↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR

ユートピア症候群

作者: 高野 ぱら
掲載日:2026/10/25

 重たい体を起こす。カーテンの隙間からはまだ朝の光が差し込んでいない。田代 葉介は午前六時に起きる。仕事はしていない。二ヶ月前に辞めたのだ。


 ゆっくりとした足取りでトイレへと向かう。尿意はすぐそこまで迫っているのに、動く足の速度は変わらない。別に大丈夫だ。二十四年、今月末には二十五年という月日を生きた体になるので、俺は自分のことを信頼していた。数秒の誤差程度でおしっこを漏らしたりはしない。


 案の定、あれだけサイレンを鳴らしていた尿意は暴発を起こすことなく、便座に腰を下ろしてから五秒も間を空けてから放尿を始めた。昨日の夜ご飯から不要と判断された成分が零れ出ていく。実際に昨日の夜ご飯の成分が出ているのかは知らない。なんとなくの感覚として朝一の尿とはそういうものだと思っているだけだ。


 用を足した後は「弱」のほうにレバーを回して汚い尿を洗い流す。数秒前まで体内にあった水分を汚い扱いするのは如何かと思うが、だからと言って再び体内に戻すかと問われれば断固として拒否する。


 便座から立ち上がった俺はパンツとパジャマのズボンをまとめて摘まみ、一気に持ち上げた。そうして恥部は隠され、家の中を歩いても許される格好を取り戻す。そして便器の蓋を下ろした。


 俺がトイレに入った時、便器の蓋は開いていた。この家で便器の蓋を開けたままにするのは弟しかいない。何度言っても蓋を下ろしてくれない弟に僅かな怒りが湧いてくる。弟が起きてきたらまた注意しようかと頭に過るが、細かい人間だという烙印を押されて終わるだけだという結論に辿り着く。人からの注意をそのように扱う弟には怒りよりも呆れの感情のほうが大きく作用した。


 トイレを済ませた俺は洗面台へと向かった。そして速やかに歯磨きを開始する。朝の口内は汚いらしく、そのまま朝食を摂ると腸内環境に悪影響を及ぼすとテレビで見たのだ。昨夜寝る直前にも歯を磨いたが、それでも朝一に歯磨きを行う。本当は喉がカラカラで早く水を飲みたいのだが、汚いらしい口内を経由して水を体に入れることも嫌な感じがした。


 歯磨きを終えた後は自室へと戻る。スマホを取りに行ったのだ。この後は顔を洗い寝癖を直して早朝散歩へと向かう。その一連の流れの中にスマホが必要だった。特に集中して見るわけでもないのにYouTube動画を流すのだ。何か流していないと時間を損した気持ちになる。別に何も損などしてないと頭では理解しているのだが。


 そうして自室に戻ると小さなメロディとバイブ音が鳴っていた。目覚ましのアラームだ。部屋に掛けられた時計の針を見ると午前六時ちょうどを差している。あぁ、また目覚ましの数分前に目が覚めていたのかとこのタイミングで気付いた。仕事はしていない。今日は特に予定もない。それなのに俺の体は寝坊を恐れて目覚ましより早く起きてしまったのだ。


 スマホのアラームを止めてアプリを起動する。YouTubeではない。YouTubeを起動するのは一番最後だ。最初にLINEを起動する。アプリアイコンに通知マークがなかったので誰からの連絡も来ていないとわかっていたが、それでも頭で考えるより先に手が動くのだ。起動したLINEをすぐ閉じて、次はXとインスタを起動する。Xは適当にスクロールして、今日は目に留まる内容がなかったのでそのままアプリを閉じた。インスタは画面上部にある赤く縁取られたアイコンをタップする。もう随分と長いこと会っていない友人たちのストーリーが流れていく。食べ物の写真が多い。たまにフェスに行ったなどのストーリーも流れる。複数人のストーリーをポンポンとタップしながら全部見終えた俺はインスタを閉じた。どこかの小学校で食中毒が発生したというリール動画が気になったが、顔を洗いたいため見ないことを選択する。


