竜の皇子との交流
――Side 幸希
料理長さんお手製の三時のティータイムを前にしていた私は、外窓の方から聞こえた音に溜息を吐き、席を離れた。
「……カインさん、『また』抜け出して来たんですか?」
「仕方ねぇだろ、毎日毎日面倒なんだよ」
外窓の開いた隙間から部屋の中へと滑り込んで来た漆黒の色を髪に纏う青年は、それを面倒そうに掻き上げて、椅子へと腰かけた。
イリューヴェル皇国第三皇子、カイン・イリューヴェル。
私にとって最悪の出会いをした相手であり、二度と会いたくはないと……、そう、『思っていた』人。なのに、気が付けば……。
「言っても無駄だと思いますけど、私の部屋は、カインさんの専用避難所じゃないんですよ?」
追加で淹れたお茶をカインさんの前に置き、自分の席へと戻る。
三つ子ちゃん達と共に私の部屋を訪ねて来たあの日から、何故かカインさんは、よくこうやって授業を抜け出しては、私の部屋を訪れるようになった。
きっかけは、多分、三つ子ちゃん達と共に彼がやって来たあの日。
カインさんに怒りの全てをぶつけるように、クッションや部屋にある物を投げ合った事で、溜め込んでいた感情を表に吐き出せた事が良かったのかもしれない。
それに、森の図書館での行為が本気ではなかった事と、憩いの庭園での私とアレクさんへの挑発的な言動や行為が、仕返しついでにからかっただけだった事。
後日、そう面白そうにネタ晴らしされた私は、やっぱりカインさんにクッションを投げつけた。
私とアレクさんを振り回すだけ振り回して、なんて人騒がせな! そんな気持ちでいっぱいだったのだけど、まぁ、結果的には、怒るだけ怒ってスッキリしたというか、もう二度と心臓に悪い洒落にならない真似はしないという約束をして貰う事で、私は彼を許してあげる事にした。
自分でも甘いかな、と思ったけれど、いつまでも人を恨んでいても仕方がないし……。
「逃げ込みやすいんだよ、ここ。お前だって暇だろ? 話し相手も出来ていいじゃねぇか」
「そういう問題じゃなくて……っ」
「それより、お前、それ食わねぇのか?」
「あ!! ちょっ、カインさん!! それ、私のケーキですよ!!」
今から食べようと楽しみにしていた料理長さんお手製、ベリーたっぷりケーキが!!
私が取り返そうと手を伸ばした時にはすでに遅く、カインさんがかぷっと一口咀嚼していた。
ニィッと、してやったりの悪戯めいた笑みをこっちに向けているのが、また腹立たしい!!
確かに、もうトラウマになりそうな事はしなくなったけれど、こうやって、些細な事で私を困らせたり、からかったりする所は変わらない。
「疲れた時には甘いモンってな。もう俺が食っちまったけど、そんなに味わいたかったなら……。キスでもするか? 今ならさっきのケーキの味が残ってるぜ?」
「い・や・で・す!!」
「くくっ、すげぇ膨れっ面だなぁ。お前見てると、本当面白いな。良い暇潰しになって丁度いい」
「私は、カインさんのオモチャじゃないんですよ!! いつもいつも、人の事をからかって……、って、頬を突かないでください!!」
むにっと頬の肉を、片手の指先で抓まれたかと思うと、軽く横に引っ張られてしまう。
黙っていれば魔性の美貌を秘めた美男子なのに、こうやって私で遊ぶ様は、どこか子供っぽい。
「ユキ、席を外してすまなかった。俺がいない間、何か変わった事……、は」
その時、騎士団に呼ばれて席を外していたアレクさんが戻って来た。
扉を開け、私の姿を視界に確認し、そして……。
頬をふにふにと弄っているカインさんを見た瞬間。
「貴様……っ」
一瞬にして、アレクさんの纏う気配が戦闘態勢にでも入ったかのように不穏な空気を醸し出し、カインさんを鋭く睨み付けたと思った時には、すでに私から引き剥がすようにテーブルの前へと移動していた。い、いつもの事ながら、なんて素早い行動速度。
カインさんの腕を掴み上げ、互いに一触即発の気配で蒼と真紅の双眸をぶつけ合っている。
「何度も言っているが、ユキの前に姿を見せるな」
「テメェに命令される覚えなんかねぇんだけどな? 番犬は番犬らしく、壁の方にでも控えておいたらどうだ?」
