皇子達の魂の行き着いた先・・・
――Side 幸希
ガデルフォーン皇国に現れ、幸せだった皇家の人達を破滅へと誘った金髪の少女。
彼女は最期まで、償いの言葉や心を抱く事はなかった……。
それどころか、自身の終焉と共に、――少女の亡霊がもたらしたものは。
「弟達を『ガデルディウスの神殿』に移し、俺達は女帝となったディアの力によってこれ以上ない程の治療環境を得る事が出来た。だが――」
ラシュディースさんの表情が、悔しそうに歪められ……、骨が軋む程の力でその両手を握り締められていく。『宝玉』と、『ガデルディウスの神殿』、二つの心強い要素を得て臨んだ治療。
悲劇からの脱却。もう少しで取り戻す事が出来たはずの、あたたかな幸せ。
一度失ってしまったからこそ、もう二度と失いたくはなくて、必死に手を伸ばしていたのに……。
「弟達を救えたと、そう、手応えを感じた直後の事だ……。その魂を奪われる羽目になったのは」
エリュセードに生きとし生ける者全てが有する、存在の核とも言うべきもの。
命が尽きても、魂があれば次の生を歩む事が出来る。――それが輪廻。
だから、魂がなければ……、何も、始まらない。自分自身の存在さえ、意味を成さなくなってしまう。魂のない肉体は『空の器』同然……。
そう話の合間に説明されながら、私達は知る事になった。
消滅したはずの、あの……、少女の亡霊が。
「恐らく、仲間がいたか……、少女の亡霊自身が普通の霊魂とは違っていたのか。何にせよ、弟達の魂を奪い、それを魔獣の眠る空間へと縛り付けたのは、間違いなくあの娘だった」
ガデルディウスの神殿に響き渡った、少女の笑い声。
成す術もなく奪われた皇子様達の魂と、それに満足したのか……、それっきり消えてしまった少女の気配。
それから数十年……、皇子様達の魂は封じられた魔獣と共に。
「ガデルディウスの神殿は、遥かな昔に国を荒らしまわった、『外』からの凶獣を封じ続ける地。倒す事叶わず、当時の皇帝さえも、そうする事が精一杯だった……、と伝わっているね。で、そんな場所に魂を放り込まれちゃうと」
「眠りに就いている魔獣を刺激するような真似は出来ず、弟達を救い出す方法も……」
簡単には見つからない。八方塞がり……。
救えると、そんな希望の光を抱いた直後の追い打ちは、ラシュディースさん達を長年に渡って苦しめる事になった。少女の亡霊とも、再び相まみえる事なく……。
どこにそれが在るのかわかっているのに、手を伸ばせば届きそうなのに……。
救えそうで、救えない……。ラシュディースさん達が一番辛い思いをするように、終わりのない苦痛を味わい続けるように、少女の亡霊は悪趣味な結末を与えた。
あぁ、だからなんだ……。ディアーネスさんが、自分のお兄さん達を『殺した』と、そう口にしていたのは。肉体の状態を健康なものへと回復させても、魂が戻らなければ……。
「ディアーネスさんがあんな風に言っていた意味が、わかった気がします……」
「女帝陛下は、今もまだ……、兄君達の事を悔やまれているのだな」
「ディア一人が背負う事はないと、会う度に言っているんだが……、あの性格だからな」
あの時、少女の亡霊を仕留め損なっていなければ、そんな恐ろしい結末を招く事にはならなかった。
ディアーネスさんは多くを語る事はないものの、そんな風に自分を責め続けているのだそうだ。
暇を見つけてはガデルディウスの神殿に通い、封じられている魔獣とお兄さん達の魂が眠る空間の側まで行き、謝罪の言葉を繰り返している、と……。
感情の揺れを感じさせない、凛々しき氷の仮面。その下で……、彼女はずっと、お兄さん達の事で思い悩み、自身を罰し続けてきたのだろう。
「話はこれで終わりだが、……後悔してはいないか?」
辛い思いをしたのは、今もし続けているのは、ラシュディースさんの方なのに……。
