アレクの葛藤
今回は、前半を幸希。後半を、アレクの視点でお送りします。
※今回は、前半を幸希。後半を、アレクの視点でお送りします。
「あの、ルディーさんっ、ロゼリアさん!!」
アレクさんの姿を捜しに騎士団の訓練場に来た私は、団員さん達に指導をつけている二人の傍へと駆け寄って行った。
団長であるルディーさんが指導の手を止めてこちらに振り向くと、ロゼリアさんも表情を和ませて私を出迎えてくれた。
「おう! 姫ちゃん、お帰り~!」
「ユキ姫様、お帰りなさいませ。出迎えに同席出来ず、申し訳ありませんでした」
「いえ、気にしないでください。それよりも、ただいま戻りました。今日からまた、よろしくお願いします」
ガデルフォーン皇国で起こった、対・魔獣戦。
その際に再会したルディーさんは大人の姿をしていたけれど、今は普段の少年の姿に戻っていた。だけど、どちらの姿をしていても、その頼もしさと安心感は健在だ。
そして、ロゼリアさんの方は……。
「ロゼリアさん、イメチェンですか? とっても素敵な髪形ですね」
「有難うございます。時々ではありますが、変化を求めたくなる事がありまして」
普段、高く結い上げている彼女の髪形が、今日は肩の辺りでゆったりと結ばれ、胸の前に流されている。
騎士様としての凛々しさは勿論健在だけど、今日の髪形は、ロゼリアさんの女らしさをぐっとUPさせているような気がする。
その美しい姿を眺めながら見惚れていた私は、エリュセードに移住してから、特に自分の髪形に変化をつけていなかった事に思い当たった。
今の長さなら、色々と試せそう、かな。
「で? 姫ちゃん、何か用があるんじゃねーのか?」
「あ、は、はいっ。……アレクさん、います、か?」
「副団長……、ですか。今は……、お会いにならない方がよろしいかと」
「え……」
一度騎士団に戻った後、アレクさんは仕事の引継ぎは後にすると言って、副団長室に籠ってしまったらしい。
執務机に顔を伏せ、ただ、静かに……、無言で、どんよりとした暗雲を背負っているのだ、と。
「すみません……。諸悪の根源は、私です」
「ゆ、ユキ姫様? しょ、諸悪の根源などとっ、そこまでご自分を責められる必要はっ」
「そうだぞ~。姫ちゃん絡みなのは一目瞭然だが、あれだろ? ……ま~た、アレクがなんかやっちまったって感じなんじゃね~か?」
ルディーさんとロゼリアさんの心配げな視線にどう答えるべきか。
私が話しにくそうに曖昧さを含んだ笑みを引き攣らせていると、ロゼリアさんが悲痛そうな表情になって教えてくれた。
「事情は存じませんが……。いつもの暴走案件とは何かが違うと申しますか。今にも、崖上から飛び降りそうな気配があると申しますか……。私達もどう対処するべきかと、悩んでいたところなのです」
「ご迷惑をおかけして……、すみません。……その、実は」
訳を話しかけた時、不意に感じた強烈な視線……、それも、沢山の。
思わず振り向いた私は、訓練中の団員さん達がその手を止め、興味津々で耳を傾けているのに気付いた。
「お前らなぁ……、一応アレクのプライベートな事だから、向こう行ってろよ」
「「「副団長の恋の行方、ものすっごく気になりま~す!!」」」
興味津々どころか、熱烈な好奇心の塊だった!!
何故か私とアレクさんの関係が筒抜けのようで、四方八方から、「副団長が失恋したら、俺達騎士団は終わりだ~」とか、「カイン皇子に負けないでくれ~!! 俺、副団長に賭けてるんだよ~!!」などという様々な思いの丈が聞こえてくる。
「ほぉ~……、そうかそうか。騎士団の訓練そっちのけで耳向けてくるほど気になるのか~」
めらり……。大気が強く揺れるような気配を感じた直後、ルディーさんが瞬く間に大人の姿へと変化し、剣を手にニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
少年の姿の時には感じられない、大気が震え怯えているかのような闘気の凄まじさを感じる。
「あの、ルディーさ」
紅の長いクセのある髪が大きく揺れたかと思うと、ルディーさんの手にあった剣が団員さん達のど真ん中に突き放たれた!! ぇえええええええええええ!?
