竜の皇子からの手紙と、不完全な神の覚醒
「あ……」
湯上りの姿で部屋の中に戻ると、ルイヴェルさんの言う通り、一通の手紙がテーブルへと届けられていた。それを手に取り寝台へと向かった私は、その端に腰かけて手紙を開封する。
便箋を取り出し、それを開いてみると……。
『よぉ、ユキ』
「え?」
聞き覚えのある声がした瞬間。
便箋上に綴られていた文字がぽうっと光を帯びたかと思うと、私の目の前へと踊るように浮き上がった。文字に宿った光の全てが混ざり合い、ひとつの丸い形を描いきながら……、やがて、光の収束と共に可愛らしい姿を纏った。
「カイン……、さん?」
小さな手のひらサイズのミニキャラの姿をしたカインさんが、目の前にいる。
強気で自信に溢れた笑みを浮かべた、可愛いらしいカインさん。
『悪ぃな。本当は直に言って行こうかとも思ったんだが、お前はフェリデロード家に行っちまってるし、手紙で用件を伝えさせて貰うぜ』
「あの、急に手紙なんて、どうして……」
そう尋ねてみたけれど、ミニカインさんは返事を向ける事はなく、そのまま喋り続けてしまう。
多分、手紙の音声版的な術がかかっているのだろう。だから、綴られている事しか音にしない。
この手紙がガデルフォーンで書かれた事、それを術で飛ばして私の許に届くようにした事。
そして、これから一週間ほど、カインさんがイリューヴェルに帰るという事。
「イリューヴェルに?」
『野暮用で留守にするが、俺がいない間……』
そこで言葉を切ったカインさんが、その胸に大きく息を吸い込んだ。
カッと目を見開き、私を強く睨み付けて指先を突きつける。
『ぜぇええええったいに!! 番犬野郎と二人っきりになんかなるなよ!!』
「……え?」
『これでも、お前が番犬野郎と……、事故的な認識とはいえ、キスなんかしちまった事、堪えてんだよ』
「カインさん……」
顔を伏せたミニカインさんが、悔しそうに手のひらを握り込むのが見えた。
私はその顔をそっと覗き込み、彼が続きを言うのを静かに待つ。
『俺だって……、お前が好きだ。すっげぇ、奪っちまいたいくらいに、好き、なんだっ!!』
トクン……。顔を勢いよく上げたミニカインさんに必死な様子で真っ直ぐな想いをぶつけられてしまった私は、不覚にも、甘い疼きにも似た切ない鼓動の音を感じてしまった。
余計な飾りは一切不要とばかりに、ミニカインさんはそう想いの丈を叫ぶと、今度は横に顔を背けてしまう。
昨夜、アレクさんの柔らかで幸せそうな笑みを見てしまった時とは、また違う……。
一途で純粋なカインさんの想い……。
二人の想いを強く感じれば感じるほどに、私の中では、どちらも大切で……、選ぶなんてそんな事が出来ないくらいに、想いが深まってしまって。
少女期の迷いや反応が、自分を制する事も出来ない程に厄介なものだと、日を追う毎に思い知らせる。
(普通の人間の女の子だったら良かったのに……。そうすれば、アレクさんとカインさんを早く解放してあげられたのに)
胸の奥が、締め付けられるように痛い……。
向けられる想いが強ければ強いほどに、私の中の迷いは大きくなっていく。
アレクさんとカインさん、どちらも私には勿体ないほどの人達……。
きちんとした告白を受けてから三か月後にガデルフォーンに行く事になって、それからまた一か月と少し……。こんな調子で、私に答えなど本当に出るのだろうか。
不安に揺れる瞳でミニカインさんを見つめながら、私は小さく「ごめんなさい……」と呟く。
カインさんに、こんな苦しい思いをさせてしまっているのは、間違いなく私だ。
『だから、俺がいない間……、絶対に、アイツと二人きりになるな。帰って来た時に……、もし』
「カインさん……」
『いや、何でもねぇ。とにかく、一週間は帰らねぇから……、土産、楽しみに待ってろよ。じゃあな』
役目を終えたミニカインさんが、元の光の泡へと霧散した。
粉雪が舞い散るように……、ほのかに淡い光の粒を私の頭上に降らせていく。