ルディーさんの心優しいお父さんは悲しそうに微笑みながらも、私達の事を気遣ってくれる。
予想以上に重たすぎる話ではなかったか、と。聞かなければ良かったと、心に傷を負ってはいないか、と。
私とレイル君、カインさんは顔を見合わせ、そして、ラシュディースさん達に向き直った。
後悔なんてない。知りたいと願ったのは、踏み込んだのは自分自身。
「お話を聞く前と同じです。私は、ディアーネスさんの事を知った上で、悩みながらでも前に進んでいきたい、って、そう思います。だから、後悔はありません」
それに、話を聞いて終わり、じゃなくて、ここからが始まりだから。
「まぁ、話を聞く前と同じで、俺はあの魔竜女に気なんか使わねぇけどな」
「と、カイン皇子は言っているが、内心では女帝陛下に対して案じる心があったのは確かだな」
「レイル……っ、余計な補足を入れてんじゃねぇよっ」
「ふふ、カイン皇子は言葉が足りなかったり、反対の態度を見せる時があるだろう? だから、俺なりのお節介だ。誤解されなくていいじゃないか」
「余計なお世話だっつの!!」
カインさん……、自分で『補足』って口にした時点で、ディアーネスさんの事を心配しているのがバレバレですよ~。
両サイドの二人が微笑ましいやり取りを交わしているのに少しだけ巻き込まれながら、ほら、大丈夫でしょう? と、ラシュディースさん達にのほほんと微笑む。
確かに、受け止めるには辛過ぎるお話だったけど、長年に渡ってそんな苦しみを抱え続けているディアーネスさんに比べたら、このくらい!
「有難う。だが、俺の可愛い妹は見ての通りわかるだろうが、滅多に、というか、弱音など一切吐かない真面目タイプだ。ユキ姫達にはそこのところを踏まえた上で、よりよい友好関係を築いて貰えればと思っている。勿論、無理のない程度にな」
「可愛い、とか、女らしい、って言葉とは無縁だろ、あの魔竜女……、うぐっ!!」
失礼すぎる事を言ったカインさんの横腹に肘を打ち込み、冷めた紅茶を手に取る。
女の子は誰だって、可愛い要素を秘めているものなんです。異論は認めません!
「ユキ、……お前なぁっ」
文句を言おうとするカインさんをギロリと睨み付け、黙らせる。
まったく……、女性経験が豊富だという噂もあるけれど、カインさんには気遣いというものが足りない。私に対してだって、時々失礼な事を平然と口にする時があるし、簡単に言えば、口が悪い。
とまぁ、それはいつもの事なので置いといて。
「ラシュディースさん、私……、ディアーネスさんと一緒に楽しい事をいっぱい、見つけていきたいな、って、そう思っています。遊学が終わっても、少しずつ、絆を育んでいけたらと」
本当は、もっと言葉にしたい事があった。
けれど、胸の奥に溢れている沢山の言葉の中で、零れ落ちたのは普通の事ばかり。
過去の傷を癒す手伝いがしたいとか、早くディアーネスさんが長年の苦しみから解放されるようにと、自分でも何か方法を探します、とかじゃなくて……。
ディアーネスさんという存在と歩み寄りたい、世界に溢れている美しいものや、楽しい事、そういうものを一緒に見たい。そんな想いの方が抑えきれないくらいに溢れ出している。
「す、すみません……。正面から向き合うとか言っておいて、こんな事しか言えなくて」
何で、気の利いた事ひとつ言えないのか……。
真顔で互いを見合うラシュディースさんやシュディエーラさん、笑顔で何を考えているのか読めないサージェスさんの様子に緊張しながら、居た堪れずに私は俯いてしまう。
やっぱり、私みたいなお子様じゃ、ディアーネスさんの苦しみを理解するとか以前に、お友達にして貰えるかどうかも……。
「ユキ姫はディアと同じように生真面目だな」
「え?」
「最初に言っただろう? 我が妹の友と呼べる者は、とても少ない。特に、女友達となると、なかなか、な。そして、俺達が望んでいるのは、打算なくディアと付き合ってくれる、普通の友達だ」
