無常の空 0
山田風太郎大先生リスペクトの気持ちで読んでいただければ幸いでございます。
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東京は霞が関にほど近い、変哲のない五階建て雑居ビル、コンクリートの外壁も風雨に黒ずみ、隅のほうからぽろぽろと欠片が溢れるような有り様だが、存外ひとの出入りは多い。
というのも、ビルの三階と四階が現内閣で大臣を務める島田政夫の事務所となっているのである。
普段は若い私設秘書や後援会の人間が出入りするところ、今日はビルの前に黒塗りの高級国産車が横付けされ、スーツ姿が二、三人、不意に降り出した雨に差す傘も、自分ではなく後部座席から降りる禿頭の男の頭上へ掲げる。
島田政夫は太った身体を揺するようにあたりを見回し、ちらと傘から顔を覗かせて頭上を見上げた。
「雨はいつまで降り続くかな」
「明日の朝までと、天気予報では」
秘書が答えるのにふんと笑い、島田はビルまでのわずか数メートルを用心深く進む。
「降るなら、いつまでも振り続けばよいのだが。ほかの人間はともかく、おれには縁起がいい。思えば子どものころから覚えているのは雨ばかりだ。母親が出ていった日、父親が死んだ日、たしか最初に選挙で当選した日も雨だったかな。あの愚かしい母親と邪魔だった父が消えた日はどちらも台風だった」
「大臣になられた日も、そうでしたね」
「では次に雨が降るときは、総理になるときかな」
笑いもせず、湿気がわだかまる階段を上り、四階の執務室へ入る。秘書ふたりは扉の前に立ち、島田は濡れた靴底を絨毯に擦りつけた。
部屋にはすでにひとり、男が待っている。
島田は待たせたの一言もなく、どかりとソファに座り、胸元を探って葉巻を取り出した。ふわりと空中、薄紫の煙が浮かぶ。
「雨は止んだか」
男が問うのに、島田はゆるゆると首を振り、
「明日の朝まで続くそうだ。どうかね、仕事に支障でも?」
「問題はない」
それにしても、奇妙な男である。
声にしても姿にしても、特徴的なものはなにもない。
年は二十代、黒髪の短髪に青白い肌、一重の目は鬱々と暗く、口はちいさく一文字、上背もなく痩せぎすの、声も通りの悪いくぐもったような響き。紺色無地のシャツにジーンズという出で立ちで町へ出れば、たちまち姿を見失いそうな姿である。
島田は葉巻をくゆらせ、男に対する自らの印象にちいさくうなずいた。目立たぬのも道理、忍者が目立ってどうするというのか。
「おまえたちにとっては雨も姿を紛らわせる一要素か」
「なにか誤解しているようだが、雨など勘定には入れないというだけだ。晴天であろうが雷雨であろうが、闇夜であろうが白昼であろうが、関係はない」
「ふむ、頼もしい。おれも忍者には親しんでいるが、しかし、おまえのような忍者ははじめてだ。まるで影、見えているようでなにも見えん。腹の底が見えん相手との交渉ほど鬱陶しいことはない」
「金が必要だ。ただそれだけさ」
「本当にそうなら単純な話だがな」
灰になった先端を灰皿に落とし、島田は部屋に満ちた煙の匂いに満足げな顔をする。
「このあいだ言っていたことは、本当なのだろうな」
「うそだという証拠が見つかったか?」
男は窓を背に、逆光に表情を隠しながら言った。
「手持ちの忍者どもに調べさせたのだろう。おれの素性から、話が本当かどうかまで。もし怪しいと判断すれば、こうして二度目の会見は叶わないはずだが」
「おれは賢い男がきらいだ」
顔をしかめる島田に、男はちいさく笑う。
「すべては自分の思い通りになればいい、か」
「幸い、この国におれがきらうほどの賢い人間はすくないがね。マスメディア、国民、議員たち、すべて愛らしいものだ。なるほど、たしかにおまえが言うことは本当らしい。おまえは下辻忍者の末裔、賀龍高志で間違いない。おまえが言う、下辻忍者に伝わる秘術というものも、まったくのつくり話というわけではないらしい。おまえは、それをおれに提供できるというのだな。代わりに金をよこせと。解せんのは、一千万や二千万足らずの金で千年近く一族が守り続けた秘術を売り飛ばすということだ」
「簡単な話だ。千年近く一族が守り続けたありがたい秘術というものが、おれには一千万の価値もないというだけのこと。あんたが気にするようなことはない」
「そこまでして、なぜ金を欲する。そもそもおまえたち忍者からすれば、金儲けなどたやすいことだろう」
「おれには時間がない。それとも、あんたを納得させる理由をでっちあげたほうがいいかな」
島田は男をにらみつけ、それからふと視線を外す。
雨が降っている。
「おれはなにかと便利だから忍者を飼っているにすぎん。忍者同士の小競り合いや、秘術云々にはなんの興味もない。おまえが言う秘術を、苦労して奪ってみればありがたい説法だった、というのでは困る。おれが求めるものは武力だ。金と権力はすでにある。なるほど、この愚かな国には有り余るだけの金と、一握りの権力があるが、それだけで世界と渡り合うのは不可能だ。海の向こうにはわが国の金を奪い取ろうとする輩がいくらでもいる。連中と渡り合うために必要なのは、圧倒的武力なのだ」
「前にも言ったとおり、下辻忍者に伝わる秘術はあんたが気に入るものだろうよ。それこそ、国にも世界にも興味がないおれにはただのありがたい説法と大差はないが」
「ふむ――では、交渉は成立ということでいいな」
「約束の金は用意できているのか」
「成功報酬だ。無事に秘術を入手し、それがおれにとって必要なものであれば金を払おう。一千万でも二千万でも、好きなだけ持っていくがいい」
窓の外、一面灰色の世界が、ざあざあと鳴っている。
男はうなずいた。
島田は灰皿を取り上げ、机にこんとぶつけた。扉が開き、秘書ふたりが音もなく入ってくる。
「秘術の在り処を教えろ。書き留める」
「秘術は下辻忍者の頭領が代々受け継ぐことになっている。いまはおれの父親、賀龍一翁が持っている。老いぼれだ、奪うことはむずかしくない。いまや下辻忍者で生き残っているのはおれの家だけ、ほかに味方をする勢力もない分、あんたお抱えの出来損ないたちでも充分だろう」
「出来損ないだと?」
呟きと同時、秘書のひとりが消えている。
スーツの裾がひらと動き、男の背後、音もなく姿を現した秘書は、男の白い首筋に薄い刃物を押し当て、にたりと笑った。
「これでも出来損ないかな?」
「だから、出来損ないだというんだ」
男は何事もないように立っている。秘書の前ではない、その横に、涼しい顔で立っている。
秘書はぎょっと自分の腕のなかを見て、そこでひらりと黒い布が舞い、いたはずの男が消えていることに気づいて唇を噛んだ。
「やめろ、やめろ」
島田が鬱陶しそうに手を叩く。
「仲良くしろとは言わんが、揉めるのはよせ。どちらが出来損ないでもいい。おれからすれば、おまえらは揃って化け物だ。賀龍高志、情報に間違いはないんだな。敵は老いぼれのひとり、それならたしかに問題はあるまい」
「間違えてもらっては困る」
男は横目で島田を見る。
「あんたのような老いぼれの人間がひとり、ではない。老いぼれの忍者がひとりだ。それに、あるいはもうひとり、増えるかもしれない」
「増える?」
「下辻忍者の生き残りが、もうひとり」
にやりと、男は唇を歪めた。
「賀龍新蔵――おれの弟だ」