山猫の幸運
一匹の山猫がお腹を空かせておりました。
毛並みの悪い山猫はここ数日、何も食べておりません。
鬱蒼とした深い森。木々の梢がかさかさ揺れて向こうの先には蒼い空。微かにお日様が顔を出し、露濡れ草がきらきら光っておりました。
山猫は、苔を踏みしめ岩を飛び越え少ない元気を振り絞り、森の奥へと行きました。
遅い春を迎えた森は小さな命が芽吹く頃。山猫もお家に帰れば三匹のかわいい子猫が待っています。
ですがご飯がありません。かわいそうな子猫たちはお腹を空かしておかあさんの帰りを待っています。
行く先に湖が見えました。森がぽっかりなくなって、かわりにおっきな蒼い板が黒い森を映して静かにたたずんでいます。
山猫は水際に近づいて水面に映った自分の顔を見つめました。痩せた顔がゆらゆらしています。山猫は自分の顔に口をつけ、ぺろぺろと水を舐め始めました。
………バサバサバサ
澄んだ空気に通る音。灰色のものが水面に映りました。山猫が顔を上げると数十羽の鳥が空を飛んできます。
青空を埋めるように大きな鳥たちが力強い羽ばたきで空を舞い、ゆっくりと湖に降りてきて、波紋が広がり消えていきます。
クワァクワァ
渡り鳥です。春になると南の空からやって来るのです。彼等は長旅の終わりとお互いの無事を喜び合うように鳴いています。
クワァクワァ
腹を空かせた山猫は茂った葦の隙間からそんな彼等を見ています。じっと離さず見ています。据えた瞳は真っ直ぐに鳥たちを見ています。お腹が空いているのは彼女だけではないのです。
這うようにじりじりと近づいていきます。にじり寄りにじり寄りにじり寄り………、
クエッー!
一羽が高く鳴きました。するとどうでしょう。和気藹々としていた鳥たちが一瞬にして静まりかえり、羽音を残して一羽残らず飛び立ちました。
山猫は茫然としたままそれを見送るだけ。残ったのは揺れる水面と空いたお腹だけでした。
目の前に空が広がっています。空には薄い細切れ雲と白いお日様だけがありました。
そこに灰色の鳥たちが青空を横切るように飛んでいきます。
クワァクワァ
鳥たちは眼下に広がる黒い森を見渡しながら先程の危険について鳴きあっていました。
ああ、あぶなかった。ほんと、あぶなかったね。やっとやすめるとおもったらすぐこれだもん。ほんとほんと。それにしてもあのねこはぼくたちをつかまえられるとでもおもったのかね? そうだよなあんなやせたねこにぼくたちがつかまるわけもないよな。そうそう、あんなじべたはいにぼくたちがつかまるわけないない。おろかなねこだ。ははは、ははは、ばかねこだ。ははは、ははは。
鳥たちの鳴き声は澄んだ空を通り抜け広く森中に響きます。
ほらほら、したをみてごらん。あのねこのまぬけづら。ははは、ははは、まけねこだ。ははは、ははは。
森の一角の丸い穴。きらきら輝く湖のほんの片隅にうずくまる小さい猫。鳥たちの方をしばらく眺めて、やがて背を向け森の中へ悄然と消えていきました。
ははは、ははは。
鳥のクワァクワァ鳴く声がしばらく空を覆っていました。
ここに一羽の鳥がいました。みんなからはテンと呼ばれています。
テンは背中に斑点模様があるのです。だからみんなはテンと呼びます。
テンには夢がありました。
それは空に浮かぶお日様のところまで飛んでいくことです。
なぜならお日様はあったかいからです。
テンやみんなは渡り鳥です。冬には南の暖かいところまで飛んでいかねばなりません。そこは遠い遠い南の国です。渡るのはとてもとても大変です。
あるときテンは考えました。
