ウォルヴァンシアの憂鬱~セレスフィーナ視点~
幸希とカインが喧嘩をした日の、ウォルヴァンシアサイドのお話です。
王宮医師・セレスフィーナの視点で進みます。
※幸希とカインが喧嘩をした日の、ウォルヴァンシアサイドのお話です。
王宮医師・セレスフィーナの視点で進みます。
――Side セレスフィーナ
「ふぅ、今日の仕事はこのくらいでいいかしらね。フィルク、そっちは終わったかしら?」
窓を照らすオレンジの光を受けながら、私はソファーに座って作業をしていたフィルクに声をかけた。
以前、城下町でユキ姫様達が連れ帰ったこの青年は、いまだ記憶が戻らないまま。
行く所もない身の上の為、私の仕事の手伝いをお願いしている。
「はい、今終わった分で全て完了です」
「ご苦労様。じゃあ、お茶にしましょうか」
フィルクは、思った以上によく働いてくれている。
物覚えも手際も良いし、自身の中にある魔力を引き出す行為も身体が覚えているのか、魔力の使い方を少し教えただけで、難なく治癒術を行使出来るようになった。
しかも、同時に数人相手に術を行使出来るレベルの高さ……。
それは、フィルクが記憶を失う前にどれだけ高位の魔術師であったかを表しているかのようでもあった。
「はい、どうぞ」
仕事の疲れを癒す為に、リラックス効果のある茶葉で淹れたお茶を二人分テーブルに並べる。お茶菓子は、騎士団のクレイスが差し入れてくれたチルフェートケーキがあったはず。
「フィルク、最近はどう? 何か思い出した事はあるかしら?」
「すみません……。残念ながら、まだ……何も」
「いいのよ、私こそごめんなさいね。魔術の扱い方も難なくこなせるようになっていたから、何か変化があるかもと思っただけなの」
チルフェートケーキをフィルクに勧め、私は「だから、思い出せないならそのままでいいのよ」と笑みを向けた。
自分自身の事がわからないというのは、本当に恐ろしい事だ。
生まれた場所、辿って来た人生、名前、歳、職業……、その全てが自分の記憶から消えてしまう恐怖。
ひとつでもいいから、フィルクには何か心の支えになるような記憶を思い出してほしいと思う。
「心配してくれて、有難うございます。だけど、前にも言ったと思いますけど、記憶が戻らない事に、そこまでの不安はないんです。思い出す事で、自分に何が起きるのか……、そちらの方に不安があるくらいで」
「フィルク……」
もしかしたら、そう思うフィルクの感情が、記憶に蓋をして表に出てこないようにしているのかもしれないわね。
忘れたい過去、それと上手く縁を切る事が出来たら……。
稀に、事故や怪我のショックで無意識に記憶を封じてしまう者もいる。
フィルクは……、その代表的な例なのかもしれない。
「わかったわ。でも、もし何か思い出したら教えてちょうだいね?」
「はい」
「さて、お茶を飲み終わったら、少し外に散歩にでも行きましょうか。ずっと王宮医務室に籠りっぱなしだったから、新鮮な空気を吸いたいの」
「じゃあ、お供しますね」
「ありがとう」
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「ユーディス殿下にレイフィード陛下、ご一緒だったのですね」
憩いの庭園に足を運んだ私とフィルクは、東屋に先客を見つけた。
東屋の中、テーブルに茶菓子を並べ、メイド達に給仕をされている二人のご兄弟。
ウォルヴァンシアの国王であるレイフィード陛下と、その王兄、ユーディス殿下。
私達はお邪魔をしてはいけないと思い、一礼して去ろうとしたのだけれど、ユーディス殿下のご厚意で、ご一緒させて頂く事になった。
「幸希が遊学に向かって、まだ一週間程しか経っていないというのに……。レイフィードときたら、色々と面倒でね」
「仕方ないでしょうっ。僕は叔父として、ユキちゃんの事を心から心配しているんですから!」
「ほどほどにしておきなさいと、私は言っているんだよ。たかだか一ヶ月程度の我慢だろう?」
ユーディス殿下が溜息を吐き出してそう言った瞬間、陛下のティーカップを掴む指先がピクリと震えた。下を向き、ボソボソと暗く陰鬱な雰囲気を醸し出しながら喋り始める。
「そうなんですよね~……。あと、何週間もあるんですよ。ユキちゃんに再会出来るまで……あと、二十日以上も……っ」
「陛下……」
