表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

最低な男に騙されて深山の羊小屋に売られた私ですが、タイムリープして人生をやり直します

作者: 熾星
掲載日:2026/08/17



 青凪大学の卒業祝いの飲み会で、私たちは「自分にはあるけど、ほかの人にはないもの」を言い合うゲームをしていた。


 勝ちたかった私は、得意になって言った。


「私には、どんなに遅い時間でも、呼べば必ず迎えに来てくれる彼氏がいるよ」


 みんなが囃し立てる中、親友の九条凛だけが急に笑顔を消した。


「紗耶、本当に神谷悠真のために留学を諦めるの?」


 私がうなずくと、凛は私の手をつかんだ。


「私とあいつ、どっちか一人を選んで」


 私はそのことを悠真に話した。


 すると彼はスマートフォンを見せ、「凛」から送られてきたという意味深なLINEを見せてきた。


 私は信じた。


 凛と絶交し、その後、悠真と結婚した。


 けれど結婚後、私は悠真とその母親、血のつながらない妹、そして愛人に嵌められた。最後には霧森県の山奥にある監禁場所へ送り込まれ、凍えるような羊舎の中で死んだ。


 死んでから初めて知った。


 私が自分から失踪するはずがないと、最後まで信じていたのは凛だけだった。


 凛は私が連れていかれた場所まで突き止めたものの、青凪市へ戻って警察に通報しようとした途中、悠真の妹が運転する車に轢かれて死んだ。


 そのときになって、ようやく分かった。


 凛が悠真を誘惑したという写真もLINEも、全部偽物だった。


 もう一度目を開けたとき、私は凛と絶交したあの日に戻っていた。


 今度は、真っ先に彼女を抱きしめた。


 悠真とは、もちろん別れる。


 でも、ただ別れるだけでは足りない。



1



「藤崎紗耶。私とあいつ、どっちか一人。最後にもう一度だけ聞くけど、別れるの? 別れないの?」


 腕を組んだ凛は、怒りで顔をこわばらせていた。


 大学の卒業祝いの飲み会。


 前の人生で、私と凛が完全に絶交した日だ。


 私が悠真のためにルゼール芸術大学への留学を諦めたと知り、凛は人前で本気で怒った。当時の私は、みんなの前で恥をかかされたとしか思えず、彼女と大喧嘩した。


「何年準備して、やっと合格したと思ってるの? あいつに『行く価値がない』って言われただけで、本当に諦めるわけ?」


 それ以上、聞いていられなかった。


 私はそのまま凛に飛びついた。


 彼女の体が固まる。


「……何してるの?」


 私はさらに強く抱きしめた。


 前の人生でも、凛はこんなふうに怒って帰っていった。


 私は本当に、その背中を見送った。


 そして彼女は何年後か、私を探すために青凪市へ戻る途中で死んだ。


「今はまだ、悠真とは別れられない」


 凛の顔が一気に険しくなる。


「離して」


「未練があるんじゃない。ちょっと考えてることがあるの」


 凛はもうバッグを手にしていた。


「信じるわけないでしょ。今日からあんたみたいな恋愛脳、知らないから」


 そう言い残して、彼女は店を出ていった。


 その背中を見た途端、涙がこぼれた。


 前の人生でも凛は「絶交」と言った。


 私はその言葉を本気にした。


 でも最後には、命を懸けて私を探してくれた。


「紗耶、泣かないで」


 背後から、死んでも忘れられない声がした。


 悠真が私の横に立ち、優しく涙を拭ってくれる。


 白いシャツに細いフレームの眼鏡。清潔感があって、知的で穏やかに見える。


 まだ大学院を出て間もなく、周囲から「将来有望」と言われていたころの神谷悠真だった。


「凛は、ずっと自分が紗耶のことを決めてあげるのが当たり前だと思ってるだけだよ」


「でも大丈夫。紗耶には俺がいるから」


 拳を強く握り、今すぐ頬を張り飛ばしたい衝動を必死に抑えた。


「一人になりたい」


 悠真は私の頭を撫でた。


「分かった。紗耶の好きなチーズケーキ、買ってくるよ」


 遠ざかっていく背中を見つめながら、全身が冷たくなっていった。


 前の人生で私の自信を少しずつ奪い、最後には山奥へ送り込んだ男。


 ただ別れるだけでは、あまりにも安すぎる。


 今度こそ、この男の仮面が剥がれ落ちるところを、自分の目で見る。



2



 神谷悠真は、霧森県白霧町では昔から有名な優等生だった。奨学金を受けながら青凪大学の大学院まで進み、修了後は任期付き助教として研究室に残っていた。


 私は視覚デザイン専攻。実家は比較的裕福で、両親の一人娘だった。


 悠真は、そんな私を一年かけて口説いた。


 顔がよく、成績もよく、話し方もうまい。家は決して裕福ではないけれど、将来は有望だと誰もが言っていた。


 両親も彼を気に入っていた。


 特に母の藤崎恭子は青凪大学の教授で、悠真に学会を紹介したり、研究プロジェクトにつながる人を紹介したりしていた。


 いつの間にか、私自身も悠真の言うことは何でも正しいと思うようになっていた。


「デザインって結局、感覚の世界だよね」


 そう言われれば、自分は頭が悪いのかもしれないと思った。


「海外の芸術大学なんて、高い学費を払って経歴を買うようなものだよ」


 そう言われて、ようやく手に入れた留学の機会まで捨てた。


 殺されて初めて分かった。


 あれは「私のため」の言葉なんかじゃない。


 私の自信を、少しずつ壊していただけだった。


