幸希の身に迫る危険……
――Side 幸希
肌を、冷たい感触が撫で去っていく……。
首筋から背中を伝う、寒いという感覚が何度か走り抜けた後、私はようやく目を覚ました。
瞼をゆっくりと押し上げると、自分がどこか、草地のような場所に寝そべっている事を知る。
上半身を起こし、天上からこちらを照らす三つの月の優しい光に助けられ、辺りを見回す。
……風に葉を揺らしながら根を張る大きな木々が立ち並んでいる光景は、森という言葉を連想させた。湿った草の感触を足に感じながら、来た事もない場所に目を瞠っていた私は、ゴォォォ……と、地の底から風が吹き上がってくる音に気付き、後ろを振り向く。
恐る恐る、ゆっくりとそちらの方に、匍匐前進でもするかのように近付いてみると、一面を闇色に染め上げた大口が覗く光景が見えた。
「……崖、なの?」
獣の唸り声にも似た風の音が崖と思われる場所の下から聞こえてくる。
それは、慟哭のようにも思える響きで……、もし、ここから落ちてしまえば、一瞬で闇と同化し、自分の意識と命の鼓動は、誰にも気付かれず確かな終わりを迎える事だろう。
怖い……。私は身体を震わせながら慌てて後ろに下がった。
「何で……、こんな場所に」
「そりゃあ、俺がお前を連れて来たからだろうなぁ」
突然、すぐ耳元で聞こえた嘲笑を含んだ艶のある低い声音に驚き身体をのけぞらせた。
私の問いに答えたその声は、カインさんのものだけど、……全く別の誰かの存在だ。
月に照らされ、狂気の笑みを浮かべる、望まれない存在。
「禁……、呪っ」
草地に着けていた膝を上げ、愉しそうに私を見下ろして来た男。
カインさんの身体を奪った禁呪が、喉奥で笑っている。
自分がこの男に儀式の最中連れ去られた事を思い出した私は、精一杯の怒りを込めて禁呪を睨み上げた。
「面白い奴だな。怖いくせに、虚勢を張るのか。これから俺に何をされるのか考えて、怯えまくってるくせになぁ」
確かに怖い。自分がこれからどうなってしまうのか考えると、禁呪の指摘通り、怖くて仕方がない。だけど……、怖がるよりも先に、私にはやる事がある。
「カインさんの……、身体、から、出て行ってくださいっ」
「あ?」
「貴方には、自分の実体化した本体があるでしょうっ。それなのに、どうしてカインさんの身体に」
「確かになぁ。でも……、俺の本体は王宮で身動きがとれない状態ときた。まぁ、すぐに回収する予定だが、この皇子さんの身体にも使い道はある。本人がまだ使いこなせて、ない竜の力ってやつがな」
トントンと、自分の胸の辺りを軽く指先で小突いた禁呪が、カインさんの顔で嗤う。
禁呪という存在の本質を示すように、醜悪で、暗い気配を宿した笑み。
「俺の力で呪い殺してやるのもいいと思ったんだが、どうせなら、こいつの中に在る竜の力を思う存分使いまくってからでも遅くないしなぁ。俺の本体の回収が終わったら、手始めにこの国を滅ぼしてやるよ」
「そんな事、出来るわけ……っ」
「この身体が、カイン・イリューヴェルのモンだってわかってるだろ? たとえ中身が違っても、そう簡単に他国の皇子を攻撃なんて出来ねぇよ」
禁呪は、カインさんという存在を盾にして、ウォルヴァンシアにまで害を成そうとしている。
本体で報復を成し遂げるよりも、カインさんの身体を支配してやった方が、何倍にも私達が苦しみ辛い思いをすると知っているから……。
「あぁ、そうだ。全部終わったら、惨たらしく死んだ奴らの前で、この身体の持ち主の意識を一度戻してやるのも面白いかもなぁ。自分の手で何をやったか、……ククッ、死にたくて堪んなくなるだろうよ」
「ふざけないで!! カインさんを、本物のカインさんを返して!! それは貴方の身体じゃない!! カインさんのものよ!!」
悪趣味極まりない禁呪の発言に、大声で噛み付くと、それすらも面白いと言っているかのように、禁呪は真紅の双眸を細め、笑いを漏らした。