 インスタを閉じてYouTubeを開いた瞬間、気になっていたリール動画が途端にどうでもいいものへとなっていく。その感覚に微かな不快感を覚えながら、BGM代わりに流す動画を漁っていく。今日は適当なゲーム実況動画を選択した。最近はVTuberを多く目にするが、俺は一人としてVTuberのチャンネルを登録していない。別に嫌いなわけではない。たまにショート動画やおすすめ動画に上がってきたものを見ることもある。しかし、チャンネル登録という自分で選んだ人たちの中にVTuberを入れるのは憚られた。その理由はその界隈に興味のない人間から、オタクだとかキモいだとか思われたくないからだ。別に誰をチャンネル登録しているかなど見られる機会はないのだが、そんなことを俺は気にしている。そしてそんな自分を自覚して嫌悪感を覚えた。


 顔を洗う。しっかりと洗う。五十回近く濯いでようやく洗った気になった。あまりやり過ぎなのも良くないと美容系インフルエンサーが言っていたが、別の美容系インフルエンサーは五十回が丁度いいとも言っていた。髭は剃らない。一昨日に剃っているため、まだ醜いと思う程ではない。これ以上伸びたら気持ち悪いので、明日か明後日には剃ることだろう。もっとも、明日も明後日も外出する用事はない。


 別に引き籠りというわけではない。月に二回は失業手当を求めてハローワークに行くし、気が向いたら一人でカフェに行ったり、自家用車で遠出して観光地を巡ったりもする。以前は服を買いに古着屋やセレクトショップを回ったりする時期もあったが、最近は服も溢れてきたため買い物には出向いていない。


 顔を洗い終わった自分を見る。不細工ではない。むしろ整っているほうだ。テレビに出るようなイケメンと比べたら足元にも及ばないが、学生時代はクラスで三本の指に入れる程度の顔と評されていた。実際、会社に勤めていた頃も老若男女からカッコいいという言葉を頂いていた。それに対していつも「ありがとうございます」と少しだけ畏まった雰囲気を醸し出しながら返事をしていた。そういう時に謙遜をしたら逆にウザいと思い、鼻につかない態度と声音でさらっと感謝の文言を述べていたのだ。


 そんな鏡に映った顔に冷たい視線を向ける。別にこの顔が嫌いというわけでもない。平均より少しカッコいいくらいの顔は俺の人生を少しだけ生きやすくしてくれていたように思う。だから嫌いなのは顔ではない。嫌いなのは…そこまで考えて意図的に思考を止める。


 洗面台で髪も洗い流した俺はドライヤーを手に取る。三万円近くした良いドライヤーは髪を乾かすのに最適な熱風を与えてくれる。数年前までドライヤーなどどうでもよかったが、このドライヤーを購入してからはビジネスホテルによくある髪を傷めそうな熱を放つドライヤーが嫌いになった。良い物を知ったことでそれまでの普通が悪い物へと変化してしまったのだ。


 そうして髪を乾かし終えた俺は自室へと向かう。一緒にスマホを運ぶが、せっかく流したゲーム実況動画は全く見ていない。自室に戻ってすぐにフェイスケアを始める。化粧水、美容液、乳液と順番に浸透させて、最後に日焼け止めクリームを顔に塗っていく。顔だけではなく首や耳の後ろにもしっかりだ。そして余ったクリームを腕に塗りたくる。


 そこまで終えて午前六時十三分。ランニングシューズを履いた俺は外の世界に繋がる扉を開けた。季節はもうすぐ冬になるため肌寒い。歩いていたら熱くなるためそれほど着込んではいない。そのため最初は寒いのだ。体を震わせながら散歩を開始する。


 乾燥した空気は俺の肌を傷めようとするが、浸透させたばかりの乳液が守ってくれる。季節は秋の終わりのため太陽はまだ出ていない。そのため日焼け止めクリームの効果は最低限しか発揮されない。それでも世界には紫外線が存在するため、冬だろうと雨の日だろうと俺は日焼け止めクリームを塗っていた。


 ちゃんと美容にも気を遣う。プチプラと言えど安くはないフェイスケア用品を揃え、三万円のドライヤーを買い、五週間に一度のペースで美容室にも行く。そうまでするのはモテたいからという理由も含まれるのだろうが、一番の理由は別にあった。


