出発の日
「あ~あぁ……、ついにやって来ちゃったねぇ」
荷物を手に玉座の間へと入った私に開口一番そう呟いたのは、歩み寄って来てくれたレイフィード叔父さん。その綺麗な顔を両手で覆い、世界の終焉でも訪れたかのように嘆いている。
「まったく、我が肉親ながら往生際が悪いな……」
「ふふ、レイちゃんだもの。仕方がないわ」
打ちひしがれているレイフィード叔父さんの肩をポンポンと叩きげんなりしているお父さんを、その隣に寄り添っているお母さんがその一言で片づけてしまう。
今日から一か月、レイフィード叔父さんやウォルヴァンシア王宮の皆さんと離れるのは少しだけ寂しいけれど、同時に異国への期待もある。
「レイフィード叔父さん、私、叔父さんの姪として恥ずかしくないように頑張ってきますね」
「ユキちゃぁん……」
「お土産も買ってきますから、泣かないでください。ね?」
「うぅっ……。そうだね、可愛い姪御の旅立ちだ、叔父の僕がしつこく寂しがってちゃ駄目だよね」
お父さんと一緒にその背中を撫でて励ました私に、レイフィード叔父さんは涙を拭うと、いつものように温かな笑顔を浮かべてくれた。
エリュセードに移り住んでから数か月、見慣れてきた優しい笑顔……。
たった一か月の遊学だけど、毎日見ていたそれを見られなくなると思うと、ほんの少し寂しくなってしまう。
レイフィード叔父さんは私の両手をその包容力のある手に掬い取ると、旅立ちを祝福するかのようにぎゅっと握り締めてくれた。
「我が愛しき姪御に、他国での日々が幸多からん事を」
「はい。ありがとうございます。レイフィード叔父さんも、お仕事頑張ってくださいね」
「うん。ユキちゃんの頑張りに負けないように、僕も王様業を頑張るよ」
その優しい温もりを握り返し、やがてレイフィード叔父さんのそれが名残惜し気に離れていった。
お父さんとお母さんにも改めて旅立ちの挨拶を伝え、同行者の人達の到着を待っていると……。
「はぁ~……、マジで行くのかよ。面倒くせぇっ」
「あ、カインさん、おはようございま……」
玉座の間に響いたその声に振り向くと、何故かズタボロの様子のカインさんの姿が……。
着ている服はちゃんとしているけれど、顔や手、首筋、などなど、目につく箇所に痛そうな傷や打ち身の痕が見える。――これは、昨夜の某王宮医師様の仕業だろうか。
荷物を手にしたカインさんの傍に寄っていくと、うんざりとした顔で尋ねられた。
「なぁ、ユキ……、二人で逃げねぇか?」
「か、カインさん……」
昨日の私もアレだったけれど、カインさんもこの期に及んでまだ足掻きたい心境らしい。
その場に荷物を下ろし、どかりと胡坐を掻いて座り込んでしまったカインさんの機嫌は、本当にどこからどう見ても最悪のご様子だ。
多分、昨夜のルイヴェルさんからのお仕置きも原因のひとつなのかもしれない。
「カインさん、たった一か月の事じゃないですか……。もう少し前向きに考えましょうよ」
「前向き、ねぇ……。じゃあ、ユキ」
「はい?」
「あっちに行ったら俺とデートしようぜ。それなら機嫌良く行ってや、――ぐはっ!!」
思わずピシリと固まりそうになった私の反応が次の行動に移るよりも早く、カインさんの頭にぶつけられたのは大きなトランク。
それからすぐに、転がったトランクの代わりのように……。
「カイン……、今すぐに沈めて欲しいのなら遠慮なくそうしてやろう」
「る、ルイヴェルさんっ、足、足!!」
「ぐぐっ……!! こ、このクソ眼鏡っ、テメェ……っ!!」
あぁっ、カインさんの背中が、ルイヴェルさんの容赦ない踏みつけでグリグリと……!!
昨夜の釣り竿といい、なんだかどんどんルイヴェルさんのドS度がグレードアップしてきている気がしてならない!!
