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ウォルヴァンシアの王兄姫~淡き蕾は愛しき人の想いと共に花ひらく~  作者: 古都助
第三章『魔獣』~希望を喰らう負の残影~
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戻ってきた平穏と残る不穏

エリュセードの表側で魔獣が倒されてから数日後の事です。

 それは、エリュセードの表側で古の魔獣が打ち倒されてから数日後の夜……。

 ファニルちゃんと一緒に眠りに落ちていた私が見た、不思議な夢。

 お母さんの手の感触に似た温もりに頭を撫でられながら、私は『彼女』の膝らしき場所に頭を委ねているようだった。

 姿を見る事は出来なかったけど……、その人の傍にいると、とても温かくて。

 まるで幼い子供にでもなってしまったかのように、私は彼女の言葉にうっとりと耳を傾けていた。


『ユキちゃん、ガデルフォーンでの一件では、色々大変だったわね……。『あの子』のせいで、貴女や皆に苦労を背負わせてしまって……、本当に申し訳なく思っているわ』


『んっ……』


『ごめんなさいね……。貴女達の力になりたいと思うのに、ようやく出来たのは、限られた時間の中で、貴女に伝言を頼む事だけ……』


 身動ぎをしながら甘える私に、その人が悲しそうな気配と共に声を落とした。

 何がこんなにも彼女の心に憂いを落としているのか、そう聞きたいのに、何も言葉を発する事が出来ない。


『ユキちゃん、皆に伝えてくれる? 『ディオノアードの欠片』を、これ以上、『あの子』の手に渡さないで……、と。多分、それを聞いても何の事かはわからないと思うから、エリュセードの神々が生まれた時代の伝承が綴られた文献を調べてほしいの。そうすれば、何の事かはわかると思うから。いい? ディオノアードの欠片と、古の時代の文献を調べるの。そう、伝えて頂戴ね』


『んにゅっ……、でぃおの、あーど……』


『そう、ディオノアードよ。ディオノアードの欠片……。それと、『アヴェル』の動きに注意して頂戴。あの子は不安定な状態だから、何か間違った方向に傾かないように、お願いね?』


『アヴェ……、ル』


 それを最後に、女性はもう何も語る事はなく、温かなその感触も嘘のように消えてしまった。

 ディオノアードの欠片……、アヴェル。

 それが何なのか、説明さえなく……、私は濃い闇の中へと放り出され、恐ろしい不安の渦に引き摺られるかのように、その場で泣き叫んだ。

 まるで、さっきまで一緒にいた女性の存在を心から恋しく思うかのように、子供同然に、涙を零し続けた。



 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

「……キ、ユキ」


「行かない……、でっ。お願いだからっ、行かないで!!」


「――っ!!」


 縋るように伸ばした両手が、誰かの温もりに触れた。

 動揺の気配がすぐ傍に感じられたけれど、私は構わずにその人の首筋にしがみつく。どこにも行かせないように、ぎゅぅうううっと……。

 しかし、無言の時間が二人の間に流れていく内に、私の意識は徐々に覚醒していった。あれ、私……、今、……『誰』に抱き着いてるの?

 恐る恐る瞼を開いてみると……、誰かの首筋に渾身の力で抱きつき、その人物の髪の色が銀色だという事まではわかった。

 銀髪……、アレクさん? と、予想をつけたものの、何かが違う。

 一言で言うと、まず、髪の長さ。アレクさんは背中よりも長い銀髪だし、こんな風に襟足が長いだけのそれではない。

 ……という事、は? さて、私は一体『誰』に抱きついているのでしょうか?

 シュディエーラさんも銀髪だったけど、あの人は髪が短い。

 あれ……、じゃあ、他に銀髪に該当する人って、……。


「あ、あの……」


「熱烈な朝の歓迎だな……? ユキ姫様」


 わざとらしく声を低められ囁かれたその声は……!!