「害をユキの傍から排除したら、そうしよう」
これも、最近ではよく見慣れた光景になってしまった。
私の部屋や、行く先に頻繁に現れるようになったカインさんを、護衛騎士であるアレクさんが、毎回威嚇しては追い返そうとする日々。
お互いに引く気が一切ないものだから、いつも話は平行線を辿り不穏な流れに入っていく。
「アレクさん、私なら大丈夫ですから、手を離してあげてください。 カインさんも、会う度にアレクさんの機嫌を損なうような挑発は控えてください」
「ユキ、こいつは二度もお前に害を成した。放ってはおけない」
「はっ、すっかりユキの騎士気取りだな? こいつが構わないって言ってんだから、番犬はすっこんでろよ」
ギリギリギリ……。
カインさんの煽るような物言いに、アレクさんの手に増々と力が込められていく。
一応、森の図書館での一件と、憩いの庭園での事は、アレクさんに説明してあるのだけど、やっぱり、私を傷付けられた事が、どうしても許せないらしくて……。
二人は顔を合わせる度に、こんな調子。
アレクさんが私の事を想って心配してくれるのは嬉しいけれど、一度二人の言い合いが始まると、中々治まってはくれない。
「ユキの優しさに甘えるな。さっさと教師達の許に戻れ」
「テメェ、上から目線全開だな? 何様のつもりだ?」
「何様でもない。俺はユキを守るために在る護衛騎士だ」
「どうだろうな? テメェの目を見てると……、個人的な感情があるように見えるぜ?」
元から相性が最悪なのか、それとも私の件が二人の仲の悪さを助長させているのか……。
ともかく、放っておくと大変な事になってしまう。
私は席を立ち上がり、二人を引き離そうと手を伸ばした。
「アレクさん、カインさん……っ、お願いですからっ、もう、止めてください!!」
グイグイと力を込めてアレクさんの腕をカインさんから引き剥がそうと奮闘するけれど、さすが男性、私の力じゃビクともしない。
力で無理なら、あとはもう、言葉でお願いするしかない。
困惑顔で私を見下ろして来たアレクさんに、何度も懇願の言葉を続ける。
「いいのか? テメェの大事なお姫様の言う事を聞かなくてよ?」
「……」
あくまで余裕の物言いを崩さないカインさんを、一度強い怒りの感情と共に一瞥したアレクさんが、喰い込むほど掴んでいた手を離した。
そして壁際に向かい、背を預けて瞼を閉じる。
二人を引き離す事は出来たけれど、アレクさんがピリピリとした険しい気配を消す事はない。
「本当、番犬そのものだな。面白ぇ……」
「カインさん、そういう挑発的な事を言うのは止めてください。アレクさんは、私の為に時間を割いて護衛をしてくれているんです。そんな彼を馬鹿にするような発言は、私、絶対に許しませんからね」
「ユキ……」
壁の方で、アレクさんが蒼の双眸を見開いて小さく私の名を呟いた。
アレクさんには、本来果たすべき騎士団の副団長という職務がある。
それを犠牲にしてでも、彼は私を守ってくれているのに……。
たとえカインさんとしてはからかっているつもりでも、注意すべき事は言っておかないと。
「……ふぅん」
私とアレクさんを流し見たカインさんが、急にしらけたかのように呟きを漏らすと、席を立ち上がった。背を向けて歩き出した先は外窓。……授業に戻るとは思えないけれど、どうやら帰るらしい。
「そろそろ昼寝もしたくなってきた事だし、俺は帰るぜ」
「昼寝じゃなくて、授業に戻ってくださいよ。もう……」
手をひらひらと振って、外窓のノブに手を掛けると、そこでカインさんはこちらを振り向いた。
私に向かって手招きを寄越し、何か用事があるのかと歩みを寄せると、
「『忘れモン』……」
カインさんの手に捕まった私の腕が前へと引かれる。
急な事に体勢を崩し、転びそうになった私の肩をカインさんが片手で掴んで抱き寄せたと思った瞬間。
「……え?」
頬に押し付けられた柔らかな感触、チュッと音を立てて離れたカインさんが、アレクさんの方を満足げに見遣り、してやったりの愉しげな笑みを浮かべたのを私は知らなかった。
だって、まさか頬にキスをされるなんて……、しかも二回目!!