「カインさん……」
光が完全に消え去ると、再び便箋に文字が戻った。
それを胸に抱き締めた私は、ぽふんと背後のベッドに倒れ込んだ。
柔らかな感触に身を委ね、少し早足の鼓動を刻む胸の音色を感じながら、瞼を閉じる。
二人と一緒に時を過ごす度、心の中で揺れている蕾の色が、強く、濃く、色付いていっている気がしているけれど……。
「痛い……」
アレクさんとカインさんに対する、この大切だという想いがどんどん膨らんで……、いつか、この胸に受け止められない程の大きさとなった時、私はどうなってしまうのだろうか。
限界を迎えた心の器は、壊れてしまうのだろうか? それとも、どちらかに対する想いが自覚と共に花開くのだろうか。
胸に感じる鈍く切ない痛みを感じながら、私は自分の身体を幼子のように丸める。
そして、瞼を閉じ……、もうこのまま眠りに就いてしまおうかと思った、――その時。
「――っ」
瞼の裏に……、頭の中に、何かが見えた気がした。
同時に、頭にまで妙な痛みを覚えた私は、すぐに瞼を開いてベッドから身を起こした。
何だろう……、今の。一瞬だけど、朧気に……、懐かしい、と。
そう感じられる何かが見えた気が……。
今日はアレクさんの事もあったし、色々と疲れているのだろうか。
頭に感じた痛みはすでに消えている。部屋の中を見回し、首を傾げる。
私は、夢を通して何かを視る事があると言われているけれど、今のは……。
ただ瞼を閉じていただけ……。だから、夢じゃない。
考えても答えの出ない、掴み切れなかった何かを心の片隅に残しつつ、私は再び横になったのだった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
そして、一週間後……。
再びフェリデロード家にレイフィード叔父さんと一緒に訪れた私は、アレクさんの目覚めを聞かされた。本当に一週間、一度も目を覚ます事はなく……、彼は眠り続けていたのだ。
フィルクさんの方は、何度か王宮医師のお二人が診察をしたけれど、結局記憶は戻らず仕舞い……。だから、今日はウォルヴァンシア王宮でお留守番して貰っている。
アレクさんが休んでいる部屋に通されると、そこにはレゼノスおじ様とルイヴェルさん、それから、セルフェディークさんが出迎えと共に顔を向けてくれた。
「レゼノス、アレクは……」
「陛下、ご足労をお掛けしてしまい、誠に申し訳ありません」
三人の身体によって存在を隠されているアレクさんを、その先に見据えたレイフィード叔父さんが尋ねると、レゼノスおじ様が一礼し、道を開けてくれた。
ベッドには、上半身を起こしてクッションに背中を預けているアレクさんの姿があった。
私達の方に視線を向け、微かに微笑んでいる。
「先ほど、幾つか質問をしましたが……、フィルクの言っていた通り、アレクは自身の事を、神であると断言しました」
レゼノスおじ様が同意を求めるように視線を向けると、アレクさんもまた、しっかりとした頷きを返した。ルイヴェルさんやディークさんの方は、複雑そうに表情を翳らせて俯いている。
アレクさんがもし、本当に神様という存在であったなら……。その時は。
「アレク、本当なのかい?」
「はい。俺は、古の時代に天上で眠りに就いた神の一人……。レゼノス様達が行ってくれた術のお蔭で、封じられていた神としての記憶を取り戻し、本当の自分を思い出しました」
「では聞こう。アレク、君の名は?」
エリュセードの神々は、それぞれに地上の者達と同じように、名を抱くと伝承には残されている。
世界の均衡を保つ為に、役割を抱き、天上にて地上を見守る至高の存在。
アレクさんが真に神様という存在ならば、その名を口に出来るはず。
レイフィード叔父さんは真剣な顔でアレクさんを見つめながら、その答えを待つ。
私は胸の前で祈るように両手を組んで息を呑んだ。
「――わかりません」
「え……」
アレクさんは、ただ静かにそう一言。室内に音を落とした。