「ルイヴェェェル……!! 貴方って子は、こんな日にまで!!」
ドンッ!! と、ルイヴェルさんを勢いよく両手で突き飛ばし、横暴な仕打ちを止めてくれたのは、心強い私達の味方こと、セレスフィーナさんだった。
転がっている哀れなトランクを持ち上げ、問答無用で双子の弟さんをバシバシと叩きつけ始める。
「誤解だ、セレス姉さん。俺はユキの保護者役として、当然の事を」
「だまらっしゃい!! まったく、何度言っても進歩がないんだから!! 私怨で動いてる事がモロバレなのよ!!」
相変わらず双子のお姉さんには弱いというか、大人しくトランクの餌食となっているルイヴェルさんが、怒りの形相をしているセレスフィーナに言い訳を繰り返している。
カインさんの方は、……服の中に傷でも隠れているのか、その場に蹲り「くそぉ……っ」と痛みに耐えているかのような顔を。本当に一体、昨夜のあの後……、何があったのか。
「父上、伯父上、皆、遅くなってすまない……。何をやってるんだ?」
「あ、レイル君、おはよう。ちょっと、ね」
微笑ましい姉弟喧嘩と説明するべきなのか、それとも、今すぐに止める手伝いを頼むべきなのか、私が選んだのは曖昧に笑って誤魔化すという逃げの選択だった。
「ルイヴェル~、向こうに行ったら、カインの見張りもよろしく頼むよ~。僕の可愛い姪御ちゃんにもし……、不埒な真似をしようとしたら、わかってるね?」
御意、と請け負う返事を口にしたルイヴェルさんだけど、双子のお姉さんに怒鳴られ続けていたというのに、よくレイフィード叔父さんの声を拾えたものだと思う。
お父さんも笑顔だけど、なんだか背後から黒い煙が立ち昇ってくるかのような怖い気配だし。
「なるほどな……。またカイン皇子がユキにちょっかいをかけたわけか。お前も大変だな、ユキ」
「はは……、まぁ、それなりに」
「くそっ……、強制連行の上に何の楽しみもない、とかっ、最悪だろうがっ」
「カイン皇子、諦めた方がいいぞ。なにせ同行者にルイヴェルがいるんだ……。その目を掻い潜ろうとしても、結果は目に見えている」
「けっ」
まさに、大魔王様の監視下において隙はなし、という事なのだろうか。
とりあえずは、遊学中にカインさんからの積極的なアタックがぶつけられる事はないと見て良さそうだ。……ほっ。
「カイ~ン、君も出発前に挨拶を済ませた方が良いよ。こっちにおいで」
「ああ? 誰に挨拶しろってんだよ。俺はそういうのは……、げっ」
近寄って来たレイフィード叔父さんがその手に乗せてカインさんへと差し出したのは、手のひらサイズの水晶玉。その上から溢れ出るように生まれた光が映し出したのは、遥か北の地にいる人。
カインさんと同じ面差しをした魔性の色香がダダ漏れ状態になっている美丈夫、イリューヴェル皇帝さんその人だった。
『カイン!! 今からでも遅くないぞ!! ディアーネスが到着しない内に早く逃げろぉおお!!』
「相変わらず鬱陶しいな、クソ親父……。俺だって行きたくて行くわけじゃねぇってのに」
「君の遊学の話を聞いてから、ディアーネスと結構やり合ってたみたいだからね~……」
つまり、今日の今日まで頑張ってみたけれど、結局ディアーネスさんに勝てなかった、と。
レイフィード叔父さんの口ぶりからは、私の知らない水面下の奮闘があったご様子。
今からでも遅くない、イリューヴェルに逃げ込んで来いと必死に叫ぶカインさんのお父さん。
けれど、その余裕のない焦燥の声が不意に途切れてしまった。
「この期に及んでもまだ納得せぬとは……、学院時代から何も変わらぬ愚鈍さよ」
玉座の間の宙に生じた紫の陣と、冷めた少女の声音。
通信の向こうにいるカインさんのお父さんがギリリと奥歯を噛み締めてその視線を受け止めた。
ふわりと陣から抜け出し舞い降りてきた薄紫の髪の少女、――ガデルフォーン女帝、ディアーネスさん。
彼女は水晶玉の近くまで歩いてくると、その口端を愉しそうに持ち上げた。
「我があれだけ言い聞かせてやってもまだこの遊学における利点を理解せんとはな」
