見知らぬ青年と、朝の事件!
「…………え」
柔らかな朝陽の気配は、心地良いお母さんの温もりと同じ。
一日のはじまりを知らせるその光を浴びながら、いつもと同じように、自分の部屋で目を覚まし私。……けれど、今日のはじまりは、何かが、違っていた。
瞼を開き、まだ眠いなぁと欠伸を漏らしながら身体を反らせようとした私の動きを封じた、何かの感触。それが人の両腕なのだと気付いた瞬間、私の身体はさらに深くその温もりに抱え込まれた。
すぐ傍に、規則正しい、力強く感じられる鼓動の気配。目の前に映る、鍛え上げられていると思われる、逞しい、広い胸板。
夜着越しに肌を擽る、煌くように美しい……、外側に向かって荒いクセのある銀髪が、私の頬にも流れ落ちていて……。
トドメに、ゆっくりと恐る恐る見上げた先で直視してしまった、凛々しく、男らしい美貌。
ここまで確認したところで、私は息をする事さえ忘れて完全に固まってしまった。
爽やかな朝の目覚め……、とは、どう考えても無理がある、今のこの状況。
何で……、何で、――私のベッドに全然知らない男性が潜り込んでるの!?!?
レイフィード叔父さんやルイヴェルさん達に続いて、物凄く目の保養になりそうな顔をした人だけど、流石に自分の部屋で、自分のベッド内でとなると、対応が全く違ってくる!!
「うぅ……っ」
「ん……、ユ、キ。まだ……、ふあぁぁ、……早い」
しかも、私の名前まで知っているなんて、どういう事なの!?
懸命に脱出を図ろうとする私の動きを無意識に察知しているのか、今度は足と足の間に男性の感触が絡んできて、ご立派な胸筋に顔を押し付けられてしまう!! むぅううっ!!
「ん~!! むぅうう~!!」
「……ユキ」
全然知らない人に抱き締められた挙句、愛おしそうに名前を寝言で呼ばれる意味がわからない。
それに……、それよりも困ってしまうのは、この男性の温もりに心地良さのようなものを覚えている事。この腕の中にいると、凄く、落ち着ける……、ような気がする。
全然知らない人なのに、まるで……、あの狼さんに添い寝をして貰っている時のように。
本当にこの人は誰なんだろう……。いつも私が目覚める前に帰って行く狼さんは、この男性と出会いはしなかったのだろうか? もし出会っていれば、不法侵入者を狼さんが見逃すはずはない。
となると……、じゃあ、狼さんが帰った後に、この男性が現れた、という事になるのだろうか。
「あ、あのっ」
「ん……、ユ、キ」
薄っすらと、見知らぬ男性の瞼が開く。
深い、深い……、穏やかな、蒼。まるで、あの狼さんと同じ……。
その美しい宝石のような双眸に見つめられ、私はまたもや動きを止めてしまう。
寝惚けている顔には温もりのある笑みが浮かび、眠っている時よりも甘い響きが、私の名を囁く。
「ユキ……」
「あ、あ、あ、あの、あの……っ」
私の頭を優しく撫でながら髪を梳く感触。
見知らぬ男性が私の額にキスを落とし、目元や鼻筋、頬へとその感触が流れてゆき……。
「――っ!!!!!!!!」
最後に、私の無防備になっている首筋にかぷりと男性が噛み付いた。
絵的には、吸血鬼が血を求めて人間の女性を襲っているかのような図になっているけれど、痛みは……、ない。あぁ、でも、少しだけ尖った感触が当たっているような気がして……、あれ、私、舐められてる?
「んっ、……ユキ」
「…………」
例えるなら、犬の甘噛み。これが本当に大型犬の類であったなら、甘えられているのが首筋でなければ、可愛いなぁと、少しは微笑ましく思えたかもしれない。
――だけど、私の首に噛み付いているのは間違いなく人間の男性なわけで。
「き、きゃぁああああああああああああああああああああああああああああ!!」
冷静に状況を把握しようと努めていた私の頭が、耐え切れずに限界を迎えた瞬間だった。
私の悲鳴は王宮中に響き渡るかの如く大きなものとなり、それによって完全に目を覚ました男性が大慌てで上体を起こし、オロオロとし始める。
「ゆ、ユキ、落ち着いてく」
「いやぁああああっ!!」
「――ッ!!」
男性の頬へと繰り出された私の右手が、予想よりも酷い音を立ててその人の頬へと叩き込まれた。
まさに、見事で鮮やかな渾身の一発……。男性の頬が、じんわりと赤みを帯びていく。
「あ、貴方……、貴方っ、一体誰なんですか!? か、勝手に、人の部屋に入って、うぅっ、この不審者ぁあああああっ!!」
「ち、違うんだっ!! 頼むから落ち着いてく」
「ユキちゃぁあああああああああああああああああん!!」
必死に私を宥めようとしている男性の言葉が遮られたかと思うと、お庭に面している部屋の窓をぶち破り、まさかのレイフィード叔父さんが砕け散る硝子と一緒に飛び込んで来た!!
夜着姿のまま、寝癖も気にせずに現れたその姿に、救世主の光を垣間見る。
悲鳴を上げて、まだ五分も経っていないのに、王宮の三階から駆け付けてくれたんですか!! レイフィード叔父さん!! 姪御命の叔父の名は伊達じゃなかったんですね!!