 スマートフォンが震えた。


【紗耶、また凛と喧嘩したんだって? 気分転換に買い物でも行かない?】


 佐伯里奈からだった。


 大学で知り合った友人で、最初はそれほど親しくなかった。


 けれど悠真と付き合い始めてから、彼女は急に私との距離を縮めてきた。特に凛と揉めるたび、必ずすぐに現れて私のそばにいてくれた。


 前の人生では、それを優しさだと思っていた。


 実際は違った。


 悠真と本当に関係を持っていた女は、里奈だった。



3



 前の人生で、悠真は一度、霧森県の実家を見せたいと言い出した。


 私はあまり行きたくなかった。


 そんな私に、里奈が自分から言った。


「私も一緒に行くよ。私がいれば怖くないでしょ?」


 私は信じた。


 次に目を覚ましたとき、両手は縛られていた。


 湿った木材と家畜の臭いが混ざった空気。


 里奈は悠真の腕に親しげに腕を絡ませていた。


「紗耶って、昔から何でも持ってたよね」


「でも今度は、私の番」


 私は地面に膝をついたまま、悠真に縋った。


「お願い、連れて帰って。あの人たちがお金を欲しいなら、私が払うから」


 悠真は笑った。


「金のために、わざわざここまで連れてきたと思ってるの?」


「俺たちに必要なのは、紗耶が『消える』ことなんだよ」


 彼に必要だったのは、死んだ妻ではなかった。


 行方不明になった妻だった。


 遺体さえ見つからなければ、すぐに自分が疑われることもない。


 二人が去ったあと、私は山の廃牧場に監禁された。


 一か月も経たないうちに、羊舎の中で死んだ。


 大晦日の夜だった。


 死んだあと、私は青凪市に戻った。


 悠真は私の実家で、両親と一緒に年を越していた。


「お義父さん、お義母さん。どれだけ時間がかかっても、俺は紗耶を探し続けます」


 両親は涙を流していた。


 その娘が、数百キロ離れた山奥ですでに死んでいることも知らずに。


 一方の里奈は、もう待ちきれなくなっていた。


「もう行方不明になってるのに、私たちいつになったら結婚できるの?」


 悠真は冷たく彼女を見た。


「焦るなよ」


「紗耶が消えた直後に俺が里奈と付き合い始めたら、どう見られると思ってる?」


 悠真が狙っていたのは、私の財産だけではなかった。


 藤崎家そのものだった。


 世間の誰もが、私が旅行中に行方不明になったのだと信じた。


 ただ一人。


 凛だけは信じなかった。



4



 凛は私が見知らぬ山奥を怖がることも、何も言わず突然すべての連絡を断つような人間ではないことも知っていた。


 私とは絶交したままだったのに、それでも彼女は私を探し始めた。


 そしてとうとう、私が監禁されていた場所まで辿り着いた。


 羊舎の近くで私の持ち物を見つけ、青凪市へ戻って警察に届けようとした。


 けれど山を出て間もなく、凛の車は別の車に衝突された。


 運転していたのは、神谷美玲。


 悠真の、血のつながらない妹だった。


 そのあと、私は悠真が美玲に話しているのを聞いた。


「九条凛は頭がよすぎる。危うく全部ぶち壊されるところだった」


「紗耶があそこまで単純で助かったよ。写真とLINEを少し見せただけで、本当に凛が俺を誘惑してるって信じたんだから」


 そこで初めて知った。


 凛から送られたはずの意味深なLINEも偽物。


 写真も偽物。


 周囲に広がっていた「九条凛は神谷悠真が好きらしい」という噂まで、悠真が意図的に流していた。


 私がいなくなってから、母は急速に体調を崩し、そのまま亡くなった。


 父も後に脳卒中で倒れ、介護が必要になった。


 悠真は実の息子以上に献身的に世話をした。


 最後には父と正式に養子縁組までして、藤崎家の養子になった。


 その後、悠真は里奈と結婚し、私の家に住み始めた。


 父が亡くなると、養子として相応の財産まで受け継いだ。


 周囲からは、妻が失踪したあとも義父母を見捨てなかった誠実な男として称賛された。


 そんな前の人生を思い出しながら、私は里奈のメッセージに返信した。


【うん。やっぱり里奈が一番優しいね】


 カフェに着くと、里奈はまず凛の悪口を散々言った。


 それから迷うふりをする。


「実はね、ずっと言うべきか悩んでたことがあるの」


 彼女はスマートフォンを取り出した。


 写真には、赤いワンピースを着た女性が悠真に近づく姿が写っている。


 体格は凛によく似ていた。


「これ……凛?」


 私はわざと目を見開いた。


 里奈はすぐに私の手を握る。


「紗耶には別れろって言ってるのに、裏では悠真に会ってるんだよ?」


「変だと思わない?」


「凛って紗耶より家もお金持ちだし、美人なのに、ずっと彼氏いないでしょ。本人なりに思うところがあるんじゃない?」


 前の人生では、こういう言葉を積み重ねられて、私は悠真を完全に信じた。


 今回は肩を落とし、力なく言った。


「もし本当に凛が悠真を好きなら……私、別れようかな」


 里奈は、一瞬こちらが馬鹿なのかという顔をした。



5



「実は悠真も、凛のことが好きなのかもしれない」


「寝言で凛の名前を呼んでたことがあるの」


「だったら、私が身を引いたほうがいいよね」


「ありえない!」


 里奈が思わず大声を出した。


 周りの客が一斉にこちらを見る。