レイフィード叔父さんが、レゼノス叔父様達に説明を求める。
「申し上げます、陛下。アレクは……、いえ、エリュセードを司る神の一柱は、神であるという自覚と、僅かな記憶を取り戻したのみ。結果的に申し上げれば、覚醒は中途半端な状態で完了したとみて、間違いありません」
「それは……、レゼノス。フィルクは、自身も神の一人だと名乗った彼は、神を覚醒させる術を、君達に教えたのだろう? なのに、何故」
「原因は不明です。しかし……、考えられる要因として、神が地上の民として在った事に、何か理由があるのではないかと、そう考えています」
永い時の中を、この地上で生きてきたフィルクさんとは違い、アレクさんは神様が転生した姿なのだと、私達は聞いた。神様が地上の民として生まれる、そこにどんな事情と意味があったのか……。レゼノスおじ様の話では、アレクさんは自分が神様であるという自覚と、今後は自由に神としての力を行使出来る事を説明してくれたけれど、私とレイフィード叔父さんは戸惑うばかりだ。
自分の名前を思い出せない神様。あるのは、自覚と神としての力を揮えるという事だけ。
それに、記憶は断片的なものばかりで、アレクさん自身も困っているらしい。
「ま、事実は変わらねぇしな……。アレク、ゆっくり休んだら、お前、どうすんだ?」
ベッドの傍にある椅子にどっかりと腰かけたディークさんが、場の緊張した気配を霧散させるように、両腕を胸の前で組みながらそう声をかけた。
アレクさんは一度私の方に視線を向けてくると、今度は窓の外に意識を投じてしまう。
「俺が神である事に、間違いは……、ない」
どこか、嘘であってほしいと、否定したい思いを抑え込んだような、切ない声音。
「俺が今の自分の意思で行使出来るようになった力は、半分だ。残りの半分は……、俺の中にはない。だが、いずれはそれを取り戻して……、役目を」
「ふぅん……。じゃあ、力が戻ったら、お前はめでたく天上に戻って……、アレクとしての生を捨てんのか?」
アレクさんの確信を突くように、ディークさんが少しだけ冷たい声音で尋ねた。
神様は、天上で人々の暮らしを見守る絶対の存在。
自覚と記憶、そして、神としての力を、はっきりとした今の意識下で使う事が出来るようになったアレクさん……。
だけど、もう半分が足りない。何故だと自問しているアレクさんは、恐らく、その半分を取り戻したら……。
この場の誰もが予感している未来に、彼はその蒼の視線を眼下の毛布へと落とした。
「俺は、自分の魂を休める為に、本体を天上で眠りに就かせ……、地上へと転生してきた。ディオノアードの鏡が成した災いを、浄化する為に……」
「アレク、ひとつ聞くが、大神殿での事態を振り返るからに……、お前達神々は、その魂にディオノアードの欠片を封じ、転生の流れを繰り返し、浄化を行ってきた……。そう考えたらいいのか?」
アレクさんの傍で佇んでいたルイヴェルさんが、神々の転生における役割を指摘すると、こくりと静かな肯定の頷きが返ってきた。
古の時代、『悪しき存在』と呼ばれたその災厄。
彼らの正体は……、天上の神々。封じられているはずの十二の災厄のひとつ、ディオノアードの鏡を手にした神の一人が、その恐ろしい力を用いて神々の一部を洗脳し、天上の楽園を襲撃した。
鏡の力が凄まじかったせいもあるけれど、何より……、正気を保っていた側の神々は、自分達の同胞を手にかける事は出来なかったらしい。
心優しき神々は、傷つきながらも必死に彼らの正気が戻るように訴え続けた。
しかし、滅茶苦茶に蹂躙された天上の楽園に住まう神々は、残り十一の災厄が目覚めるのを食い止めねばならず、地上に向かった悪しき存在達を追いかける事が出来たのは僅かな者達ばかり。
けれど、その神様達も……、地上に向かう途中でさらなる傷を負ってしまった。
結果、悪しき存在達によって、地上の、当時一番の大国だったイリューヴェルが襲撃される事になった。