何でいきなり、またからかうの!! と、カインさんを見上げて睨もうとしたけれど、それより先に、私の背後がそんな場合じゃない事を伝えてくれた。
鞘から剣を引き抜く……、物騒な音が……。
「あ、アレク……さん?」
振り向いた先には、殺気が駄々漏れになっている、完全に目が据わってしまったアレクさんの姿があった。一瞬で私を取り戻すように間合いを詰めてきたアレクさんが、カインさん目がけて剣を薙ぎ払う。
「ま、窓がっ!!」
鮮やかな避け具合を見せたカインさんが庭の方に飛び退った後、アレクさんの攻撃は、外窓の硝子部分を直撃してしまった。けれど、外窓にはヒビが大きく入っただけで、割れるには至っていない。
一体、どんな強固な構造をしているの……、この外窓っ。
「くくっ……、それじゃあな、ユキ。また遊びに来てやるよ!」
回廊の方へと駆け抜けたカインさんを追おうと、アレクさんも庭に出ようとする。
もし追い着いて、言い合いの続きが始まったら大参事でしかない。
そう思った私は、アレクさんの背中にしがみついて「アレクさん、駄目です!!」と大声で叫んで引き止めた。
「カインさんの挑発に乗るのは止めてください!! あの人は、ただ、からかってるだけなんです!! アレクさんが本気で怒るのを愉しんでるだけの、意地悪な人なんですって!!」
「アイツは二度もお前の肌に触れた。許せるわけがない」
「アレクさん!! 本当に、お願いですからっ、落ち着いて~!!」
私が必死に引き止めようとしているのに、庭に飛び出して行こうとするアレクさんを説得していると、新たな訪問者が二人、回廊の方から庭を越えてやって来た。
紅色の髪をした騎士団長のルディーさんと、銀の髪と知的さを象徴するかのような眼鏡をかけた王宮医師のルイヴェルさん。
私とアレクさんの騒がしい様子を見て、「どうしたどうした~?」と駆け寄って来てくれた。
「アレク~、お前、何姫ちゃんに迷惑かけてんだよ?」
「新しい何かの遊びですか? ユキ姫様」
「お、お二人とも、すみませんが、アレクさんを止めてください!! カインさんの所に行こうと、怒りを治めてくれないんです!!」
「カイン……というと、カイン皇子の事ですか?」
「あの皇子さん、もしかして、また何か姫ちゃんを傷付けるような事しでかしたのか?」
とりあえず、詳しい話は後で落ち着いて説明しますとお二人に話し、私は、アレクさんを宥めるのを手伝って貰う事になった。
回廊の方を殺気を纏った眼差しで見つめるアレクさんを、ルイヴェルさんの創り出した魔力の鞭が拘束し、その後ろ首に、ルディーさんの華麗な手刀が叩き込まれる。
うっと小さな低い呻き声が聞こえたかと思うと、アレクさんはその場に倒れこんでしまった。
「ふぅ、ひと仕事完了っと! 姫ちゃん、ちょっと寝台借りるぜ?」
「そ、それは構いませんけど……、あの……ちょっと手荒な止め方というか……」
「ユキ姫様、心配はいりませんよ。多少ダメージを与えたところで、アレクは死にはしません。さ、俺達で運び込みますから、道を開けてください」
力なく倒れ込んだアレクさんを、ルディーさんとルイヴェルさんが肩に両サイドから担いで運び込む。確かに止めて欲しいとは言ったけれど、本当にこんな止め方でいいのかな……。
寝台に寝かせられたアレクさんを心配げに見下ろしていると。
「姫ちゃん、そいつは放っておいていいぜ。そのうち、目を覚ますだろ」
「何があったか、俺達に説明して貰わないといけませんからね。お茶を淹れますから、ユキ姫様もテーブルにどうぞ」
「は、はぁ……」
付き合いが長いのか、ルディーさんもルイヴェルさんも、アレクさんを武力行使で沈めた事に関しては、一切何も気にはしていないようだ。それをやっても許される関係、という感じなのかな?
