特に何も言わず、ただ笑顔でひらひらと手を振った。



 玄玲の立ち去った後。

 鏡や呪符を元通り片付けた朔夜は、一つ息を吐いて机に寄りかかった。そこで、まだ制服を着たままだった事に気づく。忘れていた自分に苦笑を洩らしながら、朔夜は慣れた手つきで制服を脱ぎ、黒い着物を身に纏った。深草色の帯を締め、いつもどおりに扇子を手にした時。

 ちりりん。

 どこからともなく、鈴の音が響いた。

「来たね」

 朔夜が小さく呟いて庭に面した障子を開け放つと同時、空気が揺らめいて空中に二つの人影が現れた。誘われるようにぶわりと風が吹き、朔夜の頬を掠めていく。

「やれやれ、冥府から緊急に報せが来たので何事かと思えば」

 そう切り出したのは、赤い衣を纏った男。温和ささえ感じさせる風貌ながら、冴え冴えとした視線で朔夜を見下ろしている。ため息混じりの彼の言葉に、切り込むような鋭い声が続いた。

「また貴様か」

 声の主は、真っ白な衣を纏った男である。怜悧な風貌に明らかないら立ちを湛えて、射抜くように朔夜を見ていた。

「ようこそ、この陋屋へ……南斗神君(なんとしんくん)北斗神君(ほくとしんくん)

 動揺の欠片も見せずに朔夜が言えば、赤い衣の南斗神君は視線に鋭さを加え、白い衣の北斗神君はあからさまに舌打ちをした。

「冥界を騒がすとは何のつもりだ」

 南斗神君の追及に、朔夜は目を細めた。

「俺だって別にやりたくてやったわけじゃないよ。でもお客の依頼だからね」

「そんな言い訳が通じると思っているのか」

 北斗神君が鋭く問う。朔夜は飄々と答えた。

「言い訳も何も、事実だからね」

「ふざけるな!」

 北斗神君が一声怒鳴ると、一瞬で突風が吹きぬけ、朔夜の脇の障子を砕いた。

「北斗!」

 南斗神君が窘めるように声を上げるが、北斗神君は怒気を収めようとはしない。

「貴様が我々の管理を外れてよりこちら、貴様のやりようは目に余る。生死を預かる者として、これ以上勝手を許すわけにはいかない」

 南斗神君の制止にも耳を貸さず、北斗神君が剣を抜く。朔夜は苦笑を浮かべた。

「といわれても……それに、俺を殺せないことは知っているのでは?」

「痛みは感じるんだろう?」

 北斗神君の周囲に風がゆるく渦を巻く。朔夜は困り顔で頬を掻き、南斗神君に目を向けた。

「いいの?」

「我々とてお前への手出しを禁じられているわけではない」

 朔夜の問いに、南斗神君がにべもなく答える。更に言葉を続けようとした朔夜の頬を、風が打った。反射的に翳した扇子が、北斗神君の剣を受け止めている。

「案外短気なんだね」

 至近距離で鍔迫り合いをしながら、朔夜は笑みを含んだまま言った。

「意外か?」

「少しね」

 朔夜の笑みが深まったと見る間に、北斗神君の剣が弾かれる。飛び退って体勢を立て直した北斗神君の前で、朔夜は扇子を広げた。

「あ~あ、傷がいってしまったね。さすがは北斗神君の剣だ」

 その言葉通り、朔夜の手にある扇子の骨に、大きく一筋の亀裂が走っている。しかしながら、扇子一本で北斗神君の神剣を受けてその程度で済んでいるのだから、ただの扇子ではない。朔夜はするりと指先でその傷を撫でると、広げた扇子を顔の前に立てた。

「乱」

 小さく呟くと同時に、扇子から無数の花弁が散り出、風に吹き乱されるかのように不規則に渦を巻く。一見美しい情景に見えるが、よく見れば渦を巻く花弁に触れた小石や木の葉は微塵に砕け散ってゆく。花弁の一片一片が、鋭利な刃物にも似た力を持って渦巻いているのだった。

 北斗神君は暫し見定めるようにその光景を見ていたが、すぐに剣先を朔夜に向けて水平に掲げ、鋭く息を吹いた。ごう、と地を揺らすような音がして、突風が散り乱れる花弁の中央を割いて吹き抜ける。同時に、花弁が吹き払われた軌跡を追うように北斗神君が切り込んだ。目の前に迫る剣先に顔色一つ変えず、朔夜が扇子をくるりと回す。

「集」

 朔夜の声に応じるように、一度は吹き払われた花弁が一斉に北斗神君を阻むようになだれ込む。一瞬北斗神君の刃がとどめられた隙に、朔夜はぱっと一羽の雀に姿を変え、屋根へと飛びあがった。追いすがる北斗神君に向け、人の姿に戻った朔夜が再び扇子を開く。

「そこまで」

 突如、凛とした声が響く。朔夜も北斗神君も、一瞬その場で動きを停めた。

「双方武器を引きなさい」

 期せずして同時に朔夜と北斗神君の視線が中空に向く。そこには白く豊かな髭を靡かせた老人がいた。彼を認めた朔夜はいつもどおりに微笑みを浮かべ、対照的に北斗神君は舌打ちせんばかりに顔を顰めた。

