無常の空 3
3
女は美しかった。
町は暗闇、ネオンの色とりどりが鮮やかに妖しげに夜をくり貫き、女の白いふくらはぎが幻想のように揺れる。
長い黒髪は、足を踏み出すことにふわり、ゆらりと闇を舞い、毒々しい赤いヒールに肌が透けた白いベビードール、黒目がちの目をわずかに細め、喘ぐように厚い唇を開く。酔っているのかなんなのか、おぼつかぬ足取り、左右へふらふらと揺れながら、時折壁にふともたれかかって息をつけば、男ならずとも立ち止まる。
暮夜の町も町である。
散々に酒を呷った男たち、生活に倦み、日常から非日常へ、現実から幻想へと移ろう彼らが闊歩する町で、女の立ち姿はあまりに扇情的すぎた。
「なんだ、姉ちゃん、誘ってるのかい?」
「やめとけ、やめとけ。美人局さ」
下卑た笑み、息づかいからは酒が匂い、男たちはからかうように女のそばを過ぎていく。女はまるで苦しむように眉をひそめ、その姿を見送って、また別の男へ視線を送った。
射止められたのは、黒髪の、この町においては幾分かまじめそうな青年であった。
「大丈夫ですか、気分でも悪いのですか?」
青年はあくまで女を気遣うようにするすると寄ってきて、女に触れたものかどうか迷うよう、しかしその視線は豊満に膨らんだ胸元へ、あるいは透けたレースの下に見える下半身へ向けられている。
女は青年を見上げた。ひしとすがるような、佞媚の視線に青年がさっと顔を赤らめる。すかさず女は青年の手をとった。
「どこか、静かなところは知りませんか。ひとがこないような――」
「では、いっしょに行きましょう」
手と手を重ね、ふたりはネオンの毒々しい色から逃れるように町の裏手へ行き着いた。
導くのは青年である。土地勘があるのか、街灯もない暗い道をするすると進む。町から離れ、裏路地へ、さらにその奥へと進む。やがてビルとビルのすき間、室外機がうんうんとうなりを上げる行き止まりまで行き着くと、青年は女を壁に押しつけ、強引に唇を奪った。
身体をまさぐり、やわらかな胸に触れ、あるいは下着のなかへ手を差し入れれば、女も甘い息を漏らす。
ベビードールも淫らに、肩紐が外れ、白い胸が闇に浮き出す。青年は慌てたようにベルトを外し、ズボンを下ろして、女の身体を抱いた。
「あっ――」
と女がか細く喉を震わせるのと、青年が深く息をつくのは同時であった。
女は青年が股のあいだに身体を入れやすいように片足を上げ、その足で青年の腰をしかと捕まえる。両腕を首に回し、やがてもう片方の足も上げ、両足で青年にすがりついた。
青年はがむしゃらに腰を振る。女は艷めいた嬌声を上げる。ふたりの下半身はどろどろと溶け合い、どちらがどちらのものかわからぬほど熱くなる。
やがて青年が、あっ、と声を上げた。
女はうふふと微笑む。
「もう遅いわ――忍法、狂尽蝋」
溶け合っていた下半身が、文字どおり、ぬらぬらとした泥のようなものに変質している。女の足は形を失い、青年の下半身に絡みつき、その背中から青年をがっちりと押さえ込む。
なにか異様なことが起こっていると、青年は自分の身体を見下ろして思うが、それでも腰を止められぬらしい、荒い息に、快楽の声が混じる。青年は泥と化した女の下半身に喰われながら、それすら快楽であると認識していた。
「変だ、おかしい、妙だな――」
青年はぽつりぽつりと呟くが、美しい毒婦の姿はどこにもない。ただ月夜にきらめくような白い泥が青年にまとわりつき、腰のあたりから、ごりごりと音を立てて咀嚼していく。
血の一滴もこぼれ落ちない。白い泥は青年のすべてを咥え、飲み下す。肉を裂き、骨を砕き、血を啜り、臓腑を食いちぎって、それでも青年は悲鳴ひとつ上げず、快感をぐっと堪えるように眉をひそめ、暗い空を見上げた。
その頭が、ごろんと地面に転がるまでそう長くはかからない。首から下をすべて食べ尽くし、白い泥は汚れた地面を這って、男の頭を飲み込んだ。白い泥のなかでもぞもぞと頭が咀嚼され、やがて泥はぬっと空へ伸び、細くそそり立って、美しい女の姿に変わる。
