無常の空 2
2
雨はすっかり上がったが、濡れたアスファルトは黒々光り、なにやら深い沼のような雰囲気すら漂わせて、いまだ薄曇りの空から差し込む光を受けている。
賀龍家は東京郊外、都会よりは田舎に近いような町の住宅街にぽつりと建っていた。
外見は変哲もない一軒家、二階建てで、表札には堂々と賀龍の文字、用をなさない飾り門の奥には自転車が置かれ、郵便ポストには新聞の夕刊と広告が顔を出している。雨のあとに入れられたらしく、濡れてはいないそれを賀龍新蔵は抜き取り、飾り門を開けた。
錆びた鉄の蝶番がぎいと鳴る。と、そのとき、玄関の扉が恐ろしい勢いで開いて、なかから人間大の黒い玉が飛び出してきた。
「うおっ――」
かわすのも間に合わぬと察した新蔵、柔軟に身体をのけぞって、黒い玉をぐいと抱えて勢いそのままに後ろへ投げ飛ばす。そのまま濡れた地面にべちゃりと倒れる新蔵の後ろ、黒い玉は空中でさっと展開され、人影となって、民家の塀から電柱の上へ、目にも止まらぬ速さ。
新蔵が腰を抜かしたように座り込むのに、電柱のてっぺんにすくと立つ人影は意外そうに目を剥き、
「なんだ、新蔵か?」
「親父、てめえ、訪問者を無差別に攻撃してるんじゃねえだろうな」
「その口の悪さは新蔵だな。ならばわしの一撃を避けたも道理。しかし情けない格好よ」
飄々と笑うその男、口ひげを蓄え、年は五十をすぎたころ、身は小柄で禿頭、目元はやさしげだが、すっと細められればたちまちひとを射殺すような鋭さに変わる。
新蔵の父、賀龍一翁である。
電柱からひょいと飛び降りれば、新蔵も起き上がり、新蔵が高校のころに家を出てから五年ぶりの再会というところ、しかし挨拶もとくになく、
「まあ、入れ」
「おう」
と揃って家のなかへ。
新蔵が男のひとり暮らしなら、母親のいない賀龍家も一翁のひとり暮らしだが、室内には雲泥の差がある。居間に入っても脱ぎ散らかした服など一枚もなく、廊下は磨かれ、襖の桟にも埃ひとつない。
「相変わらず、主婦みたいなことやってんな」
「掃除が趣味なんだ。親の趣味にけちをつけるな」
「けちつけちゃいねえが」
「おとなしく座っていろ。いま茶を出す」
と一翁がキッチンへ消えれば、新蔵は居間でひとりきり、ふんと鼻を鳴らしてソファに座る。
どこからどう見ても普通の一軒家、これが忍者屋敷というのだから世の中もわからない。
もっとも、この家にはいわゆる「仕掛け」はひとつもない。だれかが攻めこんでくるわけでもなし、そもそもそのようなものが必要なほど老いぼれてはいない、というのが一翁の弁、新蔵は出会い頭の一撃で、父親がまったく変わっていないことを理解している。
わが子に、まるで人権を無視した忍術訓練を施した悪魔のような男、賀龍一翁のままなのである。
それでもきらいきれないのは、やはり血筋のせいかと新蔵が頭をかいているところ、一翁が戻ってきて、机に湯呑みをふたつ置いた。新蔵は湯呑みの水面をじっと見つめ、それからぐいと顔を上げて、
「毒入りじゃねえだろうな」
「もうおまえたちには充分耐性ができて、毒など効きやせん。普通の茶だ」
「ふむ。好きで耐性がついたわけじゃねえけどな」
ごくりと一口飲み下せば、一翁はにやりと笑って、
「おまえはどうもひとの言葉を信用しすぎするな。おれがおまえを殺す気なら、いまごろ泡を吹いているぞ」
「甘いぜ、親父。おれは親父の心まで読んで飲んだんだ。殺す気がありそうなら飲むかよ」
「なら、やはりわしのほうが一枚上手のようだ」
一翁は机の上に黒い丸薬をひとつ転がした。
「五分以内に飲んで中和しないと死ぬぞ」
「親父、てめえ」
と新蔵は慌てて丸薬を飲み下す。一翁はけらけら愉快そうに笑った。
「その丸薬こそ、本当の毒薬よ。成分は弱くしてあるから、おまえには効きはしないだろうがな。おまえはもう一度訓練をし直したほうがよさそうだ」
「ほんとに変わらねえな」
苦虫を噛み殺したような新蔵、湯呑みをぐいと遠ざけて、ソファにぐったりともたれかかる。