 変に思われたくない。平均より少し上の自分で在りたい。自分の上位互換のような存在に出会った時、周囲を見てすぐに下位互換も見つけられるようにしておきたい。


 そんな途轍もなくしょうもなくて、俺にとっては呪いのように染みついた思考が、今の俺を形作っていた。散歩していると思考の巡りが良い。巡りが良いからと言って精神衛生上良いのかは別の話だ。今のように余計なことを自己分析し、自己嫌悪に陥ることも少なくない。


 それに今日は曇っていた。晴れている日はポジティブな思考に誘導されるが、曇っている日はネガティブな思考が手招きしてくる。そして一度その領域に踏み込めば、抜け出せない負のループに陥るのだ。そうしていると嫌な記憶が次々に蘇る。


 意見の食い違いで衝突する上司たち。

 誰かと電話しながらあの女はブスなどと言って笑っている弟。

 会社への愚痴ばかりで何も行動には起こさない若い世代だけの飲み会。

 夢を語りながら肯定の言葉を求めてくる友人。そして肯定の言葉を送る自分。

 黄色信号を突っ切っていく車。そのせいで右折できず同じ信号機をもう一度待つことになった車。


 小さな不快に溢れた世界を今日も生きる。そんな世界でも美しさはあった。俺にとっては道端に咲いている花だ。その花を綺麗だと思い見つめる。少しだけ心が浄化されていくのを感じる。俺は誰にも道端の花に癒されるために散歩をしているだなんて言ったことはない。成人男性の俺がそんなことを言えば、ちょっと変わった奴だと判定されてしまいかねない。


 散歩道、信号機があった。田舎というほどではないが、都会には程遠いため車は通っていない。見通しの良い道路で、右と左を見て車の気配もないことを確認する。歩行者用の信号機は点滅を始めており、このままでは走っても間に合わない。だから俺は立ち止まった。


 待つ。赤くなった信号機が再び青になるのを待つ。誰もいない道路。車もない。人目もない。あるのは信号機と自分だけ。それでも俺は道路を横断したりせずに、じっと信号機が青く変わるのを待っていた。そして心地良さを感じていた。ルールを守るのは気持ちがいい。そんな感性を俺は持ち合わせていた。


 真面目過ぎ。それは友人から言われた言葉だ。あの日は友人と店で飲んだ帰り道だった。そこでも同じように赤信号が目の前にあった。だけど近くに車はなかった。遠目に人はいたけど、それだけだった。友人は赤信号を気にせず進んでいく。俺は赤信号だから立ち止まる。


「何で止まってんの?」


 心から不思議そうな顔と声で友人が尋ねてきた。


「信号が赤だから」


 俺は答える。幼稚園生でもわかる理由なのに、まるで言葉が通じていないみたいに友人は言った。


「真面目過ぎ。誰も見てないから」


 笑いながら道路の中央で止まっている友人。赤信号なのに道路の中央に人がいる。でも車に轢かれたりすることは絶対にない。だって車の気配は微塵もないから。


 真面目過ぎと言われた時、俺はしまったと思った。これではレッテルを張られてしまう。頭の凝り固まった付き合いにくい奴だというレッテルを。


「いやー、俺ももう社会人だから真面目キャラになろうと思ってー」


 そう冗談口調で返しながら、俺は赤信号の横断歩道を渡っていく。車は近くにない。遠目に人はいるが誰もこちらを見ていない。だけど俺は、胸にモヤモヤが積み重なっていく。


 誰も見ていないとしても、ルールを守る真面目な自分が崩れていくような感覚に蝕まれる。


 そんな過去の嫌な記憶を思い出し、俺は早朝の散歩道に立ち尽くす。信号はまだ赤のままだ。そして青になる。結局、俺が信号を待つ一分間でその道路を通る車はなかった。


 目的地に辿り着いた。正確には折り返し地点だ。そこはお墓であり、「田代家」という文字が刻まれている。そこには数年前に癌で亡くなった父が眠っている。毎日ここを訪れては手を合わせ、父に話しかける。母は毎日お墓参りをして偉いと褒めてくるが、実際のところは散歩コースとしてちょうど良いから訪れているだけだ。それでも毎日ちゃんと父のことを思い出し、何かしらの言葉を掛ける。会社を辞めて二ヶ月、早朝散歩を始めて二ヶ月、流石に最近は父に掛ける言葉のレパートリーも無くなってきた。


