翌日、王宮医務室にて。
――Side 幸希
「はぁ……」
その日の朝、私は洗面台で顔を洗った後、鏡に映る自分の酷い有様を見ながら溜息を吐いた。
うっすらと……、目の下にクマが出来てしまっている。
当然といえば当然かもしれない。昨夜はベッドの中で一睡も出来ずに悩み続けていたのだから。
年頃の女性にあるまじき、肌への反逆だ。
けれど……、昨日一日で起こった、ありえない大事を思えば、このくらいで済んで良かったと胸を撫で下ろすべきなのかもしれない。
「どうしよう……」
アレクさんと、カインさんからの……、紛れもない感情の形に、私はさらに表情を曇らせる。
まだ確かな言葉として告白をされたわけではないけれど、気付かないフリは出来ない。
意味深な言葉と、二人の瞳から熱心に注がれた、……私に対する想い。
二人とも、とても真剣だった。本気で……、私の事を。
「どうして……、私、なの?」
二人からすれば、私なんでまだまだお子様同然の存在で、一人の女性として想いを抱くには、色々と不足した存在にしか思えない。
私なんかじゃなくて、もっと……、大人で、綺麗な女性達が幾らでもいると、そう思う。
だけど、気のせいだ、自分の自信過剰な勘違いだと誤魔化すには、色々と無理があり過ぎて……。
「はぁ……」
『ユキ姫様、お茶が入りました。朝食前にどうぞ』
「あ、ロゼリアさん。すぐに出ますね」
二人からの想いに悩みながら溜息のお祭りを開催していると、洗面所の外からロゼリアさんの声がかかった。毎日というわけにはいかないけれど、ロゼリアさんに用事がない限りは、私の部屋で朝のお茶の時間を過ごすのが恒例となっている。
女性同士という事もあり、時にはセレスフィーナさんもこの輪に加わる事があったりする。
椅子を引いてくれたロゼリアさんにお礼を言って腰かけると、悩み疲れた心をそっと温かく包み込んでくるかのような甘い香りが鼻を擽った。
「ユキ姫様、朝食の席に行かれる前に、王宮医務室に立ち寄られてはいかがでしょうか?」
ロゼリアさんの気遣いとその心配げな視線が、私の目元で存在を主張しているクマへと向けられる。やっぱり、誤魔化すには無理があるらしい。
確かに、レイフィード叔父さんに見られでもしたら、あの有無を言わせぬ叔父さんスマイルによって、事の次第を自分から吐いてしまう未来は目に見えている。
姪である私の事を可愛がってくれている心優しいレイフィード叔父さん……。
「レイフィード叔父さんにバレたら……」
「副団長とカイン皇子の身の危険に繋がるかと存じます」
「やっぱり……、その可能性が高い、ですよね」
命までは取られないと信じたいけれど、レイフィード叔父さんが本気で怒ると物凄く怖い事を、私は十分に理解している。
アレクさんとカインさんが恐ろしい目に遭う前に、ここはひとつ、目の下のクマを何とかして貰う為に、セレスフィーナさんの許を訪れるのが最善だろう。
喉の奥に溶け消えた紅茶の余韻を感じながら、私はロゼリアさんの提案を受け入れたのだった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「ユキ姫様、これで如何でしょうか?」
朝早くから訪ねて来た私を温かく迎え入れてくれたセレスフィーナさんが、治療を終えた後に手鏡を差し出してくれた。あんなにハッキリと浮かんでいたクマが、綺麗に消え去っている。
治療は簡単なもので、薄緑色の塗り薬を目元に塗っただけ。
それなのに、五分ほど大人しくしていた後に薬を拭ってみたら、薄らいだという表現以上の効果が出ていた。これなら、レイフィード叔父さんやお父さんに何かを聞かれる事もないだろう。
「セレスフィーナさん、有難うございました」
「いえ、ユキ姫様の御心を思えば、力になれる事がございましたら、全力を尽くさせて頂きたいと思っておりますので。いつでもいらしてください」
私の手に塗り薬の入った四角い小瓶を握らせると、セレスフィーナさんは励ますように温もりを伝えてくれた。アレクさんとカインさん、二人の事を考えるのも、答えを導き出すのも、私にしか出来ない。けれど、だからといって一人で全てを抱え込む必要はないと、いつでも相談に来てくれて構わないと、セレスフィーナさんとロゼリアさんは微笑みながら、私の支えとなる事を誓ってくれた。
「アレクとカイン皇子の事では、色々と考える事も多いかとは思われますが、私達はいつでも、ユキ姫様の御心を支えたく思っております」
「その通りです。もし、副団長が失恋なさったとしても、騎士団が総出で早期浮上の為に全力を尽くしますので、どうかご安心を。ユキ姫様のお好きな殿方を、見事選び出されてください」
「は、はい……。あ、ありがとう、ござい、ます」
物言いは静かなんだけど、ロゼリアさんの眼差しには、熱く燃え上がるような闘志の気配がっ。
アレクさんの事は何があっても支えてみせるから、何も心配するなと微笑んでくれるロゼリアさんが有能な事はわかっているけれど、何故、闘気の気配まで混じっているんだろう。
その静かな迫力に慄きながら口の端を僅かに引き攣らせていると……。
「ユキ姫様のようなお子様に想いを寄せた段階で、苦労は目に見えていますからね」
「きゃああ!! る、ルイヴェルさん!? な、何でここに!?」
訪れた時には不在だったはずの王宮医師の片割れであるルイヴェルさんが、いつの間にか私の右耳横に!! しかも、その台詞とは何の関係もない色香の滲む低音で囁くって、一体何事!?