「え? ユキちゃん、陛下のお友達に立候補しちゃったのー? 陛下ってば、幸せ者だねー」
「普通がいいのです。陛下の過去を知って、下手に要らぬ気を遣う方よりも、ごく自然に、ゼロから絆を育んで下さる方が」
それは、つまり、え~と……。首を傾げた私に、ラシュディースさん達がしっかりと頷いてくれた。
「あの、……良い、ん、ですか? 普通のお友達的な事しか出来ない私ですけど」
「あぁ。ユキ姫の『らしさ』で、ディアと仲良くしてやってくれ」
「ラシュディースさん……」
「陛下は仕事ばっかりで、女の子らしい楽しみとか全然知らないからねー。ユキちゃん、色々と教えてあげてくれるかな?」
「服に関しては、私がご用意しているので何とかなっているのですが……。あぁ、女性同士でショッピングなどもいいですね。陛下に似合う服を一緒に選んで差し上げては下さいませんか?」
私が、元の世界で皆とそうしていたように。
改めて、何も特別な事は必要ないのだとそう言われて、話を聞いた後に生まれた圧迫感のような緊張の塊が、ようやく溶けていったような気がした。
私らしく、か……。決めていたのに、つい、それが心の片隅に置き去りになっていたようだ。
ほっと胸を撫で下ろし、トクトクと早足になっていた鼓動を感じる。
その内に浮かんできたのは紛れもない笑みで、さっきまでの緊張や不安が嘘のようにわくわくとした感情が湧き上がってきた。
ディアーネスさんは、どんな物が好きかな? どんな場所が好きで、どんな事に興味を持つのかな? 考え始めると、話したい事や、一緒にやりたい事がどんどん溢れてくる。
でも、私が本能のままにディアーネスさんを振り回してしまうのもどうかと……。
適度な歩み寄りと、お友達になるタイミングを云々……。
そんな事を一人で腕を組みながら悩んでいると、ラシュディースさんから声がかかった。
「――ところで、カイン」
「何だよ」
「さっきから、ユキ姫の事ばかり熱心に見ているようだが」
「え?」
ラシュディースさんからのにこやかな指摘で横を向いてみると、バツが悪そうに両腕を胸の下辺りで組みながら正面に向き直るカインさんの姿があった。
ほのかに……、少し尖っている耳の部分が赤みを帯びているような気がする。
「カインさん……?」
「見ちゃ悪ぃのかよ……」
「い~やぁ? 別に。一時はどうなる事かと思ったが、そうかそうか。お前にも春が来ていたんだなぁ、と、そう思ってな。で? 脈ありなのか?」
「ら、ラシュディースさん!! 今はそういう話をしてるんじゃっ、――えっ?」
二人が何の話をしているのか、この会話の中に隠れている意図は何なのか、それを薄々と気付き始めてしまった、その時。
必死に話を戻そうと訴えていたら、何故か力強い腕の感触に引き寄せられた。
カインさんの声が、すぐ真上に……、聞こえる。
「ライバルもいるし、過保護な奴らも多くて、すげぇ面倒だが……」
おずおずと見上げると、とびっきりの優しい笑顔がそこにあった。
ちょっ、か、カインさん! 何で今そんな顔をするんですか!?
不意打ちにも程がある眩しい笑顔にご対面してしまった私は、全く動けない。
その上、カインさんが自分の唇に人差し指を軽く押し当て、今度はそれを私の方に。
「んっ」
「惚れちまってるからな。どんなに面倒でも、本気で形振り構わず追いかけちまってる」
「な、ななななな……っ」
「皇子君て……、恥ずかしがるくせに、吹っ切れると迷いないねー」
言われた事も凄いけど、い、今……、ゆ、指先が、お、お互いの唇に、触れ、触れっ、ああああっ。
人々を惑わす魔性の美貌に、「絶対いつか落としてやるよ」と微笑まれれば、もう、もうっ。
「レイルくぅううううううん! 助けてぇえええええっ!!」
「あぁ……、はいはい。こうなると思った」
突然のアプローチは困るんです!!