 墓参りを終えた俺は別の道から自宅へと向かう。反対車線の道路を自転車が駆け抜けていった。自転車に乗るのは偏差値が高い高校の制服を身につけた女の子で、まだ午前六時三十五分だというのに学校に向かっている。その高校は朝課外があると聞いたことがあるので、朝早くから勉学のために起きているのだろう。


 無職の俺は罪悪感と優越感に挟まれながら散歩道を歩いていく。道の奥から一台の車が迫ってきて、そして過ぎ去っていく。すれ違う車にはスーツに身を包んだ男性が乗っていた。その表情は明るくも暗くもないが、どちらかと言えば暗いという印象に傾くだろう。今日は水曜日だ。労働に対して気合いを入れるには難しい曜日である。


 仕事を辞めてからも曜日感覚は狂っていない。正確に把握している。まるでそれを自分が怠けていない証としているようだった。実際、俺は怠けていない。今日も六時間は資格取得の勉強に時間を費やす予定だ。


 散歩を終えた俺はすぐに朝食をとる。納豆、味噌汁、プレーンヨーグルト、バナナと体にも良く、味も美味しい食べ物を摂取していく。食べ終えたらすぐにお椀とコップを洗い、食器乾燥機の中に入れていく。そうしていると母と弟が起床してくる時間となる。


 俺は自室へと戻り勉強を開始する。以前はIT企業に勤めており、それなりに優秀な成果を残していた。そこで培った現場での経験は社会人として必要なものを得るには十分だった。現場での経験ばかりで少し偏っていた俺の知識は、ここ二ヶ月で資格試験の勉強をしたため汎用的なものへと成りつつある。流石に大手企業は難しいだろうが、今の俺なら受ける企業の選択肢は多い。


 最終卒業が高卒であることに不安はあったが、IT企業は人手不足らしく、経験者ならば歓迎しているところも多い。高卒でIT企業に勤めたため、六年以上の現場経験があるのは大きい。あとは資格試験に無事合格できれば、ぐんと採用確率も上がるだろう。自作の模擬テストをしてみたところ、現時点で合格ラインには届いているため、二週間後の試験にはおそらく合格できると思う。


 この試験に合格できたら次はAIの分野を深く勉強するつもりだ。今のAI社会を思えば少し乗り遅れた感はあるが、勉強する時間はたっぷりある。毎日六時間勉強しても時間は余る程なのだ。かと言って丸一日勉強する気にはなれず、昼食を挟んで眠くなってきたところで勉強を中断した。一度やめてしまうと次はなかなかスイッチが入らない。おそらく今日はもう勉強に時間を使わないだろう。


 それでも合計で六時間は勉強をした。ちょっとした達成感が俺の心を満たす。そして、それと同時に虚無感が俺を襲ってきた。楽しくない、くだらない、どうでもいい、そんな言葉が俺の脳裏に浮かんでくる。


 本当は興味なんてなかった。ITとかAIとか、そんな頭の良さそうな分野に興味などはなく、ただ客観的に考えてやっておいたほうがいいから勉強していた。間違えてはいない。いつかは役に立つ。いつかではなく転職活動ですぐに役に立つ。就職できてからも役に立つ。勉強した内容が役に立って、成果を残せて、昇進して、尊敬されて、給料が増えて、生活が豊かになって、幸せになる。そのはずだ。そう頭で理解しているのに、俺は何百時間も費やして何をやっているのだろうと虚無感に襲われる。


 ベットに横になる。スマホでYouTubeを開く。ショート動画が流れていく。可愛い動物の動画。テレビの面白いシーンを切り抜いた動画。俺がチャンネル登録しないVTuberの面白い動画。胸糞悪くなるような事件を一分で紹介した動画。最後まで見てもオチがよくわからない素人が作った動画。それらが次々に流れていく。平均して一分程度の動画たちは、百本を超える数になるまで俺の瞳を奪っていた。