 本人もようやく気づき、慌てて声を落とした。それから悠真がどれだけ私を愛しているか、延々と説明し始める。


 私は簡単に説得されたふりをした。


 店を出たあと振り返ると、里奈はまだ席に座ったまま、ひどく険しい顔をしていた。


 前の人生で、彼女は凛が私を妬んでいると言った。


 でも本当に妬んでいたのは、ずっと里奈だった。


 自分のほうが私より美人で、頭もいい。ただ家庭環境だけが私より劣っている。


 彼女はずっと、そう思っていた。


 それに私も、完全な嘘をついたわけではない。


 悠真が最初に狙ったのは、確かに凛だった。


 九条家は裕福で、凛は一人娘。


 悠真はしばらく、かなり積極的に彼女へ近づいていた。


 けれど凛は人を見る目が鋭い。


 悠真をまともに相手にしなかった。


 そのあと彼が目をつけたのが、凛のそばにいて、当時の彼に憧れの目を向けていた私だった。


 夜、家に戻ると、悠真は前の人生と同じようにスマートフォンをリビングのテーブルへ置いた。


 画面をつける。


 偽造された「凛」からのメッセージに加えて、里奈からのLINEが一つ残っていた。


【まさか、まだ九条凛のこと気になってないよね?】


 私はその画面を写真に撮り、自分の予備アカウントへ送った。凛にもあとで渡せるよう、証拠を残しておく。


 ちょうどそのころ、悠真が果物を持って戻ってきた。


「紗耶、何見てるの?」


 私は太ももを強くつねった。


 すぐに涙がこぼれる。


 悠真は慌てて私を抱きしめた。


「俺と凛の間には何もないよ!」


「本当はすぐブロックしたかった。でも俺が削除したら、紗耶と別れさせるって脅されたんだ」


「紗耶を失うのが怖かっただけなんだよ」


 好きなだけ演技をさせてから、私は彼を押し返した。


「凛とは何もないって信じる」


「じゃあ、里奈は?」



6



 一瞬だけ、悠真の表情が固まった。


 けれどすぐ元に戻る。


「里奈?」


「俺、あの子とは数えるほどしか会ってないよ」


 自分のスマートフォンに残っていたメッセージを見ると、悠真はすぐに説明を作った。


「きっと里奈も凛に騙されたんだよ。紗耶のために俺へ確認しに来ただけじゃない?」


「むしろ、本気で紗耶を心配してくれてる友達なんだと思うよ」


 私は納得したふりをした。


「そっか」


 翌日は、悠真が結婚を前提に付き合っている相手として、初めて正式に私の実家へ挨拶に来る日だった。


 手土産はすべて私が選んだ。


 上等な和菓子、玉露、それから父の好きな日本酒。


 両親は当然、喜んだ。


 食事が終わると、母が私をキッチンへ呼んだ。


 手には購入履歴がある。


「この手土産、紗耶が買ったの?」


 前の人生では悠真を庇った。


 今回は全部話した。


 母は大学教授だった。


 これまで何度も、悠真に人や機会を紹介してきた。


 それなのに正式な挨拶の手土産まで娘に選ばせ、代金まで出させていると知り、悠真を見る目が明らかに変わった。


 帰り道、悠真が不安そうに聞く。


「さっき、お母さんと何話してたの?」


 私は適当にごまかした。


 マンションの前に着いた瞬間、一人の女性が飛び出してきた。


「お兄ちゃん!」


 神谷美玲だった。


 前の人生では結婚後、彼女はほとんど毎日のように悠真へまとわりついた。


 私が嫌な顔をすると、悠真は決まって言った。


「実の妹でもないのにって思ってる?」


「美玲は子どものころいろいろあって、今でも精神的に不安定なんだ。少しくらい大目に見てやってよ」


 死んでから知った。


 美玲は、悠真と血がつながっていない。


 幼いころに保護者を失い、その後、神谷家へ養子として迎えられた。


 そして悠真は、美玲の自分に対する感情が普通の兄妹の範囲を越えていることを、ずっと前から分かっていた。



7



 美玲は子どものころから、カウンセリングや精神科の治療を受けたことがあった。


 和江はいつも彼女に言っていた。


「これからも、お兄ちゃんとずっと支え合っていくのよ」


 それを繰り返すうち、美玲の悠真への依存はますます強くなった。


 前の人生では、私たちの寝室へ勝手に入り、悠真の下着まで片づけることがあった。包丁を持ってドアのそばに立ち、何もせず私を見つめていることさえあった。


 悠真は一度も本気で止めなかった。


 私が怖がるほど、自分に頼るようになるからだ。


 もっと恐ろしいことに、美玲はかなり前から悠真に利用されていた。


 悠真が大学の研究職をめぐって争っていたころ、彼より有力な候補者が一人いた。


 その男はある夜、帰宅途中に車にはねられ、大けがを負った。


 死んだあとになって初めて知った。


 運転していたのは美玲だった。


 悠真はずっと、彼女を騙していた。


「昔から精神科にかかってるんだから、何かしても普通の人と同じようには扱われないよ」


 美玲は、それを信じていた。


 間もなく和江も青凪市へやってきた。


「紗耶ちゃん」


「悠真から、結婚する予定だって聞いたわ」


「白霧町の古い家も処分しようと思ってるの。少しは二人の役に立てるでしょう」


 前の人生では、住むところがない二人をかわいそうに思い、私は自分の家に入れた。


 そこから、家の中は一日たりとも落ち着かなくなった。


 今回も私は、何も知らないふりをして二人を迎えた。


 夜中、水を飲みに起きる。