「ディオノアードの鏡は、地上を滅ぼし、最終的には……、世界そのものを消滅させる気だった。神々の愛した大地を、人々を、絶望に追い落とす為に」
「だがアレク、話がおかしくはないか? ディオノアードの鏡を手に地上へと降りた悪しき存在は、何故一気に片を着けなかった? 文献によれば、かなりの日数をイリューヴェルに費やしていたはずだが」
訝しむルイヴェルさんに、レゼノスおじ様達も同意見のようだった。
強大な力を抱く、災厄の象徴。神々の世界さえ脅かす程に恐ろしいその存在が、イリューヴェル皇国で足を止めていた、その訳。
アレクさんはそれに頷くと、毛布を握り締めて唸った。
「神々は、ディオノアードの鏡が地上に向かう前、その鏡面に深い亀裂を作られてしまった。それにより、鏡の力は酷く不安定となり、それを修復する為に『父なる存在』の許に向かった……」
「アレクさん、十二の災厄は女神様の身体が砕けてそれぞれの形になった物、なんですよね? じゃあ、父なる存在、って……」
「話せば長くなるんだが……、災厄の女神には、一人の愛する男の神がいた。心の奥底から、いや、その魂の全てで愛し抜いていた……、心優しい神が」
どの神から見ても、二人はとても仲睦まじく、平穏を愛し、また、このエリュセードを愛していた。しかし、古の時代のさらに前、まだ世界が不安定な時代の事……。
エリュセードという世界を安定させようと維持と調整に努めていた神々の魂を恐怖に震わすような事態が起きた。エリュセードの外、別の異次元から……、異形の軍勢が現れた。
凶悪な本能を抱く醜悪な存在。
それに立ち向かう為に、世界の維持を三人の代表的な神々、フェルシアナ、アヴェルオード、イリュレイオスを天上の楽園に留め、女神とその夫である神は他の神々を率いて討伐に向かったのだという。
「あの方は……、とても勇敢で、頼もしい神だった。その妻である災厄……、いや、何の罪もなかった女神は彼に寄り添い、異形の軍勢を迎え撃った。だが、あまりに強大すぎる異形の軍勢の頭となっていた魔物の手により……」
軍勢の大半は数だけが物を言っているようなものだった。
しかし、その後ろに控えていた一番強い魔物の存在が手強く……。
他の神々をその背に庇った男の神様は……、最後に自分の妻である女神を庇って、――『死』を迎えた。
「彼のお蔭で、エリュセードを襲った脅威は退けられた。だが、愛する夫を失った女神は、打倒された魔物が消滅する、その寸前……」
災厄の種とも言うべき呪いをその身に受け、女神は天上の楽園に戻っても苦しみ続ける事となった。愛する人を失った悲しみ、辛さ、寂しさ……。
神々が彼女の心を慰めようとしても、女神は誰にも会わず、夫である神と暮らしていたその場所に籠り続けた。二人の我が子にさえ会おうとはせず、災厄の呪いを受けた事にさえ気付かなかった彼女はやがて……、強大な呪いの花を咲かせた。
そして、自我を失い、災厄の女神となり果てたその女神は、エリュセードの神々によって封じられ、……迎えたのは、誰も望んでいなかった結末。
「あまりに……、哀れだった。自分の愛した娘と息子の存在さえ憎悪し、血の涙を流しながら叫んでいた彼女は」
遥か遠い……、あまりに古すぎる過去もまた、神様であるアレクさんにとっては、昨日の事のように、鮮明に思い出せる辛い記憶なのだろう。
ルイヴェルさんから慰められているかのように背中を擦られたアレクさんが、嗚咽を堪えながら俯く。
「だが、彼女の封印を成してからまた時が流れ……、意外な事実が表に出た」
「意外な事実、ですか?」
「あぁ……。消滅したはずの女神の夫が、地上に誕生したイリューヴェル皇国を作ったその血筋の者に、転生を果たした」
異形の魔物と相打ちで滅びた女神の夫は、神の器を破壊され、魂を砕かれた。
だが、神という存在は、何度滅びようとも、再び還ってくる存在でもあったのだ。
魂の修復と、器の再生。それが終われば、神は必ず世界へと還ってくる。
