竜の皇子は魔竜の騎士と語らう。
前半は、ガデルフォーンでのカイン視点。
後半は、フェリデロード家での幸希視点となります。
――Side カイン
「がはっ!! ……はぁ、くそっ!!」
岩壁へと叩き付けられたものの、以前とは違い、すぐに体勢を立て直して鬼畜極まりない野郎へと報復の一撃を込めた竜手を繰り出すが、相変わらず余裕の体で避けられてしまう。
こっちは傷だらけだってのに、目の前に映る飄々とした笑みに苛立ちが募る。
「皇子君、なんか荒れてない? 前よりも動きが鈍ってるよー。精神鍛錬も忘れないようにって、あれだけ言っといたのに、何やってるのかなー?」
「うっせぇよ!!」
自分でもその自覚はある。平静を保とうとしているのに、どうしても頭の中にユキと、……あのクソ野郎の顔がちらついて、俺の師匠役を気取っているサージェスに意識を集中出来ない。
当然、俺の中にある淀みを、サージェスが気付かないわけもない、か。
剣を鞘に収めたサージェスが、早々に今日の修業を切り上げてしまう。
「おい、俺はまだやれるぞ……」
「心に迷いのある子を鍛えようとしても、無駄の一言に尽きるからね。まずは、『そっち』をどうにかするべきでしょ?」
お節介にも、相談役を買って出てくるサージェスだったが、俺はその場に座り込んでそれを拒否する。容赦なく人の心を抉ってくるような発言の数々を繰り出してくるに違いないからだ。
それに、男が男に恋の相談なんて、気色が悪ぃだろうが……。
「大人しく付いて来ないと、――皇子君の失恋が秒読みだー! って、エリュセード中に叫んで歩くよ?」
「誰が失恋秒読みだって……? この悪趣味野郎がっ」
「そういう顔をしてるからだよ。今にも人生終わりそうな気配でこっちに来たからね。大方、この前のアレを引き摺ってるんでしょ?」
「……」
「強くなるって事はさ、力や戦法だけじゃなく、自分の心を律する事も大切だ、って、前にも教えてあげたでしょ? それなのに、簡単に揺れまくってるようじゃ、まだまだだよ」
その場に踏ん張る俺の後ろ襟首を引っ掴み、無理矢理にでも鍛錬場を出ようとするサージェスが呆れた様子でそう言いながら俺を引き摺っていく。
こいつに指摘されるのは気に食わねぇが、図星過ぎて性質が悪ぃ。
まぁ、サージェスの事だからな……、ルイヴェルから情報を仕入れている事は考えられる、か。
番犬野郎の身に起きた異変のせいで、ユキが初めてを、……って、なんかこの言い方だともっと先にまでいっちまったような感覚に陥っちまうな。くそっ。
とにかく、初キスをあのクソ野郎に奪われちまった事が、俺にとってここ数日の悩みの種となっている。
狼王族の少女期ってのは、性的な接触に過剰な反応を示すもんだと聞いている。
個々に差はあれど、普通の人間よりも強く、色濃く、その影響が心に根差す。
狼王族と人間のハーフであるユキの場合に出る影響の度合いがどれくらいのモンなのかは知らねぇが、もしも、番犬野郎の方に心が引き摺られたら……。
「なぁ、サージェス……」
「んー?」
「……好きな女にフラれたら、どのくらい痛ぇんだろうな」
まだ決まったわけじゃない。まだ、俺にも出来る事はあるはずだ。
たかがキスひとつで、初めて惚れた女を掻っ攫われて堪るかよっ。
項垂れながら引き摺られていく道すがら、サージェスが当たり前のように俺の心へと追い打ちをかけてきた。
「そりゃあ、物凄く痛いんじゃないかなー。三日寝込んで治るレベルよりもきっと酷いよー」
「だよな……」
「怖い?」
「……少しだけ、な」
「まぁ、そうだよね。人も他種族も、……失恋の痛みは同じだものね。たとえフラれたとしても、相手の事を嫌いになれるわけでもないし、愛しさが募るほどに、痛みも、ね」
好きになればなるほど、拒絶された時を想像すると、心の奥が凍えるような冷たさと痛みを覚えてしまう。それが現実とならないように努力すべきなのに、今の俺は……、不安にばかり支配されちまって……。
俺は、番犬野郎とユキが想い合う姿なんか、……絶対に見たくねぇ。
他の男に心を寄せて、愛おしさを、他の男に向けるユキの姿なんか……。
だらりと下がっている右の拳を握り締め……、俺は奥歯を噛み締める。
番犬野郎がそうしたように、ユキの温もりを求めても……、予想した通りに拒まれて終わった。
そりゃそうだよな。まだ好きでもない男に、簡単にそれを許すような女じゃないってわかってた。