 私の知っている銀髪の男性は、あと二人だけ。

 一人はフェリデロード家の当主、レゼノスおじ様。そして、もう一人は――。

 私の背中をよしよしと撫で下ろすその手の感触と意地悪な響きを含んだその声音に、私はぞぞぞっと嫌な予感を感じた。


「る、……ルイヴェル、さん?」


「一応、ノックはしたんだがな? 悪いとは思ったが、起こした方が良いと判断し、入らせて貰った」


「ああああ、あのっあのっ、その、ご、ごめんなさい!!」


 一番抱き着いたら不味い人に縋ってしまった事を悟った私は、大慌てでルイヴェルさんの首筋から両手を離し、ベッドの端へと飛び退いた。

 古の魔獣退治を終えて、エリュセードの表側で事後処理に追われていたはずのルイヴェルさんが何故ここに!? 顔を真っ赤にして口をパクパクさせる私を、ニヤリと愉しそうに見ている王宮医師様の姿に慄いていると、突然ルイヴェルさんの顔に動揺の気配が浮かび、その身体がベッドの方へと倒れ込んできてしまった。

 一体何が……、その答えは簡単だった。

 ルイヴェルさんの背中を蹴り倒した人物が、冷ややかな面差しでその背後に立っている。ルイヴェルさんと全く同じ髪色と瞳の色をした、感情の読めない表情が特徴的な……、フェリデロード家の当主様。


「ルイヴェル……、ユキ姫様への無礼は、ユーディス様への無礼でもあると、何度言えばわかる? お前のユキ姫様への態度は、昔から変わらず子供の所業だ」


「れ、レゼノス、おじ、様……っ」


 どかっとルイヴェルさんの背中にまた足を乗せ、グリグリと嬲るように踏み付けているレゼノスおじ様は……、慣れ親しんだ者にはわかる事だけど、……息子さんを折檻する事を楽しんでいる。     

 あのルイヴェルさんが……、あの、ルイヴェルさんが……、こうも簡単に情けない姿を晒すのは、自分のお父さんの前でだけだろう。

 というよりも、昔からどんな喧嘩が起こっても、最後に負けるのは高確率でルイヴェルさんの方だった気がする。


「父さん……、さっきのはユキの方から抱き着いてきたのであって、俺が何かをしたわけじゃないだろう?」


「ユキ姫様に抱き着かれた時点で、私にとっては気に入らない……」


「何だかんだと言いながら、ただの私怨じゃないか……」


 踏まれながらレゼノスおじ様を振り返り睨み付けるルイヴェルさん。

 全く力を緩ませずに踏み続けるレゼノスおじ様……。

 あぁ、何だか懐かしい……、この光景。

 私が幼い頃は、目の前でよくお二人が睨み合いと毒舌合戦の果てに喧嘩をしたものだけど、こういう所は十年以上経っても変わらないんだなぁ。前と全部一緒。

 レゼノスおじ様の気が済んだのか、踏み倒しから解放されたルイヴェルさんが小さく息を吐きながら、ベッドの端に腰をかけた。


「ところで、お前はどんな悪夢を見ていたんだ? 尋常ではない魘され様だったが」


「あ……」


 夢……。私が、さっきまで意識を沈めていた……、闇の中。

 寝起きの意識がその内容を忘れ去る前に、私は大事な事だと思われる言葉を口にした。夢の中で、姿は見えなかったものの、優しい手つきで私の頭を撫でてくれていた女性の事。彼女が託した伝言。――ディオノアードの欠片と、アヴェル。