「「「ひぃいいいいいい!!」」」
流石はウォルヴァンシア騎士団員の皆さんだ。刺さる寸前の所でどうにか避けた。
ルイヴェルさんが怒った時と同じくらいに、ううん、感情がわかりやすく表れている分、物凄い迫力となってルディーさんを鬼神さながらに演出しているように思える。動じていないのは、ロゼリアさん一人だけだ。流石です。
「アレクの事を気にしてる暇があったら、次の昇級試験目指して自分を鍛えろおおお!!」
「「「はいぃいいいいいい!!」」」
その迫力のある怒声を合図に、団員さん達は大慌てで訓練に励み始めた。
昇級試験……? と首を傾げる私に、ロゼリアさんが説明をくれる。
「騎士団の団員達は、決まった時期に自分の位を上げる試験を受けるようになっています。試験を突破し、経験を重ねていけば、部隊長への昇格も夢ではありません」
「そうなんですか……。皆さん、大変なんですね」
「筆記試験に実技と、色々試験内容が盛りだくさんだからな~。さてと、姫ちゃん、団長室の方で話を聞かせて貰えるか?」
鬼神モードを解いたルディーさんが、また一瞬の変化で少年の姿に戻ると、私の手を引いて訓練場を出始めた。
そして……、ルディーさんの喝が効いた、いや、効きすぎたのだろう。
団員の皆さんは崖っぷちに立たされたかのように背筋を正し、本気以上の闘気と共に打ち合いを行っている。
やがてその姿が遠くなり団長室に通された私は、ロゼリアさんの淹れてくれたお茶を前に、ガデルフォーンでの事を話し出した。
アレクさんには申し訳ないけれど、こんなにも心配してくれている人達に嘘は吐けない。
「「…………」」
多分、ルディーさんもロゼリアさんも、こんな話が出てくるとは思わなかったのだろう。アレクさんが、自分の意思とは関係なく、私に無理強いをしてしまい、キスをしてしまった事を……、信じられない表情で聞いている。
「アレクが……? あの、姫ちゃん至上主義の堅物が……、無理強いしてキス? 暴走状態でもなかったのに?」
「副団長であって、副団長でない……、俄かには信じ難い話ですね」
向かいの席で頭を抱えているルディーさんに同意し、ロゼリアさんも頷く。
私はアレクさんの異変を徐々にという感じで目にしていたから、まだ落ち着いていられるけど……。知らなかった人からすれば、衝撃的な話に違いない。
「ごめんなぁ、姫ちゃん……。アレクの意思でないとはいえ、怖い思いさせちまって」
「ついに男気を出して、カイン皇子を出し抜いたかと思えば……。まさか、自分ではない何かに精神を乗っ取られていたとは……」
「その可能性が高い、という話なんですが……」
アレクさん自身は自分がした事だと罪悪感に苛まれている。
自分のせいではないのに、私を傷付けた……、と、心から苦しんでいるのだ。
どうすれば元の状態に戻れるのか。
どうしたら、アレクさんはまた、……笑ってくれるのだろうか。
「アレクさんと、お話がしたいんです……」
「ん~……、なぁ、姫ちゃん。この話、俺とロゼに預けてくれないか?」
「え……」
「多分、姫ちゃんが何言っても、自分を気遣って無理してるだけだ、って、そう思う気がするんだよ」
アレクさんの性格上、確かにそうかもしれない……。
俯き、紅茶の水面を見つめた私は、こくりと小さく頷いた。
私よりも近しい、ルディーさんとロゼリアさんからの言葉だったら、アレクさんも納得して立ち直ってくれるかもしれない。
だけど、自分で話したいという気持ちもあって、ついて行っては駄目だろうかとお願いしてみた。
「……わかった! 姫ちゃんも連れて行こう」
「そうですね。最初から、という訳にはいきませんが、まずは私達で副団長に話してみますので、途中からでもよろしいですか?」
