ブラッシングと昼間の闖入者!
「狼さんっ、痛くしたりなんかしないからっ、少しだけじっとしてて~!!」
「グルル……」
あれから、狼さんは自分から私の許に、よく通って来てくれるようになった。
あのレア焼き菓子はもうないのに、どこからか現れては、私の傍に寄り添ってくれる狼さん。
まるで、私が胸に抱いている寂しさや悲しみを、その温もりで癒そうとするかのように……。
(夜も必ず添い寝をしに来てくれるし、本当にお世話になりっぱなしというか、もふもふ天国万歳というか……。狼さんには頭が上がらないなぁ)
そして今日は、以前から内心やってみたくて仕方がなかった『アレ』を実行する事にした。
王宮のメイドさんから借りてきた、大き目のペット用ブラシ。
それを手に、狼さんにブラッシングをさせてくれるように頼み込んでみた。
最初は、気乗りしないように腰を引いた狼さんだったけれど、私がどうしても!! とお願いすると、穏やかな蒼を彷徨わせたその後に、私の部屋の外にあるテラスにごろん、と。
ブラッシングのお許しを意味するその静かな頷きに、私は嬉々としてペットブラシを片手に、狼さんの傍へと座り込んだ。
ゆっくりと、陽の光に反射して、綺麗に光る銀色の毛並みを出来るだけ丁寧にブラッシングを始めさせて貰ったのだけど……。
途中からくすぐったくなったのか、狼さんは小さく身動ぎを始めてしまった。
尻尾がパタパタと落ち着きなく何度も上下に揺れて、大きな体躯が忙しなく動く。
「う~ん、私のブラッシングの仕方が下手なのかな」
手際が悪いから、狼さんも耐えられなくて動いてしまうのかもしれない。
ペットブラシを横に置いて、ふぅ、と溜息を吐き出すと、狼さんがバッと顔を上げて私を見た。
そして、蒼の双眸を困惑げに泳がせた後、四肢を投げ出し、『もうどうにでもして』とでも降参するかのように、力なくひと声。
「いいの? 狼さん」
狼さんはこくこくと頷きを私に見せて、寛ぐように尻尾をゆっくりと揺らし始めた。
「ありがとう、狼さん。じゃあ、今度はもっと頑張ってブラッシングするね」
心優しい狼さんの頭を撫で、もう一度、今度はゆっくりと心地良くなって貰えるようにと、私はブラウスの袖を捲り上げて仕事にかかろうとした。
「あら? ユキ姫様、何をしていらっしゃるんですか?」
それは、狼さんと日向ぼっこ付きブラッシングを再会してから十分程経った頃。
私の部屋へと続く回廊の方から、通りの良い綺麗な女性の声が聞こえてきた。
背中合わせの、太陽と月のイメージのような、美しい双子の王宮医師のお二人の姿が、回廊の方に見える。
このウォルヴァンシア王宮に、異世界に訪れて、レイフィード叔父さんの次に顔を合わせた人達。
王宮医師という立場にあるセレスフィーナさんと、同じ立場で双子の弟のルイヴェルさんだ。
あの初日以外にも、私の身体の事を診察したいという事で、何度か王宮医務室という場所や私の部屋で交流を持っている。
「お二人とも、こんにちは。実は今、狼さんのブラッシングをさせて貰っていたところなんです」
回廊を外れ、庭の方へと歩みを進めて来たお二人が、銀毛の大きな狼さんに視線を落とす。
私の傍で、すやすやと気持ち良さそうに眠っている狼さん。
その姿を見つめる事数秒……、セレスフィーナさんが気まずげに弟さんである男性の方を見上げた。眠る狼さんを見下ろしているルイヴェルさんだけど、……何故か、その銀フレームの眼鏡の奥に佇む深緑の瞳は、とても冷ややかに見える。
「怒っちゃ駄目よ?」
「……わかっている」
「あの……」
どうかしたのだろうか? 視線を交し合い、同時に小さく溜息を吐いたお二人に声をかけると、それに被さるように、セレスフィーナさんが尋ねてきた。
「ユキ姫様、この狼さんとは……、その、どのくらいの頻度で、会われていらっしゃるのですか?」
「頻度ですか? え~と……、毎日、でしょうか。何度も私の様子を見に来てくれるんです。気のせいかもしれませんけど、私の事を励ましに来てくれているみたいで、いつもお世話になっています」
「そうですか……。ユキ姫様にとって、この狼さんはとても大切なご友人なのですね」
「はい!! とっても、とっても、大切な子なんです」
心からの幸福感と共にお二人へと笑みを向けると、次の瞬間予期せぬ事が起こった。
何だか複雑そうな微笑みのセレスフィーナさんの隣で、――ぇえええええええっ!?