そんな捕食する気満々の体で迫られたりなんかしたら、心拍数跳ね上がりの、体温急上昇は当たり前なわけで!! 意識を失う前にレイル君の方へと逃げ込んだ私は、ぷるぷると震えながらその背中に隠れた。……勿論、拒絶されたと受け取ったカインさんの機嫌は。
「ユキ……、お前、何逃げてんだよ」
笑顔のまま、両手を私に差し出して青筋を浮かべているカインさんに、私は全力で首を振る。
「はぁ……。カイン皇子、迂闊な事はするなと、父上や伯父上達からも言われているだろう? 過剰な接触や言葉は、ユキの負担にしかならないと」
「あのなぁ、そうやって甘やかしてると、一生男慣れ出来ねぇぞ? ほら、ユキ、こっち来い」
「嫌ですっ」
「テメっ……、レイルだって、男なんだぞ? 何でレイルは平気で、俺は嫌なんだよ。差別してんじゃねぇぞ……っ」
差別じゃなくて、突然の恋愛感情オープンなアプローチに困ってるだけなんです!!
大体、レイル君は私の事をそういう目では見ていないわけで、傍にいると安心出来るお兄さん的な存在として感じているというか……。ともかく、恋愛感情を前面に出されると弱いのだから、少しは手加減してほしい!
私の困った心の内を察してくれているのか、レイル君は私を引き摺り出そうとするカインさんの手を軽く叩き返し、溜息と共に注意をしてくれた。
「カイン皇子……。ユキは差別をしてるんじゃない。突然心の距離を詰められて、驚いて萎縮しているだけだ。今までにも何度かあった事だろう? 少しはユキのペースに合わせてやってくれ」
「そうやって甘やかしまくってたら、誰も選べねぇだろうが! ちょっとずつでもいい。ユキ、ちゃんと男に、いや、俺に慣れろ」
「こ、怖いわけじゃありませんっ。ただ……、そういう意味で触れられたり、心の内を目の当たりにすると……、うぅっ」
恥ずかしすぎて、気絶してしまいそうなんですよ!!
そう訴えても、カインさんはまるで話にならないと不機嫌な表情全開でまた手を伸ばしてくる。
「だから……、カイン皇子。ユキを自分と一緒にしないでくれ。元々、ユキはカイン皇子との出会いからしてトラウマものだったんだ。アレクに比べれば、分が悪いのは当然の事だろう?」
「ぐっ……。そんな昔の事を持ち出すなよ」
「昔じゃない。つい最近の事だろう? 関係性が良い方向に変わったとはいえ、少なくとも……、ユキの中にはまだ新しい傷として存在しているはずだ」
レイル君は、あの時の事を知っている……。
カインさんと私の、初めての出会いの事を。王宮内にある、小さな森の図書館で起こった、忘れられない、あの瞬間の事を……。まだほんの、数ヶ月前の出来事。
レイフィード叔父さんや私のお父さん、それから、一部の人だけが知るカインさんとの出会い。
レイル君もきっと、誰かから聞いてしまったのだろう……。
普段は物腰穏やかな従兄の頼もしくも厳しい姿に、息を呑む。
確かにあの時の事は、今でも思い出すと酷い目に遭ったな~と思うけれど。
「カイン、お前……、ユキ姫に何かしたのか? ウォルヴァンシアの一族が怒るというのは、それ相応の何かがあったと思うんだが」
「ねぇ、それってあれかなー? 皇子君がウォルヴァンシアでユキちゃんと初対面の時にやらかしたっていう」
「何でテメェが知ってんだよ!? サージェスぅううううう!!」
爽やかな笑顔に満たされていたラシュディースさんサイドが一転、カインさんへの疑惑の視線へと変わってしまった……!
いやいや、それよりも、本当にどうしてサージェスさんが他国の地で起きた私の黒歴史を知ってるの!?