 案の定、美玲が少し開いたドアの隙間から私を見ていた。


 気づいていないふりをして寝室へ戻る。


 そして眠っている悠真の顔に手を触れながら、わざと小さな声で言った。


「本当は、悠真が好きなのは里奈なんだって知ってる」


「別にいいの」


「私が悠真を好きなら、それだけでいいから」


 ドアの外にあった影が止まった。


 少しして、消えた。


 私は小さく笑った。



8



 それから美玲は、頻繁に里奈のことを聞いてくるようになった。


 私は毎回、わざと少しだけ情報を増やした。


 やがて悠真が家を出たあと、美玲もこっそり後を追った。


 私と凛は、青凪駅近くのホテルにあるカフェに座っていた。


 帽子を深くかぶり、声を落とす。


「嘘じゃなかったでしょ」


 凛は私のアイスを一口すくった。


「やっと少しは頭が働くようになったみたいね」


 遠くには、悠真と里奈。


 二人はどう見ても親しい。


 そして少し離れた場所で、美玲が二人を睨みつけていた。


 凛が突然聞いた。


「どうして急に目が覚めたの?」


 私も同時に口を開いた。


「凛は、なんで最初から悠真がおかしいって思ったの?」


 二人同時だった。


 私は笑った。


「大人になったからかな」


 凛を見る。


「それに、私は凛を信じる」


「これからは、ずっと凛を選ぶ」


 凛の目が赤くなった。


 少し黙ったあと、彼女は小さな声で言った。


「あのクズ、私を脅してたの」


「これ以上紗耶に別れろって言うなら、『九条凛が俺を誘惑してきた』って周りに言いふらすって」


 鼻の奥がつんとした。


 前の人生では、その噂を周囲のみんなが面白がった。


 そして私まで、凛を信じなかった。


 私は残っていたアイスを凛の前へ押し出した。


「全部あげる」


「私を豚だと思ってる?」


 そのとき、向こうから悲鳴が上がった。


 美玲がとうとう飛び出していった。


 いきなり里奈につかみかかる。


 里奈はまるで相手にならず、すぐに髪も服もぐちゃぐちゃになった。


 止めに入った悠真の顔にも、引っかき傷がつく。


「嘘つき!」


 美玲が叫んだ。


「結婚するのは家とお金のためだって言ったじゃない!」


「こんな女がいるなんて聞いてない!」


 周りにいた人たちが次々にスマートフォンを向けた。


 私と凛は顔を見合わせる。


 そして何も言わず、それぞれ帰宅した。



9



 悠真が帰ってきたとき、顔には何本もの傷があった。


 和江がすぐに騒ぎ出す。


「どうしたの、その顔!」


 美玲は後ろで気まずそうにしていた。


 私に知られたくない悠真は、短く言った。


「木の枝に引っかかっただけ」


 私は部屋から出て、傷を見る。


「どんな枝なら、五本の指みたいな傷になるの?」


 すぐに声を荒らげた。


「女に会ってたんじゃないの?」


 騒ぎは夜遅くまで続いた。


 結局、美玲が自分で引っかいたと認める。


 和江はすぐに娘へ怒鳴った。


「いつになったら人に迷惑をかけなくなるの!」


 家の中は大騒ぎ。


 悠真は全員をなだめるだけで疲れ果て、そのまま眠った。


 翌日、彼はいつもどおり青凪大学へ向かった。


 けれど研究室に入った瞬間、周囲の視線がおかしいことに気づいた。


 昨日ホテルで撮られた動画が、すでにSNSで拡散されていた。


【青凪大学の若手助教に二股疑惑? ホテルで女性二人が修羅場】


 美玲の叫び声まで、はっきり残っていた。


 その場で撮影していた人は一人ではなかった。


 一晩で、動画はあちこちへ転載された。


 悠真はすぐに大学側から事情を聞かれた。


 確認が終わるまで、一部の授業や学生指導から外される。


 もともと狙っていた次の専任教員ポストの話も、いったん止まった。


 私はベッドに寝転がりながら、凛へメッセージを送った。


【いい角度で撮れてたね】


 返事が来る。


【事実を記録しただけ】


 しばらくして、里奈から連絡が来た。


 説明したいらしい。


 悠真に頼まれたことくらい、考えるまでもなかった。



10



「本当に、紗耶へのサプライズを相談してただけなの」


 里奈の顔には、まだ美玲につけられた傷が残っている。


「突然美玲が飛びかかってきて、私だってびっくりしたんだから」


 どうやら、また悠真に丸め込まれたらしい。


 私はわざと言いづらそうな顔をした。


「里奈、別に疑ってるわけじゃないんだけど……」


 彼女はすぐに食いつく。


「じゃあ何? 何か気になってることがあるの?」


 かなり迷ったふりをしてから、声を落とした。


「美玲と悠真って、血がつながってないの」


「美玲はあとから神谷家の養子になった子だから」


 里奈の表情が明らかに変わった。


「それに、昔から悠真への依存がすごく強いの」


「ときどき私も……普通の兄妹とはちょっと違うんじゃないかって思うことがある」


 里奈は唇を強く噛んだ。


「そういうことだったんだ」


 本当に嫉妬深いのは、最初から凛ではなかった。


 夜、帰宅すると、部屋は花で埋め尽くされていた。


 悠真が指輪を持って立っている。


「紗耶」


「今回こんなことになったのは、俺が紗耶を不安にさせたからだと思う」


「結婚しよう。絶対に幸せにする」


 前の人生では、本当にその言葉を信じた。