真面目で優しい、だけど、頑固なとこもあって、芯のある女だから俺は好きになったんだ。
だが、……番犬野郎に先を越された今、身勝手にも自分を受け入れてくれと強く願う自分を感じている。あのクソ野郎と同じように、ユキの温もりを奪って……、自分の存在を刻み付けたい。
そうしねぇと……、俺は、いずれ目の前に示される『未来』に。
「――っ、くそぉ……」
視線の上で晴れがましい姿を見せている青空も、皇宮内に咲き誇る花々の香りも……、今の俺にとっては何の意味もない。
俺が欲しいのは、俺の心を照らしてくれるのは、……ユキの愛だけなんだ。
胸の中で渦巻く不快な感覚に苛まれながら、背後から聞こえた苦笑にまた腹を立てる。
当事者じゃないこいつからすれば、さぞかし滑稽に見えている事だろうよ。
初めての恋に足掻く情けない奴だって、そう思ってんだろ?
「なんだよ……」
「青春だなー、とね。噂に聞こえたイリューヴェルの第三皇子君も、ユキちゃんにかかれば、まるで子犬みたいになっちゃって……、ふふ、その調子でもっと可愛くなってみたらどうかな?」
「うげぇ……。誰が、子犬だよ。俺は竜だ。ついでに、ユキに手懐けられた覚えはねぇ」
「あぁ、ごめんねー。言い間違えた。野良猫が飼い猫になったみたいな可愛さ、だった」
「テメェ……っ、わざと煽ってんだろっ。俺はな、切羽詰まってんだよ!! もう後がねぇ不安でいっぱいなんだよ!!」
確か今日は、番犬野郎とユキが行動を共にしているはずだ。
今こうしている間にも、また進展があったら、そう思うと……っ。
全身に滲み溢れていく、番犬野郎への漲る殺意めいた気配。
遅れを取り戻そうとユキの部屋に夜這いをかけても、すぐに番犬野郎やルイヴェルに捕まって、何も進展しない。それが、俺の心を焦らせている。
「皇子君……、別にキスひとつで勝負が決まるわけでもないんだよー? それに、アレク君のあれは事故みたいなものだったって話だし、ノーカウントだよ? ノーカン」
「そうは言ってもよ……。ユキだって一人の女だ。番犬野郎を気遣っちゃいるが、気にしてないわけがないだろ。回数こなしてるならまだしも、アイツ……、初めてだったんだからな」
良くも悪くも、初恋や初キス、初と名のつくモンは、女にとって大事な出来事のはずだ。
事故だと割り切って、本当にユキが何とも思っていない可能性は……、低い。
少なからず、ユキは番犬野郎を気にしているはずだし、俺に対する意識が薄れている可能性もある。
それを覆すには……、何か、何か、ユキの心に大きな変化をもたらすアプローチが必要だ。
「どうやったら……、俺の方を見てくれるんだよ。ユキっ」
「贈り物でもしてみたら?」
「は?」
「別に性的な接触だけが手段でもないからね。ユキちゃんだって、一時期的にアレク君を気にしていても、いずれはその反応も治まるよ。だから、君は一時的じゃない、彼女の心に残るようなアプローチをしてみたらどうかな?」
たとえば、揃いの品を買って、互いにそれを着けるとか……。
そう助言を寄越してくるサージェスに、俺は興味をひかれたように、考えを巡らせた。
以前に俺の術で、ユキの首にチョーカーを着けてやったが、あれは強制的なモンで、贈り物の類じゃねぇよな。けど、そうか……。互いに揃いのモンを着けて、俺の存在を忘れないように……。
腕を組んで俺が唸っていると、暫くして、中庭の東屋に辿り着いた。
中には先客よろしく、本を手に寛いでいるガデルフォーン魔術師団の豆腐メンタル、もとい、クラウディオ・ファンゼルの姿があった。
「出て行け。俺が先客だ」
「ケチな事言わないのー。ほら、皇子君も座って座って」
「はぁ……、こいつまで巻き込む気かよ」
「……何の話だ」
厄介事の匂いがするとばかりに立ち上がり逃げかけたクラウディオを、サージェスが迫力満載の笑みでその場に座りなおさせる。
「クラウディオー、君さ、ユキちゃんに『贈り物』したよね?」
「うぐっ……、な、何の話だ」
こいつがユキに贈り物? ユキとそれほど密接な関係を築いたわけでもなかったはずだが……、どういう事だ? 無意識に鋭くなる俺の視線に、クラウディオは気分を害したように眉を顰めた。
「あの娘には世話になった。だからその礼をしただけだ。悪いか?」
「ふん……、アイツの事を小娘だとか呼んでた奴が、どういう風の吹き回しだよ?」
「別に小僧の所有物でもないだろう。咎められる覚えはない」
ビシッ……!!