 楽だった。心が軽くなるのを感じていた。内容を思い出そうとしても思い出せないショート動画を見ている時間は、俺にとって癒しだった。今頃、以前勤めていた会社の人たちは働いている。真面目に忙しなく働く人もいれば、睡魔と格闘しながら働いている人もいる。十五分のタバコ休憩を一時間に一回する人たちもいるし、お喋りに夢中になって手を動かしていない人たちもいる。


 ショート動画を見終えた俺は、また嫌なことを思い出す。真面目な人ほど、優秀な人ほど遅くまで残っている会社。就業時間は固定されているから、早くタスクを終わらせた人へと次の仕事が舞い込んでいく。だから皆上手いこと調整するようになる。集中すれば半日で終わる仕事を夕方まで引き伸ばす。バカ真面目で優秀な人ほど仕事を多く引き受け、一人で苦しむ。残業して睡眠不足になりパフォーマンスが低下する。ミスが増え、かえって迷惑をかけるようになる。そして、それを取り返そうとまた残業をする。会社はそれを評価しない。むしろこのご時世に残業していることに評価を下げる。


 皆気付いてる。おかしな社会だと気付いてる。でも愚痴を言って終わりだ。SNSに正論を書き綴り気持ち良くなって終わりだ。でも、それが仕方ないことだと俺もわかっている。一人の力ではどうにもならない。社会を変えようと動いても、頭の良い人間に利用されて終わるだけだ。そんな上司を何人か見てきた。


 俺はそんな上司たちと違った。上手く立ち回っていた。そこそこの成果を出し、お客様から好印象を持たれ、遅くまで残業することなく働いていた。要領が良かったのだ。丁寧にすべきことは丁寧にして、手を抜いていいところは手を抜く。そして、俺も半日で終わる仕事を夕方まで伸ばしていた。それでも俺の評価は周りの社員より高かった。


 愛想がいいから。空気が読めるから。問題の本質に気付くことができるから。属人化しないようにしっかり資料を残していたから。上司たちが意見の食い違いで衝突した時、妥協案を提示してそこに誘導する立ち回りをしていたから。そんな感じで上手く立ち回っていると、皆が俺にこう言ってきた。


「田代君の仕事には誠実さを感じるね」


「田代さんの仕事への姿勢は信頼に値します。本当に田代さんが我が社の担当になってくれて助かりました」


「やっぱ最後は人間性よ。田代みたいな誠実な奴を評価したくなるんよ」


 確かに俺は誠実だった。お客様とは真摯に向き合う姿勢を崩さなかった。残業で残る上司に何か手伝いましょうかと定期的に声掛けするようにしていた。ミスが発覚した時は隠蔽したりせず迅速な解決を優先した。


 誠実なのは仕事以外でもだ。約束は必ず守る。悩みを打ち明けてくる相手には適度に相槌を打ち、一緒に悩みと向き合う姿勢を示す。友人たちとバーベキューなどをした時は、一部の人だけが後片付けなどをして損をしたりしないように立ち回る。


 誠実で優しくて気配りな人物。それが田代 葉介という男だった。では何故そんな男が仕事を辞めたのか。それは人間関係が上手くいってなかったからでも、大きなミスをしたからでも、ステップアップのためでもなかった。仕事を辞めた理由は、嫌気が差したからだ。


 会社ではグレーな行いが横行していた。割高な見積書を顧客に提示したり、品質的な問題点を隠蔽したり、そういう不誠実な行いが度々見られた。別に大きな悪行ではない。むしろこの業界の中では小さな悪行に過ぎない。それこそ車が来ていないから赤信号を渡るような、そんなレベルの悪行。


 頭では理解していたのだ。品質の問題とは言っても、こんな小さな問題点を全て改善していては人も時間もとても足りない。そんなところにリソースを割いていたら商品の価格も上がり、競合他社に勝つことができなくなる。勝てなければ会社は潰れ、社員は食べて行けなくなる。それにどこの企業もやっていることだ。だから、仕方がないとはわかっていた。小さな悪に片足をつけることくらい、生きる上では必要なことだと理解していた。だけど、俺の中に深く根付いたくだらない美学はそれを拒絶してしまった。車のない赤信号でも渡らずに待っていたいという、清く正しい生き方に酔った己の美学は、会社から離れたいという気持ちを大きくした。