女は赤いヒールを鳴らし、厚い唇をぺろりと舐めた。満足げに微笑む姿はぞっとするほど美しいが、同時に直視できぬいびつな姿にも見える。と、そこに、
「悪趣味だな」
と男の声、女はちらとビルの上を見上げ、
「そんなところから覗き見するあなたほどじゃないわ」
「おまえに与えた任務は、男を手当たり次第に喰らえというものではなかったはずだが」
「あら、ただの食事よ、いまのは。それとも食事まであなたの命令に従わなきゃいけないわけ? 全権を与えられているかなにか知らないけど、わたしはあなたの部下じゃない。仕事以外のことに口を出さないでちょうだい」
「仕事をきっちりと実行するなら文句はないがな」
「できないとでも言うつもり?」
女はビルの上から見下ろす男に白い歯を剥く。
「男ひとり殺すくらい、なんてことないわ。相手が何者であろうと、男である以上、わたしの魅力に惹かれない者はない。跡形もなく食べてあげる」
「忘れるなよ。おまえの任務は賀龍新蔵を殺すこと、そして秘術が記された巻物を奪うことだ。飯を食いたいなら、そのあとにしろ」
「ふん、えらそうに」
女は鼻を鳴らし、男の気配は消える。
そして女はまた夜の町へ戻り、女郎蜘蛛のように、そのきらびやかな身体の下、醜悪な本能を隠して罠を張る。
この夜だけで五人の男がこの町から消えた。
*
明るい夜だ。
数えきれぬ電球、路上に突き出された看板には景気のよい文字が踊り、客引きの声も盛んに、雑踏は止まない。
賀龍新蔵は夜の町に潜んでいた。
というのも、この町では、むしろすこし怪しい男のほうが目立たずに済む。あたりを見回せば、堅気ではない雰囲気の男たち、あるいは酒とは別のもので酔っているような男や女、怒鳴る声やけんかをはやし立てる声は日常茶飯事のこと。
都心からはすこし離れた町の、そのなかでもとびきりに治安が悪い地域こそ、世間に堂々と出ていくことができない人間たちの楽園なのである。
新蔵は、酒もやらなければ薬にも興味はなかったが、十人十色、すぐとなりにいる他人とも目を合わせないようなこの町の雰囲気が気に入って、高校生のころから通っていた。いわば顔見知りであり、すこし歩けば、古い客引きなどにはすぐ声をかけられる。
「今日はひとりかい。なんなら寄っていくか?」
「どうせぼったくるんだろ?」
「当然さ。ここじゃそれが正規の値段なんだから」
客引きの男はけらけらと笑うが、その歯は何本か欠けている。新蔵は店の前をすぎ、どこを目指すでもなく、ぼんやりと歩いた。それが女を探しているように見えるらしい、顔見知りでない客引きや、ほとんど下着姿の女がするりと寄ってきて、そっと肩や腕に触れ、新蔵を誘ってゆく。
普段なら、そんな誘惑に乗ってみるのもいいと思える新蔵だが、今日はとてもそんな気分にはなれない。それよりも寝床を探すのが先と、手頃なホテルを探してうろつけば、荒れた町の外れ、魑魅魍魎が潜むようなビルの影に、白い布がひらりと消えるのを見た。それに男たちの荒々しい靴音が重なる。
「やめてください、やめて――」
か細く鳴く声、嫋々と響くが、それを何人かの男たちの低く笑う声が易々と切り裂いてゆく。
知らぬふりをしようか、新蔵はよほど迷ったが、気づいてしまった手前、このまま通り過ぎるのも気分が悪い。
はあ、とため息をつき、新蔵はビルの影をひょいと覗いた。
街灯の光も差し込まぬ狭苦しい路地に、女の白い裸体がぼんやりと浮かんでいた。
衣服は裂かれ、かろうじて腹のまわりに引っかかっているという程度、白く丸く膨らんだ胸やくびれた腰が、絶妙な曲線を作る太ももや足首が、闇のなかにひらめいた。男の大きな手が女の胸を掴み、女は首を振る。黒髪がぱっと散り、細い腕は白刃のよう、三人の男はハイエナのように女の裸に群がっている。