 どうにか記憶の中から消す事なく、現実に持ち帰る事の出来た情報を表に引き出すと、レゼノスおじ様とルイヴェルさんの深緑の双眸に険しさが宿った。


「アヴェル……、アイツらの言っていた子供の名か」


「ディオノアードの欠片……、どこかで聞いた事があるような気もするが……、ユキ姫様の夢に現れた女に関しても気になる点は残るな。一体誰だ……」


「どこか、懐かしい感じのする人でした……。私のお母さんと同じように、優しい手つきで頭を撫でてくれて……、とても、落ち着く雰囲気の人で」


「ユキ姫様、他には……、何か気付いた事はありますか?」


 レゼノスおじ様は少しでも多くの情報が欲しいのだろう。

 ディオノアードの欠片とアヴェル、それに関わる他の情報を思い出そうと瞼を閉じた私は、まだ表に引っ張り出せそうな記憶を掴んだ。


「ディオノアードの欠片を、『あの子』に渡さないで……と、言っていました。あとは、……そうです。エリュセードの神々が生まれた時代の伝承に関する文献を調べれば、情報が得られる、と」


 あとは、アヴェルという名の人の動向に注意しておいてほしいと言われた気もする。不安定な状態だから、間違った方向に傾かないようにって……。

 そのアヴェルというのが誰の事なのかわからないけれど、ルイヴェルさんの方には心当たりがあるようだった。口元に指先を添えると、深緑の双眸が思案の気配を濃くしていく。


「ユキ姫様、その件に関してはこちらで調べを始めます。あとは我々にお任せを」


「はい……。よろしくお願いします」


 私に出来るのは伝える事だけ。何だかガデルフォーンの皇子様達の一件から、メッセンジャー的な役割をしているなと感じていると、レゼノスおじ様が一旦今の話題を終わりにする旨を告げ、アレクさんの事に関しての報告を始めてくれた。

 私が眠った後にガデルフォーンへと戻って来たらしいお二人は、セレスフィーナさんとディークさんから話を聞き、アレクさんの診察を念入りに行ってくれたらしい。

 だけど、それでも……、名医中の名医であるレゼノスおじ様でも、アレクさんの異変の原因は突き止められなかったというのだ。


「仮説でしかありませんが……、ユキ姫様の力と同じく、表に出て来た時にしか感じられない異変なのかもしれません。力が及ばず申し訳ありませんが、アレクの件に関しては、様子を見ながら異変の正体を探っていくべきかと……」


「ガデルフォーンの皇子達の魂や、魔獣の件といい、次から次へと問題が積み重なってきているからな。ユキ、アレクの事は俺も気を付けて見ておく。お前は心配せずに、普段通りにアイツに接していろ」


「はい……」


 玉座の間で倒れた翌日から、アレクさんの身に起きた小さな異変……。

 レゼノスおじ様なら何か掴んでくれるかと思ったのだけど、何もなかった……。

 その答えは、私だけでなく、お二人の心にも疑問を残し……、とりあえずは、アレクさんに普段通りに過ごして貰って、定期的な診察を行っていく事で話がついた。

 私はお二人にお礼を言ってその背中を見送った後、着替えを終わらせて朝の散歩に出掛ける事にした。



 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


「あれ……、アレク、さん?」


 ガデルフォーンの中庭を通りがかった私は、緑の芝生に腰を据えて座っている……、銀狼姿のアレクさんを見つけた。

 ぼーっと空を見上げながら、意識をどこか遠くに飛ばしているように見える。

 その周囲を、桃色もふもふボディのファニルちゃん達が取り囲んでおり、アレクさんに対して心配そうな視線を向けているようだった。

 静かにその後ろへと忍び寄り、横からアレクさんの表情を確認してみると……。


『……ふぅ』


 何とも悩ましい重たい溜息だ。

 それに反応してファニルちゃん達も「ニュイ~……」と、寂しそうな鳴き声を。

 これは……、ルイヴェルさん達を今すぐに呼びに行った方がいいだろうか?

