夜空の星々と狼さん!
異世界への引っ越しは、予想外と非現実の連続で……、けれど、とてもあたたかな一日だった。
私達の帰還に心から嬉しそうに笑っていたレイフィード叔父さん、お父さんの前で始終赤面していた従兄弟のレイル君、
小さなお手々を使って、一生懸命にお肉を頬張って、「おいしいね~!」と頷き合っていた三人の子供達。
飽きる事のない楽しい夕食の光景に、お母さんと一緒に笑い合った時間。
そんな幸せな空間に、あとからひとつ……、気付いたことがあった。
それは……、食事の最後の瞬間まで、――レイフィード叔父さんの奥さんの姿が見えなかった事。
食事を終えた後に、お父さんに尋ねてみたところ……。
レイフィード叔父さんの奥さん、つまり、ウォルヴァンシアの王妃様は、身体が弱く遠くの別荘で静養をしているという話だった。
それと、寂しがり屋のレイフィード叔父さんにその話をすると、奥さんと離れている辛さを思い出すだろうから、絶対に叔父さんの前で奥さんの話をしてはいけない、と……。
どこか切なそうな雰囲気を宿したお父さんに言い含められた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「ふぅ~、やっと一日が終わる~」
夕食を終えて自室に戻った私は、お父さんに教えられたとおりに、部屋の入り口左側にある水晶玉に手を翳してみた。白い台座から花が咲くように、美しく透明な水晶玉を抱いている、珊瑚のような装飾。
私の手の感触か、それとも温もりに反応しているのかはわからない。
けれど、触れた途端に仄かな光が生まれ、室内を明るく照らしてくれた。
お父さんの話では、触れる時にどの程度の明かりが欲しいのかを念じれば、それに応えてくれるのだそうだ。
何も念じなくても、触れた人の体調や状態によって、ある程度の気を利かせてくれる、とも。
現代人が憧れる、魔法、正確には魔術と呼ばれるもの。何と便利な事だろうか。
日本にいる時から、ファンタジーの類に多大な好奇心を抱いていた私とお母さんにとっては、まさに夢が広がる、素晴らしい世界の在り方。
胸に溢れるときめきを感じながら、天蓋付きのベッドにぽふんっとダイブする。
「う~ん、ふかふかっ」
一日の疲れを丸ごと包み込んでくれるかのような、最上級の感触。
流石は王宮というか、レイフィード叔父さんの姪御愛に溢れた贅の尽くし様だった。
日本にいる時も幸せだったけれど、……世界の違いで、こんなにも変わってしまう、自分の立場。
「ふぅ……」
ごろんと寝返りを打ち、お姫様扱いだけは、そう簡単には慣れる事が出来ないだろうなぁ、と、小さな苦笑を零す。
皆、この王宮の人達は、優しい人達ばかりだ……。
お父さんの娘というだけで、皆が……、私をユキ姫様と呼び、親切にしてくれる。
まるで夢のような世界、何不自由なく、幸せでいられる日常の始まり。
「……」
好奇心や新しい生活への期待がないわけじゃない。
けれど、……瞼を閉じれば、自分の心がまだ、向こうの世界にある事を強く感じ取る事が出来る。
割り切る事の出来ない、もうひとつの、幸せの場所。
考えても仕方のない事だけど、……一人になると、どうしても。
「あ……」
その時、ふと瞼を開いてもう一度寝返りを打って反対側を向いてみると、テラスに続く窓張り扉の向こうに、月明かりを受けて佇む綺麗な庭の景色が見えた。
夜なのに……、庭には可愛らしい花々が淡く輝きながら咲いているように見える。
異世界特有の神秘的な光景に惹かれ、私は庭に出てみる事にした。
一歩闇夜に踏み出すと、大理石で出来た白く半円形の空間が足元に広がり、その先には庭へと続く、三段程の緩やかな低めの階段が。
階段の一歩手前まで進み、顔を上げて夜空に五感を委ねる。
きらきらと夜空に散りばめられたそれらは、地球の空に輝くそれらとは、少し、違う。
淡く煌めきながら闇の世界を彩っているのは、色彩の違う、宝石のような美しい星々。
(地球では、空の向こうに宇宙が広がっていて、沢山の星が存在しているけれど……、この世界はどうなんだろう)