 会社は円満に退職した。子供の頃からある捨て切れない夢があるとか嘯いて、仕事を辞める旨を課長に伝えた。それなりに引き止めはあり、部長を越えて本部長まで出てきて面談なんかもあったが、それらしい綺麗事と誠実な態度を駆使して、円満な雰囲気で辞めることに成功した。会社を辞めるならどうしても円満が良かった。もう会うこともないし、いつか会社に戻るわけでもないが、綺麗な生き方を望む自分には必要なことだった。


 俺はずっと、美しく生きたかったのだ。ルールを守り、誠実で優しい人間として生を全うしたかったのだ。だから車が来ていなくても赤信号で立ち止まるし、誠実な働きぶりを見せていた。清く正しく生きて、誰にも否定されず、多くの人から称賛される人間で在りたかったのだ。


 でも、社会は誠実さを貫いて生きられるようにはできていない。顧客に割高な見積書を提示しなければ小銭程度しか稼ぐことはできない。ちょっとした不正を黙認しなければ競合他社には太刀打ちできない。小さな問題点に目を向けていれば人も時間も到底足りない。


 しかし、そんな大変な社会のようで、実のところはほとんどの人が仕事量を独自の裁量で上手く調整しているというのも一つの事実。そうしなければバカ真面目で優秀な社員のように遅くまで会社に残ることになるからだ。仕方のないことだけれど、全員が均等に仕事を請け負っているわけではない。


 そんな会社。そんな環境。そんな社会。そんな世界。一切の穢れなく、誠実さを貫き通して、寿命まで生きることなどできないのだ。それを痛いほど承知しながら、それでも俺は自分で勝手に引いた一線を越えたくなくて、これ以上自分が穢れてしまわないうちに会社から距離を取った。


 無職になって二ヶ月。周りに人たちに怠けているわけではないとアピールしたい俺は資格試験の勉強に励む。次の会社で働くうえで役に立つ内容だ。しかし、役に立ったところで次の会社でも必ず似たような不正は存在する。それに加担しようが目を瞑ろうが、また胸はモヤモヤして己が穢れていくのを拒みたくなるのだろう。


 夕方になった。俺は筋トレを始める。日課だ。仕事を辞める前から毎日筋トレは行っていた。マッチョと言うほどではないが腹筋は割れており、胸筋も腕周りも適度に鍛えられている。見せびらかせる程ではないが、誰に見られても恥ずかしくない体。


 それは体だけではない。田代 葉介という人間自体が、見せびらかす程ではないが、誰に見られても恥ずかしくない人物なのだ。そこそこカッコいい容姿。そこそこのコミュニケーション能力。そこそこの頭脳。そして表向きは優しくて誠実な性格。そんな自分を保つために日々努力をしている。


 どうか清く正しく美しく生きられますように。優しく誠実な人間で在れますように。


 そう願って、お風呂も夕食も歯磨きも済ませた俺は眠りにつく。午後十時。早寝早起きという規則正しい生活を送ることもまた、自分の人生を綺麗に着飾るためには必要なことだった。


××××××××××


 重たい体を起こす。カーテンの隙間からはまだ朝の光が差し込んでいない。午前六時に起きる。


 ゆっくりとした足取りでトイレへと向かう。用を済ませて、便器の蓋を下ろした。弟は昨日も蓋を下ろさなかったらしい。


 SNSを三十秒のうちにチェックし終えて、洗面台へ向かう。いつものルーティンをこなして、あっという間に家の外へと出た。


 早朝の散歩。信号機に辿り着く。赤信号だ。俺は立ち止まる。俺と同じ進行方向を進んでいた車が赤信号を無視して通り過ぎていった。別に進行方向に歩行者もいなかったし、車も来ていなかった。だから事故が起こることもなく、何事もなかったように去っていく。


 また、胸がモヤモヤする。ルールを守らない人を見て、胸がモヤモヤする。俺は守っているのに、何故彼らは守らないのか。何故あの夜、友人は平気で赤信号を渡れたのか。何故会社の人たちは、平気で小さな問題点を隠蔽するのか。