「儀式も失敗して、あとは死ぬだけなんだぜ、こいつ。それを俺が慈悲を持って有効活用してやろうと思って乗っ取ったんだ。用なしになるまでは長生き出来るようになったんだぜ? 礼を言われるべきだろ」
支配する事で、カインさん本来の意識を踏みつけてそこにいるくせに、慈悲だなんて言葉軽々しく使わないでほしい。
禁呪を睨み据えたまま、何かこの状況を打開する方法がないかと頭の中で必死に考える。
何の力もない私では、禁呪に向かって行ったところで、傷のひとつも付ける事は出来ない。
だけど、それでも、カインさんの身体を好き勝手にされるのは、我慢出来ないから。
「カインさん!! 禁呪に負けないでください!! このままじゃ、貴方の身体を使って、禁呪が沢山の人を!!」
「俺の中のこいつに訴えても無駄だぜ? 心も身体も弱りまくってる奴が、俺を押しのけて出て来られるわけがねぇからなぁ」
「そんな事ない!! カインさんは、貴方なんかに負けるような弱い人じゃないもの!! カインさん!! お願いだから、戻って来てください!!」
必死になって叫ぶ私の左腕を、禁呪の右手が捕える。
儀式の場で見た、怪物のような手ではなく、人の手。
私を引き摺り、崖の先端へと移動した禁呪が、風の吹き上げる崖の底を愉しげに口笛を吹いて見下ろす。大口を開けた闇夜を目に焼き付けろとでも言うかのように、私を崖の先端に押し付け頭を鷲掴んできた。
「こっから落ちたら、……まず助かんねぇよなぁ」
「やめ……、んっ」
「お前の事は嫌いじゃねぇが、生かしとくと、後々面倒そうだからな。ククッ……、一瞬で楽になれるだろうから、恨むなよ?」
「嫌あああっ」
首を掴み上げ、崖の先端の先へと私の身体をぶら下げた禁呪が、面白くて堪らないと言わんばかりに口許の歪みを深くしていく。
「嫌っ……、放……、し、てっ」
「あぁ。放してやるよ。――闇の底で、次に来る死人でも待ってやるんだな」
瞬間、禁呪の拘束が解かれ、私の身体は何もない宙へと投げ出された。
禁呪に支配されているカインさんの姿が遠くなっていく。
視界いっぱいに広がる三つの月を目にしながら、自分が崖下へと急速に落下し始めた事を知る。
掴む物も、助けを求められる相手もいない、深い闇の底へと……、落ちる。
自分が死の大口へと身を放った事を知った私は、何も出来ないまま……。
「ユキィィイイイイイイイイイイイイイイイ!!」
瞼をきつく閉じ、襲い来る死の恐怖と苦痛を予感した私の耳に、誰かの声が絶叫となって響いた。
「え?」
落ちるだけだった私の身体を、力強い感触が包み込んでくる。
瞼を開けた私は、自分を離さないように抱き締めている人の顔を見た。
アレク……、さん? 寄り添いながら落ちていく二つのぬくもりが、銀緑の光に包み込まれる。
そして、その光に守られるかのように、あっという間に崖上へと運ばれてしまった。
崖の先端に立つ禁呪よりも背後。
大きく丸い円を描くよう木々が立ち並んでいる、拓けた場所。
私とアレクさんはその場所に降り立つと、周囲に人の気配を感じた。
「間一髪だったね。ご苦労様、アレク、ルイヴェル」
「レイフィード……、叔父、さん?」
「ユキ、心細い思いをさせて悪かったね」
「お父……、さん」
アレクさんの腕の中から見えたのは、私達を守るように禁呪と向き合っている、レイフィード叔父さん達の姿だった。他にも、セレスフィーナさん、ルイヴェルさん、レイル君、ルディーさんやロゼリアさん達の姿もある。
「ユキ、怪我はないか? 俺が不甲斐ないばかりに、お前を危険に晒してしまった」
「アレクさん……、た、助けに、来て……、くれた、ん……、です、かっ」
私の頬を温かな片手で包み込み、どこまでも優しい蒼の瞳で私を心配してくれるアレクさん。
心ごと包み込んで守ってくれるような低い声音に、背中にまわされた逞しい腕の感触。