 そう思って道を引き返そうとした私は、ぽふんと誰かの胸にぶつかってしまった。

 

「ユキ、……あれか?」


「る、ルイヴェルさん……、は、はい」


 レゼノスおじ様と私の部屋を後にしたはずのルイヴェルさんが、ナイスタイミングとばかりに現れてくれた。ぼんやりとしているアレクさんに視線を向け、ゆっくりと近づいていく。

 周りにこんなにも人や動物の気配があるのに、アレクさんはそのどれにも気付いていないらしい。

 魔獣の一件が終わり、エリュセードの月からも黒銀の闇が引き、清々しい朝を迎えられるようになった。晴れやかな空を見つめながら、アレクさんがまた辛そうな吐息をひとつ零した。

 試しにと、ルイヴェルさんが銀毛に覆われたアレクさんの頭に手をおき、診察も兼ねてひと撫で。

 その感触に気付いたのだろうか。アレクさんはくるりとルイヴェルさんの方に向き直り、じっと視線を定めた。


「アレク……、さん?」


『ルイ……、ヴェル』


「アレク……、お前……」


 瞬間、いつもならルイヴェルさんの事を『ルイ』と呼ぶはずのアレクさんが、本来の名を口にすると、その前足をくいっと持ち上げた。

 何かを言いたそうな、寂しそうな声音……。

 その前足をルイヴェルさんが右手で受け止め、ぎゅっと握り締める。何か……、アレクさんの身に起こっている異変に感じるものがあったのだろうか。

 僅かに潜められたルイヴェルさんの眉間の皺。

 直後、ルイヴェルさんまで銀狼の姿に変化し、寂しそうに鳴くアレクさんの身体に擦り寄り始めた。……何事?


『アレク……、大丈夫だ。お前は、確かにここに在る』


『ルイ……、ヴェ、ル。俺、……は』


 傍目から見れば、可愛らしい大型の狼さん達が仲良く戯れる光景に見えるのだけど……。

 ルイヴェルさんはこつんとアレクさんの額に自分のそれを押し当て、静かに瞼を閉じた。きっと何かを探っているのだろう。

 アレクさんの中で起こっている異変の正体を掴もうと、銀緑の光がルイヴェルさんの銀毛の体躯から滲み始める。

 

『クゥゥゥゥン……』


 アレクさんの喉から、頼りなげな音が零れ落ちた。

 ルイヴェルさんを押しのける事はなく、ただ黙ってその瞼を閉じ、じっと大人しくしている。


「ルイヴェルさん、どうですか……?」


 静かな時間が流れ、ようやく額を離したルイヴェルさんが、その場を歩き回りながら低く唸っている。何かを掴んで悩んでいるのか、それとも、何もわからず頭を悩ませているのか……、どっちだろう。

 その様子を目で追っていると、ぱたりとルイヴェルさんの体躯が芝生の上に倒れ込み、一言。


『全く……、わからん』


「ルイヴェルさん?」


 尻尾を苛立ち紛れにパタパタと芝生に打ち付ける姿は、可愛い以外の何物でもない。だけど、ルイヴェルさんは心の底から機嫌を損ねているようだった。

 アレクさんの異変が表に現れている時に診れば、きっと何かがわかるかもしれない。そう信じていたからか、何も掴めなかった事に対してご立腹のご様子。

 何故、何も掴めない……と、一人でボソボソと呟いている。

 思わず撫でたくなってしまうその後ろ姿に、知らず右手が伸びかけてしまう。


『ユキ』


「は、はいっ」


『アレクの事だが、お前の言っていた通り、確かに妙だ……。意識が底に沈んでいるような節もあり、存在が不安定に揺らいでいるような気配もある。だが……、何が起きているのかが、掴めない』