 でも、結局は自分もその人たちと変わらない。清く正しく生きたいと思っていながら、周りの人たちの普通という枠組みから外れたくなくて、同じ行為に及んでいる。あの夜に赤信号を渡ったし、小さな問題点の隠蔽にも加担した。その分際で、今しがた赤信号を無視した車に怒りを覚えていた。


 青くなった信号を渡って、父が眠る墓に着く。昨日と同じように手を合わせる。今日も父を思い出して、何と言葉を掛けようか考える。丁度よい言葉はいくつかあった。母は昨日も幸せそうに食後のお菓子を頬張っていたとか、弟は大学のバンド仲間と楽しそうにキャンパスライフを送っているとか、俺たち家族がお金に困ることはなかったのはあなたのおかげだとか。そんなありきたりな言葉は思い浮かんでいるのに、掛ける言葉は別のものだった。


「お父さん、俺は優しくて誠実な人間として生きてきた。それは根が優しいからでも、生まれながらに誠実な性格だからでもない。小さい頃に見る物語…アニメとか絵本とか、それらは優しい世界だった。誠実さを美徳とする世界だった。幼稚な俺は、子供たちに見せるようなご都合展開ばかりのその理想の世界に憧れていたんだと思う」


 父に語る。誰にも語ることのない己の本心を明かす。どう思われるかわからない本心なんて、生きている人間相手にはとても話せないから。


「優しく誠実に着飾って生きていれば幸せになる世界であって欲しかった。でも、現実は違う。時に優しさを捨てなければ損をして、時に誠実さを捨てなければ生き残れない。そんな社会に嫌気が差して、俺は仕事を辞めた。社会から逃げた」


 墓地に風は吹いていなかった。無風だ。今日は冬前にしては気温が高いらしく、ここまで歩いてきたこともあって体感温度は程よいくらいだ。


「会社から逃げ出せば楽になると思ってた。でも、今も苦しい。だって生きている世界は別に変わっていないから。二十半ばにもなってこんな幼稚なことで悩んでいるのも愚かなんだろうけど、それでも考えずにはいられない」


 別に父は相談相手として優れた人物でもなかった。むしろ偏った考えを持っていて相談に向いていない性格だった。だから今も俺は父に相談している感覚はない。ただ「田代家」と刻まれた石の塊に言葉を吐いているだけだ。


「俺はどうすればいいんだろうな…。優しく誠実な人間に振り切って損をしながら生きるのか、社会の普通に染まって適度に楽して生きるのか。二ヶ月前までは前者の皮を被った後者の生き方をしていたよ。でも、これじゃあ俺が憧れた理想の世界から遠ざかっていく気がした」


 他人も世界も変えられない。自分は変えられる。よく聞く言葉だ。この理論で言うと俺の理想の世界が実現することは絶対にないのだろう。


「無理だとはわかってる。幼稚だとはわかってる。それでも俺は、優しい世界の中で生きたくて、誠実な人が損をしない世界で生きたくて、真面目な人が笑われない世界で生きたい」


 本音を言い終えてもちっともスッキリとはしなかった。これ以上吐き出す言葉もなくなり、俺は散歩道を折り返した。


 自転車に乗った女子高生が過ぎ去っていく。それを見て思う。俺が一人でうじうじ考えたところで、世界は変わらず回っている。仮に俺が赤信号を無視したって、あの女子高生は変わらず学校へ向かうし、世界の他の要素も何一つ変わらない。


 そんなことを考えて、今日も己の無力感に苛まれた。


××××××××××


「貧しい国の子供たちのために募金をお願いしまーす!」


 少し伸びていた髭を剃って街に出ると、そんな声が聞こえてきた。見れば三十代半ばくらいの女性が募金箱を持って大声を出している。その両脇には四十代半ばくらいの女性と、六十代くらいの男性がいた。


「今も外国には空腹に苦しんでいる子供たちが大勢います!募金をお願いします!」


 彼女らはきっと清く正しく生きているつもりになっている。自分たちのことを優しく誠実に生きている人間だと疑っていない。貧しい国の子供たちのために募金を募る、そんな綺麗で正しい行いを活力に満ちた顔で実行している。