「おまえも相変わらず甘い」
一翁は腕組み、厳しい表情を見せる。
「そんなことで下辻忍者が務まるか。よいか、新蔵。忍者というのはだれも信用してはならん。ただひとり、これと定めた主君のほかは、親兄弟であろうと信用してはならんのだ。その覚悟がおまえにはない。いつか足をすくわれるぞ」
「おれは普通の大学生だ。忍者じゃねえし、そもそもこの時代に主君なんて。どこかにお殿さまがいるってのか?」
皮肉っぽく言うのに、一翁は表情を変えず、
「だれを主君と定めるかはおまえの自由だが、この時代だからこそ忍者は有用されるのだ。一時代、忍者は有名になりすぎた。本来忍者とは忍ぶ者、世の影に潜む者だが、忍者といえばだれもが知るような世の中では、むしろ忍者など無用の長物よ。それが現代、伊賀甲賀、あるいは戸隠が尽力し、わざと表舞台へ派手派手しく出てゆくことによって、忍者を架空の存在に仕立てあげた。だれでも忍者という存在は知っているが、現代に実在しようとはだれも思わぬ、そういう世の中がきている。忍びは再び世の影へ落ち、密かに暗躍するのだ。われら下辻忍者も例外ではないぞ」
熱っぽく語る一翁に、新蔵はうんざりした顔で心もなさそうにうなずいて、
「なんにしても、おれは忍者にはならねえ。忍者は兄貴と親父でがんばってくれよ」
「おまえは、まだそのようなことを言うか」
「昔から言ってるだろ。おれは忍者になんかなりたくねえんだ。でもまあ、いまはそうも言ってられねえんだが」
「おまえも襲撃を受けたか」
一翁が言った。
新蔵はちらと視線を上げ、
「親父もか」
「そうでなければ、相手も確かめずに攻撃するか。いままでに三人、秘術を求めてどこぞの忍者がきた」
「おれのところにはふたりだ。それで――女を殺された」
「ふむ」
わずかに視線を和らげて、一翁は新蔵を見た。その目つきはやはり親子を思わせるものであった。
「それほどの手練だったか」
「いや、大したやつじゃねえ。おれが油断したんだ。相手はひとりだと思い込んだ」
「失敗はだれにでもある。取り返しがつかぬ失敗もな。しかし幸いおまえは生きている」
「ああ。どこのだれだか知らねえが、復讐するつもりだ」
新蔵の目に苛烈な炎が灯る。それが身を焼き、やがて心を焼きつくすものと知ってはいても、抑えきれぬものもある。
一翁はちいさくうなずいた。新蔵はふと表情をゆるめ、
「おれのところにきた連中も秘術がどうとか言ってたぜ。下辻忍者に伝わる秘術、だったかな。そんなもん、本当にあるのか?」
「ある」
深く一声、一翁はうめくように言った。
「まさに秘術、門外不出の術だが、たしかに下辻忍者の頭領が代々受け継いできた術は存在する。連中、どこでそんな話を聞きつけたか知らんが、狙いは間違いなくそれだろう」
「おれですら聞いたことねえのに、なんで外に知れてるんだ」
「さて――まあ、推測はつくがな。おまえに話さなかったのは、おまえの態度のせいだ。子どものころから忍者にはならんと言い張っていただろう。秘術ゆえ、下辻忍者を継ぐ者にしか話すことはできんのだ」
ふん、と新蔵は鼻を鳴らし、腕を組んだ。
「じゃあ、いまのおれには教えられねえってことか。まあ、いいさ。秘術なんてもんには興味もない。ただ、それを探してる連中のことを教えてくれよ。だいたい推測はついてるんだろう」
「ならん」
と一翁の声も厳しく、かっと眦を決して新蔵をにらみつけた。
「な、なんでだよ」
新蔵がその迫力に身を引けば、一翁は不動明王じみた形相、顎を引き、ちいさな身体からちりちりと焼けつくような殺気を四方に散らす。
「おまえがただの男として生きていくというなら止めはせん。忍術を捨てて生きるというなら。しかしおまえは忍術をもってことを成そうとしている。それはすなわち忍者として生きるということ。一度忍者になった者が、ただの人間に戻れるはずもない。強大な力を持った忍者だからこそ、おのれで律し、厳しく管理せねばならん。おまえは忍者として生きる覚悟を持っているのか。そうでないなら、復讐など諦めて、ただの人間らしく暮らせ」