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「……と、いう訳なんです」
一連の出来事を説明し終わると、ルディーさんが頭を抱えてテーブルに突っ伏してしまった。
ルイヴェルさんの方は特に動揺した様子はなく、寝台のアレクさんを見遣ってお茶を口に含んだ。
「あ~……、やっぱ、姫ちゃんに懐いちまったかぁ……。そうだよなぁ、そうなるよなぁ……。姫ちゃん、可愛いし、反応面白ぇし、納得だわ」
「る、ルディーさん?」
「しかも、頬チューとか、あぁ……、すげ~、メンドイ」
「あ、あの……」
私の困惑の声は、ルディーさんの耳には届いていないらしい。
ブツブツと漏れる独り言に、どうしたものかとルイヴェルさんに助けを求めるように視線を移すと、深緑の双眸が真っ直ぐに私を見つめてきた。
「竜の皇子に抱いていた嫌悪感は、もう平気なのですか?」
「え……えっと、……大丈夫、……にはなったと思います。あの人も、私に対して本気でどうこうしようという気はなかったらしいですし。ちゃんと話してみると、口が悪くて意地悪ではありますけど、……悪い人じゃ、ないのかな、って」
「まぁ、ユキ姫様の気質では、いつまでも人を恨み拒絶する事は出来ませんか。らしいといえば、らしいですが……、アレクも苦労するな」
最後の方だけ愉しげな笑みを含んだ小声で何か言ったような気がしたのだけど、
ルイヴェルさんは、きょとんと首を傾げた私に「何でもありませんよ」と淡々と言葉を濁す。
「ま、まぁ、姫ちゃんがもう平気なら良いんだけどよぉ……。はぁ、アレクが起きたら色々注意しね~となぁ」
「カインさんがアレクさんを刺激するような事を言わないでくれれば、何も起こらないと思うんですけど……はぁ。……あ、そういえば、ルディーさんとルイヴェルさんは、どうして私の部屋に? 何かご用事でもあったんでしょうか?」
丁度良いタイミングで庭へと現れたお二人。
お蔭でアレクさんを止める事が出来て助かったのだけれど、肝心の訪問目的を聞いていなかった。
がばっと顔を上げたルディーさんが、「ヤベッ!」と声を上げ、席を立つ。
慌てたように、ルディーさんは気絶しているアレクさんの襟元を両手で掴んで揺さぶり始める。
「アレク!! 起きろ!! 追加で急ぎの用事があるんだよ!! お~い!! お・き・ろ!!」
「んっ……」
気絶させられた時のダメージが強すぎたのか、アレクさんは中々目を覚まさない。
揺さぶるだけでは生温いと思ったらしく。ルディーさんがアレクさんの頬をべしべしと叩き出してしまう。
「る、ルディーさん、もう少し穏やかな方法で起こしてあげたほうがっ」
「ユキ姫様、放っておいて大丈夫ですよ。騎士団は荒事に慣れていますからね。それよりも……」
涼しい顔をして、背後で起きている出来事をスルーしたルイヴェルさんが、持参した紙袋から一冊の本を取り出した。
真っ白な分厚い装丁のそれは、エリュセードの言葉で『エリュセード景色画集』と書かれてある。
それを、すっと私の前に差し出された。
「セレス姉さんからです。エリュセードの様々な場所を有名な画家が描いた画集ですから、良い目の保養になると思いますよ」
「あ、ありがとうございます。……うわぁ、エリュセードにはこんなに綺麗な場所があるんですね~」