空いている私の隣に腰を下ろすと、その長い足を組んで居座ってしまう。
お世話にはなっている。だけど、ルイヴェルさんには時々意地悪な事もされているので、警戒を抱いてしまうのは仕方がない。
「ルイヴェル……、子供じみた真似はやめなさい。ユキ姫様、申し訳ございません」
「い、いえ……。ちょっと、吃驚しただけですから、大丈夫ですよ」
「ルイヴェル殿、ユキ姫様に対する先程の振舞い……、臣下としてよろしくはないかと」
私の左隣に座っていたロゼリアさんが、視線だけをルイヴェルさんに向けて冷ややかな声で言った。セレスフィーナさんも、じっとりと呆れ果てた眼差しで自分の弟さんを睨んでいる。
まぁ、それで懲りてくれる人でもないのはわかっていたのだけど、ルイヴェルさんはその視線さえ楽しいものだと気配で一蹴してみせた。
「今のユキ姫様には、息抜きというものが必要だろう? だから、俺は繊細で清らかな王兄姫殿下の為に気遣いをしているだけだ」
この調子だもの……。何を言っても、私に対する言動が改善される気は微塵もしない。
「ユキ姫様、昨日も進言させて頂きましたが、何も無理に選ばれる事はないのですよ? 貴女のような身も心もお子様な時期は、特に慎重を期さなければなりませんからね」
「ルイヴェルさん……、やっぱり、私の事、嫌いですよね?」
一応これでも、地球では二十歳を迎えた成人女性だ。
確かに顔は童顔気味で、同年代の子達よりも幼く見られる事も多々あった。
まぁ、成人しても、それは大人としてのスタート地点に過ぎず、これから歩む人生こそが、大人となっていく為の大事な一歩一歩だとはわかっている。
だけど、こう……、お子様お子様と連呼されると、物申したくなるというか。
「俺がユキ姫様を嫌うなど、以前にも申し上げましたが……、ありえませんよ」
胡散臭い程に爽やかなロイヤルスマイルで断言されてしまった。
確かに、嫌悪や敵意の気配は感じられないけれど、それをそのまま信用してよいものか。
ポンポンと子供を前にしたかのように、ルイヴェルさんは私の頭を楽しそうに撫でてくる。
悪意はない、だけど……、やっぱり完全に私で遊んでいる。
「はぁ、ユキ姫様、ルイヴェルの言う事はあまり聞かないようにお願いいたします。幾つになっても……、子供同然の弟ですので」
「セレス姉さん……、それはどういう意味だ?」
「お姉ちゃんの目をよく見ていれば、わかるんじゃないのかしらねぇ?」
じー……。向かいの席に座っている双子のお姉さんを、ルイヴェルさんが真剣に見つめ始める。
知を秘めた、同じ深緑色の瞳が、水面下で物凄い問答を繰り広げているような気がするのは、気のせい、かな?