「はい! 勿論です!!」
アレクさんともう一度話せるのなら、途中からだって構わない。
もう一度、温かなあの人の笑顔を見られるのなら……。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
――Side アレクディース
「お~い、アレク~!! 入るぞ~!!」
「副団長、失礼します」
一人にしてほしいのに、扉に鍵まで掛けて、窓のカーテンも全て閉め切っていたというのに……。
鍵を強引に破壊して入って来た二人の仕事仲間の声に、俺は内心で悪態を吐く。
「アレク、姫ちゃんから話は聞いたぞ」
「そうか……。騎士団の除名なら手続きを進めておいてくれ」
「お前なぁ……、普通に考えて、落ち込んだり思い詰めるのは、姫ちゃんの方だろうが。それを何だよ。気まで遣わせちまって……、男らしくねーぞ?」
「その通りです。してしまった事は取り消せないのですから、許してくださったユキ姫様に深く感謝し、前向きに生きてください」
俺を執務椅子から強引に引き摺り下ろしたルディーが、ソファーへと蹴り倒す。
抵抗する気力もない俺は、されるがままにソファーへと倒れ込み、憂鬱さを吐き出すかのように、溜息を零した。
確かにユキは……、俺のした暴挙を許し、気遣ってくれた。
初めてを何とも思っていない男に奪われ、それも、無理強いされて……、さぞかしその心を痛めただろうに、懸命に笑おうとさえしてくれた。
心優しい……、俺の愛する少女。
だが俺は、彼女がその寛大な心で許してくれても、自分自身を許す事が出来ないでいた。俺は、何故あんな事をした? 自覚のない行為だったというのが、さらに俺の心を苛んでいる。
「あの時の俺は……、気付いたら……、ユキと唇を重ねていて、自分でもよくわからない状態だったんだ」
「姫ちゃんの話だと、お前、ガデルフォーンにいた時から、変な異変に遭ってたんだろ? 全然自覚はなかったかのよ」
「……いや、時折、おかしな感覚に襲われる事はあったが、仕事疲れのせいかと思っていた」
「もう少しご自分の身に危機感を抱いてください、副団長」
魔獣との戦いが起こる前、玉座の間で倒れた時……。
何かを見たような気もするが、倒れた際の夢のようなものだろうと楽観視していた。……というよりも、あまり、その時の事は覚えていない。
だが、ユキの唇を奪った時……、確信した。
――俺の中には、俺であって、俺ではない何かが……、在る。
それが何なのか知る術はないが……、今の俺にとっての問題はそんな事よりも。
「俺は、ユキに愛を乞う資格などない……、極悪非道の男だ」
「いや、それ誰の事だよ。お前、どう考えても、真面目一徹の善人だろうが」
「団長、ここはひとつ堪えてください。今は副団長の心の中にあるものを、全て吐き出させるべきです」
起き上った俺は、ゆっくりとソファーに座りなおした。
茶を淹れてくると言ったロゼを見送り、俺の隣に腰を下ろしたルディーに胸の内を話す。ユキの唇を、無自覚とはいえ何かに支配され奪ってしまった事……。
それに対する罪悪感と自己嫌悪は酷く、俺自身が己を許せない事。
そして……。
「俺は……、身勝手な真似をしておきながら、さらにどうしようもない事を願ってしまったんだ。俺とのキスを、事故だと、気にする必要はないと、優しい心遣いをしてくれた彼女に……」
――初めて、心の底で苛立ちを覚えてしまった。
勿論、ユキが自分の傷ついた心を隠して気を遣ってくれた事はわかっている。
だが俺は……、あの時の俺は、二人の間で起きた出来事を、なかった事にしようとする彼女が、酷く残酷に見えたのだ。