互いの視線が苛烈なまでに火花を散らし、ある種の牽制が始まる。
ユキに気を抱いたわけじゃねぇとは思うが、俺よりも先に……、贈り物、だと?
何を第三の刺客めいた真似をしてくれてんだ、こいつは。
追加の茶と菓子を持ってきた女官達が、東屋に顔を出した瞬間に、びくりと怯えたのが視界の端に見えた。
「あ、あの……、中に、お持ちしてもよろしいですか?」
「あー、ごめんねー。気にせずに並べて貰えると助かるよ」
「は、はい、それでは、失礼いたします」
安心させる為か、にこりと奴らしい愛想の良い笑みで片目を瞑って見せたサージェスに、女官達がわかりやすく、ぽっと頬を赤らめる。――このタラシがっ。
女達の反応を考えると、遊学中にこの騎士団長とユキの交流に文句を言わなかった自分が不思議に思えて仕方がない。
見てみろよ……、サージェスの一撃にやられた女官達が、ぷるぷると震えながらカップや皿を並べていく。恐ろしい悪影響だ。今後は絶対にユキとサージェスを二人きりにしないようにしよう。
「で、貴様らは何をしにきたんだ? 仕事に戻りたいんだが」
「酷いなぁ、クラウディオ……。皇子君が切ない恋に悩んでるんだよー? 少しはお兄さん的な立場で相談に乗ってあげようよー」
「恋、だと? くだらん……。愛や恋だのといった感情は、ただの種族繁栄の刺激物でしかない」
「とかいって、恋愛経験ないとかいうオチなんだろ? このツンデレ野郎」
経験の歴史とやらを聞かなくても、俺にはわかる。
こいつからは、女の匂いがしない。ついでに言えば、物言いから色々我を張って本音を言えていないのがまるわかりだ。俺の観察眼を舐めんなよ?