穏やかで心優しい理想の女医さんであるセレスフィーナさんの全身から、ゆらりと不穏な炎がじわりと溢れ出してくるような気配を、ロゼリアさんと一緒に感じ取る。
「ユ、ユキ姫様、そろそろ朝食の時間が迫っております」
「そ、そうですね。レイフィード叔父さん達を待たせると悪いですし……、せ、セレスフィーナさん、ルイヴェルさん、お、お邪魔しました!」
逃げ道を作ってくれたロゼリアさんに感謝しつつ、私は早口で退出の旨を告げながら、そぉ~……と、王宮医務室を脱出した。
そして、無事に朝食の席に向かい始めた私の背後、遠くなった王宮医務室から、――女神様の怒りが大爆発したのが伝わってくるのだった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
――Side セレスフィーナ
「セレス姉さん、そろそろ機嫌を直してくれないか?」
ユキ姫様がこの王宮医務室を後にされてから一時間ほど。
人がどれだけ怒っても反省のない双子の弟は、私の機嫌を少しでも直そうと書類仕事をしながら、私の様子を窺ってくる事を繰り返していた。
何故私があんなにも怒ったのか、ルイヴェル本人もわかっているんでしょうけど……。
「私ではなくて、ユキ姫様に謝りなさい」
「俺は何も悪い事は言っていないだろう? ただ、ユキには早すぎると助言をしただけだ」
「早いか遅いか、それを決めるのは貴方じゃないのよ」
「俺はアレクやカインの邪魔をする気はない。ユキに愛を求めたければ、常識の範囲内でなら見守ってやるつもりだ。……だが、ウォルヴァンシアに戻って数か月ほどのユキにとっては、さて、どうなんだろうな?」
確かに、ユキ姫様はこのウォルヴァンシアの地に戻られて数か月程しか経っていない。
過去、この地で過ごした記憶も封じられており、何もかもが初めての状態。
必死に新しい生活に慣れようと頑張っていらっしゃるユキ姫様に、アレクとカイン皇子の想いはさぞかし難題となっている事でしょうね……。
信頼し、頼もしく思っていた騎士からの想いと、他国からやって来た竜からの想い。
一度に二人の男性から想われる事は、果たして……、ユキ姫様にとって幸福なのか、それとも。
「貴方の言いたい事はわかっているつもりよ。ユキ姫様のご苦労も、今のお気持ちも……。それに、アレクとカイン皇子がその想いを伝えられても、――決して結果はすぐには出ない事も」
それは、予想ではなくて、確かな事実。
ユキ姫様が、アレクとカイン皇子に対して答えを出すには、かなりの時間がかかる。
それを口に出来るのは、私達が人間とは違う特殊な性質を持っているからだ。
種族によって違いはあるけれど、私達狼王族は、成熟期と呼ばれる大人の姿になるまでは……。
「ユキ姫様はご自分の世界で成人を迎えていらっしゃると仰っていたけれど……、実際はまだ、私達の種族的なものでいえば、少女期にあたるご年齢なのよね」
「狼王族の少女期は、異性からの恋愛感情に過剰な反応を示し、伴侶を定めるまでにかなりの月日を要する。あのお姫様にとっては、文字を覚えるよりも難題だな」
「お教えすべきか迷うところだけど、自然に任せておくのが一番だから……。当分は見守るのが一番ね」
成熟期に達していれば、まだスムーズにいくのだけど……。
ユキ姫様がその時期を迎えるのは遥か先の話。だから私は、ゆっくりと時間をかけて答えを出すようにとお願いした。あまり情報を与えすぎるのは毒にしかならないと、そう思ったから。
「でも、ルイヴェル?」
「何だ?」
「ユキ姫様のお気持ちを思い遣っているのも本当なんでしょうけど、本当のところは、アレクとカイン皇子に対する不満から、大人げない事ばかり言っていたんでしょう?」
今はアレクがユキ姫様の保護者的な立場になっているけれど、その役目は、本来ルイヴェルが担っていた立場。幼かったユキ姫様を誰よりも可愛がり、その面倒を見ていた弟。
記憶が封じられてしまったせいで、今のユキ姫様に当時の想い出はないようなもの。
私達の父親であるフェリデロード家の当主が国に戻って来ない限り、その記憶も戻せない。
それが、ルイヴェルにとって……、どれほど辛い事なのか。
物事を冷静に判断し、あまり動じない性質の弟。その心を強く揺さぶる事があるとすれば、自分にとって大切な存在に関して、だろうか。
「昔よりは加減した接し方をしているつもりだがな?」
「もう少し控えなさい。あの頃の記憶を持たないユキ姫様相手に今の対応を続けていたら、――いつか本気で嫌われるわよ?」
「……」
わざと声を低めて脅すように笑ってみせると、ルイヴェルは押し黙り、視線を横に逃した。
この弟が一番怖がっているのは、避けたい未来は、ユキ姫様から本気で嫌われてしまう事。
当時の事を知り、長年一緒にいる姉の私にはお見通しなのよ、まったく……。
これで少しは懲りてくれるといいのだけど、まぁ、この弟の性格を考えたら……。
(またやらかすわね……。はぁ)
言って聞くような弟なら、私もこんなに困ったりはしない。
魔術の才も、医者としての腕も、十分すぎるほどにある弟だけど、その性格だけは長年の悩みの種となっている。昔よりも、落ち着いたといえば、そうなのだけど……。
とりあえず、ユキ姫様に対して行き過ぎた真似をしないように見張っておかないと。
私は溜息と共に羽根ペンの先をインクにつけると、心優しい王兄姫殿下への申し訳なさを感じながら、仕事に向き直るのだった。
2015・07・08
本編改稿完了。