白く産毛の揺れる女の頬を、男の舌がべろりと舐める。嫌がるような素振りすら色気を放ち、手のなかで胸が潰れ、足をぐいと持ち上げられれば、秘められたる場所もあらわに。
美しい女だった。新蔵もそれを認めたが、同時に異様なほどの美しさが不気味で、一瞬立ちすくむ。
そのあいだに女が新蔵に気づいた。ちらと視線を向けると同時、男たちも気づいて、緩みきっていた顔をこわばらせる。
新蔵は仕方なく、言った。
「楽しそうなことしてるじゃねえか。おれも混ぜてくれよ」
「なんだよ、おまえ――」
問答も面倒とばかり、近くにいた男が新蔵に殴りかかる。それをするりと躱し、新蔵は印を結んだ。
「忍法、縛奏の術」
「忍法だあ?」
と小馬鹿にしたように笑ったのもつかの間、男たちはぴたりと動きを止めて、互いに顔を見合わせた。
「おい――どこ行きやがった?」
「上だよ」
新蔵はビルの壁にすくと立っていた。重力の方向が変化したような、地面に対して垂直に立っている新蔵に、男たちは呆けたように口を開ける。
新蔵はぱっと壁を蹴り、飛び降りると同時に男の首を足で挟み、身体をくるりと回す。一八〇センチはあろうかという男の巨体が宙を舞い、壁に激しく叩きつけられ、埃が舞い上がる、そのなかを新蔵は駆けた。
残りのふたりは、鳩尾に一撃と、後頭部に一撃ずつ、瞬きするひまもない。その証拠に、どすんと音を立てて男たちが倒れるのはまったくの同時であった。
悪漢を成敗するというのはあまりに一方的な状況、新蔵は息も切らさず、意識のない男たちを一ヶ所に集め、ぽいと路地に放り出した。
「あの――ありがとうございました」
女は、白い裸体を闇に浮かび上がらせ、胸を腕で隠しながら頭を下げる。新蔵は頭を掻きながら、
「服は、どこかに捨てられたのか? まさかそんな格好で夜の町を歩いてたわけじゃないだろう」
女が身に着けているのは、腰まで引っ張り降ろされた下着じみたベビードールだけだった。
「すこしここに隠れてるか。おれがなんか着るものを探してくるから」
「でも」
「いいんだ、大したことじゃない。その代わり」
新蔵はにやりとして、
「連絡先でも教えてくれよ」
「まあ」
と女はよくできた笑みを浮かべる。
「それなら――いまここでしたほうが、手っ取り早いですわ」
女は両腕を広げ、新蔵にふわりと抱きついた。
直立し、動かない新蔵の首に腕を回し、指先で後頭部を撫でながら、ゆっくり身体をすり寄せる。胸と胸が、腰と腰がこすれ合うと、女は新蔵の耳元に甘い吐息を吹きかけた。
「いい男ね。女にやさしくて、気取っていなくて」
「そうでもないさ」
と新蔵は肩をすくめる。
「おれは女と見ればだれでも誘うし、たまには気取ったことも言うんだぜ」
「聞いてみたいわ。わたしを誘って」
「あんたみたいにいい女なら、そりゃ誘うだろうが――しかし女忍者ってのは火遊びするには危険すぎる相手だろう」
女は新蔵の肩を押し、身体を離そうとするが、まるで足が縫いとめられたかのように動かない。はっと見下ろせば、白い足首に灰色の植物が巻き付き、それがいましも蔦を伸ばして足全体を固定しようとしているのである。
新蔵は女から身を離し、壁にもたれ、にやりと笑った。
「まさか、普通の人間相手に忍術なんて使うかよ。これはちょっと発動までに時間が必要なもんでね、一芝居打たせてもらった」
「はじめから気づいていたのか?」
女はかろうじて動く腕を振り回すが、新蔵に届くはずもない。そうしているうちに蔦は太ももから腰へ、そして腕まで到達し、信じがたい力で女の全身を押さえ込んだ。
「それがあんたの本当の顔か知らないが、あまりにもできすぎてる。おれを騙すんなら、もっと素朴な顔に寄せたほうがよかったな。しかしこうして見れば、なかなかの光景だ」
女は白い裸体に灰色の植物を着ている。やわらかな肉は締めつけられ、胸の膨らみは強調されて、マネキンというにはあまりに扇情的、女は唇を噛む。