「セレスフィーナ、放っておいて構わないよ。どんな建前を口にしようが、結局は幸希に会えないのを寂しがっているだけなのだから」
ふんわりとした生地に生クリームを挟んで作ってある菓子を私とフィルクに寄越し、ユーディス殿下はまたひとつ疲労の滲む息を吐きだした。
ユキ姫様が遊学に旅立たれてから、まだそれほどに長い日数は経っていない。
けれど、レイフィード陛下にとっては、その一日一日が長く辛いものなのだろう。
最初こそ、周囲の者達が驚くほどのスピードで政務を片付けられていた陛下だけど、徐々に、日を追う毎に元気がなくなられていったように思う。
きっと、この東屋でのお茶会も、心配されたユーディス殿下が気を遣って誘い出して開いたのでしょうね。
「陛下、どうかお気を落とされずに……。一ヶ月経てば、きっとユキ姫様は元気なお顔を見せてくださいます」
「そうですよ。国王様がそんなに元気のないお顔をしていたら、ユキさんだって心配します。帰って来た時に明るい笑顔で迎えられるように、どうか元気を出してください」
「ううっ、君達は良い子だね~。そうだよね、ユキちゃんだって向こうで頑張ってるんだし、僕も頑張らないとね」
私達の励ましで、少しだけ浮上したレイフィード陛下が、苦笑と共に顔を上げてくださった。多分、この笑みも、無理をなさっているのよね……。
陛下にとって、ユキ姫様は大切なお身内。幼い頃から大きな愛情で育まれていた御方ですもの。やっとウォルヴァンシアに戻って来られたというのに、急に遊学の話が決まってしまって……。
「あ、でも……」
その時、フィルクが何かを思い出したようにティーカップを置き、にこりと笑って口を開いた。それは、確かに私も知っている内容だったけれど、
まさか……、『その案』をフィルクが提案するなんて、思ってもみなかった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
『なるほどな……。フィルクも面白い、というか、厄介な提案をしてくれたものだな』
その日の夜。暗闇の中、ソファーに腰かけている私の目の前には、ルイヴェルの姿があった。通信用の手鏡によって、空中に水の波がぐるりと円を描き、その真ん中に浮かんでいる光の中に見える、双子の弟。
ここ数日、ユキ姫様のお傍を離れ、ガデルフォーン国内にある『場』を巡っているという話だったのだけど、話を聞く限り、まだもう少し皇都への帰還は時間がかかりそうね。
「笑い事じゃないのよ。陛下は名案とばかりに乗り気でいらっしゃるし、そのお気持ちを抑える為に、私やユーディス殿下がどれだけ必死になった事か」
『だが、支障がなく事が上手く運ぶなら、別にいいんじゃないか?』
「理論上は可能よ。けれど、それを実行したら……、ユーディス殿下が、本気でお怒りになられるわ」
『だが、俺達は、国王陛下の命には絶対服従のようなものだろう? もし、仕方なく実行して後でユーディス殿下にバレたとしても、全て陛下の責任でいいじゃないか』
簡単に言ってくれるわね……。
私は貴方のように図太い神経はしていないというのに……。
遠く離れた地にいる弟は、他人事同然で私の話をネタとして楽しんでいる節がある。まったく……、少しはウォルヴァンシアに残っている姉の苦労を考えてほしいものだわ。
『それより、セレス姉さんは、ユキとは連絡を取っているのか?』
「ええ。アレクに一度は通信用のこの手鏡を壊されたけれど、すぐに直ったから。毎日、就寝前にご連絡を頂いているわ。けれどね、今日はなんだか……、少しお元気がなかったの」
『また食べ過ぎでもしたのかもしれないな』
「そういう元気の無さがじゃないのよ。というか、ユキ姫様に凄く失礼よ」
『じゃあ、あれか? ついにホームシックにでもかかったか?』
「違うわよっ」
この弟は、本当に真剣に私の話を聞く気があるのかしらっ。
ルイヴェルはどこかの大木の下に座って通信を行っているらしく、焚火の揺らめきにも似た赤々とした色が、弟を照らし出している。
「私もユキ姫様がお元気をなくされている理由を知りたくて、お聞きしてみたのよ。そうしたら……、どうやら、ガデルフォーン皇家の過去に関するお話をお聞きになられたみたいなの」
『ガデルフォーン皇家の?』
「『例のあの件』に関する事よ……。昔、私達のお父様が依頼された……」
『……あれか』
