オタク男にヤンデレ女が恋をする
「ねえ」
ねばねばとした笑みだけが、起き抜けた後も頭につきまとった。
俺に向けられたねばりつく笑顔に見覚えはまるで無かったけれど、何か妙に現実味を持っていて、思い出すだけで嫌悪感が何度も何度も湧き上がる印象的な笑みだった。
「大丈夫でござるか、本宮氏?」
大量の漫画を籠に持った友達が心配そうな顔で俺を見ている。その極当たり前の日常を見るだけで、俺が夢に抱いていた嫌悪感は潮引いていった。
「おお、大丈夫」
「朝から調子悪そうだし。もしかしてゾンビ化の予兆ではなかろうか。最近は高校生のゾンビ化が流行りの様だし」
「いや、違う違う。ウイルスには感染してないし、死んで蘇った覚えもないから」
「もしゾンビが溢れかえったら合法的に銃が使えるんだけどなぁ」
残念そうにしている馬鹿馬鹿しい友達を見ている内に、自分の夢がそれ以上に馬鹿馬鹿しい事に気が付いた。
肩を叩かれる。
振り返るともう一人の友達が居た。手に雑誌を何冊か持っている。
「ま、分かるよ。その気持ち」
言っている意味が良く分からなかった。
「あの掃いて捨てる程居る恋人達を見てると反吐が出る程気持ち悪くなるもんね。何で休日だってのにこんなに町中に溢れてるんだろうね。爆散して欲しいよね、全員。マジで汚い花火になんないかなぁ、マジで」
「いや、死んでくれるだけで良いよ。爆発すると迷惑だから」
俺が答えると、友達は不思議そうな顔をした。
「あれ、大分元気になってんじゃん」
「え?」
「いや、さっきまで本当に気分悪そうだったから、心配してたんだけど」
全然心配している風に見えなかったんだけど。
「まあ、良いや。ほら、これ。持ってきてやったよ。これ買って元気出しなよ。元気になったらまた一緒にリア充共を爆発させに行こうぜ」
そんな言葉と共に漫画を渡された。特典の箱が付いている。箱の中にはフィギアが入っている。太藺マユのフィギアが入っている。
マユたんと目が合うだけで俺は救われる。いや、救われた。どれだけの苦でも、まして
眠りの間に行われる記憶の整理如きであれば、マユという存在が天秤の反対に乗っかれば、
虚空の彼方にまで吹っ飛ばされる。とても不思議な存在だ。何故こんなに可愛いのか。た
だただ一般人。不思議な力も突飛な言動もまるでなく、狂人が乱舞するバトル漫画の中で、
いかれた連中に振り回されるだけの極普通のキャラなのに。きっと健気だからだろう。愛
する人と一緒になりたいという誰もが持っている願望の為に、非力な自分を奮い立たせて
傷ついても頑張る姿が美しいからに違いない。本当に心の底から俺は太藺マユが大好きだ。
「今日は止めとくか」
友達のそんな言葉が、俺を現実へ立ち返らせた。
「え、ごめん。何が?」
俺が聞き返すと、友達が心配そうな顔で、漫画の入った籠を持っているのとは逆の手で俺の額を触った。
「本当に大丈夫かよ。熱あるんじゃねぇの? あんね、だから本宮さんの体調が悪そうなんで、今日は遊ぶの止めようって話っす。お分かりっすか、本宮さん」
折角誘ってくれたのに、こちらの都合で駄目にしてしまったのは申し訳なかった。けれど言われてみると何だか熱っぽい様な気もして、悪夢を見たのも体調が悪い所為だったのかもと考えると、無理をする訳にはいかなかった。
「確かに体調悪いかも。ごめん」
俺が言うと、友達二人は笑った。
「別に良いって事よ。他人に良い事をしとけば、巡り巡って噂を聞きつけた可愛い女の子が俺の部屋に上がり込んでくるかもしれないだろ?」
「そうだよ。お前が死んだら、童貞仲間が一人減っちゃうじゃん」
友達の温かい言葉に促されて俺はレジへと向かった。