今でもこの唇に残っている……、ユキの温もり。唇と、濡れた舌の感触。
どうしてもそれを忘れる事が出来ない俺は、どこまでも浅ましく、外道だ。
「事情はどうあれ、俺は確かにユキと唇を重ね合わせた。その事実を……、俺は、忘れる事など出来ない」
「まぁ、お前は真面目だからなぁ……。しかも、あれだろ? お前、姫ちゃんが初恋って事は、初キスだったわけだろ? そりゃダブルできついよなぁ……」
剣一筋に生きて来た為か、告白や一夜の誘いを受ける事もあったが、俺はその全てに興味を示す事がなかった。憧れていた、元副騎士団長の父親を目指し、鍛錬を重ねる事こそが、生き甲斐だと……。だが、ユキと出会ってからの俺は、自分でも驚くほどに変わった。
一人の女性を愛おしく想い、守りたいと願い続ける日々。
けれど、それは同時に、彼女にとって一番の危険人物が自分という存在になる事を意味していた。愛するという想いが、俺を本当の意味で男に変えていく。
話すだけでは、その笑顔を目にするだけでは足りないと……、その温もりに触れたいと。醜い欲を抱くようになった俺こそが、ユキにとって一番の脅威だ。
「つまり、姫ちゃんの初めては自分だと、その事実をなかった事にされたくない……、そういう事か?」
静かなその言葉に、頷く。
「ユキは、俺の身に起こっている異変のせいであの行為が起きたと言っていたが……、一方で、こうも思える。俺の中にある欲が、彼女を欲して無意識にあんな真似をしでかしたのではないか、と」
俺にそれを判断する事は出来ないが、ユキを想う気持ちが日増しに強くなり、それと同様に、彼女を対象とした欲もまた、俺の中で増長していく。
傷付けたくない、この腕で守り続けたい、そう願うのに……。
「どんどん、自分でも止められない程に……、浅ましい存在になっていくんだ」
「アレク……」
「だから、ユキが忘れようと口にした時、酷い怒りを覚えた。たとえ事故のようなものでも、彼女にとっての俺は、すぐに忘れられるような存在なのか、と」
「姫ちゃんが、気遣って言ってくれてんのをわかっても、か」
「あぁ……。だから俺はもう、ユキに会わせる顔がないんだ。彼女は俺の事を選んでくれたわけではないのに、大切なものを奪って、それを忘れないでほしいと願う俺など……、――ぐっ!!」
呻くようにそう吐露していると、突然、瞬時に大人の姿に変わったルディーが、燃え上がるような髪を振り乱して、俺の頬を強く殴りつけてきた。
扉の方まで吹っ飛んだ俺は、口の端に滲んだ血を拭いながら、近付いてきたルディーを見上げる。
「人が優しく聞いてやってりゃ……、ウジウジと鬱陶しい!! アレク!! お前、仮にもウォルヴァンシア騎士団の副団長だろう!? 一人の男だろう!? 何甘えた事言ってんだよ!!」
「ルディー……」
「相手を何ひとつ傷付けずに愛するとか、普通に考えて無理だろうが!! 違う存在なんだ。喧嘩もすりゃ、時に亀裂が入っちまうぐらいに傷付けあう時もある!! いつまで姫ちゃんに対して怯えっぱなしの情けない醜態晒してりゃ気が済むんだ、お前は!!」
怯えっぱなし……か。
駆け寄って来たロゼを片手で制し、俺は壁に背を預け……、嗤った。
自嘲の意を含んだ嘲笑を。
剣に対する自信や矜持はあっても、ユキを愛する事には酷く臆病な男だ……。
彼女にどう想われるか、心優しい男だと思われたくて、愛されたくて……、俺は自分を偽ってばかりだ。本当は……。
「好き過ぎて……、もう、自分を抑えられくなっているんだ。ガデルフォーンに辿り着いた時も、あの男とユキの心の距離が近くなっているように見えて、物凄く……、腹が立った。早く、早く……、何とかして、彼女の心を俺の方に、と。どんどん自分というものを制する事が出来なくなって」