「え? えっ? あ、あのっ、ルイヴェルさん!? ど、どうしたんですか!?」
真顔のまま私を見つめながら、自分が口の端から血の筋を流している事に気付いていないらしきルイヴェルさん。
口の中を切ったのか、それとも何か病気を患っているのか。
私が慌ててレースのハンカチをスカートのポケットから取り出して差し出すと、ルイヴェルさんはそれを受け取らずに狼さんの傍へと膝を着いた。
「る、ルイヴェル……、駄目よ? ユキ姫様の御前で手荒な真似は」
少し青ざめた顔で、双子の弟さんへと不思議な言葉を向けるセレスフィーナさん。
手荒な事って……、そんな横暴な事をしそうな人には見えないのだけど。
何故、セレスフィーナさんが少し焦ったようにしているのか、何故、ルイヴェルさんが突然口の端から血を流す事になったのか……。
私も少しだけ不安になりながら、とりあえず、今一番気になる点について声をかけておく事にした。
「あの、口から血が流れているというか、吐血してるみたいなんですけど……っ。だ、大丈夫なんですか?」
私が指摘すると、ルイヴェルさんは手の甲でぐいっと口元を拭い、真っ白な白衣の袖口を汚した。
どうやら、自分の身に起きている異変に、今の今まで気付いていなかったらしい。
表情ひとつ変える事なく、冷静沈着さを思わせる静かな気配のまま。
そして、狼さんを感情の読めない視線で見つめ続け、ルイヴェルさんはこう言った。
「ユキ姫様……」
「は、はいっ」
何故か、普段よりもさらに冷静さが増したような、いや、温もりを一切感じさせない低い音。
ルイヴェルさんの発したその声音にびくりと揺れた私は、上擦った声で返事を返した。
「俺も、この狼さんとは前からの友人でして……」
「そうなんですか? じゃあ、ルイヴェルさん達がこの子の飼い主だったり……」
「いえ、飼い主ではなく、昔からの友人です。とても……、仲の良い、気心の知れた仲なんですよ」
意外な真実に驚きながらも、言葉の一部分に何だか怖い迫力を宿したルイヴェルから、一歩、私は後退ってしまう。
セレスフィーナさんも遠い目をしながら、「言っても無駄かしらねぇ……」と、私には全く意味のわからない事を呟いて溜息を吐いているし、一体この状況は何なのだろうか?
「それと、ひとつお伺いしますが……、この狼さんは、夜もここに来ていますか?」
「え……。あ、その」
「ご安心を。陛下やユーディス様には内緒にしておきますので、どうぞ……、正直に、一体何度夜にやって来たか、お教え頂けますか?」
「ま……、毎日、です」
絶対に嘘を吐けないような迫力に気圧され恐る恐る答えると、一気に私達を中心とした周囲の気温がダダ下がりをしたように凍り付いた、気がした。
「毎晩ユキ姫様の許に通い、……それから? 大人しく帰っていきますか? この狼さんは」
「い、いえ、あの……、そ、添い寝を……、して貰ってます。ま、毎日」
「そ、添い寝!? ゆ、ユキ姫様っ、こ、この狼さんと、寝台を共にしていらっしゃるのですか!?」
だ、駄目だったの、かな……?
まさか悪夢が怖くて、狼さんを抱き枕のようにして一緒に毎晩寝ているなんて、やっぱり、二十歳にもなって、子供過ぎた!?
それとも、室内に動物を入れたりしてはいけないという、異世界独特の決まりとかがあったりするのだろうか!? 両肩に手を置かれ詰め寄られた私は、美しいセレスフィーナさんの焦り顔に、もう一度、恐る恐る頷いた。
気のせいか……、さっきよりもさらに、周囲の気温が肌を刺すような冷たさに支配されたような、得も言われぬ恐怖感が!!