 その場に座り直し、またぼんやりと空を見上げているアレクさんを根気強く観察するルイヴェルさんの目には、困惑の気配が見え隠れしている。

 確かな異変が目の前にあるのに、その正体が掴めない。

 医者としての自分の腕と、魔術師としての知識や能力に絶対の自信があるルイヴェルさんには、この不可解な状態は望まないものなのだろう。

 必死に何かを掴もうと目を細めているけれど、その口から明確な答えが出てくる事はなかった。


『……ん? ユキと……、それから、ルイ。いつからそこにいたんだ?』


 ようやく意識が完全に戻ったのだろう。

 空を見上げていたアレクさんが我に返ったらしく、私とルイヴェルさんに視線を向け、首を傾げた。やっぱり、異変が起きている時の自覚症状が、ない。

 ファニルちゃん達にもふられながら不思議がっているアレクさんに、ルイヴェルさんが重苦しい溜息を吐き出してみせた。


『アレク……、自分がいつからここにいたのか、自覚はあるか?』


『……俺は、そういえば、部屋にいたはずなんだが、何故俺はこんな所にいるんだ?』


『それは俺達が聞きたいんだがな? 自分の行動を把握出来なくなる前の記憶はあるか? お前は部屋で何をしていた?』


 まさか、ここまで移動してきた記憶までないなんて……。

 アレクさんはファニルちゃん達を引き連れてルイヴェルさんの傍に向かうと、何故そんな怪訝そうな目で自分を見るのだと尋ねた。

 どちらかといえば、私達の方がアレクさんの異変の正体を尋ねたいところなのだけど……。無自覚のアレクさんに何を聞いても、きっと答えは出てこない。

 アレクさん自身もその答えを持っていないのだから……。

 

『ユキの所に向かう着替えをしていた所までは覚えているんだが……』


『その後、か……。異変の度合いによって違いがあるのかはわからないが、これは要注意、だな』


『何を言っているんだ?』


『気にするな。……アレク、もし何か気になる事が出来たら、すぐに俺か姉さん、父さんのところでもいい。必ず些細な事でもいいから報告しろ。それがお前の為になる』


 事情を掴めないアレクさんにそう言い含めると、ルイヴェルさんは人の姿へと戻り、回廊の方に道を引き返して行く。

 私の横を通り過ぎるその一瞬、その深緑の双眸に……、『何か』が見えたような気がした。だけど、それは瞬きひとつの間の事で、回廊の方に戻ってしまったルイヴェルさんの背中を見送る事になってしまった私は、それが何だったのかを、結局掴めずに終わってしまった。

 ルイヴェルさん……? 今のは、一体。

 アレクさんの件に関して、何もわからないと言っていたはずなのに、あの目に浮かんでいた気配は何だったのだろうか。

 それとも、アレクさんの件ではなく、別の何かで思考を動かし始めたのか……。


(ルイヴェル……、さん?)


 それに、去り際に私へ声をかける事がなかったのも気になる。

 ちらりとも私の方を見ずに、どこか足を急がせていたような気も……。

 まぁ、私が考えたところで、ルイヴェルさんの頭の中を覗けるわけもないのだけど。

 

「ユキ、朝の散歩中だったのか?」


「え……」


 不意に目の前に出来た陰に振り向くと、人の姿に戻ったアレクさんがそこにいた。

 ……何故、上半身だけ裸なの? 

 逞しい騎士様の、その姿を見上げて、私は固まってしまう。

 朝日を受けて佇むアレクさんは、その煌めく銀色の長い髪の効果も相まって、どこか神秘的にも見えた。

 だけど……、その深い蒼の瞳が、不意にまた、別の気配を纏うのに気付いた。


「アレク……、さん?」


「……」


 一歩後ろに下がると、その距離を詰めるようにアレクさんが近づいてくる。

 その右手が私の左腕を掴み、抵抗する暇もなく自分の胸へと私を引き寄せた。

 急に何がどうしたの!! 私を自分の胸に抱き寄せたアレクさんが、両手で背中を掻き抱くように力を込めてくる。


「あ、アレク、さんっ!?」


「……匂いが、する」


「はい!?」


「懐かしい……、匂い」


 匂いって何!? 狼王族だから鼻が利くんですね!! じゃなくて、一体これは何事なの!?

 私の首筋に顔を埋めたアレクさんは、匂いとやらを堪能するように、ぐりぐりと顔を擦り付けてくる。る、るるるるる、ルイヴェルさん!! この状態の方がさっきよりも恐ろしいぐらいに大きな異変ですよ~!! 戻ってきて!! お願いだから今すぐにカムバック!!