異世界の外に宇宙が広がっているのかはわからないけれど、視線を流した先に見えた存在に、抱いていた疑問が吹き飛んだ。
「月が……、三つ?」
幻でも、見間違いでもない。――夜空に君臨する『三つの月』。
大きく目を瞠りながら見上げた先に見えたその存在は、大きさと輝きの異なる、美しい月だった。
どの月も、優しく包み込むかのような存在感で、世界を照らしているように見える。
こちらに来てすぐに見えた太陽はひとつだったから、夜もそうだと思っていたら……、まさか、三つの月が夜空に浮かぶとは、予想外過ぎて流石に吃驚してしまった。
(でも……、ここが異世界なんだって、そう証明しているみたい)
自分の生まれ育った世界ではなく、全く異なる世界なのだと……、胸が、切なさと寂しさに締め付けられる。
気分転換で庭に出て来たのに、一層強く……、元の世界への想いが膨らんだ気がして。
「駄目だなぁ……。ここで頑張っていくって、そう決心したのに……、心が追いつかない」
零れ落ちたのは、あまりにも頼りない、迷子の子供のような……、震える声。
今まで住んでいた大好きな世界……、その環境ががらりと変わってしまった現実。
不幸になったわけじゃない。嘆く必要なんか、何ひとつ……、ないはずなのに。
「……っ」
お父さんとお母さんは、私がこれから先の人生を苦しまずに生きていけるようにと、この異世界に連れて来てくれた。全部、私を愛してくれているからこその、親心。
深い両親の愛情に感謝こそすれ、それを恨みに思うことなど絶対にない。
私は決めたんだから……。この異世界エリュセードで、ウォルヴァンシアという国で生きて行く事を……。
だけど……、ごめんなさい。今だけは……、少しだけ泣きたい気分なの。
故郷と別れを告げた事で、心に空いた、喪失感という名の空洞……。
この世界に慣れていけば、いつかは埋まってくれるだろうとは思っている。
けれど、流石に今はまだ……、この寂しさをどこかにやれる自信はなくて……。
頬を伝う雫を拭いながら、私は自分が迷子にでもなってしまったかのような心地で、もう一度、エリュセードの美しい夜空を見上げた。
どうか……、私の不安と苦しさ、地球を想って溢れ出てくる寂しさを……、その優しい光の中に溶かしてほしい。
そう願いながら、涙で視界が滲みかけた、その時。
「……ん?」
ふと、膝の辺りに何か……、柔らかくて大きな感触が、もふり。
「……」
視線をゆっくりと下に向けると、意外過ぎる存在がそこにいた。
普通の狼よりも大きな逞しい銀毛の体躯。私を見上げている、穏やかな深みのある蒼。
そのぷにっとした迫力のある大きな前足で私の膝の辺りを軽く叩いていたのは……。
「グルル……」
「あ、貴方は……、昼間の狼さん!?」
何故こんな所に!? 昼間、庭園の方で出会った愛しのもふもふ狼さんが、今ここにいる!!
思わぬ再会に目を瞬いた私は、その場に膝を着いた。
狼さんの大きな頭をよしよしと撫でまわし、試しにその顎を擽りながら尋ねてみる。
「どうしたの? 夜のお散歩でもしていたの? ……あ、もしかして、焼き菓子の匂いを辿って来たの?」
「……クゥゥン」
思い当たる節はそれしかない。
昼間に食べたレア焼き菓子の美味しさを忘れられなくて、探しに来たのかもしれない。
私達の食べる物は、この世界の動物さんにとっても無害。
お父さんの言葉を思い出し、私は狼さんに少し待っててくれるようにお願いすると、一度室内に戻った。
テーブルの上に置いていた焼き菓子の箱を開け、ふんわり生地に挟まれたクリームたっぷりのブッセを二つ手に持って外へと引き返す。
「狼さん、どうぞ」
中には入らず、テラスの所でお行儀良くお座りの状態で待っていてくれた狼さん。
昼間にも思ったけれど、この子の毛並みはきちんと手入れがされている証拠。
きっとお世話をしてくれている飼い主さんがいるんだろうなぁ、と、少しだけその人の事を羨ましく思いながら焼き菓子を差し出す。
けれど、最初の時とは違い、……狼さんはすぐにそれを食べようとはしなかった。
「どうしたの? 食べてもいいのよ」
美味しそうに食べてくれていたのに、どうして?