 今でも、あのとき受けた苦しみは骨の奥に残っている。


 それでも私は笑い、手を差し出した。


「うん」


「結婚する」


 悠真はすぐにプロポーズ動画をSNSへ投稿した。


 ホテルの騒ぎについても、「友人がプロポーズのサプライズを手伝ってくれていたところを、妹が誤解した」と説明する。


 一時的に、評判は少し持ち直した。


 両家で結婚の話をしたとき、母が住宅購入について切り出した。


「紗耶には、こちらから頭金として五百万円出そうと思っています」


「神谷さんのほうも五百万円出して、残りは二人で住宅ローンを組むのはどうでしょう」


 和江の笑顔が固まった。


 前の人生では、両親が私に家を用意してくれた。


 今回は、もちろん違う。


 悠真はずっと、金に頼らず自分の力で生きる男を演じてきた。


 そんな彼が、この場で「うちには金がない」とは言えない。


 結局、神谷家も了承した。


 食事のあと、悠真と和江が少し離れた場所で小声で話し始めた。


 私は席を立ち、気づかれない距離からスマートフォンで会話を録音した。



11



 結婚式の日が来た。


 仕立てのいいタキシードを着た悠真は、一見すればまさに勝ち組の男だった。


 里奈も出席していた。


 念入りに着飾った彼女は、花嫁の私より目立ちそうなくらいだった。


 私は一度見ただけで、何も言わなかった。


 神谷家の親戚は少ない。


 代わりに、悠真の大学関係者や研究室のメンバーが大勢来ていた。


 披露宴でプロフィールムービーが流れる時間になった。


 ところがスクリーンは一度暗くなり、会場に聞き覚えのある声が流れた。


「五百万円?」


「そんな大金、うちのどこにあるのよ」


 和江の声だった。


 続いて、悠真。


「白霧町の家を売れば多少は出るだろ。足りない分は借りればいい」


「結婚したら住宅ローンだって二人で返すんだから」


 和江はまだ納得していない。


「藤崎家はあんなにお金があるのに、どうして全部買ってくれないの?」


 悠真が笑う。


「焦るなよ」


「結婚したら紗耶は俺の妻なんだから、藤崎家のものだって、いずれ一部はこっちに来る」


 会場が静まり返った。


 悠真の顔から、一気に血の気が引いた。


 画面が切り替わる。


 次に映ったのは、悠真と里奈が長期間やり取りしていたLINE。


 それから、二人が同じホテルへ出入りしている写真だった。


 里奈まで固まる。


「嘘!」


「こんなの加工でしょ!」


 悠真もすぐに否定した。


「誰かが俺を嵌めようとしてる!」


 そして客席にいる凛を見つける。


「九条凛!」


「こいつだ!」


「ずっと俺たちを別れさせようとしてただろ」


「前にも俺を誘惑してきた。紗耶だって知ってる!」


 会場に迷いが広がった。


 その噂は、すでに悠真が長い時間をかけて周囲へ広めていたからだ。


 凛は静かにグラスを置いた。


「やっと私の番?」



12



 凛はスタッフへ資料を渡した。


 スクリーンに、以前「凛が悠真を誘惑している証拠」として使われた写真が映る。


「画像鑑定に出した」


「この写真には明らかな加工痕がある」


 さらに拡大された写真が映った。


 赤いワンピースを着た女性の手首には、特徴的なブレスレットがついている。


 そして同じ日に里奈がSNSへ投稿した写真。


 彼女の手首には、まったく同じものがあった。


 赤いワンピースの女は、凛ではない。


 里奈だった。


 さらに、悠真のスマートフォンから保存しておいたLINEが表示される。


【九条凛が邪魔だ】


【あいつは頭がよすぎる。紗耶をずっとそばに置かせるな】


【凛が紗耶を妬んでるって思わせれば、勝手に二人で喧嘩する】


 会場が一気にざわめいた。


 父が立ち上がった。


 悠真に手を上げることはなかった。


 ただ私に、一つだけ確認した。


「紗耶。本当にいいんだな?」


 私はうなずいた。


 父は悠真を見る。


「この結婚は中止だ」


 披露宴は完全な修羅場になった。


 式場での映像は、すぐにネットへ流れた。


 今度は誰かがわざわざ拡散を後押しする必要もなかった。


 悠真の名前は一気にSNSで話題になった。


 大学も正式に事実確認を始めた。


 専任教員ポストの選考は事実上消え、現在の任期付き助教としての立場まで危うくなった。


 少しして、私はショッピングモールで悠真と里奈を見かけた。


 二人は喧嘩していた。


 悠真は何も説明せず、そのまま背を向けて去っていく。


 彼が一番得意なやり方だ。


 無視し続け、相手に「自分が悪かったのではないか」と考えさせる。最後には相手のほうから謝りに来させる。


 里奈は私を見るなり、涙を拭いた。


「何見てるの?」


 私は笑った。


「二人、いつ結婚するの?」


「紗耶には関係ないでしょ」


 私はため息をついた。


「もう分かったの」


「私が悠真には釣り合わなかったんだと思う」


「里奈のほうが私より頭もいいし、美人だし。二人のほうがお似合いなんじゃない?」


 里奈の表情がわずかに変わった。


 私は何気ない口調で続けた。


「子どもでもできたら、二人の関係も落ち着くのかもしれないね」


 それだけ言って立ち去った。


 期待を裏切らないでよ。



13



 一か月ほどして、里奈がSNSに婚姻届を出したことが分かる写真を投稿した。


