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Session.3 折れた弓

 調も有亜も、互いの秘密を知る由もなかった。

 二人は、学校の中では何か後ろめたい様子は微塵も見せなかった。彼らは、自分たちの間に育まれた友情をそう気安く他人には見せびらかさないのだ。

 前はよく有亜が一人で歌を一節を口ずさんでいるのをよく調は目撃していたが、それも喉を痛めてからは聞かなくなって久しい。

 調にとってはむしろ有亜の方が羨ましかった。どうやったらあれほど広い音程を出せるのだろう。あれは素質だ。

 幼い頃は調もよく歌うのが好きで誰の前だろうと構わず大声を出していたが、それで褒められたことはほとんどない。むしろ叱られることの方が多かった。それが悪く言おうとしているのではなくて、客観的な評価だと気づいたのは中学生になって間もない頃だ。

(まあ、それには嫌な奴からひどくからかわれたのもあるんだけど)

 だからこそ有亜が歌う時には、調は絶対誰にも悪く言わせなかった。有亜の歌声は万人を感動させるものがあるとかたく信じていたから。

 だからこそ、久米次につけてもらう稽古では、絶対に成果を出さねばならないと張り切っていた。


 音楽のことについてあまりに関心が向かう調にとっては、それに関連しないクラスメイトの話はほとんどノイズにしか聞こえなかった。

 将来のことや恋愛のことなどまるで考える暇がなかった。ましてやそれですらない、くだらない話などなおさらだ。

 だから調にとっては学校が時折動物園のように思えることがある。

 そういう、自分の趣味から離れた物を見下す傾向が捨てられないために、調は基本的にバンド仲間以外とほとんど話すことがなかった。

「あいつらってさ、何でゲームとかスキャンダルの話とかしかしないわけ? もうちょっと面白いことをしようとか思わないわけ?」

「そんなんだから、調は打ち解けられないんだよ」 嫌味ったらしく、鼓は言った。

 それを嫌だとは思っても、怒り切るわけにもいかない。鼓や倉香はもう少し他人と折合が付けられる方だった。

 有亜に対してとりわけ調が気を遣うのは、調に似て他者とやっていくのが苦手という共通点があったからかもしれない。


 次の日、道草をすることにした。琴鳴ことなる町あたりの、自然公園の近くを歩くことにした。

 音楽のことから何としてでも心をそらす必要があると感じたからだ。このままポラリスや久米次のことについて考えすぎても、どうにもならない。深呼吸しなければと。

 だがそれは無駄な試みに終わった。気づくとまたもや調はいつの間にか音楽のことを考えていた。次、久米次に会ったらどんなことを言えばいいだろうかと。

 木立の間から、ヴァイオリンの音が聞こえた。

 その優美な音声で、騎士の情景が想像された。

 テレビで似た人を見たことがあるが、鶴舞つるまい弓刃ゆみはという演奏者ではなかったか。黒い髪が艶めいて美しかった。

 調は、自分とは異なる領域の住人である弓刃の姿に見とれ、立ち止まった。その体感にしても、身のこなしにしても、空間と調和しており、違和感がない。

 自分が野暮ったい服装であるように見えて、思わず恥ずかしい気分になった。

「あなたは……?」

「六条調っていいます! 鶴舞さんのことはよくお聞きしております……」

 鶴舞弓刃は、姉妹で演奏をしているのではなかったか。しかし、姉の方が体調不良のためにずっと休んでいる、という話を学校のチラシで読んだことがある。

「あの……お姉様が、まだ元気がないとお聞きしているのですが」

「ええ。必死に励ましてはいるけど、まだ元気がなくて」

「そうなんですか……」

 弓刃はそれから、少し話題を変えて、

「あなたの格好、とても派手ね。私の趣味とはとても合わないわ」

「そりゃもう……ロックを追求してますから!」 弓刃を無理にでも励まそうとして、親指を立てる調。

「とても派手ね。私はあまりそういうジャンルの音楽は聞かないの」

「そ、そうなんですか」 思えば、調も、そこまで広いジャンルの音楽を聴いているわけではない。音楽の領域そのものが今では広すぎるのだから、演奏する者同士での共通点などほとんどない。

 調は明るく振舞ってみたが、逆に弓刃の表情が、一層憂えを含んだように見える。

 あまりに明るく振舞い過ぎてしまったかもしれない、と調は反省した。落ち込んでいる人間には、それなりに沈んだ雰囲気に合わせる方が相手に気負わせないものだ。

「実は……とても、悩んでるんです。親友が、前みたいに歌えないって」

 やや身構えて、尋ねる弓刃。

「その子は、だんだん歌えなくなったの?」

 ミューノイズに襲われたわけではない。あの時襲われたことや、謎の声の導きで知ったが、ミューノイズに音色を奪われると一層生気がなくなってしまう。心ではなく、体を蝕まれるのだ。