私はポロポロと涙を零しながら、アレクさんの名を何度も呼びながら、その胸に顔を埋めて泣きじゃくった。
「姫ちゃん、よく頑張ったな。あとは俺達が頑張るから安心しろよ」
「ユキ姫様、貴女様を危険な目に遭わせてしまった事、深くお詫び申し上げます。この責は、後ほどいかようにもお受けいたしますが、その前に……。カイン皇子の身体を奪い去った禁呪に、この剣を揮いましょう」
私達を振り返り、ニカッと笑ったルディーさんと、頭を下げた後、禁呪に対する応戦の構えを見せたロゼリアさんの姿に、また私の心が勇気づけられる。
「皆さん……、ありがとうございます。でも……、どうしてここが」
自分と禁呪のいる場所がわかったのだろうと問いかけると、それにはアレクさんが答えてくれた。
「セレスとルイが、お前の居場所を掴んでくれたんだ。そして、二人が発動させた転移の術で、間一髪、お前を死なせずに済んだ」
「そう……、だったんですか」
私の涙を指先で掬いながら、そう言って安堵の笑みを浮かべたアレクさん。
その説明曰く、どうやら転移の術は、目的の場所に辿り着く前に、その場所の映像を見せてくれるらしい。丁度私が禁呪の手によって、崖下へと落とされる場面を目にした為、到着直後の素早い行動に移れた、と。
銀緑の光は、私の方を向いて微かに笑んだルイヴェルさんの術だったそうだ。
頼りになる皆さんのお蔭で、闇に呑まれ終わるはずだった私の命は助かった。
心の底から安堵した気持ちを感じながらも、まだ何も終わってはいない事を思い出す。
「せっかく苦しまずに殺してやろうと優しい方法を選んでやったのになぁ。その女が大事なら、死なせてやるべきだったんだよ……、ククッ」
禁呪が茶化すように嗤った直後、剣を構え攻撃の一手と共に斬りかかって行ったのは、ルディーさんとロゼリアさんだ。お父さんとレイフィード叔父さんも、自分の足下に魔術の陣を発動させる。
「流石に、カインを無傷で取り戻す事は難しいからね……。一応言っておきますが、ユーディス兄上、くれぐれも……、カインを殺さないでくださいね?」
「それは、お前もだろう? あれがカイン皇子の身体でなければ、とっくに屍と化した禁呪が私達の前に転がっているはずだ」
「父上、伯父上!! 瘴気の獣が周りに!!」
禁呪に向かって攻撃の術を仕掛けようと、レイフィード叔父さんとお父さんがそれを放とうとした矢先。レイル君が私達の周りに視線を走らせ、警戒の気配と共に剣を構え直した。
本当だ。いつの間にか、私達の周りに瘴気の獣が獰猛な唸り声と共に取り囲んでいる。
「ユキ、俺から離れるな……」
「は、はいっ」
鞘から剣を抜き放ち、私と共に立ち上がったアレクさんが、獣達を牽制するように睨み付ける。
レイフィード叔父さんとお父さんの術が何体かを一度に巻き込み浄化する様を見つめながら、私の視線は禁呪の方へと向かう。
セレスフィーナさんとルイヴェルさんの援護と共に、ルディーさんとロゼリアさんの剣戟を浴び続ける禁呪。一見して、禁呪の方が状況的に見て不利なようにも感じられる光景だけど、禁呪の顔には、徐々に余裕の笑みが浮かび上がっていく。
(あれは、きっとまだ何かを仕掛けてくる気だ……)
多分、ルディーさん達は、カインさんの身体を支配している禁呪の意識を底に沈める為に、気絶してくれる事態を狙って攻撃を仕掛けているのだろうけれど……。
不意に禁呪が動きを止めた瞬間、ルディーさんの剣先が禁呪、……カインさんの左肩に深々と突き刺さった。
「もういっそ、こいつの身体を八つ裂きにして殺しちまったらどうだ?」
不味い、と、ルディーさんの表情が予期せぬ展開に険しく歪められていく。
禁呪の、人の形をしていたはずのそれが、怪物のような形状へと変化し、肩に刺さっているその刃を掴み、自分の中に深く潜り込ませる。
それを止めさせようと、ロゼリアさんが禁呪の背中に力強い蹴りを放ち、体勢が崩れた瞬間を狙って、ルディーさんが剣を引き抜き、後ろへと飛びのいた。