お日様のあったかいところに行けば、一年中そこで暮らせて大変な渡りをしなくて済むんじゃないか。子育ても簡単にできるし、ぼくらを襲う敵もいない楽園があるんじゃないか。
そう考えました。
ですがそう仲間に話すと、
なにをいっているんだい。わたりはぼくらのごせんぞさまのそのまたごせんぞさまのそのまたさらにむかしのごせんぞさまからのでんとうなんだぞ。たしかにわたりはたいへんだしきけんもあるけれどそれでもぼくたちはそれをふじゆうにかんじたりしてこなかったじゃないか。これからさきもそのまたさきもさらにそのさきもこうしていきていくのがぼくたちにいちばんあっているんだよ。
と、言われました。
だけれどテンの気持ちは変わりません。それどころかどんどん大きくなっていきました。空を飛んでいるとき、テンの横にお日様の姿を見る度にその気持ちは大きく大きく膨れ上がっていくのです。
そんなテンを仲間は笑いました。
ははは、ははは。テンのおとぎばなしがまたはじまった。おひさまのそばならいちねんじゅうあったかくてたのしくしあわせにくらせるって? それじゃあよるにおひさまがしずんだらぼくたちはこごえてしまうのかい。やだやだこわい。ははは、ははは。
それでもテンの想いは変わりません。
今日も空の上に燦然と輝くお日様の姿を見ながら胸の内の想いを優しく育てておりました。
きゅーきゅーきゅるきゅるきゅーきゅるきゅる
みゃーみゃーみゅーみゅーみゃーみゅーみゅー
お腹が空きました。子猫たちはお母さんの足にか細い身体を擦りつけます。
ですがご飯はありません。
お腹の鳴る音をたてても、か細い声で鳴いてみても、ご飯はどこにもありません。
お母さんと三匹の子猫たちは大きな木の薄暗いうろの中、身を寄せ合って震えていました。
日は既に落ちかけて、西の空が赤く燃えておりました。夕暮れの風が冷たく吹き抜けて森を揺らしていきました。やがて赤い火は消えて紫色の闇がしだいに空を覆っていきました。
空に星が瞬く頃。子猫たちは静かに寝息を立てていました。お母さんはしばらくその寝顔を見つめていました。そしてゆっくりと顔を上げうろの外に広がる星空を何の気なしに見上げると、空の片隅がきらりと光り、一筋の星の欠片が夜空を流れていきました。
テンはついに飛び立ちました。
大きな翼を力強く羽ばたかせ、大空に舞い上がりました。
クワァクワァ
仲間の呼ぶ声が聞こえます。
その声は必死にテンを呼び止めます。ですがテンは振り返りません。
テンは高く高く飛んでいきました。呼び止める仲間の声もしだいに小さく聞こえなくなっていきました。
目指すは空の果ての果て。燦然輝くお天道様。
高く高くどこまでも高く、遠く遠くどこまでも遠いその場所へ、テンは飛んで飛んでいきました。
大地が森がみるみる小さくなっていき、仲間のいる森の穴の湖も見えなくなっていきました。
黒かったり緑色だったり茶色かったり灰色だったりする大地が無限に広がって空の端に消えていきます。
丸みを帯びた大地の端は空の端につながって、そこから上は蒼の世界。ちらほら浮かぶ白い雲が間抜けそうにふわふわ流れていきます。
そして空の上の上。間抜けな雲の上の上。白い太陽が優しく光り輝いておりました。
バッサバッサバッサバッサ
テンは一生懸命羽ばたきます。
ゴウゴウゴウ
風が唸りを上げてテンの身体に吹きつけます。
バッサバッサバッサバッサ
ゴウゴウゴウ
バッサバッサバッサバッサ
ゴウゴウゴウ
ぽっかり空いた空の中、聞こえる音はこれだけです。
バッサバッサバッサバッサ
ゴウゴウゴウ
ぽっかり空いた空の中、あるのはテン独りだけ―――。
おかしいです。とってもとってもおかしいです。
バッサバッサバッサバッサ