「レイフィード叔父さん!!」
「……レイフィード、陛下」
助けが来てくれたと喜ぶ私の傍で、完全に気配が凍り付いている謎の男性。
小さく呟かれた音に、レイフィード叔父さんが冷ややかに応える。
「どうして……、君が僕の可愛い可愛い姪御ちゃんの部屋にいるんだろうね? こんな朝早くから、それも、上半身裸で」
一秒毎にどんどん冷たく凍りついていくレイフィード叔父さんの低い声音。
この男性の事を知っているような口ぶりだけど、一室が丸ごと凍土と化していくかのようなこの気配は一体……!! 私は上半身裸の男性が傍にいる事よりも、レイフィード叔父さんの全身から感じられる恐ろしい気配に震え、その場から動けずにいた。
れ、レイフィード叔父さんの背後に……、鋭い目つきの巨大な狼の幻影が見える!!
「アレク、ユキちゃんから離れなさい」
「…………はい」
抑え込まれた怒りの気配に、アレクと呼ばれた男性が大人しく私から離れていく。
傷付いているかのような、蒼い双眸……。離れる寸前、私の耳元に囁かれた、小さな謝罪の音。
「すまなかった……」
申し訳なさと、深く切ない響きを残し……、その人はレイフィード叔父さんと何か言葉を交わした後に部屋を出て行ってしまった。
「……ふぅ。まったく、年頃の女の子の部屋に忍び込むなんて、あの子みたいなタイプは絶対にやらないって、……信じてたんだけどねぇ」
ゾクゾクと恐怖の震えが全身を包んでいたはずなのに、レイフィード叔父さんが溜息を吐くのと同時に、室内の恐ろしい気配は一瞬で消え去ってしまった。
やれやれ、と、レイフィード叔父さんが困惑顔でベッドに近付き、ニッコリと笑顔を浮かべる。
「大丈夫? ユキちゃん……」
「は、はい……」
「多分、大丈夫だとは思ってるんだけど……、さっきの子に、アレクに、変な事、されてない? もしそうだったら、不法侵入の罪と併せて罰するつもりだけど」
「い、いえっ、変な事は……、多分、されてません」
「多分?」
目が覚めたら、あの人に抱き締められて眠っていた。
寝起きから意味のわからない始まりだったけれど、何か取り返しのつかない事をされたという痕跡は、ない。まぁ、額や顔の一部にキスをされたり、首筋に噛み付かれた事にも驚いたけれど……。
それを口にしたら、レイフィード叔父さんの怒りが再熱してしまいそうな気がするので、あえて黙っておく事にした。乱れ気味になっていた夜着を整え、ベッドから出ていく。
「あの、レイフィード叔父さん、さっきの人って……」
「ねぇ、ユキちゃん」
「は、はいっ」
「正直に答えてほしいんだけど、アレクはいつからここに現れるようになったのかな?」
「け、今朝が初めて、ですっ。目が覚めたら突然横にいて、その……」
それ以外では、姿を見かけた事も、会った事もない……、はず。
正直にそう答えると、レイフィード叔父さんが顎に指先を添えて考え込む素振りをみせた。
「……じゃあ、銀毛の、蒼い瞳の狼はどうかな?」
確信を得ているかのような問いに、私は少しだけ視線を彷徨わせた後に頷きを返した。
レイフィード叔父さんにはあの狼さんの事を話していない。
きっと、お父さんかお母さんに聞いたのだろう。なら、嘘を吐いても仕方がない。
私はこれまでの事を包み隠さず打ち明け、勝手に狼さんを部屋に入れてごめんなさいと頭を垂れた。
けれど、レイフィード叔父さんは怒るわけでもなく、私の頭を優しく撫でながら笑ってくれた。
「教えてくれて有難う。……なるほどね、そういう事か」
「レイフィード叔父さん?」
「あぁ、何でもないよ。それと、ユキちゃんの部屋や庭で何を飼おうと、基本的には自由だよ。だから、そんな申し訳なさそうな顔をしないで、もう少しだけお休み。あの不埒な侵入者に関しては、叔父さんが、びしっとお説教をしておくからね」
「は、はぁ……。ありがとう、ございます。でも、あの人……、結局誰だったんですか?」
普通だったら、全然知らない男性が自分のベッドに潜り込んできたらトラウマになりそうなものなのに、私の中では……、驚きと困惑が大半を占めていて、そこに嫌悪感はなかった。
その事がどうしようもなく不思議に思えて、彼の正体を知りたくなったのだけど……。
レイフィード叔父さんが「どうしようかな~」と、わざとらしく悩む素振りを見せた直後、王宮内のどこからか、とても大きな爆発でも起きたかのような震動と衝撃音が伝わってきた。
「あ~、やっぱり、やっちゃったか~。まぁ、そうなるよね。僕もそうしたかったし」
「れ、レイフィード叔父さん、い、今のはっ」
「ん? あぁ、心配しないでいいよ。ちょっとした追いかけっこだから」
「お、追いかけっこ……?」
「うん。楽しい楽しい、……追いかけっこだよ」
――怖い!! 不気味な含み笑いをしながら壊れた窓の向こうを見つめるレイフィード叔父さんの横顔に、私は得体の知れない凄まじい恐怖を感じながら、新たな震えを覚えたのだった。
結局、その追いかけっこの中身については教えて貰えなかったけど、朝食の時間はいつもよりも一時間遅くに始まり、私はメイドさん達の噂を耳にする事になった。
――今朝の朝食時間が遅れた原因は、某王宮医師様の害獣退治が難航したから、だと。
その害獣が、あのアレクという男性であった事を、私はかなり後になってから知る事になる。
2016・09・14
改稿完了。