 彼女は妊娠していた。


 悠真は本来、そこまで早く籍を入れたくなかった。


 けれど結婚式があれだけの騒ぎになったあとで、「付き合っている女性を妊娠させても責任を取らなかった」とまで言われれば、残っている評判も終わる。


 里奈の母親と二人の兄も、霧森県からやってきた。


 最後には悠真も、彼女と婚姻届を出すしかなかった。


 当然、家は買えなかった。


 頭金を用意するために借りた金もあり、手付金やその他の損失も出た。


 結局、二人は悠真が以前から借りていたマンションに住み続けた。


 美玲も一緒だった。


 美玲はこれまでどおり、悠真にまとわりつく。


 けれど里奈は、二人に血のつながりがないことをもう知っている。


 黙って見ていられるはずもなかった。


 二人は毎日のように喧嘩した。


 里奈が妊娠五か月のころ、浴室で転倒した。


 子どもは助からなかった。


 私は病院へ見舞いに行った。


 里奈は青白い顔で、一人きりでベッドにいた。


 悠真は「大学の用事がある」と言って来なかった。


 和江に至っては、子どもを守れなかった里奈のほうを責めたらしい。


 里奈は泣き続けていた。


 手には、生まれてくる子どものために買った小さな服を握っている。


 帰り際、私は何かを思い出したように言った。


「そういえば、前にこのマンションで空き巣騒ぎがあったから、悠真と住んでたころ玄関とリビングに防犯用の室内カメラを置いてたの」


「外すか残すかは、里奈が決めればいいよ」


 彼女はすぐ顔を上げた。


 その後、古い映像を確認した里奈は、美玲が自分の入浴前に一人で浴室のある方向へ入っていく姿を見つけた。


 何が起きたのか。


 それ以上、誰かが説明する必要はなかった。


 二か月後。


 SNSで、神谷家の人間が揃って霧森県北部へ旅行している写真を見た。


 私はその方向をよく知っていた。


 前の人生で、私が連れていかれた場所と同じ方向だった。


 数日後、彼らは帰ってきた。


 ただ一人。


 美玲だけが戻ってこなかった。



14



 神谷家は、美玲の失踪を警察に届けなかった。


 一人の人間が、まるで最初から存在しなかったように消えた。


 でも構わない。


 私が通報した。


 里奈たちが旅行したルート、美玲が消える前後の情報、それから今回の人生で確認できる材料をまとめ、警察へ渡した。


 凛も弁護士や調査会社を通じて、車両や関係者の行動記録を補足した。


 私は前の人生の記憶から、警察がどこを調べるべきか分かっていた。


 けれど警察に渡せるのは、あくまで今の人生で存在する証拠だけだった。


 捜査はすぐに山間部へ広がった。


 間もなくニュースが流れた。


【霧森県警、長期間にわたる監禁・人身取引事件を摘発。複数の容疑者を逮捕】


 逮捕された人間の中には、里奈の親族が何人もいた。


 里奈が育った地域の近くでは、昔からこうした犯罪グループが動いていた。


 彼女の母親自身、若いころにはその被害者だった。


 だから里奈は、そういう人間たちがどうやって外部の人を山へ連れ込み、逃げられなくするのかを知っていた。


 前の人生で私を山奥へ送る方法を考えたのも、彼女だった。


 救出された美玲は精神的にかなり不安定な状態だった。


 里奈も、今回の誘い出しや監禁に関与した疑いで捜査対象になった。


 同じころ、別の過去も掘り返された。


 以前、悠真と大学のポストを争っていた佐久間圭介が公に名乗り出たのだ。


 彼はずっと、自分が遭った交通事故を偶然だと思っていた。


 けれど事故前、美玲が長期間自分の行動を追っていた可能性があると知った。


 警察は過去の事故を改めて調べ始めた。


 美玲も状態が安定してから事情を聞かれた。


 彼女は何度も同じことを言った。


「お兄ちゃんが、大丈夫だって言った」


「昔から病院に通ってるんだから、何かしても誰も本気では責めないって」


 改めて確認すると、美玲には確かに長期的な精神的不調や治療歴があった。


 けれど、それは自分の行為が他人を傷つけると理解できなかったという意味ではない。


 何をしても大丈夫だと、ずっと彼女に教えていたのは悠真だった。


 妹の依存を利用し、何度も自分の前に立たせてきた。


 自分だけは、後ろに隠れたまま。



15



 捜査には時間がかかった。


 里奈は誘い出しや監禁などへの関与を問われ、刑事手続きへ進んだ。


 美玲は山中の事件では被害者である一方、それ以前に他人へ加えた危害については別に責任を問われることになった。治療も継続された。


 悠真についても、過去のLINE、佐久間の事故、美玲の供述が少しずつつながっていった。


 大学側も改めて彼の経歴やこれまでの問題を確認した。


 専任教員への道は完全に消えた。


 任期付きの現在の立場も更新されず、彼は大学を去ることになった。


 その後、一度だけ悠真に会いに行った。


 面会室のガラス越しに見る彼には、昔の知的で上品な面影など残っていなかった。


 私を睨みつける。


「全部、紗耶がやったんだろ?」


 私は答えなかった。


 悠真は突然、何かに気づいたように目を見開いた。


「違う……」


「紗耶が、こんなに知ってるはずがない」


 彼はガラスへ身を寄せた。


「お前も戻ってきたんだろ?」


 私の手が止まる。


 ――も?