友達よりも一足先に会計を済ませ、レジから離れると、気になる子を見かけた。近隣高校の制服を着て、何か大きめの細長いバッグを床に置いている、如何にもこれから部活に向かいそうな格好の、ちょっと小さめな女の子は、本棚の前に立って爪先立ちして最上段へと指を伸ばし、本の背表紙の下の端を引っ掻いていた。後ろで縛った髪がゆらゆらと揺れて何だか哀れに思えた。
俺は腕の先にマユたんの存在がある事で気が大きくなって、爪先立ちする女の子の隣に立って、女の子の引っ掻く本を取り、渡してあげた。女の子は一瞬俺の顔を見上げてから、渡された本に目を落とし、そうして受け取ると、目を見開いて題名の書かれた表紙を眺め始めた。
俺は本を渡した後に、出しゃばった事をしてしまったなと思った。イケメンならまだしも、俺如きでは手助けしたところで気味悪がられるかもしれない。もしも俺の渡した本をまじまじと見つめている女の子が顔を上げた瞬間、凄まじくうざったそうな顔をしたとしたら、ショックで死ぬ。
なので女の子が本に気を取られている間に、その場を離れ、既に会計を終えて辺りを見回している友達と合流した。
「どこに居たんだよ」
「ちょっと」
「もしかして吐いてた?」
「そんな長い時間離れてなかったろ」
友達は少しの間、俺の事を見つめ、そうして言った。
「とにかく、本当に歩けなくなる程、気持ち悪くなったら言えよ。家まで応援するから」
「ああ、ありがとう」
それからもちょくちょく友達に気を遣われつつ、結局家まで送ってもらった。
夜になって、インターホンが鳴った。
買ってきた漫画を読み、同シリーズをもう一度一巻から読み返し、マユたんの素晴らしさを再確認していた時の事だった。
今頃誰だろうと思いつつも、別に自分とは関係無いだろうと、対応は親に任せて、俺はもう一度同じシリーズを読み直そうとした。
一巻を手にとった時、ノックの音と親の言葉が聞こえてきた。
「何かあんたに会いたいって子が来てるよ」
まるで心当たりが無かった。友達にしても別に何か用事がある訳でも無いし、連絡も来ていないし、不思議に思って部屋を出ると、部屋の外に立っていた母親がにやにやと笑いながら「ねえ、どういう関係なの?」と囁いてきた。まず誰だかも分からないのに、自分との関連など答えられない。
玄関を出ると、門の向こうに見覚えの無い女の子が立っていて、益々混乱した。
人違いかと思ったのだが、女の子は何か期待を込めた眼差しで俺を見ている。向こうがこちらに用がある事は間違いない様だ。
仕方無しに門へと歩んでいく内に、女の子が細長いバッグを持っているのが目に入り、それでようやっと思い出した。けれどやっぱり分からない。本屋で本を取ってあげた女の子なのは分かったけれど、だからと言って夜に会いに来る理由も分からなければ、何で俺の家を知っているのかも分からない。そして夜に女の子が訪ねに来ているなんていう状況が現実のものだとは思えない。
思い浮かぶ疑念に答えを出せないまま門を開けると、女の子が頭を勢い良く下げた。長い黒髪が闇の中でばらばらと跳び上がった。それを見て、縛っていた髪を下ろしていたからさっき見分けがつかなかったんだな、と少し現実逃避をした。
「あの、朝は本を取って下さってありがとうございました」
深々と頭を下げられて、そんな事を言われ、ましてそれが現実の女の子だったので、俺は困惑して、上手く口が回らなかった。
「別に大した事じゃないし」
ただ悪い気はしていなかった。夜に女の子が訪ねてきたというのは嬉しいし、ただ本を取ってあげたというだけでお礼に来る誠実さは心を和ませたし、知り合いになれたらという打算も湧き上がった。