「待てよ、親父――おれは忍者なんかごめんだ。だから普通の人間として生きてたんだ。なのに、秘術だかなんだか知らねえが、連中に全部ぶち壊されたんだぞ。なのに復讐もするなっていうのか。やられたまま、泣き寝入りするしかねえっていうのか」
「人間なら、そうだ。しかし忍者として生きていくと誓うなら、忍びの法でもって相手を裁くがよい。しかし忍びの世界へ飛び込む以上、普通の生活などという幻想は捨てるしかないのだ」
新蔵は拳を握った。一翁をにらみつけ、激しく殺気をぶつけるが、一翁はびくともしない。
忍びがいかに危険な存在か、それは新蔵にも理解できる。忍びとは人間の形をした化け物のようなもの、社会に紛れ込んでよいものではない。彼らに社会の法は効かず、だからこそ忍びの法でもって縛りつけるしかない。野放しになった忍びは、どんな大量破壊兵器よりも平和を脅かす。自分は忍術を悪用しないと誓っても、隣人がそれを信じるとは限らないかぎり、自分自身にもまた、鎖を巻きつけなければならないのだ。
はあ、と新蔵はため息をついた。
殺気が消え、一翁も肩から力を抜く。
いっときは何十メートルあるのかと思えた身体が、もとの老いたる小柄な男に戻る。
「わかったよ。おれは忍者になる。忍びの世界で生きていく。これでいいんだな」
「決して約束を違えるなよ、新蔵。もしおまえが忍びの法から外れることがあれば、抜け忍としてこのおれが始末することになるぞ」
「ああ、そうかい、わかったよ。悪巧みは親父が死んでからにする」
「ふん、何年後になるか――すこし待て」
と一翁は席を立つ。
新蔵が湯呑みに入った茶をぼんやり眺め、本当に毒入りではないのかと水面を揺らしているところ、一翁が戻ってきて、机に巻物をひとつ置いた。
唐草模様の、いやに古い巻物である。
「なんだい、こりゃあ」
「秘術だ。連中が探しているものだ」
「へえ――術ってからには技かなんかだと思ってたけど」
「この術は特殊なんだ。決して会得してはならん。一種の禁術といってもいい。失われてはならんが、使用することも許されない」
「大仰だな。しかしこんなもんをほしがってひとを殺す連中がいるんだな」
「ものの価値などひとそれぞれだ。下辻忍者は代々この術を守り、受け継いできた。新蔵、この巻物はおまえが持て」
「おれが?」
新蔵はぐいと顔を上げ、訝しげに一翁を見た。
「親父は、どうするんだ」
「世代交代だ。老いたおれより、おまえが持つほうがいいだろう」
「じゃあ、兄貴に渡すべきだろ。兄貴のほうが忍術も得意だし、性格も向いてる」
「いや、高志はだめだ」
と一翁はわずかに寂しげな顔で首を振った。
「あいつは、もう下辻忍者ではない」
「なんだって? まさか、兄貴のやつ、死んだのか?」
「逆だ。おれやおまえに刺客を送った張本人が高志だろう」
まさか、と笑いかけた新蔵は、途中でぐっと言葉に詰まった。
新蔵と高志は、子どものころから仲のよい兄弟ではなかった。幼いころは一翁の訓練によって毎日のように殴り合いをしていたし、成長しても雑談をするような仲にはならなかった。忍びを嫌い、早々に家を出た新蔵とはちがい、高志は最後まで一翁のもとに残っていたはずだが、新蔵が家を出る前日、高志と交わした会話が忘れられず頭に残っている。
兄貴もこんな家さっさと出て行けばいいのに、と言った新蔵に、高志は笑いながら、こう答えたのだ。
「おれもいつかは出ていくさ。愛着があって家に残るわけじゃないんだぜ。得られるものを全部得たあとは、用済みだ」
冗談ではなさそうな、ぞくりと寒気を催すような高志の笑顔であった。
高志がなにを考えているのかは知らないが、訓練になれば容赦なく新蔵を攻め立てた性格を考えれば、親兄弟と敵対することを躊躇する高志ではない。
新蔵は唇を噛む。高志が敵の本丸なら、薫を殺したのは、その指示を出したのはほかならぬ高志ということになる。兄貴がやったんだ。兄貴がおれを殺せといったせいで、その場に居合わせただけの薫が死ぬことになった。