「ユキ姫様……」
「は、はいっ!!」
また、ルイヴェルさんが、感情の読めない淡々とした音で私を呼んだ。
「申し訳ありませんが、少々……、この友人と、親切で心優しい狼さんと、別の場所で戯れたいと思いますので、お借りしてもよろしいでしょうか?」
それは、許可を求めるというよりも、すでに決定事項のような、迫力のある問いかけだった。
さ、逆らえない……!! というか、返事の言葉を発する事すら困難な、この緊迫感は一体っ。
私がその場で足を竦ませて慄いていると、ルイヴェルさんは返事を待たずに行動に移った。
いまだにぐっすりと眠っている狼さんの首元に指先を添え、何か短い詠唱のような音が聞こえてくる。
「――お、狼さん!! ルイヴェルさん!! 狼さんに何をしてるんですか!!」
瞬間、私の発した大声で、狼さんがようやく目を覚ましてくれた。
そして、自分の目の前に膝を着き、視線を注いでくるルイヴェルさんの存在を視界に捉え。
「――っ!!」
「おはようございます、狼さん……。王兄姫殿下に……、随分と可愛がって貰っていたようですね?」
少しだけ愉し気な音に変わったルイヴェルさんを前に、大慌てで身を引こうとする狼さん。
けれど、すでにその首には……、銀緑に輝く光の首輪と、それに巻き付いている長い……、同じ色合いの輝きを宿した、鞭!!
多分、あれは、魔術による産物なのだろう。
それをぐいっと引っ張って狼さんの頭を引き寄せたルイヴェルさんが、もっふもふの毛並みをした狼さんの頭を撫でながら、誘いをかけた。
「愛らしい王兄姫殿下の相手だけでなく、俺達とも遊んでほしいものですね? 狼さん……」
「クゥウウウンンッ!!」
本当にお友達なの、かな……。狼さん、物凄く怯えているように見えるのだけどっ!!
大切な子の大ピンチかもしれない。大慌てで連行されそうになっている狼さんを助けに歩み寄ろうとした私を、何故かセレスフィーナさんが引き止めてきた。
「ご安心ください、ユキ姫様。私とルイヴェルが、あの狼さんの友人だという話は事実です。それと、あの狼さんは今年の健康診断をまだ受けていなかったものですから、これからそれをやって参りますねっ」
「えっ、け、健康診断!? で、でもっ、物凄く怖がってますよ!! 狼さん!! それに、ルイヴェルさんも何だか、診察に連れて行くって雰囲気じゃありませんしっ」
「大丈夫です!! 全てこのセレスフィーナにお任せください!! それでは!!」
「ちょっ、ちょっと待ってください!! セレスフィーナさああああああんっ!!」
狼さんを救出しようと後を追い始めた私を阻んだ、透明な壁のようなもの。
その壁の向こうで、セレスフィーナさんが私に何度も頭を下げながら、双子の弟さんの後を追って、回廊の向こうへと消えて行く。
お、狼さん……、本当に大丈夫なの!?
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
何だか怖い雰囲気をダダ漏れにさせながら、ルイヴェルさんが狼さんを連行して、早三日。
あれから一度も、狼さんの姿を見ていない。
王宮医務室を訪ねて行ってみても、あの日の迫力を一切感じさせない飄々顔で仕事をしているルイヴェルさんから、「狼さんは健康診断の結果が出るまで会えません」と言われるばかり。
セレスフィーナさんも、曖昧に笑って誤魔化すばかりで……。
「はぁ……、狼さん」
今日も狼さんの顔を見れないまま、朝の勉強の時間を終え、私は自室でお茶の時間を過ごしている。メイドさんが運んで来てくれた、甘いチーズケーキと、香りの良いお茶。
王兄姫殿下の立場になってから、毎日至れり尽くせりのひとつが、これだった。
ウォルヴァンシア王宮の料理長さんが作ってくれる、最高のプロが作る一級品。
舌の上でとろけるように馴染むケーキの生地とチーズクリームの味。
そして、ケーキと相性抜群の紅茶。ほっぺが落ちる程に美味しいという表現があるけれど、今の私はまさに、その状態だった。
けれど、……口の中で極上の美味しさを堪能している内に、徐々に眉根が寄ってくる。
どんなに豪華な物や、尽くしてくれる人達や、甘いお菓子があっても……、一番大事な存在が、ここにはない。
毎日のように顔を見せてくれていたあの子が、いない。
フォークを置き、しょんぼりと俯いていると……、何か賑やかな気配が外から伝わってきた。
「何だろう……」
テラスへと出た私の目に映ったのは、回廊の方から庭へと駆け込んできた二つの影。
誰かに追われているらしき狼さんが、この三日間全然姿を見せてくれなかったあの子の姿が!!