私とルイヴェルが、まだ王宮医師でなかった頃……。
先代国王陛下の許に現れた、ガデルフォーンの第一皇子であられたラシュディース様。ルディーの父親でもあるその方は、私達も幼い頃にお会いした事があり、とても優しい御方。頭に触れた大きな手のひら……、懐かしい記憶。
今でも時折、ウォルヴァンシア王宮に顔を出して下さる事があって、密かに楽しみにしている。
「いまだお父様が思い悩んでいらっしゃる案件のひとつよ。『魔獣の眠る最下層に囚われた殿下達の魂』……」
『フェリデロード家は、エリュセードの中でも圧倒的な魔術の才と知識を持つ一族だからな。当時、ラシュディース様は、王宮医師であった父さんを頼りウォルヴァンシアを訪れた。だが……、結果は期待に沿えるものではなく、希望は閉ざされた』
「私達が成長して、王宮医師の地位を拝命してから初めて教えて頂いたものね。お父様がずっと悩み、必死に探していた希望……」
『俺達が王宮医師となってからも、一人で探し続けていたからな。手伝いを俺達が申し出ても、俺達には王宮医師としての立場を優先するようにと言って……』
お父様が私達に王宮医師の地位を譲った理由、それは、ガデルフォーン皇家の為だった。私達が王宮医師の仕事を果たす事で、お父様は自由に動く事が出来る。
後にウォルヴァンシア王宮を襲った悲劇が起こるまで、お父様は世界各地を飛び回っていた。
けれど、その手立てを掴む前に……、お祖父様と共に別の件に尽力する事になってしまったのだ。
どちらもお父様にとっては見捨てておけない大事……、けれど、物事には優先順位が存在する。結果……、お父様はウォルヴァンシアの件をとった。
「それでも、時間を見つけては魔術の文献を漁って、希望を見つけようとしていらっしゃったわよね」
『あぁ。だが、流石に無理があると判断したんだろう。俺の方に話が来たからな……』
「そういえば、ルイヴェルは出張でガデルフォーンに何度か足を運んでいたわね……。もしかして……、お父様から?」
『そうだ。ガデルフォーンに行き、直にガデルディウスの神殿の最下層の様子を確認して、何か突破口はないか探して来い、とな』
「……そんな事、私には一言も言わなかったのに」
私だって、実力のある王宮医師のはずなのに……。
お父様はルイヴェルにその任を託した。……どうして。
少しだけ、信頼されていなかったのだろうかと悲しみを瞳に滲ませた私に、ルイヴェルはくすりと笑みを零した。
「どうして笑うのかしら?」
『いや、娘を想う父親の気持ちをわかっていないと思ってな。父さんが俺にその任を託したのは、俺が男だからだ。ついでに、『昔のツケ』を払えという遠回しな脅迫に近かったがな。俺なら、世界を巡っていた経験があるし、『裏』についでも詳しい』
「……ルイヴェル」
『勿論、ただ最下層に様子を見に行ったぐらいで突破口が見つかるわけもない。……父さんが何十年も探し続けた難題だからな。その結果、俺は皇子達の魂を解放する為の手立てを探すべく、出張を増やしていたわけだ』
「どうして言ってくれなかったの……?」
確かに、ある時期を境に、一時期だけ、ルイヴェルはよく王宮を留守にするようになった。どこに行くのかと聞いても、行き先を教えてくれるだけで、その中身については何も教えてくれなかった弟。
私も時々出張に行く事はあったけれど、圧倒的にその回数が多かったのはルイヴェルだ。まさか……、ガデルフォーン皇家の事に関わっていたなんて……。
『だから、セレス姉さんが気にする事じゃない。それに、ガデルディウスの神殿の最下層は……、扉を前にするだけでも瘴気が濃い。セレス姉さんのように感受能力が高い者が近付けば、下手をすれば取り込まれる』
「だから、お父様は……ルイヴェルに」
『俺ならある程度対処が利くからな。しかし……、ユキ達もあの話を知る事になるとは……』
「ラシュディース様が話されたらしいわ。なんでも、カイン皇子と昔面識があったらしくて……」
『さすがはラシュディース様だな……』
ラシュディース様は、奥様と一緒に世界各地を旅していらっしゃる御方だから、
どこかで縁を結んでいたとしても、実際はそんなに意外な事でもない。
あの御方は、様々な出会いに恵まれている存在だから……。
出会った者の心に、必ず何かを大切なものを残して去っていく存在……。