 だけど、それは自分に酔っているだけに過ぎない。穢れたこの世界で、自分たちだけは清く正しく美しく生きているのだと酔いしれているに過ぎない。俺も彼女らのように冷めない酔いに溺れられたらどれほど幸せだっただろうと思う。


 疲れた…。そう思った。たった二十五年に満たない人生が随分と長く感じられる。そうして疲弊した脳で彼女らへと近付いていく。


「ありがとうございます!」


 募金箱に五百円玉を入れた。すると善行に酔った彼女らから感謝の言葉が飛んでくる。嬉しくはなかった。それどころかズドンと重い何かが胸の中に沈んでいく感覚に襲われる。


 募金を募っている団体は数年前から度々ニュースで報道されている団体だ。募金額から合計して億単位のお金を中抜きしていたのだ。中抜されたお金がどう使われたのかは不明のまま。全てがそうではないだろうが、俺が募金箱に投入した五百円玉も、悪い大人の脂肪に変換される可能性は十分にあった。


 それでも俺は試したかったのだ。彼女らのように酔えるのかを。善行を行い、それが世界を救う一助になると信じて、気分を良くすることができるのか試したかったのだ。


 結果はダメだった。理想の世界を求める幼稚な俺は、幻想の世界に上手く溺れることもできなかった。それなりに賢くて、同じくらい馬鹿でもあるから、その狭間で苦しむことになる。


 こんなことしてないで資格試験の勉強をしないと、そう頭に過ぎったが、冷静に考えてみれば詐欺団体に五百円募金するのも、興味のない資格を取ろうとするのも、同じくらい無意味なことに感じた。


 やはりどんなに頑張ったところで世界を変えることはできないと悟った俺は、また虚無感に苛まれながら歩き出した。


××××××××××


 神社に足を運んだ。願い事が叶うことで有名な神社だ。全国的にも有名で、俺も何度か訪れたことがある。平日のため人は少ない。


 広い敷地内を歩き、ようやく本殿に辿り着いた俺は参拝を済ませる。そして足早に脇の建物へと向かった。そこはお守りやらおみくじやらを販売しているスペースで、俺の目的の物も置いてあった。


「これお願いします」


 そう言いながら俺は五百円玉を巫女さんに渡す。購入したのは絵馬だ。絵馬のは募金箱に投入した金額と同じだった。俺は迷いなく絵馬に願い事を書いていき、絵馬掛けに吊るした。そして世界を変えられない一人の人間が書いた願い事を瞳に映す。


『世界が優しくなり、誠実な人が損をしなくなりますように』


 それを見た時、とうとう願うことしかできなくなった己の無力さに絶望した。しかし、それと同時に胸がスっと楽になった。


 二十五年近く誠実に生きようと心掛けてきた。優しい世界で生きたいと焦がれていた。ルールを守ることを笑われるのが耐え難かった。ちっとも理想に沿わない世界を変えたかった。


 しかし、一人の人間にできることなどない。随分と昔に気付いていたことだけど、今日やっとそれを受け入れられた気がする。世界を良くしようと募金をして、虚無感に襲われた。理想の世界になって欲しいと願い絵馬を書いて、無力さに絶望した。これまでの人生もそんな些細な出来事を積み重ねてきた。そうしてようやく、俺は理想の世界を手放すことができた。


 神社の広い敷地から出る。少し進んだところに信号機があった。青の点滅はタイミング悪く赤に切り替わる。見通しの良い道路。左右どちらにも車は見えない。近くに人の姿もない。あるのは赤信号と自分だけ。


 俺は赤信号を無視して横断歩道を渡った。その瞬間、人として大切な何かを失う感触が確かにあった。でも、俺が赤信号を渡ったところで世界は変わらない。優しくもならなければ、さらに醜くなるわけでもない。何一つ影響は与えないのだ。


 俺は失った。人として大切な何かを失った。例えば優しさとか誠実さとか真面目さとか、そういうものを失った。


 でも、その代わりにこの醜い世界をほんの僅かに生きやすくなった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。