「恨む敵が兄と知り、覚悟が鈍ったか」
一翁が問うのに、新蔵は首を振った。
「別に、兄貴だろうがなんだろうが知ったことじゃねえ。たしかに、知らねえだれかよりは引っかかるけど、それだけさ」
「では、おまえには別の任務も託そう。下辻忍者として、抜け忍である高志を討て。高志が持つ下辻忍者の忍術、あるいは体術を流出させてはならん」
「悪いが、親父、おれは忍者同士の縄張り争いには興味がねえんだ。薫を殺したやつを始末する、それだけだ。秘術なんてのも、そんなにほしいならくれてやればいいだろ。後生大事にするようなもんなのか。どうせ禁術、使えやしねえんだろう」
「たしかに、ほとんどは忍者同士のくだらん縄張り争いかもしれん。しかしそれが伝統というものだ。それにな、この秘術に限っては、単なる縄張り争いでは収まらん。どの流派の忍者であれ、決してこの秘術を使用してはならんのだ」
「なんだい、使えば世界が終わるとでもいうのか」
からかうように新蔵は言ったが、一翁は笑みひとつこぼさず、顔に深い皺をたたえたままうなずいた。
これには新蔵が拍子抜けで、
「おいおい、ほんとにそんな大事なのか?」
「世界が終わる、といえば大げさかもしれんが、だれの手にも負えぬ災害になることはたしかだ。とにかく、だれもこの秘術を使用してはならん」
新蔵は机に置かれた巻物を見た。その古ぼけた、ともすれば不要なごみと間違えて捨ててしまいそうなそれが、凄まじいまでの厄災の元凶だとはまだ信じられずにいる。
「それならいっそ、こんなもん受け継がないで捨てちまえばいいんだ。焼き払うとか」
「そういうわけにもいかん。正しい手順でもって扱わなければ、だれかが意図的に使用するのと同じ状況になる。だれの目にも触れさせず、管理していくしかない。その役目をおまえに託す」
「おれがこのなかを見て、術を使ったら?」
「秘術を託した時点でこれはおまえのものだ。意味が理解できるなら、好きにするがよい」
「ふむ、なるほど」
巻物を取り上げ、手のなかでくるくると回した新蔵は、ひとまず懐へ入れた。一翁はその様子をじっと見つめて、
「秘術目当ての連中が、これからもおまえを襲うだろう。気をつけろよ」
「なんだ、心配してるのか? ガキのころは人間の皮をかぶった鬼だと思ってたが、年をとって丸くなったのか」
「ふん、そうかもしれんな」
と一翁もやわらかく笑う。
「兄貴は、この秘術を狙ってくるんだな。ってことは、こっちから探さなくても向こうから奪いにくるってことだ。落とし前、つけさせてやる」
新蔵は拳を握り、立ち上がった。
居間を出ていくその背中、一翁はふと思い出したように、
「新蔵」
と呼び止める。
「ん?」
振り返った新蔵には、一翁の姿が妙にちいさく、また頼りなく見えた。
「奈良へ行け」
「はあ?」
「奈良に下辻神社という神社がある。そこの神主、あるいは巫女と会い、その秘術を見せるがいい。なにか展望が見えてくるかもしれんし、こんな町中で戦うわけにもいくまい。場所は、子どものころに行った山の麓だ。覚えているな」
「そりゃあ、忘れようにも忘れられるか。だれが五歳児を山のなかに放り込んで一月生活させるよ」
「その分、強くなったろう?」
にやりと一翁が笑い、新蔵は頭を掻いた。そのとおりといえばそのとおりだが、釈然とはしない。
しかし、と新蔵は顔を上げ、
「奈良か。とりあえず目的地はあったほうがいいな。行ってみるけど、あんなところにひとなんか住んでたかな」
「特殊な神社ゆえ、参拝者は年にひとりもないはずだ。しかしいまも巫女がいる――ところで」
一翁は窓の外、申し訳程度の庭を見た。
「五人か」
と新蔵、一翁はため息で、
「六人だ。離れた位置にひとりいる。詰めが甘いぞ」
「ちぇ、親父には敵わねえな」
「おれが引き受ける。おまえは先に行け」
「へいへい。もう年なんだから、あんまり無理して死ぬなよ、親父」
「だれに言っている」
一翁も立ち上がり、ふたりは並んで玄関を出た。