「ところでどうして俺の家を知ってるの?」
そう尋ねた。
それは不思議な事ではあったけれど、特に悪い印象は抱いていなかった。女の子が如何に苦労して俺の事を探し当ててくれたのか知りたかった。
俺が女の子の言葉を待っていると、女の子は下げた時と同じ勢いで顔を上げた。そうして微笑みながら言った。
「今日の朝、本宮君と一緒に帰った時に知ったんです」
本宮とは俺の苗字であり、俺には兄も弟も従兄弟も居ない。俺の父親を目の前の女の子が君付けするとは思えない。知り合いに本宮という苗字の人は居ないし、赤の他人と一緒に帰って俺の住所が分かるとも思えない。
意味が分からず、俺は言葉に詰まる。どういう事だと思っていると、女の子はまたも勢い良く頭を下げた。
「それでどうしてもお礼を言いたくて。ありがとうございました。本当に嬉しかったんです。ねえ、分かりますよね?」
そうして勢い良く顔を上げた。
その顔を見た瞬間、俺の中に恐怖が湧き上がり、首筋がざわつき、体中が干上がった。
女は笑っていた。
ねばねばとした気味の悪い笑いを浮かべていた。
どうしてか分からない。
口角を吊り上げ、目を細めているだけの、万人と同じ尋常の笑顔であるはずなのに、何故だかその女の、町中の女性の顔を平均化させた様な平凡な顔立ちが、笑顔を浮かべた瞬間、おぞましい化物に変じた。
俺が気味悪さに竦み上がっていると、女が顔を逸らした。そうして何かを探してバッグの中を漁り始めた。
俺の怖気が去る。バッグを漁っている女の横顔は笑顔を浮かべる前の平凡な印象へと戻っている。まるで一瞬前の化物が夢であったかの様な不可思議な心地だった。
目の前の女がいつまた化物に変わるか分からない。
家の中へ駆け戻りたかった。
けれど、もしも今この場を逃げたとしても、相手は家の前まで来てしまっている。一時的に家へ逃げ込んだところで何が解決するとも思えない。
とにかくと思う。
とにかく今のところ、悪感情は抱かれていない様だ。だからここは出来るだけ穏便にこの場を収め、やり過ごそう。
そう心に決めて、女の次の行動を待っていると、女はようやくバッグの中から目当ての物を探し当てた様で、バッグの底を眺めながら呟いた。
「お礼にプレゼントを渡そうと思って持ってきたんです」
そうしてぐるりと首を捻じ曲げて俺を見る。
俺の全身が軋んだ。ねばねばとした笑みが、俺の神経に太い針を差し込んできた。
「ねえ、これ、血なんですけど」
そうして女がバッグの中から赤い液体に満ちたビニール袋を取り出した時、俺は気を失いそうになった。
全てが夢の中に堕ちていく様な心地だった。
一晩眠っても、あの女のねばねばとした笑みが忘れられなかった。
「それはヤンデレって奴でござるな」
「羨まけしからん!」
俺の必死の訴えに友達はそう答える。できれば味方になって欲しかった。俺にとっての悩みはこいつ等にとっての楽しみでしかないらしい。
「あれがヤンデレ?」
思い返す。
真っ赤な液体を詰めたビニール袋を差し出してくる嬉しそうなねばねばとした笑みが蘇る。思わず吐きそうになる。
俺の吐き気など知らぬ気に、友達は笑った。
「可愛いものだろ」
友達の気楽な言葉を俺は全力で否定する。
「可愛くない。全然可愛くない」
「だって、結局それは絵の具だったんだろ? 本物の血じゃなかっただけマシだと思わなくちゃいかんなぁ、本宮殿」
思い返す。
確かに赤い液体は血では無かった。恐る恐るビニール袋を開けてみると、漂ってきたのは硬質な絵の具の臭いだった。
けれど渡された時の言葉。
私の血、本宮君の血、二つの血を入れてあるんです。ねえ、混ざり合って綺麗でしょ?
