第9話|人生最後のコーヒー
「ママ、朝だよ!」
幼い、しかし元気いっぱいの声が、遠くから聞こえる。重い瞼をゆっくりと開くと、見慣れた天井の模様がぼんやりと視界に入った。
あ、私、気を失っていたんだ……。
昨夜の出来事が、ゆっくりと、しかし確かな痛みとして脳裏に蘇る。
玲奈からの信じられないメッセージ。
ブラトップとホットパンツ姿でソファーに倒れ込んだ自分。
そして、もう何もかも終わったという、あの底なしの絶望感。
「あ、ごめん。ママ寝ちゃってたね。すぐ朝ごはんやるね。」
感情のない、平坦な声が口から漏れた。
体は重く、鉛のようにだるい。
それでも、いつものルーティンをこなさなければ。朝食を準備し、夫を送り出す。
全てが、まるで遠い世界の出来事のように、静かに、黙々とこなされていく。
アミカの動きには、一切の迷いも、喜びも、悲しみもなかった。ただ、体が勝手に動いているだけ。
夫が寝室から出てきた。さすがにアミカの異変に気づいたのだろう、少し心配そうな顔をして尋ねてきた。
「どうした? 疲れてる?」
アミカは、夫の方を見ることなく、「ううん、そんなことないよ」と、魂が抜けたような声で返事をした。
夫は不思議そうな顔をしていたが、「あまり無理するなよ」とだけ言って、朝食を食べ始めた。
いつもの朝の光景。
だが、アミカの心は、彼らの存在とは隔絶された、深い海の底に沈んでいた。
子供たちをいつものように保育園へ送り届け、重い足取りで自宅に帰ってきた。
スマホにら高嶋からのメッセージ通知が来ているのが見えた。しかし、それを確認する気力も、意味も見出せなかった。
アミカはスマホを鞄の中に放り込み、リビングのソファーに、吸い込まれるように身を沈めた。
静寂が、耳鳴りのように響く。
「はると、さくら、ごめんね。もう私は、この子たちのママではいられない。」
喉の奥から絞り出したその声は、掠れてほとんど聞こえなかった。視界が滲んで、ぼやけた天井のシミが、まるで私の人生そのものみたいに見える。こんな言葉を口にする日が来るなんて、夢にも思わなかった……。
私がいなくても、パパと頑張って大きくなるんだよ。二人のママでいられて、幸せだったよ。
パパ、こんな私でごめんね。でも結婚してくれて、ありがとう。幸せだったよ。
アミカの顔は、乾ききったはずの涙でぐちゃぐちゃだった。
もう何の感情も残っていないはずなのに、溢れてくる涙を止めることはできなかった。
みんな。ありがとう。
その言葉を呟いた時だった。
そうだ。
アミカの脳裏に、一つの思いがよぎる。
それは、絶望の中に差し込んだ、たった一つの小さな光のようだった。
最後に、私が一番大好きだった、ムーンバックスのコーヒーが飲みたいな。
アミカは何を決心したように、もう迷いはなかった。もう、何も考える気力も残っていない。
ただ、その思いに突き動かされるまま、財布とスマホだけを持って、家から一番近い、アミカが大好きなムーンバックスへと向かった。
冷たい外気が、熱を持った頬を撫でていく。
それでも、その冷たさが心地よかった。ムーンバックスのロゴが見えてくる。
やっぱりこの雰囲気、好きだな。
店内に入ると、その洗練された空間、漂うコーヒーの香りに、凍てついていた心が微かに緩むのを感じた。
いつもはテーブル席に座るアミカだったが、今日は違う場所を選んだ。
せっかくだから、今日はカウンターに座ってみよ。ここからバリスタがコーヒーを淹れているのを見るの、好きなんだよね。
カウンターに腰を下ろし、疲弊し、正気を失っている顔をなんとか取り繕い、注文した。
「イタリアンブランドの、ミドルサイズで。」
アミカの顔を見たバリスタは、一瞬、驚いたような表情を見せたが、すぐにプロの顔に戻り、手際よくコーヒーを入れ始めた。
豆を挽く音、ミルクを温めるスチームの音。
それらの音が、今はなぜか心を落ち着かせた。
「このコーヒーを飲んだら、私は……」
アミカの目の前に、注文したコーヒーがそっと置かれた。温かい湯気が立ち上る。
その時だった。
「お客さま、大丈夫ですか?」
「え?」
アミカは突然の言葉に戸惑い、バリスタを見上げた。
なぜ。
なぜ、この人は私にこんな言葉をかけるのだろう。
高嶋さんも、稲本さんも、私を助ける気なんてなかった。
私を食い物にして、裏切って、嘲笑った。
なのに、どうして、私との初対面の見ず知らずの人が、私にこんなにも優しくしてくれるの?
張り詰めていた感情が、その一言で一気に決壊した。大粒の涙が、堰を切ったように頬を伝う。止まらない。
バリスタは驚くこともなく、ただ静かに、アミカの目の前にティッシュ箱を置いた。
「よかったら、こちら使ってください。」
その優しい声と、差し出されたティッシュ箱の温もりに触れた瞬間、アミカは忘れていた感覚を思い出した。
利害関係のない、本物の優しさ。
高嶋や玲奈のような目的を持った優しさではなく、目の前の困っている人を助けようとする、純粋な優しさ。
「私、ムーンバックスを自分の稼ぎの道具としてしか見ていなかったな……。」
心の奥底から、後悔と懺悔の念が込み上げてくる。
目の前が少しずつ明るくなる。
これまで見失っていた人間的な温かさが、アミカの心の氷を、ゆっくりと、しかし確実に溶かしていく。
アミカの視野が広がる。
ムーンバックスのお客さん、みんな笑顔だ。
彼らは純粋に、この空間とコーヒーを楽しんでいる。本当に好きなんだ。
そこに、金儲けの匂いは一切しない。
私もこうだったな。
どうして、大好きなムーンバックスで稼ごうとしちゃったんだろう。
......まだ、私やり直せるかな?
もう一度、ムーンバックスを大好きになれるかな?
まだ私、はるととさくらのママでいてもいいのかな?
まだ、私は……生きていてもいいのかな。
生きたい……やり直したい……。
アミカは、強く、そう思った。
その思いは、全身を駆け巡る電流のように、彼女の心を震わせた。
そして、ついに決意する。
「楽して稼ごう、私らしく好きをお金にして稼ごうなんてのは幻想だった。そんな都合がいい近道なんてない。辛いことも多いかもしれないし、思い通りにいかないかもしれない。でも、みんな必死になって、地道に頑張っているんだ。少し遠回りしたっていい。きっとそれが、生きている証拠なんだ。」
アミカは、そっとバリスタを見上げた。涙は止まっていた。
「あの、ありがとうございます。もう、大丈夫です。」
バリスタは静かに微笑んだ。
その笑顔は、アミカの心に温かい光を灯してくれた。
店を出ると、太陽が眩しかった。
こんなに晴れていたっけ?
ついさっきまで、世界は灰色のベールに覆われているようだったのに。
そうだ。全部やり直そう。
家族にも、本当のことを伝えよう。
もう一度、"私の生き方"を考えよう。