試しにパラパラと捲った私の目に飛び込んでくる、色鮮やかな本物にも見える絵の数々。
各国の様々な景色や建築物も載っており、右下の方にワンポイントコメントのようなものも記載されている。私はパタンと本を閉じると、あとでのお楽しみにする事にして、もう一度ルイヴェルさんにお礼を告げた。
「すごく気に入りました。セレスフィーナさんにも今度お礼を言いに行きますね。それと、持って来てくれてありがとうございました。ルイヴェルさん」
「いえ、喜んで頂けて何よりですよ。さて、用事も済ませた事ですし、俺もそろそろ失礼します。まだ仕事が残っていますので」
「お仕事、頑張ってくださいね」
席を離れ、扉に向かうルイヴェルさんに微笑んでお見送りしていると、こちらを振り返ったルイヴェルさんが、ふっと口許を和ませ「有難うございます」と、私に小さく頭を下げて、退出して行った。パタンと扉が閉じた後、私も席を立ち上がり寝台へと駆け寄った。
「どうですか、ルディーさん。アレクさん、起きそうですか?」
「ん~、意外にしぶといっつーか、ちょっと沈ませる時に強くやり過ぎたかもなぁ。……あ、そうだ」
ルディーさんは何で気付かなかったんだとばかりに声を上げ、アレクさんの襟元を掴んだまま、その耳元へと顔を寄せた。
どうしたんだろう……。
「アレク……、――姫ちゃんが皇子さんに襲われてっぞ?」
「えっ!? る、ルディーさんっ、何言ってるんですか!!」
起きてもいない出来事を、ルディーさんがアレクさんの耳に囁いた直後、中々目を覚まさなかったアレクさんが、カッ! と蒼の双眸を見開き目を覚ました。
「ユキ!!!!!!!!!」
と、アレクさんが叫んだのと同時に、頭をべしんと叩くルディーさん。
「お前なぁ、俺が何度も起こしてやってんのに、何で姫ちゃんの事になると、一発で起きるんだよ?」
「……ルディー?」
視界に飛び込んで来たルディーさんの呆れた表情に、アレクさんは、自分が騙されて目が覚めたのだと認識したように、その名を呼んだ。
そして、顔を私の方に向けて何も起こってない事を確かめると、ほっと安堵の息をひとつ。
「心臓に悪い事をするな、ルディー」
「起きねぇお前が悪い。……ったく、本当、姫ちゃん命だなぁ。まぁいいや。それより、騎士団の件で相談があるから、一度戻ってくれるか?」
むっと眉を顰め抗議したアレクさんだったけれど、起こすのに苦労したルディーさんには通じない。騎士団の急ぎの用事を済ませる為に、早く一緒に来るようにと急かしている。
カインさんの私達への行動が、全てからかっていただけだと知った日から、私はアレクさんに、護衛騎士の任をもう解いてもいいのではないかと提案してみたのだけれど、即座に首を横に振ったアレクさんを説得する事は出来なかった。
それに、あくまで護衛騎士の任については、レイフィード叔父さんに権限があったから、私の一存では、アレクさんをどうこうというのは難しいという話になり……。
結果的に、レイフィード叔父さんからも「もう少し念の為、様子を見てみようね」と促され、アレクさんは護衛騎士の任を続行する事になった。
「アレクさん、私なら大丈夫ですから行って来てください」
「ユキ……、だが」
「カインさんは帰ってしまいましたし、今日はもう来ませんよ。だから、心配せずに行って来てください」
私の事を必要以上に気にかけてくれるアレクさんだけど、さすがに自室に一人で残ったくらいで何が起こる事もない。