「情緒不安定爆発状態という事ですね。副団長らしいとは思いますが……、確かに、キスはキス。事故のような認識だとしても、ユキ姫様の感触を覚えてしまった副団長としては……、忘れてほしくないのでしょうね」
「じゃあもう、そう言っちまえよ!! 姫ちゃんに頼め!! 自分には下心があって、本当はいつでも姫ちゃんにチューしちまいたいくらいに大好きだってよ!!」
「団長、論点がずれています。副団長をキス魔にしないでください。それに、副団長は忘れたくないと願ってはいても、ユキ姫様はまだ開花前の蕾のような御方……。自分にとって定まったお相手を決められていない状態でのそれは……、女性の心情的に言えば、色々と複雑なものがあります」
テーブルに茶を置き、ソファーに腰かけたロゼが、静かにティーカップを手に取って呟く。大人の姿となったルディーもどかりと、その反対側のソファーに座り込み、両腕を組んで小さく唸った。
俺も、それはわかっている……。俺と、あの竜の皇子が抱く想いが、どれほどユキを悩ませているか。
必死に、一生懸命に答えを出そうと努力してくれている彼女に、これ以上の追い討ちを……。
わかっているのに、忘れたくない、忘れてほしくないと願う自分は本当に愚かだ。
「はぁ……。とりあえず、俺から言ってやれるのは、一人でウダウダ悩んでる暇があったら、姫ちゃんに自分の想いを受け止めて貰えって単純な答えだ」
「それだと……、ユキが困る」
「だあああああ!! 別にいいんだよ!! 恋愛なんてもんはなぁっ、ぶつかりまくってなんぼだ!! 遠慮ばっかして溜め込んでたら、あの皇子さんにもってかれちまうぞ!!」
「そうですね。カイン皇子は、副団長よりも素直で自分に嘘を吐かない御方ですから、ユキ姫様にとっても気楽なお相手でしょう。副団長が引き籠っている間に……、先に進まれてしまうかもしれませんね?」
カイン・イリューヴェル……。
俺とは違い、ユキに対して遠慮も何もなく、自分の感情に素直すぎる男。
今この時も……、彼女の傍にべったりと張り付いているかもしれない。
それを思うと、右手のひらに必要以上の力が入り、鈍い痛みが中で滲んだ。
「アレク、俺はややこしいのが嫌いだ。だから簡潔に言っておく。姫ちゃんを皇子さんにとられたくなかったら、形振り構うな。襲う以外だったら多分許されるから、姫ちゃんに思いっきり我儘言ってこい」
「だが……」
「その方が、気が楽になりますよ。言うだけならタダです。ユキ姫様に却下されたら、私と団長でお慰めしますから。……ですから、真面目過ぎる良い人に徹するのは、いい加減におやめください」
真面目過ぎる良い人、か……。
そうだな……。俺は、ユキに嫌われたくなくて、自分を抑えてばかりの意気地なしだ。彼女を大切に、傷付けないように? 違うだろう……。
本当は、俺自身が彼女に嫌われるのが怖くて、好かれようと善人ぶっていただけの事だ。
「ユキの所に行ってくる……」
「よし! 肝が据わったな!! じゃあ、ちょっと待ってろよ」
「ルディー?」
ルディーが副団長室のカーテンを勢いよく開けると、眩い光が差し込んできた。
両開きの窓が開き、その向こうにルディーが身を乗り出したが……、横を向いた瞬間、何故か固まってしまった。
「どうした、ルディー」
「あ、いや、あの……、アレク、ちょっとこっち来んなっ」
どういう事だ? 立ち上がり、窓辺へと向かう。
駄目だと言い張るルディーを押しのけ、窓の外に視線を巡らせると……。
「――貴様、何をしている?」