まるで日常事の様な平凡な口調で、女はそう言って、俺に赤い絵の具を渡してきた。異常でなくて何だろう。
思い出すだけで、怖くなる。
「俺は羨ましくて爆発して欲しいけど。そんな不細工だったの?」
「いや、顔は、普通だったよ。性格も普通だったら付き合ってたかもしれないけど」
女は最後に頭を下げてこう言って、離れていく。
ねえ、好きなんです。お願いです。付き合ってください。
そんな普通の言葉がやって来て、その嬉しいはずの言葉に意表を突かれたところへ、またあのねばねばとした笑みが持ち上がって、俺が怖気の所為で動けずに居ると、女は去っていった。何事も無かったかの様に平然と、のんびりと歩いて去っていった。その間、俺は動けなかった。
「無理。あれは無理。絶対無理」
「勿体無いなぁ。とりあえず付き合ってみれば良いのに」
「そうして訪れる惨劇」
「翌朝惨殺された本宮の変わり果てた姿が」
「女の行方は誰も知らない」
そうして友達は二人して顔を見合わせ悲鳴を上げた。
死ねば良いのに。
俺は突っ伏して全てを放棄した。
「やっぱり惨事は駄目だ。二次元最高。マユたんこそ至高」
そうして目を瞑ると、友達は二人で勝手に盛り上がり始めた。
「ヤンデレも良いものでござるよ」
「個人的にはヤンデル方が好きだけど」
「どう違うか説明せよ」
「ヤンデレは恋の所為で狂ってしまって、ヤンデルは最初から狂ってる」
「違いが分かりません、隊長」
「貴様の脳味噌にはまだ早かった様だな」
死ねば良いのになぁと思いつつ、目を閉じる。授業が始まる。起きなくちゃいけない。そう思うのに、意識は段々と落ちていく。自分が眠りに落ちているのが分かる。
夢に堕ちる中で、やけに印象に残った友達の言葉があった。
「選択肢にだけは気をつけなよ」
「間違えれば、死亡フラグが掲揚されて、バッドエンドまっしぐら」
「逆にバッドの向こうにトゥルーがあるかもよ。試しに喫茶店開く夢でも語ってみたら?」
そうして夢を見る。
夢の終わりにまた、あの女のねばねばとした笑みを見た気がした。
顔を上げるととても静かな教室の中で、俺は一人席に座っていた。移動教室かと思ったけれど、今日の時間割に移動は無い。
教室はとても薄暗い。そして赤い。どす黒い赤さが教室に染みている。教室中に誰かの血がぶちまけられたのかと思った。窓の外を見ると日は低く、夕日が目に痛かった。帰ろうと思った。
立ち上がってもぼんやりとしていて、まだ夢の中に居る様な心地だった。この世界で自分一人だけになってしまったんじゃないかと、そんな錯覚がやって来た。
教室を出て、階段を降りて、昇降口まで行くと、外から声が聞こえてくる。運動部が練習をしている。何処からか吹奏楽の調子はずれな音が響いてくる。夏の残暑も漂ってくる。ようやく現実に立ち返った気がした。
校庭を通り過ぎる間も、掛け声や、サッカー部の蹴るボールの音、金属バッドがボールを打つ音に、トランペットのたどたどしい音が聞こえてくる。けれどそれが校門を出て、少し歩くとすぐに小さくなって、家を二軒通りすぎて角を曲がると、もう何も聞こえなくなった。
また夢の中に堕ちた気がした。
夢であって欲しかった。
俺の進む先に、女のねばねばとした笑顔が待っていた。
「ねえ」
女が問い掛けてくる。
俺は答えられない。夢の中に居る様な気がして、女の言葉を上手く受け止められない。
「ねえ。昨日の答え聞かせてよ」
そう静かに問い掛けてくる。
平凡な口調、平静な声音。けれど笑顔が、ねばついている。
ふと女が後ろ手に何かを持っている事に気がついた。
光が鋭利に反射した。酷く嫌な予感がした。
気になっていると、女は俺の視線に気が付いて、嬉しそうに笑って手を前に出し、それを見せつけてきた。
ナイフと、赤い液体の入った袋が二つ。
危険を感じて肌が粟立った。
女は笑い、ナイフを振り上げ、更に笑みを強くしてナイフを振り下ろす。
女のナイフは性格に二つの袋を破って、中の赤い絵の具が辺りに飛び散った。
女の微かな笑い声が、呆然としていた俺の耳に響いてきた。
「ねえ、あなたの血と私の血が交じり合って、それで子供が出来るの。ねえ、素敵でしょ?」
そうして女は真っ赤な掌を俺に見せつけながら粘ついた笑みを浮かべてきて、気が付くと俺は女から逃げていた。