第一、カインさんには、もう私を害する悪意はないとわかっているのだから、アレクさんが少し席を外しても大丈夫。
……と、さっきカインさんが来る前にも言ったのだけど。
「アイツは……、またユキを害したんだ。油断は出来ない……」
「害?」
「あ~、あれじゃね? 姫ちゃんへの頬チュー」
そういえば、アレクさんが凄い迫力でカインさんに襲い掛かったから、自分がカインさんから頬へのキスを受けた事を、すっかり忘れていた……。
「私の事なら、大丈夫ですよ? アレクさんが私の分まで怒ってくれましたから」
だからもう十分。そう伝えたけれど、アレクさんはまだ納得出来ないようだった。
一度、ヒビの入った外窓の方に視線を投じ、手のひらを強く握り込んで蒼の双眸を険しく細める。
「アレク、姫ちゃんが大丈夫だって言ってんだから、我を張るのもそのくらいにしとけ。それより、仕事! 護衛騎士であっても、やるべき事はやって貰うからな!」
「……わかった。だが、その前に」
「ん? 何だ?」
さぁ、行くぞ! と、扉に向かい出したルディーさんの後を追わず、アレクさんは部屋から繋がっている洗面所のある別室へと足を向けてしまった。
パタン……と扉がしまったかと思うと、私とルディーさんは目をぱちくりと瞬いて、扉に耳をくっつけた。
「アレクさん……、何をしてるんでしょうか」
「なんか、水の音がすんだけど……、ん~……」
瞬間、急に開いた扉に二人して後ろに転びそうになっていると、真新しいタオルと、湯気の漂う洗面器を手にしたアレクさんが出て来た。
「何をやってるんだ?」
「それはこっちの台詞だろうが……。ってか、何持って来てんだよ」
「お湯と……、タオル……? アレクさん?」
それを使って一体何をしようとしているのだろうか……。
疑問を投げかけてみると、アレクさんが私に椅子に座るように言って、洗面器をテーブルの上に置いた。熱そうなお湯にタオルを浸し、ギュウッと絞り上げ……、そして。
「んっ……、あ、アレクさん?」
ほかほかのタオルを私の頬に押し当て、少し強めに拭い始めるアレクさん。
汚れでも着いていただろうかと戸惑っていると、アレクさんの背後にいるルディーさんが、「おいおい……皇子さんは有毒なバイ菌か何かかよ……」と若干引き気味に様子を見ている。
えーと……、もしかしなくても、アレクさんはカインさんのキスの痕を綺麗にしようとしているのかな?
「アレクさん、んっ……、そんなに気を遣って貰わなくても、だいじょ、ん……」
「はぁ……。本当お前、面倒な奴だなぁ。アレク、その辺にしとけって。姫ちゃんのほっぺたが真っ赤になっちまうだろ」
無心になって、タオルでゴシゴシと頬を拭っていたアレクさんの腕を掴み、ルディーさんはタオルをテーブルの上に置かせて、早く騎士団に戻るようにと急かした。
頬の表面が……、ヒリヒリする。うぅ……。
多分、アレクさん的には優しくやってくれたつもりなんだろうけど、段々と拭う力が増したというか、瞳に宿る気配が不穏極まりないものになっていたというか……。
ルディーさんに連れられていくアレクさんを見送りつつ、私は痛みから解放された事に、ほっと胸を撫で下ろした。
2014・6・12、3月28日。改稿完了。
2015年、3月28日。文章の揃えなど、その他修正しました。