その私的に肩を強張らせた反応から見ても、当たりだな。
「脱線する会話はやめようね? さて、問題は何を贈り物するか、なんだけど……」
「おい、もうその方向性に決まってんのかよ」
「皇子君……、男ってのはね、行動してなんぼだよ?」
やけに重みのある一言だった。両肘をテーブルに着き、その真ん中に顎を乗せたサージェスが、思いっきり真顔になった。おい、ここは軍事会議の場じゃねぇぞ? 本気過ぎるオーラが駄々漏れになってんぞ。
「あっちにはアレク君の味方が多いみたいだからね。ここはひとつ、心優しい師匠である俺とクラウディオが相談に乗ってあげるべきでしょー。ね?」
「だから、俺は関係ないだろうっ。どうして付き合わねばならんっ」
「とりあえず、ブレスレットの類はやめようね。ユキちゃんの左手首に、何本がはまってるから。となると……」
「人の話を聞け!! サージェス!!」
言いたい事は色々あるが、俺は注文しておいた炭酸飲料のグラスを手にとり、ストローに口をつけながら肩肘で頬杖を着いた。
贈り物とやらでユキの気を引けるのかは謎だが、もし、贈る事を前提として考えたなら……。
俺としては、指輪やブレスレットよりも……、そうだな、滅多に無くす事のない部分に身に着けられる物が良いような気がする。
ユキが俺の存在を意識してくれるように、それが、特別な証となるように……。
「装飾品といっても、種類も多いからねー。指輪やアンクレット、チョーカーやネックレス、イヤリングやピアス、デザインも大事だよ、うん」
「あの娘なら、何でも喜びそうだがな」
「いやいや、ただの贈り物じゃないんだよー? ユキちゃんの心をぎゅぎゅっと鷲掴む素敵な物じゃないと、ねぇ? 皇子君」
「ん? あぁ……、そう、だな」
何だかんだ言いつつ、文句を言っていたクラウディオも、サージェスのノリに流され、真面目に考え始めたようだったが、生憎と、俺は自分の思考の中に沈んでいて、反応が遅れてしまった。
ユキに贈って喜ばれる物、そして、心に強く残る、贈った後も、効果を発揮し続ける、物。
不意に、俺は飲んでいた炭酸入りのそのグラスをテーブルに置いて立ち上がった。
「ん? 皇子君、どうしたの?」
「悪ぃ……。俺、ちょっとイリューヴェルに帰るわ」
「突然過ぎだろう……、小僧」
「そうだよー、皇子君。それに、イリューヴェルって……、ウォルヴァンシアじゃなくて、イリューヴェルに帰るって、どういう事なの?」
イリューヴェル皇国……、それは、俺の生まれた故郷。
良い思い出なんか、極僅かなものを除いてないと言ってもいい因縁の地だが、俺はある事を思い出した。今の俺に必要な物、ユキの心を、――こう、ぐいっ!! と、俺の方に鷲掴む贈り物。
それを手に入れる為に、俺は……。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
――Side 幸希。
「大丈夫ですか……、皆さん」
アレクさんの異変の原因を突き止めるべく行われた、魂への干渉。
そこに現れた、『ディオノアードの欠片』。そして、記憶を失っているはずのフィルクさんの介入と、衝撃的な事実。
フィルクさんの導きに従い、事態は収拾されたのだけど……。
あの後、無事に術の行使は上手くいったものの……、大勢の人達が力尽きて倒れてしまったらしい。
ルイヴェルさんにフェリデロード本家のお屋敷の一室へと運ばれて休んでいた私がそれを聞かされたのは、儀式からほんの一時間ほどが経ってからのこと。
フェリデロード一族においても、相当の力をもった術者の皆さんが揃っていたのだけど、仕方がないのかもしれない。
なにせ、行われた術の目的は、『神様の覚醒』、なのだから……。
レゼノスおじ様達が居るという、同お屋敷内の一室に向かった私は今、ソファーに座ってぐったりとしている三人の男性達に声をかけている。
どうにか意識を保ってはいるものの……。
ルイヴェルさん、レゼノスおじ様、ディークさんの三人は、なかなか返事を返すのが辛いと言いたげに瞼を閉じている。
「申し訳ありません……、ユキ姫様。少々、……時間を」
「は、はい……。えっと、な、何か、出来る事、あります、か?」
何とか言葉を発してくれたのは、天井に顔を上げて右手でそれを覆っているレゼノスおじ様だった。どんな時でも冷静沈着で、滅多に弱った姿なんて見せた事がないレゼノスおじ様……。