俺が息を切らして走っているのに、女は楽しそうに笑いながら追いかけてくる。後ろからかっきききんと音が聞こえてくる。その下手くそな演奏は、女がナイフをそこら中の物にぶつけている音だ。恐ろしくて仕方のない、本当に嫌な音だった。
逃げに逃げに逃げ続けて、良い加減疲れて息が上がってきた。
隠れようと思って、狭い入り組んだ路地に入り込み、死力を振り絞ってしっちゃかめっちゃかに角を曲がって、最後に打ち捨てられたビルに逃げ込んで崩れ落ちた。
吐く息が漏れない様に口元へ服を当てて、女をやり過ごす為に動く事を止める。埃の満ちたビルの隅っこにうずくまる。咳き込みそうなのをこらえて、嵐の過ぎ去るのを待つ。
外から遠慮呵責の無い足音と、ナイフによる調子はずれな演奏が聞こえてくる。
「ねえ、お願い、天使さん。私をあの人のところに導いて」
そんな声も聞こえてくる。
足音と演奏は段々と大きくなる。俺は目を瞑って頭を下げ、更に小さく縮こまる。強張る体が震えている。女の足音が近付くと共に俺の中の恐ろしさが高まっていく。と、あっさりと音は通りすぎて、小さくなり聞こえなくなった。
聞こえなくなってからしばらく待って、音が二度と聞こえて来ない事に安堵して息を吐く。しばらくここに居ようと心に決めて、顔を上げる。
女がビルの入口に立って優しげな、粘り気のある笑顔を浮かべていた。
「ねえ、み、つけた」
俺が慌てて立ち上がると、女は嬉しそうに駆けてきた。ナイフがまた下手くそな音を立て始める。しっちゃかめっちゃかな足音が俺に向かってやって来る。
恐怖で喉の奥が熱くなって、俺は叫び声をあげていた。叫んでいると自分で気が付いた時には、俺は階段を駆け上がっていた。駆け上がりながら俺は気が付いていた。階段が一つしか無いビルを上ったらもう逃げられない事に気が付いていた。けれど俺は駆ける。選択肢を間違えた事を知りながら、バッドエンドへと駆けて行く。
屋上に出ると、まだまだ日は暮れる途中で、血を帯びた空が一面に広がっていた。
振り返ると、女が上ってくる。俺と目が合うと、粘りついた笑みを見せてきた。
「ねえ、はっきりと言って良いんだよ? 嫌なら嫌で。だからせめて答えを聞かせて」
階段と屋上を隔てる扉枠にナイフが当たって、かかりと音を立てる。女がどんどんと歩いてくる。
俺は後ずさりながら、終わりを覚悟していた。
どうあがいても絶望。
後退りすぎて、屋上の縁にきて、振り向いて下を見ると、道に人が集まっていた。ビルの上を見上げていた。
助けを呼びたかったがもう遅い。女はすぐそこに迫っている。
「ねえ、答えを聞かせてよ」
女の真っ赤な手が俺に伸びてくる。
もう駄目だ。
ならばせめて、悔いの無い様にしようと思った。
「俺には好きな人が居る」
女の手が止まる。
そうして不思議そうな顔をする。笑顔でなくなる。笑顔でなくなるだけで一気に平凡な女の子に戻る。けれどその普通の顔に反して、べったりと赤く染まった手が俺の目の前で固まっている。
「彼女なんて居た? 誰?」
駄目だ。
この問答が終わったら殺される。
だから俺は思いっきり息を吸って、世界中に響き渡る様に思いっきり叫んだ。せめて死んだら次元の壁を越えて、あの存在と出会える様に。
「俺はマユたんが好きだ!」
そうして体を後ろに預け、ビルを越えて、体を宙に任せる。
女に捕まって死ぬくらいなら、自分で死ぬ。手は借りない。
重力に引かれて落ちていく。三階だからもしかしたら死なないかもしれない。もしかしたら下に居る人に当たって、一命を取り留めるかもしれない。そんな一縷の望みが視界一杯に広がる、雲の漂う赤い空に映っている。
けれどその視界に屋上から覗きこんだ女が入ってきて、女と目が合って、俺を見て浮かべた粘りつく様な笑みがそんな希望を吹き飛ばした。
「私も好き!」
そう聞こえた時には、俺の世界全部が衝撃に襲われた。
気が付くと、俺は病院に居た。
知らない天井だと思って身を起こすと傍らに医者と両親が居た。
どうやら命は繋ぎ止めた様だと分かった時には、母親に泣かれて、父親に馬鹿野郎と言われながら思いっきりしばかれて、母親に殴られた。