家の前は幅三メートルほどの路地、真向かいには民家の塀があり、そこに人影がひとつ、ふたつ。
白いシャツにスラックス姿もいれば、ジーンズにTシャツという男もいる。覆面は示し合わせたように漆黒。振り返れば、家の屋根にもぽつりぽつり。
「賀龍一翁と賀龍新蔵だな。下辻忍者に伝わる秘術を頂戴したい。おとなしく差し出せば命は助けてやる」
覆面の下からくぐもったように言うのに、新蔵は一翁をちらと見て、
「だとよ、親父。どうする?」
「力尽くでこい」
くいと指を曲げ、一翁は男たちを誘った。
塀から空中へ、一斉に飛ぶ。同時に新蔵も駈け出している。男たちへ向かうふりをして、途中屋根を蹴って方向を変え、そのまま離脱していく。
「ひとり逃げたぞ」
「爺をさっさと片づけて追うぞ」
「近ごろの若い者は口だけ達者だ」
眉をひそめる一翁に、五人の男たちが殺到した。
一翁は両手で拳を作り、それをがしりと突き合わせ、腰を深く沈める。前後左右、さらに頭上から同時に襲いくる敵が、一翁の身体に触れた瞬間、まるで大砲でも食らったように吹き飛んだ。
異様に高まった一翁の体温、身体からは白く湯気が立ち上り、表情は鬼神のごとし、吹き飛んだ忍者たちを一瞥し、ふんと鼻を鳴らす。
「忍術を使うほどもない」
と、足元に鋭くくないが飛んだ。一翁は塀から電信柱へ。六人目の敵はひとつ離れた電信柱の上に立っている。
「ほう」
一翁は敵の顔を見て、ちいさくうなった。
「久しいな、高志」
「それほどでもないさ」
六人目の刺客、賀龍高志はにこりともせず、機械のように応えた。
空がさっと開く。ちょうどふたりの頭上に光が差し込み、まるでスポットライト、両者とも眩しい光にもすぐ目を慣らし、強い風が吹くなかで、電信柱のわずかな足場から微動だにしない。
「新蔵がおまえを探していたぞ。なんでも、おまえに復讐したいそうだ。新蔵の女を殺せと指示したのか?」
「いや」
と高志は表情のない顔をゆっくり左右へ動かし、
「新蔵の住処は教えたが、殺せとまでは言っていない。おれには指揮権もない」
「だれかに使われているのか。おまえらしくもない」
高志が裏切ったことより、だれかの手先になっているということが腹立たしいという顔の一翁である。高志はふんと鼻を鳴らし、
「あんたには関係のないことだ。秘術を渡してもらおう」
「ほしいなら力尽くで奪ってみろ。あんなものを手に入れて、おまえがなにをするつもりか知らんが、あの秘術は下辻忍者が代々受け継いできたもの、命に換えても守りぬく」
「そうか――では、ここで死ね」
「むっ」
相手が名もない三下ならともかく、高志ともなれば、勝つも負けるも一撃勝負、一翁は印を結ぶ。
高志が宙へ飛び、両手で印を切った。が、一翁のほうが一瞬早い。
「下辻忍法、体腔条」
白い光に照らされる一翁の身体が、さっと赤みを帯びた。かと思えば、その色が失われ、青白く、まるで死人のように皮膚が凝縮し体積そのものが縮んでゆく。
もとの身体の半分ほど、一翁の身体がちいさく縮みきれば、その身体は鉄に勝るほどの硬度を持ち、敵の白刃も跳ね返す。
高志は一翁の忍術を見て、空中でにやりと笑う。
「あんたのもとで忍術を学んだんだ。あんたがやりそうな術くらい想像がつく――外法、天誅撃!」
明るい空が、ちりと騒いだ。
青白い光が分厚い雲に走り、空気がびりびりと震える。
「外法か――」
一翁はさらに強く印を結ぶが、それよりも早く、空がばりばりと音を立てて裂け、青白い稲妻が風を焼きながら走った。
雷はまっすぐ一翁の立つ電柱へ向かい、あたりが青白い一閃に照らされる。コンクリートの電柱が衝撃に揺れ、罅が入り、ばちばちと音を立てて電線が切断される。
直撃を受けた一翁は、電柱がぐらりと傾くまま倒れ、あたりに蛋白質が焼けるいやな匂いが立ち込めた。黒焦げの、ちいさな炭のようになった一翁がどさりと落ちるのに、高志はもとに立っていた電柱へ戻り、無感動に見下ろす。