「これはこれは太白金星。天帝のお使いかな」

 人を食ったような朔夜の挨拶にも眉ひとつ動かさず、老人は北斗神君に目を向けた。

「粗暴なまねをなさるものではない。貴方方ともあろうものが」

「しかし太白……!」

「上帝よりの命じゃ。剣を引きなされ」

 抗議しようとした北斗神君に、老人は厳しく言い放つ。北斗神君は舌打ちを零しながら、剣を鞘に納めた。それを見て、朔夜も扇子を閉じた。

「太白」

 南斗神君が老人に声を掛ける。

「その者は冥界を騒がせた。我らの役目において見過ごすわけにはいかない」

「それは承知しておるとも。しかしこの度は手出し無用との命じゃ。従いなされ」

 老人に諭されて、二人は不満げな色を残しながらも、中空へと離れていく。

「覚えておけ」

 姿を消す直前、北斗神君は朔夜を睨み据えながら言った。

「次は無い」

 二人の気配が消える。

 大きく息を吐いた朔夜は、老人に向き直った。

「天帝のご配慮に痛み入りますとでも言っておこうかな」

(ぼう)よ」

 真名を呼ばれて、朔夜は軽く眉を動かした。

「その名は捨てた」

「そうそう捨てられるものではなかろう。名も、過去も、そして罪もな」

 老人はそう言うと、朔夜の傍に寄り、その手から扇子を取った。

「この度はお咎め無しじゃが、わざわざ罪を重ねるものではない。もう少し己を惜しむがよい。わしはお前を、少し哀れに思う」

 淡々と諭しながら、傷ついた扇子を撫で、ふっと息を吹きかける。朔夜の手に戻された扇子には、もう傷は残っていなかった。

「それではの」

 一言、別れを告げて、老人は姿を消した。


 残された朔夜は、手にした扇子を見下ろして、一人呟く。

「惜しむ命を持たない俺に、何を惜しめと言うのさ……」

 風は答えてはくれない。


 朔夜が屋根から降りると、池から亀が顔をのぞかせていた。ただの亀ではない。この屋敷に幾人か住んでいる妖の一人である。先程の騒ぎに驚いて隠れていたらしい。朔夜は苦笑を見せた。

「騒がせたね、甲玄(こうげん)。もう心配ない」

 そのまま家に入ろうとする朔夜の背中に、声がぶつかる。

「わしも、お前は少し自分を惜しんだ方が良いと思うぞ」

 朔夜は振り返らずに、家の中に入って行った。



 暫くして、朔夜の元を玄玲が訪れた。

「首尾よくいったかい」

 何やら書き物をしながら、顔を上げずに朔夜が問う。玄玲は肯定を返した。

「天帝は父上への処罰を取り下げて下された」

「それはよかった」

 朔夜は微笑んで、書き上げた紙の束を揃えた。実はそれはただの高校の宿題なのだが、玄玲にはわからない。

「それで、対価は」

 声音に緊張をにじませて、玄玲は問うた。今回朔夜がしたことの重大さは、玄玲とて重々承知している。

 その対価が生半なものではなかろうということも、予測していた。

「そうだね……」

 朔夜は目を伏せ、暫し考えているようだった。

 やがて顔を上げると、玄玲を見上げてにこりと笑う。

「だったら、俺と契約を結んでもらおうかな」

「契約?」

 予想外の言葉に目を瞬かせる玄玲に、朔夜は頷く。

「俺が呼んだら来てくれる、そういう、まあ謂わば式神としての契約だ」

 玄玲は軽く眉を寄せた。

 その、対価は。

「安すぎはしないか」

 玄玲の負う責任は、呼び出されたときに現れて手を貸すだけ。

 玄玲の依頼の為に冥界まで行った朔夜への返礼としては、あまりに安く思えた。

「そうかな。人の身で龍神様を好きに呼びだすなんて、なかなかできることではないと思うよ」

 そう言われて、玄玲は黙考した。

「……わかった」

 暫しの後、彼女は承諾を口にした。

「ただし、それでは私の気が済まない。普段より、お前の手足となろう」

 呼ばれなくても手助けすると自ら言い出した玄玲に、朔夜が目を瞠る。

「その言葉の意味をわかって言っているのか?俺は死なない。半永久的に俺に使役される事になるぞ」

「構わない。それだけの恩を、私は受けた」

 玄玲が言い切ると、朔夜は苦笑した。

「生真面目だなあ」

 そう言いながらも、もう反対はしない。

 向かっていた文机の前から立ちあがって、玄玲に向かって手を差し伸べた。


「では、これからよろしく、玄玲」

「ああ」


 こうして、神代家の住人に、北海の龍神が加わったのだった。


閲覧ありがとうございます。

当作品は、サイトでは連作として公開しているものの一篇目に当たります。

連載中の長編と関係していますが、これはこれで独立したものとして読んでいただけるように努力してみました。

夜風を感じていただけたなら幸いです。

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