「いや、全然歌えないってこともないんです。私なんかからすれば、むしろずっと成長し続けているといってもいいくらいなんです。でもあの子自身が、それに納得してないっていうか。だから本当は十分凄い奴なんだって伝えたいんですけど、そうしたらますます意固地になりそうで、どうしたらいいか……」

「だったら、言うしかないでしょう。言わなきゃ何も伝わらない」

「で、ですよねー」 頭をかく調。

「弦奈さんが、まだ回復していないと聴いたのですが……」

「お姉様が突然演奏をできなくなったの。だから私が代わりにがんばらないといけない」

 もしかして、と思ったが、それをすぐに言い出すことはできなかった。

「私も、がんばりたいです」

「あなたはいいな……まだ、何も失っていないようだから」

 弓刃はややつっけんどんな口調になっていた。調の悩みなど知ったことではないから、まあ当然のことである。

 しかし調はむっとした。むっとしたことを顔に出す前に、異変が生じた。

「……雑音?」 何の前触れもなく、それは起きた。

 虫の音や水のせせらぎが、まるでぶつ切りにして、でたらめに入れ替えたかのように不自然な音の響きをしているのだ。

 突然、弓刃の顔が硬直し、彫像のように制止する。

 その直後、弓刃はばねのように立ち上がってどこかへと走り去ろうとした。

「ちょ、ちょっと待ってくださいよ!」

 調は驚いて弓刃の後を追ったが、その姿を見失わないことで勢一杯だった。


 弓刃が向かった先では無残にも、楽器が投げ捨てられていた。逃げ惑う者たちの悲鳴が聞こえていた。調はそれを見て悟り、憤った。

 巨大な音叉の頭をいだいた黒い影が何人も会場を動き回り、人々をつかんでは音色を吸い取っていた。

 彼らはどこにでも現れる。そして、容赦なく人の光を奪う。

 ヴァイオリンから手を離さず、弓刃は影に向かって啖呵を切った。

「姉の音色を奪ったのは、お前たちか!!」

 黒い音叉が一切の感情を感じさせない白い瞳を薄暗く光らせ、弓刃に向かって行った。

「あ、危ないですっ――」 調がギターを構え、弓刃の前に立とうとする直前に、

 ――これは、遠い昔、ある国の物語。

 ヴァイオリンの音がイントロを奏で、調を立ち止まらせた。楽器の表面からあふれ出る冷たい空気が繭のように弓刃を包み込み、音叉たちを近寄らせなかった。

 ――いまだ、国々は小さい単位で分かれ争い合っており、人々の暮らしに安寧は訪れることはなかった。けれども、他人の幸せを願って武器を取るものは確かにいた。

 弓刃の握りしめる弓が駆動すると同時に、ヴァイオリンからほとばしる冷えた刃が呼応するように戦場を疾駆する。高く鋭く、音叉を切り裂く。


 音代であり、演奏を形として認識できる調にとっても、あまりにも複雑な曲線を描きながら縦横無尽に飛び回っているせいで、弓刃の音色が一体どういう動きをしているのかは見当がつかなかった。

 弓の動きがそのまま斬撃となってミューノイズに襲いかかる。


 ――領主の娘は、国を守るために、鎧を身に着けて剣を差し、敵兵に向かった。そして、何度も命の危機にさらされた。

 だが娘は勇敢だった。


 敵が遠くに飛びすさろうが、的確に追跡し、容赦なく切刻んだ。時折鳴らすピッツィカートが、サランネットでできた羽を生やして飛ぼうとした影を三枚おろしにした。

 調は、彼の演奏の巧みさに一瞬感心して、戦いを忘れてしまっていた。だから、すぐ頭上に敵が近づいていることにも気づけなかった。

 だが、心配する必要はなかった。調にミューノイズがかざそうとした手が切り落とされ、奴の体も真っ二つに裂けた。断面から、ピアノ、諸々の音が悲鳴のように弾けて、どこかへと消えて行った。


――戦いが終わり、娘は城に帰る。顔から血を流し、体中に傷を負いながら。しかし、後悔はない。全てを知った領主は娘を叱りつつも最後には深く抱きしめるのだった。


 調は、巧みな演奏に素直に感動することはできなかった。

 うつむき、悔しさをにじませなら肩を震わせる姿を見れば。

(結局、また違うのか)

 弓を握りしめる手をわなわな震わせていた。

(また私は、お姉様を救うことができない)