新蔵は暗闇に身を沈めながら、
「別になにをする気もねえから、安心しな。ただ聞きたいことがあるんだ。おれを狙うのは、秘術のせいだな。ってことは、おれが秘術を受け取ったってことがばれてるんだ。親父は――死んだか」
「ふん、知らないね」
そっぽを向く女に、新蔵がぱちんと指を鳴らせば、蔦が動いて女の顔を正面に向かせる。
「質問を変えよう。あんたは、兄貴の――賀龍高志の仲間か?」
「もしそうだとして、素直に言うと思うか」
「まあ、はじめから期待しちゃいないが。しかし兄貴が動いてることはたしかだ。それなら、必ずおれを襲いにくるはずだ」
再び新蔵が指を鳴らした。すると蔦はするすると萎え、枯れて地面に落ちる。身体の自由が戻った女はすかさず飛びかかったが、新蔵はすでにビルの屋上へ飛んでいる。
「あんたを生かしておくのは情じゃない。戻って、兄貴に伝えろ。おれは奈良に行く。もし秘術がほしけりゃ奈良までこいってな。場所は、馴染みのある例の場所だ」
「例の場所?」
「兄貴にそう言えばわかる」
見上げる女に、わずかな笑みを投げかけて、新蔵は夜の町に消えた。女は舌打ちし、裸体を隠そうともせず苛立たしげにあたりを歩きまわって、やがて姿を消した。
白いベビードールが、ふわりと宙を舞っていた。
*
女は高志に報告する気などさらさらなかったが、苛立ちのまま男を襲って「食事」をしているところに、いやに落ち着いた、感情のない声が近づいてきた。
「新蔵を殺せなかったようだな」
女は、まだ名前も知らぬ男の生首を抱えたままだったが、それを地面に投げ捨て、広がる血溜まりをヒールで踏みながら路地をさらに奥へと進んだ。
声はぴたりと後ろをついてくる。
「秘術も奪えず、若い忍者ひとりも殺せず、腹いせに男漁りとは、つくづく使えん」
「黙りなさい!」
耐えかねて女が振り返ったところ、あるのは闇だけで、それがぬるりと動いたかと思えば、首筋に冷たい刃物の感触、いつの間にか後ろへ回った高志は、首筋と心臓を同時に狙っている。
「黙らなかったらどうするというんだ。おれを殺すか? その体たらくで、おれを殺せるなど、幻想も甚だしい。なるほど、新蔵がおまえを殺さなかった理由がわかる。おまえには殺す価値もない」
「嫌味なところがそっくりな兄弟だ――奈良へ行くと、それをあんたに伝えろと、あの男は言っていた」
「ほう、奈良へ」
高志は闇のなかに表情を隠し、すぐちいさくうなずいた。
「新蔵も秘術についてある程度は知っていたか」
「秘術ってのはなんなのさ。それほど大したものなのか」
「おまえたちの飼い主が言うところの、強大なる武力さ。伝言ご苦労だったな」
ふと背後から高志の気配が消えた瞬間、女の身体を数百という数の、目に見えぬほど微小な針が貫いた。女の身体は闇のなかでびくんと震え、目を見開く。やがてその身体中から細く真紅の血がぴゅうぴゅうと吹き出した。まるで女体を象った噴水のように、あたりを血で染め上げながら、女は地面に倒れ伏す。倒れても血は止まらず、生ぬるい血液があたりに充満し、闇のなかで黒く光った。
高志はすでにその場を離れ、ビルからビルへと飛び移っている。その影はひとつではなく、後ろからもうひとつ、高志を追って移動する人間があった。
「おれは島田へ報告する。おまえは、すぐに新蔵を見つけ出せ」
高志が言えば、後ろから追う影はぴたりと立ち止まった。
青白くやわらかな月明かりに照らされる輪郭は、若い女らしい、丸みを帯びた頬に、短く切った髪、憂いを含んだ目が、高志の背中を追っている。
「任務に背けばどうなるか、わかっているだろう。まあ、おまえに新蔵を殺せるとは思わんがな」
「わたしは――」
女の反論を聞く前に、高志の姿は声が届かぬほど遠ざかっている。
女はうつむき、息をついて、その場を離れた。