ぼたぼたと……、見るのも恐ろしくなるぐらいの紅が、禁呪の肩から腕に伝い、草地へと伝い落ちていく。そんな状態になっても禁呪は嘲笑を崩さぬまま……、自分をどうにかしようと剣を構えるルディーさんやロゼリアさんを流し見る。
「お前らじゃ、この身体に致命傷を与える事は出来そうにないみてぇだな。予想通りというか、よく飼い慣らされた犬揃いで、ククッ……、面白ぇなぁ」
ルディーさん達が、自分に対し、命を奪う行為にあたる真似を出来ないのだと気付いている禁呪は、瘴気を右手に纏い、勢いよくそれを薙ぎ払った。
瘴気から生まれし獣達が、ルディーさんとロゼリアさんに襲いかかっていく。
斬ってもまた二体目が生まれ、絶えず騎士のお二人の動きを押さえ込もうと、牙を剥いて咆哮と共に噛み付こうと暴れまわる。
「陛下、ひとつ、お願いがございます」
「禁呪の足止め、かな?」
「はい。禁呪に支配されたカイン皇子の身体を、取り戻す時間をお与えください」
こちらに向かって来る禁呪に術を放っていたセレスフィーナさんが、レイフィード叔父さんの傍に寄り、神妙な面持ちでそう告げると、今度は私の方へとやって来た。
「ユキ姫様、ご負担をかける事は承知の上でお願いいたします。カイン皇子を救い出す為に、どうか……、貴女様の御力をお貸し願えませんでしょうか」
「私の……、ですか?」
カインさんを助けられるなら、勿論出来る事がある限り、協力は惜しまないつもりだ。
セレスフィーナさんが説明してくれた方法は、儀式の時に使用されずに終わった私の血、今もまだ、ルイヴェルさんの魔力領域と呼ばれる場所で保管されているそれと、これからまた新たな私の血を上乗せし術を行使するというものだった。
ただ、私の身体と精神に大きな負担がかかるという事で、セレスフィーナさんは選択を私に委ねてくれたのだけど。勿論、答えは決まっている。
「ユキ姫様の血を用い、深い闇の底へと堕ちたカイン皇子の意識を、私とルイヴェルの術によって、強制的に覚醒させます。身体の主導権を禁呪からカイン皇子に切り替え、その後に、解呪を行います。先程も申し上げた通り、辛い思いをなさるかもしれませんが、よろしいですか?」
絶対に成し遂げてみせると、セレスフィーナさんの意思の強さを感じさせる深緑の瞳は、私にそう言ってくれている。迷う事も、躊躇する必要もない。
私に出来る事があるのなら、今それに対し、全力で臨むべきだ。
「使ってください。そして、どうか、カインさんを救ってあげてください」
「有難うございます、ユキ姫様……。貴女様の想いを、決して無駄にはいたしません」
「セレスフィーナさんとルイヴェルさんの事を、信じています。でも、私はどうすれば良いんでしょうか」
儀式の時のように、身体を横たえた方が良いのだろうか?
疑問を尋ねてみると、身体と精神にかかる負担を感じ始めると、立っている事さえ難しいと説明され、私は草地に座り込む事になった。
アレクさんは周囲を取り囲む瘴気の獣達の手が私へと及ばないように、剣を構え、戦いに身を投じているレイル君の方へと加勢に入っていく。
「私達が詠唱を始めましたら、どうか、禁呪の中で眠るカイン皇子に、心の中で語り掛けるように、ユキ姫様の御心をお届けください。カイン皇子の意識がお目覚めになれば、私達の行使する術と共に、禁呪を押しのけ、身体の主導権を取り戻す事が叶います」
「わかりました」
「禁呪の事は、僕達に任せておいてくれて大丈夫だよ。セレスフィーナ、ルイヴェル……、ユキちゃんとカインをよろしく頼むよ」
「「御意」」
レイフィード叔父さんに頭を下げた王宮医師のお二人が、私の前、左右に並んで立つと、静かに詠唱を始めた。銀緑と、金緑の光を纏う紋様が私達の周りに円を描くように走り――。
2014・11・30 改稿完了。
2015・3・28。文章の揃えなど、その他修正しました。