 無力さで、歯をかみしめる。


 鶴舞家は明治以来名だたる演奏者を輩出してきた名門である。当然、弓刃の姉もその家名を背負う者としてこの先生きて行くはずだった。だが、あの『影』の前には無力だった。

「逃げて、弓刃……!」

 影を目の前にして、姉は演奏をやめなかった。

 影は、黒い鎧に身を包んでいた。まびさしの向こうにはただ一つの光があり、それが格子を通して二つの目に見えた。

 影はその音色を聴き、輪郭をゆがませながらも決して後退することはなかった。

「でも、お姉様……!」

 そして、黒い影が彼の胸に手をつっこみ、体内から音楽を奪い取った。

 姉は崩れ落ちた。最後の音色が不協和音を奏でた。

 異様な光景に、おののくことしかできない弓刃に、誰かの声が励ますようにささやいた。


――まだ、救いはある。


 弓刃は驚き、声のある方向を向いたが、そこには何もない。


――希望はある。必ず彼らからお姉さんの音楽を取り戻すんだ。


 姉のヴァイオリンが光り始めた。衝動的にそれをつかみ取った時、見知らぬ力が弓刃の内部に流れ込んだ。聞こえないが、しかし確かに強い意志を奏でる音色が。


 調は、弓刃の過去を知らない。しかし、間違いなく自分にとって無関係なことではない。

 このことを言うのは、気分が重い。だからといって、ここで物怖じするようでは、ロックではない。

 あえて真実を打ち明ける調。

「音代なんです……弓刃さんと同じ」

「だから? これは、あくまでも私の問題」

(何なんだよ……何で音代ってこんな奴ばっかなんだ!)

 ただでさえ味方がいないという現実に対する憤りを何とか隠すしかない。

「あんたは、まだ奴らのせいで大切な人の音色を奪われてないみたいだけど。お姉様の弓はもうあいつらに汚されてしまったのよ」

 弓刃の口調に、抑えきれない感情が漏れ出る。

「ってことは、ミューノイズに……」

「お姉様の音程は狂ってしまった。それを元に戻すためには、お姉様の音色を奪った奴を倒すしかない。でもまだ奴は見つからない」

 調は、弓刃と弦奈のためになりたかった。

「私にも、協力させてください」

 しかし、頑として首を縦に振らない。

「だめよ。これは私の問題。あなたの関わる所じゃない」

「でも、私だって、指をくわえて観ていたくはないですよ!」

 弓刃は、冷たい目つきで振り向いた。

「なら、私のお姉様の姿を見て行くといいわ。これがどれだけ辛いか分かると思うから」


 調が案内されたのは森の中、帝国時代に建てられた洋館だった。煉瓦造りで、長い年月を経てくすんだ色合いに染まってはあるが瀟洒な雰囲気を失ってはいなかった。

 弓刃と似た顔で、本来ならもう少し美人であるはずなのだが、やせこけ、しみができたその顔はかなり老けて見えた。

「お姉様。お客様よ」

 シックな色合いの奥の部屋に入ると、一人の少女が椅子に座っていた。弓刃と同じ服装でよく似た顔立ちだった。

「あの……六条調と申します!」

 元気な声で言った。

 相手も、それにつられたのか、やおら立ち上がって、やや無理のある高い声を出した。

「鶴舞弦奈ですわ。もしかして……あなたも、音代なの?」

 そのただならぬ雰囲気が、直感で理解させた。

「……はい」(この人も、音代なんだ)

「じゃあ……聞いたのね。あの声を」

「聴きました。その言葉通りに従って戦っているんですが……正直、こんなことがいつまで続くかと思うと、とても気分が重いです」

「そんな風に気落ちしなくていいわよ。私は、あの重責に結局耐えることができなかったのだから」

 目は笑っていない。もう感情すら死につつあるのだ。

 弦奈の虚ろな瞳に調はただ憮然とする他なかった。

 生気以外は、全てがない。

 自分を自分らしく見せていた物を奪われた絶望だ。

(有亜は、もしかしたらこの一歩手前の状態にあるのかもしれない)

「彼らは……何なんでしょうか」

 弦奈は消え入りそうな優しい声で。

「理不尽よ。音楽を求めて、得られない者たちの怨嗟。それが、持てる者たちである私たちを襲うの」

 調の気持ちに合わせるように言ってくれたのかもしれない。だが見せたのはまた引きつった笑顔だった。それが余計に、調の心をしめつけるのだった。

 洋館から帰る前に、弓刃は言った。

「やっぱり私……弦奈さんのこと、見捨てられないです! 一緒に戦いましょうよ。もしかしたらあの声も、敵の正体も――」

「冗談じゃない! 誰にも、私の仇を取らせはしない! この悲しみは私だけのものよ!」

 小声だったが、厳しげだった。

「あなたにお姉様の何が分かるの? 一人の人間としてあの人を知っているのは、私だけだっていうのに……!」

 姉妹の絆は間違いなく固い。だからこそ、無念さから来る傷も深いのだ。

 そのあたりの機微に詳しくない調は、すっかり途方に暮れてしまった。

 結局調は、そこからすごすごと去ることしかできなかった。

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