どうやら俺が飛び降りた先には、急遽集められたクッションやら布団やらが敷き詰められていたらしい。クッションに落ちた俺はほとんど無傷で、軽度の脳震盪で気絶していただけだと告げられた。皆さんに感謝しろとまたぶたれた。言われるまでもなく、感謝した。
両親は仕事をそっちのけで、徹夜して傍に居てくれた様で、警察から聞いたという顛末に関してしばらく説教してくれた後、父親は最後にもう一度凄まじい声量で馬鹿と発してから、仕事に行った。母親は漫画を控えろゲームを控えろと小言を言って、俺がはいはい答えていると、不満をこぼしつつも安心した様子で仕事に向かった。どうやらフィクションに浸りすぎておかしな行動を取ったと思われたらしい。漫画を捨てろとまでは言われなかった事に心底安堵した。
漫画が捨てられなかったのは良しとして、警察の話していたという事の顛末が問題だった。
母親と入れ違いに担任が入ってきて、何時間か学校生活や家庭、友人関係の事を尋ねられ、途中やってきた警察と三者面談に発展し、疲れた様子の担任とほっとした様子の警察が帰った直後、入れ替わる様に、友達がやって来た。
「よう、ヒーロー」
一人はそんな事をのたまい。
「爆発しろ」
もう一人はそうのたまった。
「かー、愛を証明する為に飛び降りるとか青春だね。かー。お前は裏切らないと思ってたのに」
「爆発しろ」
どうやらそういう事になったらしい。
あの女への愛を証明する為に飛び降りたのだとか。
否定しても照れ隠しと思われ、信じてもらえたとしても飛び降りの理由を語らねばならず、語れば女がやってくる様な気がして、もうあの女と関わりたくて、俺は誤解を受け入れる事に決めていた。
「もう学校中で噂になってるぞ」
「爆発しろ」
友達がとても嫌な事を教えてくれた。
俺が心の中で、噂は二ヶ月半で消える、二ヶ月半で消えると念じながら、少し絶望的な気持ちになっていると、突然友達が素っ頓狂な声を上げて、俺の肩を叩いた。
「お、噂をすればお姫様だよ、くそったれ」
「マジで爆発しろ」
勿論、こちらが語る語らないに関わらず向こうはやって来る訳で、病室の入り口には女が立っていた。俺と目が合うと笑った。
楚々とした儚げな笑みだった。
俺達の見守る前で女は背筋に棒でも挿している様に整った立ち居振る舞いでこちらへと歩み寄り、俺に一礼し、それから友達にも一礼してみせた。
今この場でたった二人の味方であった友達は急に慌てた様子でぐにゃぐにゃと変な動きになりながら、よたよたと病室から出ていった。流石に女の子慣れしていないだけはある。最後に友達は、顔だけこちらへ向けて、ぱくぱくとヘドロの下から泡の湧いている様な口の動きで何かを伝えてから姿を消した。何を言っていたのかは下らないから省く。
「元気みたいで良かった」
女に目を戻す。丁度目の前に胸があって、文字の書かれた長方形の紙がテープで張り付けられていた。西村繭と書かれていた。名札のつもりなのだろう。
ああ、成程と思う。誤解はそこから来たのかと。多分もう覆せない。
「それで、私と付き合ってくれますか?」
無理だろう。
ここで断る事は出来ない。
もう言ってしまったんだから。
例えそれが誤解であろうと。
責任を取るしかない。
多分これがエンディングを決める最後の選択肢。
「良いよ。付き合う」
女が安堵した様子で肩の力を抜いて、胸に手を当てた。その様子だけ見ると可愛らしかった。
ふと女のネームプレートに違和感があった。よくよく観察すると、繭の漢字の虫の部分が、虫では無く縦に並んだ二つのバツ印である事に気が付いた。
「それいつから付けてたの?」
俺がネームプレートを指して尋ねると、女が首を傾げて答えた。
「これは今日の朝だよ? あ、でも似た様なのは昨日、本宮君がビルから落ちた後に、すぐ作って貼ってたけど」
そう答えた女は胸の紙を剥がして丸めて屑籠に投げ入れた。
その行為を咎める事に意味は無い。
もう言ってしまったんだから。
女はベッドの横の丸椅子に座って、深々と頭を下げてきた。
「それでは本宮壱人さん、私西村一葉、ふつつか者ですが精一杯尽くさせていただきます」
そう言って、顔を上げ笑った。
「ねえ」
粘りつく様な笑みだった。
急に現実感が無くなって、夢の中に堕ちた様な心地がした。