「ふふ、まぁ、俺が掴んでるのは、ウォルヴァンシアの王兄姫、つまり、ユキちゃんが皇子君に初対面で何かされた、って事ぐらいかなー。詳しい中身については……、ウォルヴァンシアの王様が睨み利かしてくれちゃったお陰で、不明、と。ははっ、報告書にベッタリ血がついてたからよく覚えてるよー」
それって、多分……、ガデルフォーンからのスパイ的な人がウォルヴァンシア王国に潜り込んでたって事、かなぁ……。で、掴んだ情報の重要部分をレイフィード叔父さんにあれでそれな感じで抹消された、と。や、やりかねない……っ、あの叔父さんなら、って……、あれ? 血? それって……。
一瞬、恐ろしい映像が脳裏によぎったけれど、それはカインさんの怒声に掻き消されてしまった。
「テメェらには関係ねぇだろうが!! 大体……、あ、あの時の事は、俺とユキの問題でだな。おい、ユキ!! お前もいつまでも根に持ってじゃねぇよ!!」
「ね、根に持つって……」
そりゃあ、あれは冗談だったって、悪趣味な意地悪だったって、知っているけど……。
カインさんの事を知っていく内に、あの日の記憶も薄れて……、歩み寄れたって、そう思えたけど。
――何? 今の。いつまでも根に持つな?
レイル君の陰にいた私は、ゴトン、と……、頭の中にゴングを置いた。
「カインさん……、今の、どういう意味ですか?」
「あ? ゆ、ユキ……?」
ゆらりと、レイル君という壁から前に出た私は、両手のひらを握り締めながら尋ねる。
別に、根に持っていたわけじゃない。自分の中でも、カインさんはあの時の事を反省してくれていると、そう思っていた。けれど……。
カインさんが一歩後退ると、私もその一歩を埋める為に足を前に出す。
「あの時の事は……、私とカインさんが出会った日の事は、そんなに軽いものでしたか?」
カインさんからすれば、ただの悪戯。意地悪。気持ち良く眠っていたところを邪魔されての軽い報復。でも、突然押し倒された挙句に、怖い思いをさせられた私は……?
カインさんはがらりと気配の変わった私の姿に困惑していたものの、逆ギレよろしくこう反論してきた。
「べ、別にすげぇ事は何もしてねぇだろうが!! お、押し倒されたぐらいで一々過剰反応したお前がガキ過ぎただけで……っ、あ」
頭の中で、ゴングが大きな音を立てて、戦闘開始の合図を打ち鳴らす。
「あ~……、カイン、お前が悪い。後は頑張って謝り倒すんだな、じゃ」
「皇子くーん、不器用にも程があるよー。女性経験豊富なくせに、本命相手には駄目駄目だねー。じゃ、俺も仕事があるからこれで」
「私も陛下の許に戻らねば。それでは」
続々と退出していく人達に行き場のない手を彷徨わせながら動こうとしたカインさんに詰め寄り、にこりと微笑む。カインさんの顔が、恐怖に引き攣った。
「カインさん……、少しは経験値ゼロの味わった恐怖というものを、考えてくれませんかね?」
「うっ……」
「カイン皇子……、今の内だけだと思うぞ。謝って許されるかもしれないのは」
「ニュイ~?」
三人と一匹だけの空間に、部屋の隅っこで居眠りをしていたファニルちゃんの暢気な欠伸の声が響く。本気で怒るつもりも、あの時の事で文句を言うつもりも、なかった。
けれど、それを引き摺り出してしまったのは、カインさんの口の悪さが原因だ。
聞き流せばいいと、そう自分に言い聞かせても抑えきれない……、あの時に感じた恐怖と、消えたはずの怒り。あの時、どんなに怖かったか……、この人は反省してくれていたと、そう思っていたのに。
睨み付ける私に、カインさんは気まずそうな顔で視線を彷徨わせると、小さく呟いた。
「本気で……、言ったわけじゃ、ねぇよ。ただ……、お前が、俺の事を、俺の想いを、拒んでるような気がして」
「カインさん……」
「俺だってな、傷付くんだよ……。やっぱり俺みたいな奴じゃ駄目なのか、って、すげぇ、怖くて……、だから、八つ当たりで酷ぇ事言った。……悪かった」
「あ、あの……」