「お父さんがね、私達が食べても大丈夫な物は、貴方達にも大丈夫だって言ってたの。だから、遠慮せずに食べてくれると嬉しいな」
それに、こうやって会いに来てくれた事が、とても嬉しい。
偶然かもしれないけれど、それでも、やっぱり……。
「貴方のお陰で少し心が軽くなったの。だから、お礼、ね?」
そう言って笑いかけると、ようやく狼さんは焼き菓子を口に銜えて美味しそうに食べてくれた。
でも、それを食べている最中も、私の事をじっと見つめながら、もぐ、もぐ、もぐ……。
「美味しい?」
食べ終わった狼さんの頭を撫でながら尋ねると、言葉が伝わっているのか、静かにその頭が縦に振られた。
ふふ、やっぱり可愛い。もうひとつどうぞ、と、焼き菓子を口元に運んであげると、今度はすぐに、狼さんが二つ目をぱくりと頬張ってくれる。
そして、二つ目の時もやっぱり、私の事を熱心に見つめながら、もぐ、もぐ、もぐ。
最後にぺろりと自分の口の周りを長い舌で舐めると、狼さんは立ち上がって私の横を通り過ぎた。
「狼さん?」
どうしたのだろうと振り向いてみると、狼さんは私の部屋の中をきょろきょろと見まわしている最中だった。
一体どうしたんだろう? ……あ、もしかして、まだ焼き菓子が食べ足りないとか?
あんなに大きな体躯をしているのだから、二つじゃ足りなかったのかもしれない。
……と、思ったのだけれど、どうにも違うらしい。
踵を返して私の方へと戻ってきた狼さんが、私の後ろに回ってグイグイと頭を押し付けてきた。
「え? ちょ、ちょっと、狼さん!?」
理由はわからないけれど、どうやら部屋の中に入れと言っているようだ。
私を前に押し続け、ようやく中に入り終えると、バタン! と後ろで音がした。
……え? 数秒遅れて、ゆっくりとそちらを振り返ると。
「狼、……さん?」
しっかりと閉じられた窓張り扉の姿と、その前にお座りをしている狼さんの姿が瞳に映り込む。
そして、私にちらりと視線だけを寄越すと、狼さんが前足を扉の鍵部分に掛け、器用に鍵を閉めてくれた。
「お、お上手……!!」
鍵の部分を見れば、しっかりと施錠が完了しており、夜の戸締りはバッチリ完了している。
若干、納得してもいいものかどうか悩んだけれど、異世界だから、と思えば、それも不思議な事ではないのかもしれない。
それに、地球にだって新聞を持ってきたり色んな事が出来るわんちゃんは沢山いる。
凄いね~、お利口さんだね~、と、手を叩いて狼さんを褒めていると、また私の横を通り過ぎて、狼さんはベッドの上へと乗り上がってしまった。
なにやら、前足でタシタシ! と合図するかのようにベッドの表面を叩いている。
これは……、こっちに来いと呼ばれているのだろうか?
ベッドに上がって傍に寄ると、狼さんはその大きな体躯を寝そべらせた。
「狼さん?」
最上級の豪華ベッドに、最高に可愛いもふもふの狼さんの組み合わせなんて、あまりにも幸せ過ぎて顔が緩んでしまう。
その光景に見惚れていると、狼さんがまた前足でベッドを叩き、何かを促すように一度だけ吠えた。
「もしかして、寝ろ、って……、言ってるのかな?」
どうにも、そうとしか思えなくて聞いてみると、狼さんはこくりと頷いてくれた。
まさかの、もふもふ動物さんからの、早く寝なさいコール。
これって、もしかしなくても、この子が添い寝をしてくれる、という事、なのかなぁ?
でも、レイフィード叔父さんやお父さん達に無断で、動物と部屋で眠ってもいいのだろうか。
一応、私の部屋とはいえ、与えてくれたのはレイフィード叔父さんだし、許可を……。
「ワンッ……!」
悩んでいたら、狼さんからお叱りの声が響いた。
前足でまたベッドを叩き、私の夜着の袖をグイグイと引っ張ってくる。
「わ、わかりました!! すぐに寝るから、きゃっ、狼さん、擽ったい!!」
慌てて横になった私の身体にピッタリと寄り添うと、狼さんはその長い舌で私の頬を舐めながらじゃれついてくれた。
もふもふの温かな感触と、優しい蒼の眼差し。
この子といると、さっきまで抱いていた不安や寂しさが全部、その温もりに溶けてゆくようで……。私は数分も経たない内に、狼さんの存在を傍に感じながら、夢の中へと落ちて行ったのだった。
2016・04・24 改稿。