こんな風に弱々しい音なんて、聞いた事もなかったのに……。
「お父様がこんな風になってしまうなんて……。フィルクの伝えた術式は、相当の負荷を伴うものだったのね……」
お屋敷のメイドさん達と共に、濡れたタオルを絞った物をレゼノスおじ様に渡しながら、他のお二人にも心配そうな視線と言葉を向けているセレスフィーナさんの顔色は悪い。
三人がそんな姿を滅多に見せる事がないという証明でもあるけれど、今回は……、とてつもない魔力を消費してしまったらしいから、さらに心配なのだろう。
術は上手くいった。アレクさんの身体はこのお屋敷内にある、結界を張り巡らせた部屋にフィルクさんと共に移動させてある。だから、そちらの方は心配いらないらしいのだけど。
「はぁ……、壮大な話を聞いた後に、これだ。俺達、よく生きてたよな……」
「全くだ……。今襲撃でもされたら……、全滅の可能性が大だな」
タオルを受け取り、それぞれの顔にかけて呟く、ルイヴェルさんとディークさん。
弱気な発言なんてらしくない人達だけど、フィルクさんの話と、アレクさんに秘められた衝撃的な事実、そして、あの術式を行使した事で……、体力、精神、どちらも疲弊しきっているようだ。
「アレクが……、神、か。ふぅ、……途方もない話過ぎて、いまだに受け入れ難い事だが」
「ルイヴェルさん……」
幼馴染として時を過ごしてきた相手が、神様だったなんて、誰だってすぐに受け入れられるものじゃない。けれど、あの事実が余程堪えたのだろう。
ルイヴェルさんは顔からタオルを外し、背を預けていたそれを前に傾かせた。
「詳しい話は、フィルクが目覚めない事にはどうにもならないが……。父さんはどう思う?」
「神とは……、エリュセードの天上に在る存在だと、文献や伝承には語り継がれている……。古の時代に降臨したという記述はあるが……、現在では幻のような存在、信仰の対象としてしか認識されてはいない。だが……、可能性としては、ゼロ、ではないな」
「つまり、フィルクの言っていた事を信じる、という事か?」
「でなければ、あんな大量の魔力を消費する術式を発動させる事に承諾などするわけがない……」
その手に複数の石を受け取ったレゼノスおじ様が、淡く光りだしたそれらを弄びながら、声に力を取り戻していく。どうやらそれらの石は魔力の宿った存在らしく、レゼノスおじ様は消費した魔力を取り戻す為に自分の中に力を吸い上げているところなのだそうだ。
魔力は、通常自然に回復するものらしいのだけど、今回は急激に魔力を消費し、休んでいる暇もない為、仕方なくこの手段をとっている。……と、説明してくれたのは、セレスフィーナさんだ。
ルイヴェルさんとディークさんも魔力の石を使って自分の魔力を回復させ終わると、ようやく安堵の息を吐いた。
「何故、神が地上に在るのか……。ディオノアードの欠片の事も含め、問題が積み重なっていくばかりだな。ユキ……、こっちに来い」
「え? は、はい」
ある程度まで回復したものの、疲労の気配が消えないルイヴェルさんに手招きされ近寄っていくと、その隣に座るように促された。――ルイヴェルさん?
腰を下ろした私の横で、ルイヴェルさんは前触れもなく狼の姿に変じ、もふっと私の膝にその大きな顎を乗せてきた。何事?
ふぅ……、と、気を落ち着けるように銀毛の狼が大きく鼻息を吐く。
『禁呪、ガデルフォーンの魔獣、ディオノアードの欠片、鏡、アレクの異変……、正体。一気に解禁されたような気もするが、正直言って面倒だ』
「ルイヴェルさん……、大丈夫ですか?」
「ユキ姫様、今すぐに、その不甲斐ない愚息を蹴り落としてやってください……」
ルイヴェルさんの隣で休んでいたはずのレゼノスおじ様が、表情を変えないものの、ぎろりと視線だけで自分の息子さんを睨み下ろすと、パタパタとゆっくりの調子で揺れている尻尾の根元を鷲掴み、捻りあげた。しかし、苦痛の声が漏れるものの、ルイヴェルさんがそちらを振り返る事はない。セレスフィーナさんから叱られても、頑固一徹で私の膝の上に頭を乗せたまま、寛いでいる。
「ルイヴェル……、お前、相当参ってるよな?」
『あまり認めたくはないが、……まぁ、そうだな。長く時を過ごしてきた幼馴染が神などと、何の悪趣味な冗談かと笑いたくなる』
これからもずっと、同じ時を過ごしていくものだと……、そう思っていたのに。
寂しそうに深緑の双眸を細めたルイヴェルさんが、私の手で頭を撫でられると、か細い音を漏らした。