 だけど、ルイヴェルさんが駆け戻ってくる気配は皆無……。

 

「あ、あの、アレクさん、は、離し、てっ」


 私の声が全然聞こえてない!!

 ファニルちゃん達は不思議そうに見ているだけだし、抱き締めている力が強すぎて自力での脱出は不可能。アレクさんに抱き締められるのは嫌ではないけれど、これは不味いっ。

 この異変こそ、ルイヴェルさん達に診てほしいのに……、あぁ、もう、どうすればっ。……と、その時、助けを求める私の心の叫びが天に通じたのか、背後から轟くような怒声が響き渡ってきた。


「ごらあああああああああああ!! 朝っぱらからユキに何してんだ、テメェぇええええええ!!」


「か、カインさん!?」


 光の如き速さで私をアレクさんの腕から救出してくれたカインさんが、竜手に変化した右手を前に突き出し、野生の獣さながらの迫力で、芝生の上に尻餅をついたアレクさんに怒鳴った。

 タイミングが良いのか悪いのか……、とりあえず、解放されはしたけれど。


「抜け駆けとはいい度胸だな、このムッツリ野郎!!」


「……」


「カインさん、お、落ち着いてくださいっ。アレクさんは今、ちょっと、おかしいんですっ。だからっ」


「はああ!? お前何言って……、げっ!!」


 事情を知らないカインさんを宥めようとしていたら、まさかの事態が起こった。

 うがーっと噛み付くように大声をあげているカインさんを、正面からアレクさんが……、がばっと勢いよくその腕に抱き締めてしまった。

 その衝撃でぴしりと固まるカインさん……。

 これは……、見てはいけない光景なんじゃないだろうか。

 あの犬猿の仲の二人が……、カインさんを毛嫌いして嫌悪までしているアレクさんが、カインさんを、心から受け入れているように両手でがっしりと……。

 しかし、アレクさんはカインさんの首筋に顔を埋め、……匂いを嗅いだ後、「これじゃない……」と呟いて、ぺいっとカインさんを芝生に放り出した。

 そして、もう一度私の前に立ち……、アレクさんがその手を伸ばしてくる前に、我に返ったカインさんが宙へと飛び上がり、渾身の蹴りを……。


「何してくれてんだ、テメェはよおおおおおおおお!! 鳥肌立っただろうが!! 気色悪ぃ事してんじゃねぇよ!! このクソがああああ!!」


「きゃああああああああああ!!」


 見事に決まってしまった。カインさんの蹴り技で大きく吹っ飛んでしまったアレクさん!!

 いつものアレクさんなら器用に避けるはずなのに、やっぱり色々とおかしい!!

 大慌てで吹き飛ばされて壁にぶつかって倒れ込んだアレクさんに駆け寄った私は、その身体を助け起こし、彼の頬を数度叩いた。


「大丈夫ですか!? アレクさんっ、しっかりしてください!!」


「……ぅぅ」


「はぁ、はぁ……、あ~、吃驚した~……」


「吃驚したのは私です!! もう、アレクさんが死んじゃったらどうするんですか!!」


 そう簡単に死ぬとは思っていないけど、打ち所が悪かった時の事を考えると……。

 苦痛に呻くアレクさんの頬を何度も叩くと、ようやくその瞼が開いた。

 どうしよう、これ以上おかしくなったら……、私、ルディーさんとロゼリアさんに何とお詫びしていいかっ。じわりと浮かぶ涙と共に様子を見守っていると、アレクさんがゆっくりと起き上った。