ユキを壁に押し付け、両手で顔を押しやられながらも接近しようとしている最悪の男の姿があった。必死に抵抗している彼女の様子を見るからに。
俺は窓辺を飛び越えて外に出ると、愛剣を引き抜き、その鋭い先端を、カイン・イリューヴェルの喉元に突きつけた。
「ユキから離れろ」
「はっ、テメェにばっかリードされてちゃ、俺の立場がねぇんだよ!」
「か、カインさんっ、や、やめてくださいっ。あ、アレクさんも、剣を下ろしてっ」
どう考えても、ユキに対して無理強いをしているようにしか見えない。
俺は彼女を救い出すべく、カインの横腹に蹴りを叩き込む構えを見せ、奴が飛びのいた瞬間にユキの腰を攫い、自分の腕の中に奪還した。
「ああっ、皇子さん、何でこんなタイミングで出てくんだよ~!!」
「恐るべし、恋敵の執念というものでしょうか」
「ロゼ、冷静に感想を言ってる場合じゃないからな!!」
俺がユキをしっかりと腕に抱きかかえた状態で睨み付けると、カインは嘲笑するように真紅の双眸を細め、それに応えた。
確かに、この男は俺と違って……、自分を偽らず、ユキに全てを晒しているのだろう。腕の中にいるユキがカインの事を気にしている気配を感じた俺は、また心の奥底に、憎悪にも似た嫉妬を覚えた。
「テメェには関係ねぇだろ? ユキを寄越せ」
「断る。彼女はまだ、誰のものでもない。それに、ユキは嫌がっていた」
「はっ!! テメェだってやっただろうが……!! 少女期の女に手を出したらどうなるか、わかってたくせによ。いいよな? 異変だ何だってモンのせいに出来てよ!!」
「お前の場合は故意だ。彼女に触れる資格はない」
自分自身を正当化する気もないが、だからといって……。
この男に彼女の唇を奪わせる事は許せない。
「フェアじゃねぇだろうが……っ。テメェに先手を打たれて、それが原因でユキが答えを出しちまったら、俺は絶対に納得出来ねぇっ!!」
「か、カインさんっ。そんな事ありませんから!! アレクさんとの事は事故だったんです!! だから、それでアレクさんの方だけを特別視なんて」
――瞬間、凄まじい苛立ちが胸の中に沸き上がった。
カインに向かって全力で俺との事を何でもない事だったのだと全否定するユキが、許せない。確かにこの腕の中に在るはずなのに、心があの男の方に向かっている気がして……。
俺は、彼女を抱く腕に力を込めると、絶対零度の眼差しでユキを見下ろした。
「ユキ……」
「あ、アレク、さん?」
「あの時の事は、確かに事故のようなものだ。だが……、俺は、お前の感触を、温もりを、口内の熱を、覚えている」
「は、はいぃいいいいいいい!?」
顔を真っ赤にし、俺との行為を思い出したらしいユキが、腕の中で暴れ始める。
その反応に、らしくもない気分の良さを覚え、睨んでくる男に鋭い眼差しを向けた。
「俺がユキにした事は、許される事ではない。だが、俺は確かに、ユキの唇を奪った。それは変わらない事実だ。――他の男よりも先に」
わざと挑発的な気配を含んで、カインを牽制する。
「番犬野郎……、テメェっ」
「すげぇな……。あのアレクが、自分から挑発的な先手を打ったぞ」
「成長なさいましたね、副団長」
窓の中からルディーとロゼが感心したように拍手を送ってくる。
成長、か。そういうわけではないと思うが、ひとつ、俺とユキの間に妥協点を見つけた気がする。
俺はそれを実行するべく、瞳から冷たさを掻き消し、彼女を想う愛しさだけを宿した。
「ユキ……。確かにお前にとっては望んだ事態ではなかったのかもしれない。事故と言われれば、事故のようなものだ。そんなお前に、俺が付けてしまった傷を覚えていろというのは酷だと思っている」