ただし……、強大な力を抱く神であれば、長い、永い永い時が必要となる為、災厄の女神となり果てた彼女にとっては、死んだも同然だった。
愛する者の復活を待つには、気が狂う程の時が必要だったから……。
だからこそ、女神は嘆き悲しんだ果てに、災厄の人となった。
しかし、運命は残酷にも、彼女の愛する夫の魂を……、悲劇が起こった後の世界に甦らせた。
イリューヴェル皇国の初代皇帝。
その国の祖となったその男性は、間違いなく女神の夫の魂を宿していたのだという。けれど、彼に神であった頃の記憶はなかった。
地上に生きるひとつの命として、彼はそこに在ったのだという。
その存在に一番最初に気付いたのは、彼の神であった頃の子供達だった。
他の誰も気付く事のなかった真実の姿。
だが、神の記憶を持たぬ彼の転生体に出来る事は何もない。
何故なら、彼が抱いていたのは……、魂の欠片だけだったからだ。
兄妹にとって、その転生体は父であって、父とは呼べぬ存在……。
砕かれた魂の修復と癒し、そして、神の器が復活を遂げるその日まで……、兄妹は父の転生体をそっとしておく事にした。
他の神々もまた、地上での生を謳歌している彼を無理に呼び戻そうとはせず、地上に留めた。
そして、また長い時が流れ……。ディオノアードの鏡に囚われた神々の反乱の時代を迎えたのだった。
「ディオノアードの鏡を持ち出した者達は、その夫神の転生体に縋ろうとした……。彼の女神が愛し、求め続けている伴侶の許に持って行けば、鏡の修復も可能になるだろうと考えたんだろう」
だから、イリューヴェル皇国を執拗に攻め上げ、皇帝達の血族を表に引き摺り出そうとした。
当時の皇帝だった人は、家族と民を守る為に前線へと立ったけれど……。
事態の収束のすぐ後に、負担が酷く……、愛する妻を残し、当時の世を去ったらしい。次代は、彼の異母弟である男性が受け継ぎ、異母兄の妻であった皇妃様を自分の伴侶とし、その血を後世に残した。
「神々は、地上の民に力を貸す事が出来ず……、皆、満身創痍だった。だから、離反者が出たと聞いた後、異空間へと封じられた彼らの後を追って、俺達は肉体を天上に残し、魂の状態でその中へと飛び込んだ。ディオノアードの鏡を回収する為に……」
「鏡、だけ、ですか?」
「いや、出来る事なら操られた神々も救い出したかったのが本音だ。だが、事はそうも上手くいかず、ディオノアードの鏡と、……」
「アレクさん……?」
途中で言葉に詰まったらしきアレクさんが、首を傾げて蒼の双眸に迷いを抱くのが見えた。まるで、その先を思い出せないかのように……。
ルイヴェルさんが心配して声をかけると、視線を少しだけ彷徨わせた後、アレクさんはまた語りだしてくれた。
「記憶の途中が曖昧なんだが……、結果でいえば、俺達に抵抗を見せるディオノアードの鏡は粉々に砕け、異空間からエリュセードの地上へと向かって散らばっていってしまった」
鏡の欠片は世界中に降り注ぎ、異空間にはその影響を色濃く受けた、悪しき存在としての立場を強いられた神々だけが永遠に封じられる事になったそうだ。
「ディオノアードの鏡のせいで弱っていた神々は、その魂に欠片を受け止める事によって、自身の転生と共に浄化の道筋へと導いた。しかし、全ての欠片を回収する事は出来ず、半分ほどはこの地上のどこかに溶け込んで眠っている」
ディオノアードの欠片は、それひとつでは本来の力を発揮できない。
だから、誰かの手に渡らなければ目覚める事はないし、ずっと眠り続けるのだという。そして、アレクさんもまた、その欠片の一部をその魂に受け止め、浄化の為に眠りに就いた神々の一人なのだと……。
「俺の中には、複数の欠片が存在している。だが、ひとつ……、減っているな」
「フィルクが引き受けた」
「フィルク……、あの男が」
神々以外にその方法を知っている者はいない。
そう呟いたアレクさんが、仮の名であるフィルクさんの本当の名が何であるのか、また、別の神の名もあまり思い出せないという顔で困惑してしまった。