「いい加減観念しろ!! もう逃げられねーぞ!!」
「グルル……!!」
狼さんを追って来たのは、高校生くらいの年頃に見える一人の少年だった。
クセの荒そうな長い白銀髪をうなじの辺りで束ねているけれど、髪の内側、首の両サイドに至っては、鮮やかな紅色の髪色が見てとれた。まるで……、獅子舞カラーのようだ。
何だかとっても怒っているような雰囲気なのだけど……、狼さん、一体何があったの?
「大人しくしているかと思えば、また抜け出しやがって……!! 本気で怒るぞ!!」
声を掛けように掛けられない。そんな緊迫感が、庭の中を支配してしまっている。
互いに睨み合い、距離を取りながら相手の出方を伺っている、狼さんと少年。
この一頭と一人の間に何が起きているのか、私は瞬きも出来ずにその光景を見守る事しか出来ない。まさに一触即発といった雰囲気だ。
けれど、その時間が長く続く事はなく、最初に少年が地面を蹴って狼さんへと飛びかかった!!
「――っ!! この野郎ぉおおおっ!! 避けんなよ!!」
「……」
危機一髪。狼さんは器用に飛びかかってきた少年の背後にまわり、その前のめりになった背中を踏み台にするかのように踏みつけ、庭の中にある大きな木の太い枝に飛び上がった。
お見事!! あの大きな体躯で重みをかけているのに、よく折れないものだ。
その姿に見惚れていると、狼さんは空高くに跳躍し、回廊の方へと走り去って行ってしまった。
取り残された少年がぷるぷると怒りに打ち震え、怒声を飛ばしながらその後を追って行く。
「な、何だったんだろう……」
とりあえず、狼さんはどこか怪我をした様子もなく、とても元気そうだった。
「良かった……」
その姿に安堵しながらも、私は暫くの間……、一頭と一人が消えて行った回廊の先を眺めたまま、なかなか部屋に戻る事が出来なかった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
その夜、一日を終え、そろそろベッドに入ろうかと思った矢先、テラスと面している窓張り扉をタシタシと叩く音が聞こえた。
鍵を外して中に招いきれると、狼さんが疲弊しきったような気配を漂わせながら入ってきた。
そのまま私の腕の中に倒れ込み、「クゥーン……」と、辛そうにひと声。
何故こんなに疲労困憊しているのか、思い当たる原因はひとつしかない。
昼間の一件だ。あの怒声全開の少年から追いかけまわされていた狼さん。
一体どのくらいの時間追われていたのかはわからないけれど、この疲労困憊の様子は酷い。
「狼さん、大丈夫? 何か甘い物でも食べる?」
疲れた時には甘い物だと思い、私は狼さんにそう声をかけてみたのだけど、フルフルと力なく頭を横に振られてしまった。
甘い物も受け付けないくらいに、体力的にも精神的にも疲労しているようだ。可哀想に……。
狼さんは私の腕の中から抜け出すと、よろよろとベッドに向かって歩いて行った。
ベッドの上に大きな体躯を寝そべらせ、身を丸めて顔を伏せてしまう。
けれど、そのお疲れ気味の蒼の双眸だけは私の方を向いていて、早く寝ようと促されているかのように思える。
「疲れているのに、大変な目に遭ったのに……、来てくれたんだね」
出会いの日から、日常になったこの光景……。
何を考えて通って来ているのかはわからない。だけど、この子と一緒に眠ると、とても心が安らぐ。最近ではあまり悪夢も見ないし、まるでこの子が私の事を守ってくれているかのように、その温もりが心の拠り所となっている。私が寝台に上がって狼さんの頭を撫でると、すでにもう、綺麗な蒼の瞳は瞼の奥に隠れてしまっていた。
「ふふ、お疲れ様、狼さん……。それと、いつもありがとう」
狼さんと私の身体に毛布を掛け、穏やかな温もりを感じながら眠りに入る。
たったの三日間……。それなのに、ようやくいつもの時間が戻って来たと心から喜んでしまうのは、この心優しい狼さんの存在が、もうなくてはならないものになっているから。
人ではないけれど、この子は確かに……、異世界エリュセードで暮らし始めてから、初めて出来た、大切な友人。姿が見えないと落ち着かないし、姿を見せてくれると、とっても嬉しい。
(どうか、……どうか、この穏やかで幸せな日常が、続きますように)
そう願いながら健やかな寝息を立て始めた私は知らなかった。
――翌日、自分の身にとんでもない事が起きる事を、まだ。
2016・04・24 改稿。