「あ、あの、あのっ」
「だから……」
俺は、ユキの蒼い前髪を唇で避けると、その額に自分のそれを押し当てた。
そして、それだけでは済まさず、今度は固まっている彼女の目元に、頬に、順番にキスを落とし、最後に……。
「あ、アレクさんっ……、んっ」
唇で襟の釦を外し、その白い首筋に強く吸い付き、――暫くは消えないだろう華を咲かせた。
「な、なななななっ、あ、アレク、さんっ!?」
「これなら、覚えていてくれるだろう?」
あの時の事が彼女の心の傷になるのなら、俺だけが覚えていればいい。
けれどその代わり……、別の痕を付けて、彼女の記憶と心に俺の存在を残そう。
俺が彼女を愛している事を、この想いを……。
口をパクパクと魚のように開閉させているユキが、先程以上の真っ赤な顔で見上げてくる。
「愛している、ユキ……。お前の唇を奪ってしまった事に関しては、生涯を尽くして謝り続けるつもりだ。だが、今のキスは……、この首筋に残した俺の想いは、忘れないでほしい」
「え、えっと、あの、あのっ、あ、あ、あ、アレク、さんっ!?」
「……す。番犬野郎……!! 今すぐにぶっ殺してやる!!」
「――その前に、君達二人とも、僕に顔を貸して貰おうか?」
ドス黒くわかりやすい大量の殺気を漲らせたカインが、自身の右手を竜手に変えた瞬間――。どこまでも冷ややかな音が、副団長室の裏手に響いた。
まさか……、という思いで振り向くと、カインとは真逆の、荒ぶる怒りをその身の内に抑え込みながら、恐ろしい気配を静かに伝えてくる、――レイフィード陛下と目が合った。
「僕がわざわざ心配して様子を見に来てあげたっていうのに、な~にをやってるのかな? アレク、カイン」
「ちょっ、ちょっと待てよ!! 何かやったのは番犬野郎の方だろうが!! 俺は何もしてねぇぞ!!」
「僕が何も見てないと思っていたのかな~? ユキちゃんを壁に押し付けたのを、僕はバッチリ見ちゃったからね~? 止めようと思ったら、アレクがその役を取ってっちゃうし、かと思ったら、次は、まさかの真面目な君が困った事をしてくれたっていうわけだよ。――二人とも、お仕置き確定だからね?」
ユキをそっと地面におろした俺は、レイフィード陛下の前に進んで歩み出た。
「覚悟は出来ています。如何様にも罰を」
「怒られるって、そうわかってて、『また』ユキちゃんに手を出しちゃったって事かな?」
「はい。ですが……、後悔はしていません。俺はこの先、何があっても、彼女を愛し続けます」
恐らく、さっきの話も聞かれていたのだろう。
俺がガデルフォーンの地で、正確には別空間の世界でだが、その唇を奪ってしまった事。そして、今度は懲りずに新たな痕を残した事……。
言い訳はしない。罰も受ける。だが、ユキを愛する事は、何があっても、諦めたりはしない。
『――愚かなまでに一途な男だ』
何だ? 今……、頭の中で、誰かの声が。
レイフィード陛下の前に跪き、静かに瞼を閉じていた俺は、鈍く走った痛みと共に、頭を押さえた。
「どうしたんだい? アレク」
「いえ……、何でもありません」
辺りを見回しても、それらしい影は見当たらない。
だが、さっき確かに……、男と思われる声が聞こえた気がしたんだが。
はっきりと、明確に、脳裏を揺さぶった音。
これも、俺の身に起こっている異変のひとつなのか?
(一体何なんだ……)
せっかくユキに対して新たな決意を示せたと思っていたのに……。
俺の心には、奇妙な靄がその色を濃くしながら覆い被さってきたように思える。
そして、ウォルヴァシアの晴れ渡る青空を見上げた俺は、胸の奥に……、嫌な胸騒ぎを覚えたのだった。