 悠真は私を見た。


「やっぱり、紗耶も覚えてるんだな」


 その瞬間、分かった。


 悠真も、前の人生の記憶を取り戻していた。


 ただし、私と同じ時期ではない。


 彼が記憶を取り戻したのは、今回の人生ですべてを失い、身柄を拘束されたあとだったらしい。


 前の人生では、私が死んでから五年後、悠真は藤崎家の養子となり、父の財産も受け継いでいた。


 大学でも順調に地位を上げていた。


 まさに人生の絶頂だった。


 そんな記憶を持ったまま。


 彼は、今に戻ってきた。


 仕事を失った今。


 名誉を失った今。


 過去の悪事が次々に明るみに出た今。


 私はゆっくり笑った。


「それなら、よかったじゃない」


「自分が何を失ったのか、ちゃんと分かるでしょ」


 受話器を置いた。


 ガラスの向こうで悠真が何か叫びながら叩いていたけれど、もう私には届かなかった。


 建物を出ると、凛が車で迎えに来ていた。


 助手席に乗る。


 走り出した車の窓から外を見ているうちに、前の人生を思い出した。


 この車だ。


 凛が私を探して、あちこち走り回った車。


 最後に事故に遭ったのも、この車だった。


「もう少しゆっくり走って」


 思わず言った。


 凛は前を向いたまま答える。


「何?」


「また私が事故に遭うのが怖い?」


 全身が固まった。


 ゆっくり彼女を見る。


「凛……」


 凛がちらりとこちらを見る。


「何?」


「いつ思い出したの?」


 彼女は何でもないことのように答えた。


「昨日の夜」


 私は一気に背筋を伸ばした。


 終わった。


 前の人生で、悠真を選んで凛を信じなかったことまで、全部思い出している。


 車内がしばらく静かになった。


 やがて凛が口を開く。


「藤崎紗耶」


「……はい」


「どうやって私に埋め合わせするか、ちゃんと考えて」


 私はすぐに答えた。


「かわいい写真、一万枚撮ってあげる!」


「足りない」


「一万枚でも足りないの?」


 凛がようやく笑った。


 陽射しが車の中へ差し込む。


 二人のくだらない言い争いは、午後の風の中へゆっくり溶けていった。


番外編 九条凛


 藤崎紗耶という人間は、昔から騙されやすい。


 特に、顔のいい男が相手だとひどい。


 神谷悠真を初めて見たときから、私はあいつが嫌いだった。


 話し方はいつも穏やか。


 でも人を見る目が、まるで相手にどれだけ利用価値があるか計算しているみたいだった。


 なのに紗耶には、まるで見えていない。


 あの子は高校のころから、海外でデザインを勉強したがっていた。


 大学に入ってから何度も挑戦して、ようやくルゼール芸術大学に合格した。


 私は先にルゼール市で、二人で住める部屋まで借りていた。


 あとから、


「たまたま私もしばらく向こうに住もうと思ってた」


 なんて言って、驚かせるつもりだった。


 たまたまなわけがない。


 私はただ、紗耶についていきたかっただけだ。


 なのに、あの子は神谷悠真のために留学をやめた。


 あの男が何を言っても信じる。


 留学なんて意味がないと言われたら、本当に行かない。


 能力が大したことないと言われたら、本当に自信をなくす。


 とうとう腹が立って、私は二者択一を迫った。


 紗耶は、私を選ばなかった。


 絶交したあと、紗耶は結婚した。


 私を式には呼ばなかった。


 でも、こっそり見に行った。


 ウェディングドレス姿の紗耶は、すごくきれいだった。


 本人は昔から、自分は普通だと思っている。


 でも私から見れば、ずっとかわいかった。


 小学生のころ、男子にからかわれた私の前に立って、


「凛はお姫様なんだから、いじめちゃだめ!」


 と本気で怒った。


 中学生のころには、いじめられていた女の子をかばい、一緒に学校の倉庫へ閉じ込められた。


 見つけたときには、目がパンパンに腫れていた。


「もう勝手に首突っ込まないって約束できる?」


 そう聞いたら、泣きながら答えた。


「二人一緒でよかった」


「一人だけだったら、絶対もっと怖かったもん」


 紗耶の一番悪いところは、人を簡単に信じるところ。