「下辻忍者らしく、おれがばか正直にあんたから教わった忍法で戦うと思ったか。あんたは甘い。先手をとっておきながら防御に徹する姿勢もそうだ――息子のおれが相手で、技が鈍るのを嫌ったか。実力なら、あんたのほうが上だろうが」
高志は電柱から飛び降り、全身を黒く焦がした一翁を足元に、足先で軽く蹴る。すると一翁の術が解け、身体の大きさが元どおりになるが、それで止まった呼吸が再開するはずもない、失われた命ばかりはどんな忍術でも取り戻しようがない。
父の死体を前に、高志の表情は変わらなかった。
やがて興味を失ったようにくるりと踵を返し、家のなかへ入っていく。秘術を記した巻物の存在は一翁から聞いている高志である。実物を見たことはないが、あるとすれば一翁が使っていた部屋のどこか、と考えていたが、ふと逃げていった新蔵の存在を思い出し、振り返って空を見た。
「やはり秘術は新蔵に渡したか。あんたによく似たあいつなら、秘術を託すに値すると考えたか――おれにはふさわしくない秘術も、な」
高志はにたりと笑い、軽く地面を蹴った。
まばたきのあいだに姿は消え、残された一翁は、無念の表情も浮かべず、ただ徐々に明るくなってゆく空を向いているのがせめてもの救い。
回復してゆく空模様の代わりに、風はすこしずつ荒れはじめていた。
*
「――どうです、島田先生、このあとすこしお時間でもあったら」
一年後輩の、いやにへりくだった議員が言うのに、島田は愛想のよい笑みを浮かべ、
「いや、すみませんな。実は前の検診で酒を控えろと言われてしまいまして、首輪をつけられているのですよ」
「それはまた、健康は基本ですからね」
「ちょうどよい時期以外体調を崩さぬのも政治家の務めですからな」
「はは、まったくで」
「では、今日はここらへんで」
会合が行われていたホテルの一室を出て、島田は絨毯敷の廊下を進む。すかさず秘書が寄ってくるが、無論会合の成果など聞きはしない。このあとに控える仕事を伝え、あとは二歩後ろ、足音もなくついてくる。
地下の駐車場まで、エレベーターを待つあいだに時計をちらと見れば、午後八時をすぎたところ。まだ仕事がふたつほど残っている。ネクタイをゆるめ、エレベーターに秘書とともに乗り込んだ矢先、
「報告にきた」
と声が響き、忍びの者など見たことがない秘書は文字どおり飛び上がるほど驚いたが、島田自身は慣れたもの、たしかにだれもいなかったはずの空間に現れた男をちらと見て、
「よい結果は出ていないらしいな」
「秘術は賀龍一翁から賀龍新蔵の手に渡った。賀龍一翁は、おれが殺してきた」
「ふむ。自分の父を殺したか」
「おれではない他人のひとりだ。あんたの駒はやはり使えなかったぞ」
賀龍高志が言うのに、島田は口元を歪めて笑う。
「あれも、忍術では最強を名乗っていた連中だ。自称はいくらでもできるというわけだな。では、おまえがいいと思うように動け。秘術さえ手に入ればいい。賀龍新蔵の居場所はわかっているのか。なんなら、おれの権限で警察に調べさせてもいいが」
「無用だ。おそらく町のなかをうろついているんだろう。出来損ないの駒でも、人探しくらいはできるはずだ」
ふんと島田は笑い、そのようにしろと指示を出した。
ぽん、と軽い電子音が鳴って、エレベーターは地下駐車場へ到達する。重たい扉が開いたときには、エレベーターのなかにもう高志の姿はない。島田は慣れたふうに歩き出す、こつこつという足音が薄暗い地下駐車場に反響し、それを秘書が追った。
「な、なんなのですか、いまの男は。いったいどこから現れて、どこへ消えたのです? 警備の人間を――」
「必要はない。ただの人間にあの連中が捕らえられるはずもない。あれはな、忍者よ」
黒塗りの国産車、すでに運転手が後部座席の扉を開けて待っているところに乗り込む。秘書は助手席へ、運転手が車をぐるりと回って乗り込めば、すぐにエンジンがかかった。
島田は後部座席にどかりと座り、懐に葉巻を探りながら、ぽつりと言った。
「化け物同士、せいぜい殺し合ってもらおう。目的さえ達すればあんな連中は必要ないのだから」