金魚
僕の家の水槽には、大きな金魚がいた。
その金魚の種類が和金型、と教えてくれたのは祖父だ。
蒸し暑い夏の日に、扇風機にあたりながら祖父の膝の上で聞いた。
和金型は長生きするらしく、うちの金魚は最長で5、6年は生きていたのではないだろうか。
橙色と白のウロコ、畏怖するような風貌についた二つの道化師のような目。
前から見ると間の抜けた顔で、弟がどこか狂っているように笑い出すと、僕も貰い笑いをしてしまった。
その金魚が家にやってきたのは、僕が小学低学年だったころのことだ。
母さんと弟が、地元の夏祭りに行ったときのことである。
そこで金魚すくいをやっていた隣の家のおじさんに偶然会い、「とりすぎてしまったから分けてあげるよ」と言って、くれたらしい。
その現場に居合わせていなかったのは、単にぼくが人ごみが嫌いで夏祭りに行きたくなかったからだ。
夏祭りの度に母さんが買ってきてくれた、冷めたたこ焼き、ほとんど皮しかないフライドポテトの味は、切なかった。
もらった金魚は三匹で、みんな同じ種類なので一切見分けがつかなかった。
僕たちがその三匹の様子を吸い込まれるように眺めていると、母さんは、「今度隣のおじさんに会ったら、お礼をいいなさいね」と言った。
そのとき僕はどうせなら三匹別々の種類がよかったと、なぜか少しふてくされていた。
僕と弟は金魚に名前を付けることにした、といっても、みんな同じ種類だから見分けがつかなくなるのはわかっていた。
それでも頑なに弟は名前を付けたがるので、僕は一郎、次郎、三郎と名付けることにした。
その提案を快く受け止めた弟は、やはり兄に対して少し遠慮がちだったのだと思う。]
その二年後の夏、一郎と次郎が死んだ。その二匹が次郎と三郎だったかもしれないし、一郎と三郎だったかもしれない。
けど僕は、「長男は弟、妹たちをまもらなきゃならんからな」ということを、身も凍るような真冬、暖かな炬燵の中、祖父の膝の上で言われたことを思い出して、勝手に長男と次男が死んだことにした。
三男は守られたのだと思った。
夏なので水槽の中は生臭く、ジリジリと照りつける暑さの中二匹の死骸の埋葬は母さんが一人でしてくれた。ザクザクというスコップ音と蝉の鳴き声が混ざり合う。その時はじめて僕は生き物の死というものに直面した。
昨日までまるで水龍のように、水槽の中を泳ぎまわっていた2匹が突然死んだという事実に、いまいち確信的な実感が持てなかった。
生きとし生けるものにはすべて命がある。
それを失うことは、とてもさびしいことなんだということをその日母さんに教わった。
その二匹分の命を背負うようにに三郎はずんぐり大きく育っていった。
日に日に大きくなる、三郎の様子を見ていた僕が「僕がいなくなったら弟の病気もよくなるのかな?」と母さんに言うと、母さんはさびしそうに目じりに涙を浮かべて、悲愴な面持ちで「そのときは、私も病気になっちゃうわ。」と言って僕を抱きしめた。
抱きしめてくれた母さんの手は少し震えていた。その時、僕は蝉の寿命が一週間程度ということを学校の先生が言っていたことを思い出した。
弟が死んだのはその一年後、ぼくが小学五年生、弟が小学三年生にあがりたての頃だった。
最後にいっしょに食べた林檎の味は、今でも忘れない。
病院のにおいは消毒液のような独特なにおいだったけど、ぼくは好きだった。
その病院の一室、ベットの上で弟は本を読んでいた。
その本のあらすじは、とある冒険家が、貧しい自分の家族を裕福にするため、宝を探しにいくという、ありきたりな内容だった。
弟はどこか楽しそうにその本の話をしてくれた。
将来大きくなったら冒険家になってお金をいっぱい稼いでみんなで幸せに暮らすんだといっていた。
その本のラストは、宝を持ち帰った冒険家の家族は、みんな戦争ですでに死んでしまったという残酷な結末だったことを、最近知った。
弟は小児がんで、脳に腫瘍ができていた。ある日の朝、弟が「頭が痛い」といって学校を休んで病院に検査に母さんと行った。
その日は夏休み明けの始業式だったので、大掃除というものがった。
その時、僕は、弟が大掃除をしたくないから嘘をついて学校を休んだのではないかと思っていた。
始業式の途中で、担任の教師から呼び出され、「今すぐ帰る準備をしなさい」といわれた。
わけのわからないままのせられた先生の車で僕は、弟が入院することを知った。
理由もいまいちわからなかった僕は、弟は明日から学校休めるからうらやましいなと、不謹慎ながら思ってしまっていた。
急いで病院にかけつけると、先生と僕は病院の待合室にいた祖父につれられて、弟の病室に向かった。そのときすれ違った、小学生くらいの女の子が、お父さんくらいの男の人と笑顔で語り合っていたことに、なぜか僕はもやもやした。
病室に入ると母さんは声にならない泣き声をあげ弟を抱擁していた。
弟は、母さんの頭をなでながら、わけもわからず泣いていた。死というものをこのとき、あまり僕も弟も理解していなかったのではないだろうか。そのとき、僕も、わけがわからなかったけど、とりあえず涙を流した。イエス様と弟子たちが食べたような食事と呼べる食事ではなかったが、彼にとっての最後の晩餐は、すりおろした林檎だった。
大分弱っていた体で、呼吸をするのも苦しそうだった。かろうじて水に近いような食事はとることができたので、母さんは商店街で買ってきた、青森産の林檎を僕には、くし切り、弟にはすりおろしてくれた。
その翌日の昼過ぎ、弟の容体は急に悪くなり昼下がりの夕日の光が差し込む窓際で、ベッドの上で静かに弟は息を引き取った。
その顔は、復活を予期させるような平穏を模したような表情だった。
死ぬ3日前に弟は僕にこう言った。
「僕が死んだら、兄ちゃんも三郎みたいに、僕の分まで大きくなってね」と。
「でもずんぐりはしたくないからはやく家に帰ってきてね。」僕は言った。
その翌日、家の水槽で三郎もまた静かに息を引き取った。家族が二人もいなくなってしまった。