素直に謝られた事にも吃驚だったけど、私は、自分が傷付けられているのと同時に、この人の事も傷付けているのだと痛い程に感じていた。
そう、だよね……。好きだって気持ちを伝えているのに、怖がられたり、拒まれたりしたら。
頭を下げてくれたカインさんをじっと見つめながら、……その肩に手を置いた。
「カインさん……。わ、私の方こそ、ごめんなさいっ。勝手に、自分だけが傷付いてるみたいな事を言ってしまって、あのっ、本当に、本当に、ごめんなさいっ」
同じように頭を下げた私だったけど、何も考えずにやってしまったせいで、カインさんの後頭部に自分の額がぶち当たる結果となってしまった。あぁ、額がジンジンして、痛いっ。
カインさんも後頭部を擦りながら顔を上げ、「おい……」と言いながら、少しだけ私を睨んでくる。
けれど、それも一瞬だけの事。互いの顔を見ながら、気が付くと笑い合っていた。
「すぐに絆されてしまうユキの性格もどうかとは思うが……、まぁ、仲直りしてくれるなら、いいか」
背後で聞こえた微笑ましさの中に呆れの感情が滲んだレイル君の言葉は聞こえず、私は真剣な表情をしたカインさんにソファーへと促され、一緒に座る事になった……、の、だけど。
「つーわけで、ケジメをつける意味で、――俺を殴れ」
「はい?」
「そうでもしねぇと、お前の気が晴れねぇだろ? だから、な?」
「で、でも……、こ、今回の事は私にも非があったわけですしっ」
そんな、麗しの美貌をずいっと差し出されましても、心の準備というものが!!
怒り爆発で勢いのままに叩く事は出来ても、気持ちが落ち着いた今は、ちょっと……。
「れ、レイル君……」
「けじめ、だそうだからな。やっておいた方がいいだろう」
「で、でも」
「俺の為でもあるんだよ。お前の事を傷付けちまって……、結局、ちゃんと謝れてなかっただろ? だから、思いっきりやれ。全部受け止めるから」
さっきまでの酷い発言や態度が嘘のように、今のカインさんは心穏やかに私を見ている。
行き場のなくなったあの日の憂いを断ち切れと、抑え込んでいたものを自分にぶつけろ、と。
そんな風に言ってくれるカインさんの優しさに、つい、涙腺がうるりと……。
「大丈夫だって。これでも、色んな女共と修羅場やらかしちまって、殴られまくった事もあるしな」
「か、カイン皇子……、今ここで、それを言うのか」
「…………」
色んな女性……? それって、カインさんがイリューヴェル皇国で遊びまわっていたっていう……。
そういう関係の女性の事、なのかな? 焦った風に私の肩にレイル君の手が添えられるのと、私が俯けていた顔を上げるのは同時だった。
「カインさん……、やっぱり一発晴らさせて頂きますね?」
「え? そりゃ勿、――ぐはぁああああああああっ!!」
「あ~……、やっぱり、こうなるのか。カイン皇子、余計な事を言う癖も、どうにかした方が……、って、ユキ!? 待て!! まだやる気か!?」
身体の奥底から溢れ出す、醜く真っ黒な怒りの気配……。
色んな女性? 何人もの女性と修羅場を起こして、殴られ慣れてる?
……一瞬でも、うっかりカインさんの事を見直しかけて絆されそうになった自分が情けない。
私は頬を押さえて涙目になっている竜の皇子様を完全に据わった目で見つめると、今度はソファーに置かれていたクッションを手に取り、バシバシ!! と、連打での攻撃に走った。
「カインさんの不潔!! 女の敵!! 最低男!!」
「痛だだだっ!! ちょっ、おいっ、落ち着けって、何怒ってんだよ!!」
「ユキ!! 頼むから落ち着いてくれ!! って、待て!! 部屋の調度品まで武器にしないでくれ!!」
「天誅ぅううううううううう!!」
「ぎゃあああああああああああああああああっ!!」
――女性を弄ぶ者に容赦はいらぬ。
そんな言葉を頭の中に響かせながら、私はそれから一時間以上に渡って……、室内を逃げ回るタラシ竜を追い回し、ボッコボコにしてしまったのでした。
2016・10・11
改稿完了。