『黙れ!! 俺の息子を自国に連れ帰り、とんでもない目に遭わせるだろう!! 慈悲も容赦もない冷酷女帝め!!』
「理由もなしに我は他者を痛めつける趣味はない。レイフィードよ、通信を切れ」
「だそうだよ、グラヴァード。もう観念したら? 僕だって涙を呑んで可愛い姪御を向こうにやるんだからね……」
出来るものなら自分だって駄々を捏ねたい。
レイフィード叔父さんの遠い目をしたその双眸には、敗者の気配が色濃く漂っている。
『諦めるな!! レイフィード!! 俺と共に愛しき家族を取り戻すのだ!! ――ん?』
それでも食い下がるカインさんのお父さんを映し出していた通信道具の水晶玉をおもむろにその手へと掴み上げたのは……。
「マジ、面倒くせぇ……」
「カインさん?」
ボソリと苛立たしそうに呟いたカインさんが、水晶玉を手に玉座の間に隣接しているバルコニーへと向かい、すぅ……と、新鮮な朝の空気を吸い込んだ。
「これ以上面倒増やすんじゃねぇよ!! クソ親父ぃいいいいいいいい!!」
『なっ!! か、カイン!?』
地球の野球選手もビックリな剛速球で水晶玉を空の彼方に投げ放ったカインさんが、無言でこちらへと戻り、大きな溜息を吐いた。
「どうせ逃げ場なんかねぇんだろ? 魔竜女」
「その通りだ。父親とは違い、お前は物わかりが良いな」
「たんに諦めただけだ。まぁ、俺一人じゃねぇし、せいぜい他国の味とやらを楽しませて貰うさ」
「カイン……。多分、泣いても帰って来られないと思うけど、本当に大丈夫かい?」
ようやく観念して遊学に踏み出そうとしているカインさんに、レイフィード叔父さんが同情の眼差しでその肩を慰めにかかった。
カインさんの顰められていた眉間の皺が、さらに深まってしまう。
「だ、大丈夫ですよ!! カインさん一人で行くわけじゃないんですし、私達皆で頑張りましょう!! ねっ!!」
「ユキ……」
「カイン、お前は阿鼻叫喚の別コースになるだろうが、まぁ頑張れ」
「浮上しかけた俺の心をあっさり折りにかかってくんじゃねぇよ!! この悪趣味眼鏡野郎!!」
いつの間にお姉さんからのお説教から解放されたのか、私の背後で余計な言葉を挟んできたのはルイヴェルさんだった。
振り向いてみると……、あ、カインさんに対して同情とかそういう気持ちが皆無の悪役的笑顔になっている。
これから他国の地に旅立つというのに、こんな調子で大丈夫なのだろうか……。
レイフィード叔父さんも、溜息交じりに額を指先で押さえている。
「はぁ……、君達を見ていると、向こうで何が起こるのか本当に心配だよ」
「レイフィードよ、案ずるな。あの竜の子は我が少しでもマシになるように躾けてやろう」
「うん、その躾とやらも色々問題ありそうな予感がするんだけどね……。とりあえず、ユキちゃん達の事、よろしく頼むよ」
「うむ。――では、そこの騒々しい者達よ。そろそろ行くぞ」
ダンッ!! と、その小柄な姿には不似合いな長い槍の後部を絨毯へと打ち付けたディアーネスさんが、自分の近くに来るようにと声をかけてきた。
私はレイル君と一緒に彼女の傍へと寄り、じゃれ合いを終えたカインさんとルイヴェルさんも一か所に合流してくる。
「ユキちゃん!! 色々と大変な事もあるかとは思うけど、叔父さんはこの国から応援しているからね!!」
「レイル、カイン皇子、ルイヴェル、ユキの事をよろしく頼むよ」
「ふふ、行ってらっしゃい。ユキ」
「ルイヴェル、ユキ姫様にご迷惑をおかけしないように、臣下としての在り方を守るのよ!!」
見送りの言葉を受け、私達もそれに返事を返していると、紫色の光を纏う陣が再び役目を引き受け足元へと現れた。皆の姿が徐々に薄くなっていき、視界が光に満たされていく。
「行くぞ、我が統治せし魔竜の国、――ガデルフォーン皇国へ」
厳かな響きのあるディアーネスさんの言葉と共に、私達はウォルヴァンシア王国を旅立った。
2016・01・07
改稿完了。