『……実際、アレクの中に何かがいる事には気付いていた。ガデルフォーンの中庭でアイツがぼーっとしていた時、触れ合ったその瞬間に、狼王族以外の何かの気配を感じていたからな。だが、それがまさか……、神などという途方もない存在だとは、思わなかったんだ』
「ルイヴェルさん……」
『目が覚めた時、……アイツは、アレクは、どうなっているんだろうな。記憶や人格を塗り潰される事はないと言っていたが、本当にそうなのか? もしも、神という存在に、アイツが喰い尽くされていたら……、俺は』
心を許し合う幼馴染、慣れ親しんだその存在が、違うものになってしまいそうで……、怖い。
ルイヴェルさんの気持ちが伝わってくるようで、私も自分の胸を痛めた。
フィルクさんの言っていた事が、全て本当だという証拠はない。
今まで普通の狼王族として生きてきたアレクさんが、神様として目覚める。
何も変わらないわけがない。そう予感しているから……、ルイヴェルさんはこんなにも寂しそうなのだ。
「しっかし……、神ってよ、エリュセードの代表的な三人の神の他に、結構色々いるんだよな? アレクの奴は結局、何の神なんだ?」
「ディーク兄様の言う通り、私もそれが気になります……。フィルクは、アレクの事を、エリュセードの要だと言っていました。それが何を示すのか……」
「セレスフィーナ……、一度、フィルクという男の様子を見てきて貰えるか? 魔力の消費が激しいのなら、魔力石を。出来るだけ早く、詳細を聞きたい。それと、王宮に急ぎ連絡をとる。これは、ウォルヴァンシアだけの問題ではなくなるだろうからな」
「はい、お父様」
席を立ち部屋の外に出て行くセレスフィーナさんを見送りながら、私は眼下にあるルイヴェルさんの頭を繰り返し撫でる。
自分の中で膨れ上がっていく不安を誤魔化すように、アレクさんがこれからどうなるのか……、それを、口にしないように。
(神様は、天上に在るべき存在……。アレクさんが、神様として目覚めたら)
それは、つまり……。
続きを頭の中で掻き消して、私は溜息を零す。
ようやく、ウォルヴァンシアに戻って来れたのに……。
事態は急展開を見せるように、次から次へと坂を駆け転んでいくかのようだ。
落ち着く暇がない。心から不安が晴れる事がない……。
ひとつ解決しても、また次の難題が雪だるまのように大きくなって転がってくる。
その中でも、私にとって一番恐ろしく感じているのは……。
「アレクさんは……、もう」
『ユキ……』
「ルイヴェルさん……、大丈夫、ですよね? フィルクさんだって、神様なんでしょう? だけど、この世界に、地上にいます。だから、アレクさんも……」
微かに震える手元の感触に気付いたのだろう。ルイヴェルさんはすりっと大きな頭を私のお腹に擦り付けると、今は考えないようにしておけと囁いた。
まだ決まったわけじゃない。悪い方に考えてしまうと、そうなってしまうぞ、と。
それに頷いて自分の心を強く叱咤した私は、疲れた身体と心に栄養を補給する為に、テーブルの上に置かれたお皿の中にあったマフィンを手に取った。
もぐもぐ、もぐもぐ……。甘くてふわふわの感触が、舌の上を楽しませてくれる。
ルイヴェルさんにも取ってあげると、やっぱり元気がなさそうにそれを少しだけ齧って口を閉じてしまった。
それを見下ろしていた私は、暫くして外から響いてきた慌ただしい足音に耳を傾けた。
「お父様!! た、大変です!! ふぃ、フィルクが、フィルクがっ」
「セレスフィーナ、落ち着きなさい。フィルクに何があった?」
彼女らしくもない取り乱しようで、扉が乱暴に開かれる。
顔は青ざめ、彼女自身もどうしていいのかわからないようだ。
レゼノスおじ様が立ち上がり、セレスフィーナさんの肩を抱いてソファーに腰かけさせる。
「落ち着いて話してみなさい。フィルクが、どうした?」
「……と」
息子であるルイヴェルさんに対してとは違い、どこまでも優しい響きで、勿論、親しい人にしかわからないその変化で、娘であるセレスフィーナさんに問うレゼノスおじ様。
昔から、息子には厳しく、娘には優しくのレゼノスおじ様だけど、彼女の様子に僅かながら動揺しているようだった。
「お父様……、実は」
美しいその面差しは酷く青ざめている。
そして、私達はセレスフィーナさんの続けた言葉に、――思考を完全に停止した。




