第1話|在宅ワークの闇
【女性限定】スマホ一つで月30万円!※在宅ワーク※
「もう私は、この子のママではいられない。」
喉の奥から絞り出したその声は、掠れてほとんど聞こえなかった。
視界が滲んで、ぼやけた天井のシミが、まるで私の人生そのものみたいに見える。
こんな言葉を口にする日が来るとは、夢にも思わなかった……。
今日も、午前7時には戦いが始まる。
アラームが鳴る前に目覚まし時計を止め、隣でグーグーと規則正しい寝息を立てる夫の横をそっと滑り降りた。
長男のハルト(5歳)と、長女のサクラ(2歳)が寝ている間に、朝ごはんの支度に取り掛かる。
が、シンクに重ねられただけの汚れた食器を見て、いきなりやる気をなくした。
いつになったら、夫は洗い物ができるようになるの? 食べたら食器を積むだけなんて、誰だってできるのに!
ああ、朝からイライラする!
昨日の夜にできなかった洗濯物も畳まないと。
保育園の準備は……うそでしょ……冷蔵庫を開けると、麦茶を作るのを忘れていた。
急いでヤカンで麦茶を沸かす。
寝室から聞こえてくる夫のいびきに、さらに苛立ちが募る。
「ゆっくり寝られる人はいいよね。」
つい言葉に出てしまったが、そんなこと考えている余裕はない。
息子と娘を起こせば、なぜかこの子たちはこんなに寝起きがいいのかと呆れる。
起きてすぐに、怪獣のように暴れ回る。
「ママ、これ見て!」
「ママ!おしっこしたい!」
今日も、いつも通りだ。
子どもたちにご飯を食べさせながらも、夫と子どもたちの弁当を詰め、洗濯機を回しながら食卓を整える。食べ終わった食器は、またシンクへ。
その間も、子どもたちは容赦なく「ママ、ジュース飲みたい!」「ねえママ!見てってば!」と話しかけてくる。
夫は?
夫はというと、朝食を口に運びながらスマホをいじり、ニュースサイトか何かを見ている。
私が「ねぇ、ハルトのパン、もう少し小さく切ってあげてくれない?」と頼むと、ようやく視線をスマホから外し、無言でナイフを手に取る。
嫌いじゃない。嫌いじゃないけれど……ムカつく!
彼も仕事で疲れているのはわかっている。
週末には、私が子どものために作っておいた大量の作り置きを「美味しい、美味しい」と食べてくれるし、たまに「ごめんね、いつも無理させて」とも言ってくれる。
でも、普段の生活では、私が一人で頑張っていることには、まるで気づいていないかのようだ。
私がどれだけ毎日、走り回り、声を枯らしているか。彼は、会社での仕事が一番大変だと思っているんだろう。
「トイレットペーパーなくなったよ」
夫が何か言っている。
いや、聞こえなかったことにしよう。今聞いたら蹴っ飛ばす自信しかない。
「あれ?俺のスマホ知らない?」
頭の血管が切れた音がした。
「知らない!忙しいんだから自分で探して!」
そして、子どもたちを保育園に送り届け、やっと一息つく暇もなくパートへ向かう。
スーパーのレジ打ちの仕事は、レジを打つこと自体は難しくない。でも、笑顔を張り付けて、客からの理不尽な要求にも対応し、店長からの小言にも耐え、休憩時間には他のパート仲間との表面的な会話をこなす。
毎日が、まるで自分をすり減らす作業のようだった。
「お疲れ様ですー!」
誰にも聞かれない独り言を呟き、ロッカーで制服から着替える。
体が鉛のように重い。
家に帰れば、また戦いが始まる。
保育園のお迎え、夕食の準備、入浴、寝かしつけ。そして、散らかったリビングを片付け、翌日の準備を整えて、ようやく自分の時間が訪れる頃には、もう午前0時を過ぎている。
スマホを手に取り、無意識にPhotogramを開く。そこには、私の疲弊した日常とはかけ離れた世界が広がっていた。
きらびやかなカフェで優雅にランチを楽しむ女性。
ネイルサロンで完璧に手入れされた指先を披露する女性。
海外旅行先で、満面の笑みを浮かべる女性。
そして、「月収7桁達成!在宅で自由に稼ぐママライフ」とキャプションがつけられた投稿。
みんな、私と同じ「ママ」なのに。どうしてこんなにも違うんだろう。
私も育児がなければ、きっとこんな生活を……。
いや、育児があるからこそ、こんなにも時間に追われ、お金に追われているんだ。
私には、何も特別な才能なんてない。資格もない。スキルもない。
今日も、何もせずに一日が終わった。
昨日と同じ今日。きっと明日も同じ今日が来る。
この閉塞感が、喉元にずっと張り付いているような感覚。
一体、いつまでこんな毎日が続くんだろう。
私の人生は、このまま、誰にも気づかれずに、ただ過ぎ去っていくだけなのだろうか。
そんなことを考えてPhotogramをスクロールしていると、ふと、ある広告が目に飛び込んできた。
「【女性限定】スマホ一つで月30万円!/スキマ時間を有効活用して、憧れの在宅ワーカーに!/特別なスキルは一切不要!/子育て中のママでも叶う、理想のライフスタイル!」
この広告、以前にも見たことがある。
その時は「胡散臭い」の一言で片付けた。
でも、今夜は違った。
何かの糸が切れていたのかもしれない。
「特別なスキルは一切不要」
「子育て中のママでも叶う」
その言葉が、まるで私のための言葉のように、心に吸い込まれていく。
私は、無意識にも画面をタップしていた。
頭の奥で、警報が鳴っていたような気もする。
「それ以上進まないで」と。
誰かの声が聞こえたような、聞こえないような。
でも、その警報は、長年溜め込んできた閉塞感と疲労、そしてPhotogramのキラキラした世界への憧れという、分厚い壁に阻まれて、私にはもう届かなかった。
目の前の文字が、まるで魔法のように見えた。
月30万円。
特別なスキル不要。
憧れの在宅ワーカー。
そんな都合のいい話があるわけない。
そう、わかっていたはずなのに。
でも、話を聞くぐらいなら。話を聞くだけだから。うん、大丈夫。
そう言い聞かせながらも、私の指は、躊躇なく「無料セミナーはこちら」と書かれたボタンを押していた。
もう、考えるのが億劫だった。
この毎日から、一刻も早く抜け出したかった。
たとえそれが、どんな道だとしても。
私は、目の前の、たった一つの光に、しがみつこうとしていた。
それが、どれだけ偽物だったとしても、この時の私には、もう選べる道なんてなかったのだ。
でも、この選択が、取り返しのつかないことになるまで、そんなに時間はかからなかった。