「……俺は」


「アレクさんっ、大丈夫ですか? すぐに医務室に行きましょうっ」


「そのくらいでどうにかなるわけねぇだろ……。はぁ~……、朝っぱらから心臓に悪いモン見せるわ、やりやがるわ……、最悪だ」


 その場に頭を抱えて唸り込んでしまったカインさんも可哀想だけど、何もわかっていないアレクさんが、あとで自分が何をしたのかを知って絶望の底に沈むのも心配だ……。

 お互いの存在を見るのも嫌がっているというのに、まさか自分から抱き締めた、なんて知ってしまったら、アレクさんが本気で沈んでしまう。

 愛剣を手に自害にさえ及びそうな気がしてならない。

 私を見上げながら首を傾げているアレクさんに、「なんでもありませんよ」と告げ、とりあえずさっきの事を闇の中に葬る。

 ……カインさんはばっちり記憶と身体に刻み込まれてしまったようだけどっ。


「おい、番犬野郎!! さっきのは何だったんだよ!! 新手の嫌味か!? 精神攻撃か!?」


「カインさん、ちょっと黙っててください」


「うぐっ……、な、何だよ。何でそんな怖ぇ顔で睨んでくんだよっ!!」


「さっきの事は忘れましょう。それがお互いの為です。……いいですね?」


 ただでさえ不安定なアレクさんを、これ以上苦しませたくはない。

 そんな思いでカインさんに『お願い』をすると、何か言いたげただったものの、最後には諦めてくれた。ごめんなさい、カインさん……。あの光景は、誰の記憶にも残っては駄目だと思うんです。

 忘れた方がいい。あれはきっと朝の幻だったんだ……。

 

「朝日が眩しいですねぇ……」


「おう……。つか、本当に一体何がどうなってんだよ」


「私も……、よく、わからないんですよ……。ただ、ちょっとアレクさんにも色々とあって……」


「ふぅん……。あ、そうだ。女帝が食事の後に玉座の間に集合だってよ」


 ディアーネスさんが? 魔獣の件が終わった後、確か最後に会ったのは……。

 今回の件でガデルフォーンの為に力を尽くした人達の弔いの儀式の時だったはず。

 犠牲なしとはいかなかった魔獣との戦いは、大勢の人の魂を天へと誘った。

 ガデルフォーンを治める女帝……、ディアーネスさんも、生き残った人達も、皆、彼らの旅立ちを静かに見つめながら鎮魂の時を過ごした。

 古の魔獣を相手に犠牲は少なくて済んだ……、そう、誰かが小さく涙を流しながら囁いていた気もする。だけど、数がどうであれ……、人が、死んだのだ。

 その現実は、平和な日本で生きて来た私にとって、あまりにも辛い現実で……。

 葬儀が終わった後、私はその悲しみと辛さに耐えきれず、倒れた。

 目を覚ました後も、一人でベッドの中に潜り込んで、意識が闇に落ちるまで……、涙を零し続けた。

 結局私は、大した役にも立てず、ただ……、見ているしか出来なかったのだ、と。

 後悔したところで何も意味なんてないけれど、それでも……、あの戦いの光景を思い出すと、自分がどれだけ危険な場所に、命のやりとりが行われている場所にいたかを、痛感させられて……。

 情けない話、一日かけてもベッドから出る事が出来なかった。

 その間にも、ディアーネスさんやサージェスさん達は事後処理に追われながらも、しっかりと現実と向き合っていたというのに。


「ユキ……、大丈夫か?」


「はい……。アレクさんの方こそ、大丈夫ですか?」


「俺は平気だが……、すまない。また俺は……、何かお前の迷惑になるような事を」


 ゆっくりと起き上り、頭を押さえて尋ねてくるアレクさんに、首を振る。

 あの異変は、アレクさんの責任ではないのだし、不安は残るけれど、元の状態に戻ってくれた事に対する安堵の方が大きい。

 私は、後悔しても取り戻せない過去への思いを振り払うと、横からアレクさんを支えに寄って来てくれたカインさんと一緒に、医務室へと向かい始めた。

 この国で過ごせるのもあと少し……。

 ――魔獣の件も終わり、もうすぐ……、私達はウォルヴァンシアへと、帰る。

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