 二番目は、顔で男を見るところ。


 そのあと、私はルゼールへ行った。


 二人で住むつもりだった部屋に、一人で住んだ。


 しばらくして、紗耶が行方不明になったと聞いた。


 その日のうちに戻った。


 みんなは、紗耶が霧森県を旅行している途中で消えたと言った。


 私は信じなかった。


 紗耶は知らない山道を怖がる。


 まして、突然誰にも連絡を取らなくなるような人間じゃない。


 ずっと探した。


 最後に、霧森県北部で見かけた女性が、紗耶に贈ったネックレスをつけていることに気づいた。


 そこから辿っていった。


 そして、あの羊舎を見つけた。


 中に、紗耶の服があった。


 その瞬間、全部分かった。


 私はその場で中へ乗り込まなかった。


 一人では何もできない。


 戻って警察へ行く。


 弁護士にも相談する。


 ここを全部調べてもらう。


 青凪市へ戻る道で、ずっと泣いていた。


 後悔していた。


 騙されたなら、騙されたでよかったじゃない。


 どうして私は、本当にあの子と意地を張り合ってしまったんだろう。


 私がそばにいればよかった。


 一度騙されたら、一度引っ張り戻す。


 十回騙されたら、十回引っ張り戻す。


 それでよかったのに。


 そのとき、一台の車が突然こちらへ突っ込んできた。


 意識がなくなる直前、紗耶が見えた気がした。


 痩せて、誰だか分からないくらいで、体中が傷だらけだった。


 泣きながら、何度も私の手をつかもうとしていた。


 でも、その手は私の体をすり抜ける。


 私はふと思った。


 それなら、まあいいか。


 私も死んで幽霊になったら。


 今度こそ、紗耶は私に触れられるのかな。


 次に目を開けたとき。


 私は結婚式場に立っていた。


 大きなスクリーンでは、神谷悠真の本性が暴かれていた。


 そして紗耶は、ウェディングドレス姿でそこにいた。


 すぐに理解した。


 私は戻ってきた。


 ただし、紗耶よりずっと遅かった。


 前の人生の記憶を取り戻したときには、紗耶はもう結婚式で悠真を追い詰める準備を全部終えていた。


 最初に思ったのは、よかった、だった。


 次に思ったのは――。


 このバカ、やっと少し頭がよくなった。


 そのあと、今回の人生で起きたことを追っていくうちに気づいた。


 紗耶は、ずっと前から自分で動いていた。


 私は何も言わなかった。


 前の人生では、何でも私が決めてやろうとしていた。


 でも今度は、紗耶自身が自分の人生を取り戻したほうがいいと思った。


 だから私は、あの子が知らないところで少し手を貸しただけ。


 ホテルで撮った動画を消えないよう保存した。


 必要なところは、専門家に調べてもらった。


 紗耶が霧森県の情報を警察へ渡したあとには、こちらで確認できた資料を追加した。


 誰にどんな罰を与えるかを、私が決めたわけじゃない。


 自分たちがやったことなら、証拠は自分たちで残している。


 ただ、一つ。


 紗耶にはまだ知られていないことがある。


 車の中で、あの子は私に聞いた。


「いつ思い出したの?」


 私は答えた。


「昨日の夜」


 もちろん、嘘だ。


 私が前の人生を思い出したのは、紗耶の結婚式の日。


 あのスクリーンの前で、全部戻ってきた。


 でも、前の人生で男を選んで私を捨てたんだから、少しくらい罪悪感を抱かせても罰は当たらない。


 私が「昨日の夜」と言った瞬間、紗耶は背筋をぴんと伸ばした。


 分かりやすすぎて、笑いそうになった。


 だからわざと真顔で言ってやった。


「どうやって私に埋め合わせするか、ちゃんと考えて」


 紗耶はすぐに焦った顔で聞いた。


「かわいい写真、一万枚撮ってあげるのは?」


 私はわざと答えた。


「足りない」


 一万枚で足りるわけがない。


 前の人生で失った時間。


 今回の人生。


 それから、その先も。


 でも大丈夫。


 今度こそ、時間はいくらでもある。


――完――









評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