災厄の女神が開花した時代と、古の時代の悪しき存在達との事は覚えているのに、他の記憶がおかしい。そんな風に呟いている。
「やはり、記憶にも多大に問題ありのようだな。アレク、暫くは思い出せるまで普通に生活していたらどうだ?」
「ルイ……。だが」
「その方がいいよ、アレク。あまり焦っても、事は上手く進まない気しかしないからね」
「レイフィード陛下……」
神様として不完全な覚醒を遂げてしまったアレクさんを、皆さんは気遣う様子で慰めている。私も、アレクさんの傍に寄って、その手を自分の温もりで包み込む。
「アレクさん、焦らない方がいいですよ。それよりも、お腹が空いたでしょう? 何か作りましょうか」
「ユキ……。俺は」
「レゼノスおじ様、厨房と材料をお借りしてもいいですか?」
「構いませんが……、料理人も我が屋敷にはおりますので、ユキ姫様の手を煩わせる必要は」
すぐに作らせると申し出てくれたレゼノスおじ様にもう一度お願いして、私は足早に部屋を出た。
廊下に出ると、嬉しそうにのっそりと歩いてくる黒豹似のルチルちゃんがやって来て、私の足にすり寄ってきた。
「ウニャァァ」
「ルチルちゃん、一緒に行こうか」
「ニャアッ」
その触り心地の良い背中と頭を撫でた私は、ルチルちゃんと一緒に厨房へと向かい始める。
神様として目覚めたアレクさん。
けれど、その記憶に足りない自身の名と、他の記憶。
本来在るべき力さえ、その身にあるのは半分だけ。
不完全な覚醒で、酷く困惑して不安になっているアレクさんの事を心配している気持ちもある。だけど、それよりも……。
「……っ、はぁ」
「ニャッ!! ニャアァアッ」
「ごめんね……、ちょっと、目眩が」
災厄の女神に関する過去の話を聞いた時から……、徐々に私の心の中で染みを広げ始めた、黒。
愛する夫を亡くし、その悲しみと寂しさを増大させるように浸食した、災厄の種のようなもの。
彼女の話を聞いていた私が覚えたのは、可哀想だという同情心と、――別の何か。
アレクさん達の前では、どうにか平静を保てていたけれど……。
前を歩く内に、私は目の前が真っ暗になって倒れ込みそうになってしまった。
まただ。また、アレクさんの覚醒に立ち会ったあの時と同じように……。
「――大丈夫か?」
「あ……、る、ルイヴェル……、さん?」
床に倒れ込む寸前で、私は腰にまわされた力強い腕の感触で倒れ込まずに済んだ。
ルチルちゃんが私の頬を舐めながら、心配してくれている。
「すみません……。ちょっと、具合が」
微かに苦笑してみせると、ルイヴェルさんは銀フレームの眼鏡越しに目を眇めた。
今日は……、ちょっと、調子が悪い、だけ。
いつもは、睡眠もちゃんととってるし、食事もしている。
運動だって、ロゼリアさんに習って剣術の稽古を始めているし……。
おかしいな……。何が悪かったんだろう。
風邪でも引いたかなと、まるで逃げるように、私はさっきの災厄の女神の話を振り切ろうとしていた。関係ない。だって、私が生まれるよりも、物凄く遠い昔に存在していた神様の事なんだから。
「ユキ、アレクの食事は少し後にしろ。話がある」
「え? きゃあっ」
厨房に向かいたいから、もう離してくれて構いません。
と、お礼を言って前に進もうとしたら、ルイヴェルさんの片腕に抱き上げられてしまった!!
ルチルちゃんが「ニャウゥゥン!」と、出発進行の合図をするかのように可愛らしく鳴いく。え? え? えぇえええっ!?
「ちょっ、ルイヴェルさんっ、 どこに行くんですかっ」
「聞きたい事があるだけだ。すぐに済む。それと……、お前の診察もな」
「聞きたい事って……、お、おろしてください!!」
「ニャンッ、ニャウゥゥン~♪」
がっしりと拘束されているせいか、体調に異変が起きているせいか、私の弱々しい声と抵抗は何の甲斐もなく、すぐに白旗を挙げる羽目になってしまった。