『で、ラシュディース様の滞在はいつ頃までか、わかるか?』
「確か、暫くの間は皇宮にいらっしゃるという話だったけれど」
『そうか。じゃあ、『場』の調査から戻り次第、お会いするか』
「ルイヴェル、それとね……」
これは言おうか言うまいか迷っていた事なのだけど……。
一応、保護者的な立場でガデルフォーンに同行しているのだから、把握しておいた方がいいだろう。
「カイン皇子とユキ姫様が……、喧嘩をされたようなの」
『アイツらがじゃれ合っているのはいつもの事だろう?』
「通信の時、ユキ姫様が席を外されて、その時残っていたレイル殿下から聞いた話なのだけど……。宰相であるシュディエーラ様のお部屋を滅茶苦茶にするくらいの大喧嘩をしたらしくて、口も利かないくらいの状態になってしまったらしいのよ……」
ルイヴェルの口から、呆れの溜息が漏れ出す。
そういう反応をするのはわかっていたけれど、貴方一応保護者でしょう……。
皇宮に戻って、まだ喧嘩が続いているようならフォローを入れてほしい。
そう思って話したのだけれど……。
『大方、カインが何か地雷でも踏んだんだろうが……。本当に手間がかかるな……』
「それでなくとも、他国の地でユキ姫様は心境的に大変だと思うの。そこにきて、カイン皇子と喧嘩だなんて……、心配だわ」
『放っておけば、勝手に関係など修復されているとは思うがな。まぁ……、俺が戻っても続いているようなら、手は打つ』
「お願いね。レイル殿下がいらっしゃるのだから、多分大丈夫とは思うのだけど」
ユキ姫様とカイン皇子の間を取り持つクッション的な役割をしてくださっているレイル殿下。あの方が上手くお二人の関係を良い方向に誘導してくれる事を願って、
私は、その日の通信を終える事にした。
――と、その時。
「あら?」
ルイヴェルとの通信を終えた後、私は王宮医務室から繋がっている別室からした大きな物音に気が付いた。
あの部屋は、今はフィルクが自分の部屋として使っているのだけれど……。
ソファーから立ち上がり、そちらへと向かう。
「入るわよ、フィルク」
返事がない。暗闇が支配する寝室に足を踏み入れた私は、淡い光を灯す術を宙へと放った。……フィルク? 寝台の傍に膝を着いて這い蹲っているその姿。
何があったのかと大急ぎで駆け寄っていく。
「どうしたの、フィルク!?」
「はぁ、はぁ……」
呼吸が荒い……。それに、照らし出されたフィルクの表情は、酷く真っ青な色に包まれている。
まるで……、恐ろしい物でも目にしたかのように唇が小さく震えており、意識さえ混濁としているようだった。
「大丈夫? どこか具合でも悪いの?」
「嫌だ……、……したくない……っ。何も……」
「フィルク?」
「これ以上……っ、『俺』を……っ、うああああああああああああああ」
私の身体を押しのけ、フィルクがその場に頭を抱えて倒れたまま暴れはじめる。
一体……、何が起こっているの……?
私は一度その場を立ち上がり、フィルクの混乱を治める為に、眠りの術を行使した。鱗粉のような光がその身体を覆い、体内へと沁みこんでいく。
「うあぁ……、あぁ……」
フィルクの身体は次第に力を失い、やがて……、その瞼を閉じた。
部屋全体を照らす強い灯りを生み出し、フィルクの状態を診る。
……身体に何か異変があったわけじゃないわね。
だとしたら……、確か彼は、さっきまで頭を抱えて酷い苦痛を感じるかのように暴れていた。
「まさか……、記憶が戻りかけていたんじゃ……」
けれど、フィルクが先ほど口にしていた言葉から考えると、
もしかしたら、戻りかけた記憶に拒絶反応を起こし、それが彼の中に酷い苦しみを生み出したのだとしたら……。
フィルクは、記憶が戻らない事にほっとしていた。今のままを望んでいた……。
「フィルクの過去には……、何があるというの?」
それに、フィルクは一度だけ、『俺』と自分の事を表していた。
記憶を失う前の彼は……、一人称さえ違っていたのかもしれない……。
気を失っているフィルクを抱き寄せた私は、窓の外に視線を向けた。
身の内に宿した強力な魔力……、拒みたい記憶……。
彼は一体……、『誰』なのか……。答えの出ない謎に、私は胸の奥に嫌な予感を覚えていた。
2017・06・01
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