表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/24

第1話|在宅ワークの闇

【女性限定】スマホ一つで月30万円!※在宅ワーク※


「もう私は、この子のママではいられない。」


喉の奥から絞り出したその声は、掠れてほとんど聞こえなかった。


視界が滲んで、ぼやけた天井のシミが、まるで私の人生そのものみたいに見える。

こんな言葉を口にする日が来るとは、夢にも思わなかった……。



今日も、午前7時には戦いが始まる。


アラームが鳴る前に目覚まし時計を止め、隣でグーグーと規則正しい寝息を立てる夫の横をそっと滑り降りた。


長男のハルト(5歳)と、長女のサクラ(2歳)が寝ている間に、朝ごはんの支度に取り掛かる。


が、シンクに重ねられただけの汚れた食器を見て、いきなりやる気をなくした。

いつになったら、夫は洗い物ができるようになるの? 食べたら食器を積むだけなんて、誰だってできるのに!


ああ、朝からイライラする!


昨日の夜にできなかった洗濯物も畳まないと。


保育園の準備は……うそでしょ……冷蔵庫を開けると、麦茶を作るのを忘れていた。

急いでヤカンで麦茶を沸かす。


寝室から聞こえてくる夫のいびきに、さらに苛立ちが募る。


「ゆっくり寝られる人はいいよね。」


つい言葉に出てしまったが、そんなこと考えている余裕はない。


息子と娘を起こせば、なぜかこの子たちはこんなに寝起きがいいのかと呆れる。

起きてすぐに、怪獣のように暴れ回る。


「ママ、これ見て!」

「ママ!おしっこしたい!」


今日も、いつも通りだ。


子どもたちにご飯を食べさせながらも、夫と子どもたちの弁当を詰め、洗濯機を回しながら食卓を整える。食べ終わった食器は、またシンクへ。


その間も、子どもたちは容赦なく「ママ、ジュース飲みたい!」「ねえママ!見てってば!」と話しかけてくる。


夫は?

夫はというと、朝食を口に運びながらスマホをいじり、ニュースサイトか何かを見ている。


私が「ねぇ、ハルトのパン、もう少し小さく切ってあげてくれない?」と頼むと、ようやく視線をスマホから外し、無言でナイフを手に取る。


嫌いじゃない。嫌いじゃないけれど……ムカつく!


彼も仕事で疲れているのはわかっている。

週末には、私が子どものために作っておいた大量の作り置きを「美味しい、美味しい」と食べてくれるし、たまに「ごめんね、いつも無理させて」とも言ってくれる。

でも、普段の生活では、私が一人で頑張っていることには、まるで気づいていないかのようだ。


私がどれだけ毎日、走り回り、声を枯らしているか。彼は、会社での仕事が一番大変だと思っているんだろう。


「トイレットペーパーなくなったよ」


夫が何か言っている。

いや、聞こえなかったことにしよう。今聞いたら蹴っ飛ばす自信しかない。


「あれ?俺のスマホ知らない?」


頭の血管が切れた音がした。


「知らない!忙しいんだから自分で探して!」



そして、子どもたちを保育園に送り届け、やっと一息つく暇もなくパートへ向かう。


スーパーのレジ打ちの仕事は、レジを打つこと自体は難しくない。でも、笑顔を張り付けて、客からの理不尽な要求にも対応し、店長からの小言にも耐え、休憩時間には他のパート仲間との表面的な会話をこなす。


毎日が、まるで自分をすり減らす作業のようだった。


「お疲れ様ですー!」


誰にも聞かれない独り言を呟き、ロッカーで制服から着替える。


体が鉛のように重い。

家に帰れば、また戦いが始まる。


保育園のお迎え、夕食の準備、入浴、寝かしつけ。そして、散らかったリビングを片付け、翌日の準備を整えて、ようやく自分の時間が訪れる頃には、もう午前0時を過ぎている。


スマホを手に取り、無意識にPhotogramを開く。そこには、私の疲弊した日常とはかけ離れた世界が広がっていた。


きらびやかなカフェで優雅にランチを楽しむ女性。

ネイルサロンで完璧に手入れされた指先を披露する女性。

海外旅行先で、満面の笑みを浮かべる女性。


そして、「月収7桁達成!在宅で自由に稼ぐママライフ」とキャプションがつけられた投稿。


みんな、私と同じ「ママ」なのに。どうしてこんなにも違うんだろう。

私も育児がなければ、きっとこんな生活を……。


いや、育児があるからこそ、こんなにも時間に追われ、お金に追われているんだ。


私には、何も特別な才能なんてない。資格もない。スキルもない。


今日も、何もせずに一日が終わった。

昨日と同じ今日。きっと明日も同じ今日が来る。

この閉塞感が、喉元にずっと張り付いているような感覚。

一体、いつまでこんな毎日が続くんだろう。


私の人生は、このまま、誰にも気づかれずに、ただ過ぎ去っていくだけなのだろうか。


そんなことを考えてPhotogramをスクロールしていると、ふと、ある広告が目に飛び込んできた。


「【女性限定】スマホ一つで月30万円!/スキマ時間を有効活用して、憧れの在宅ワーカーに!/特別なスキルは一切不要!/子育て中のママでも叶う、理想のライフスタイル!」


この広告、以前にも見たことがある。

その時は「胡散臭い」の一言で片付けた。

でも、今夜は違った。


何かの糸が切れていたのかもしれない。


「特別なスキルは一切不要」

「子育て中のママでも叶う」


その言葉が、まるで私のための言葉のように、心に吸い込まれていく。


私は、無意識にも画面をタップしていた。

頭の奥で、警報が鳴っていたような気もする。

「それ以上進まないで」と。


誰かの声が聞こえたような、聞こえないような。


でも、その警報は、長年溜め込んできた閉塞感と疲労、そしてPhotogramのキラキラした世界への憧れという、分厚い壁に阻まれて、私にはもう届かなかった。


目の前の文字が、まるで魔法のように見えた。


月30万円。

特別なスキル不要。

憧れの在宅ワーカー。


そんな都合のいい話があるわけない。

そう、わかっていたはずなのに。


でも、話を聞くぐらいなら。話を聞くだけだから。うん、大丈夫。


そう言い聞かせながらも、私の指は、躊躇なく「無料セミナーはこちら」と書かれたボタンを押していた。


もう、考えるのが億劫だった。

この毎日から、一刻も早く抜け出したかった。

たとえそれが、どんな道だとしても。


私は、目の前の、たった一つの光に、しがみつこうとしていた。

それが、どれだけ偽物だったとしても、この時の私には、もう選べる道なんてなかったのだ。


でも、この選択が、取り返しのつかないことになるまで、そんなに時間はかからなかった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