空を越え雲を越え高く高く飛んできたのに、お日様に近づいているのに、ぜんぜんあったかくなりません。それどころか、
ヒューヒューヒュー
ぶるぶるぶる
風が吹きつけます。それがとっても冷たいのです。
ぶるぶるぶる
寒い寒い、テンは身体を震わします。
ずっと飛び続けたせいでしょうか、息苦しくもなってきました。いつもの渡りの時には一日中飛んでいてもこんなに息苦しくなることはなかったのに。
ですがお日様にはだいぶ近づきました。お日様はしだいに低いところへと落ちてきたのです。
バッサバッサバッサバッサ
ですが喜んでばかりもいられません。このまま落ちていったらお日様は大地の底に消えてしまいます。そうなる前にお日様のところにまでたどり着かなければなりません。
バッサバッサバッサバッサ
ヒューヒューヒュー
ぶるぶるぶる
テンは必死に羽ばたきました。
冷たい風に吹かれようとも、身体がぶるぶる震えようとも、必死に必死に羽ばたきました。
西の蒼い空がしだいに顔を変えていきます。ゆっくりとお日様を迎える準備を始めているのです。
バッサバッサバッサバッサ
急げ急げ、空は頬を赤らめていきます。
バッサバッサバッサバッサ
急げ急げ、空はお日様を追って紫色の衣に着替え始めています。
バッサバッサバッサバッサ
急げ急げ、空の片隅にまん丸黄色。空はお月様を迎え始めました。
ああ、ああ、ああ、
テンは首も切れんばかりに喘ぎます。のどはからから、翼は悲鳴を上げて今にも千切れんばかりです。
バッサバッサバッサバッサ
お日様が真っ赤に真っ赤に染まりました。一日の最後の力を振りつくすようにおっきくおっきく真っ赤に染まりました。
後もう少し。
お日様は首を後ちょっと伸ばせば届くところまで、後ちょっと、後ちょっと―――。
テンの目の前はすべて赤に染まりました。世界のすべてが赤色に空も大地も森も湖も雲もそしてテン自身も―――。
ああ、これがお日様の楽園なんだ。すべてのものがお日様の赤い光に優しく包み込まれて―――。
あったかい―――。
日は暮れて、すっかり森は夜の内。
山猫親子はうろの中。輝く星の空の下、親子は体をすり寄せ合って、寒い寒いと震えております。
きゅーきゅーきゅるきゅるきゅーきゅるきゅる
みゃーみゃーみゅーみゅーみゃーみゅーみゅー
痩せた子猫のか細い声とご飯を求めるお腹の音が、狭くて暗いうろの内に寂しく響いておりました。
親猫は鳴く鳴く子猫の顔を舐め、うろの外の丸い月を遠く遠くに眺めました。
月はまん丸黄色い姿。小さな星を従えて、ほのかに森を照らし出し、ぼんやり虚ろに浮かんでいます。
月の光は静かだけれど、お日様のようにあったかくはありません。
冷たい光。
どさっ
それは突然降ってきました。
夜の冷たい土の上、冷たい光に照らされて、それは冷たい姿をさらしていました。
親猫は子猫を連れておもむろにうろの中から出てきました。
長い首した丸いもの。辺りに散らばる灰色の羽。
それに山猫親子は喰らいつきました。
はぐはぐむしゃむしゃはぐはぐはぐ
舌に広がる肉の味。
はぐはぐむしゃむしゃはぐはぐはぐ
お腹があったかくなりました。
はぐはぐむしゃむしゃはぐはぐはぐ
もうお腹は鳴りません。
山猫親子は身を寄せ合い仲良くうろの中へと帰っていきました。
みゃーみゃーみゅーみゅーみゃーみゅーみゅー
うろの中から幸せな声が聞こえてきます。
夜の冷たい土の上、冷たい光に照らされた、白い姿がぽつんとひとつ。
フロッピーの最終保存日が2002年。
もはや何を思って書いたのか作者も思い出せません。
結構やるせない話の童話風作品でした。
いやー、本当なんなのだろうか?